3 ディオ・マダラール――元婚約者――何を諦めたのだろう
「……そうですか」
「はい。俺は、貴女が何を嫌がるのか分からない。何を好きなのかも、あまり分からない。俺が分かろうとしていないのかもしれません。ただ、このまま結婚して、何年も経ってから、互いに違っていたと気付くのは遅すぎます」
我ながら、ずいぶん立派なことを言った気がする。
俺はその時、本気で彼女のためにもなると思っていた。合わないと感じているのに、家の都合で押し通すよりましだと。
「ですから、一度この話を白紙に戻しませんか。ご両家には、俺からも話します。貴女に非があるようには決してしません」
「白紙」
彼女はその言葉だけを繰り返した。
「ええ」
「ディオ様は、白紙に戻したいのですね」
「はい」
「分かりました」
返事は早かった。
早すぎた。
俺はかえって不安になった。
「本当に、分かってくださるんですか」
「ディオ様のお考えは、分かりました」
「怒っていませんか」
「怒ることではないでしょう」
「いや、怒ってもいい話だと思います。俺が先に言い出したことですから」
「では、怒った方がよろしいですか」
その問いに、俺は黙った。
アガサ嬢は、しばらく俺を見ていた。やがて、ほんの少し笑った。
「申し訳ありません。こういう時、どうすればよいのか、あまり上手く分からないのです」
「アガサ嬢」
「ですが、ディオ様がそうお考えなら、そのように」
――そのように。
その言葉で、話は終わった。
俺は彼女を傷つけたのだろうか? その時は少し考えた。
だが彼女は泣かず、声も荒げず、俺を責めなかった。父君や母君に言いつけるような素振りもなかった。
だから俺は、自分のしたことは間違っていないのだと思った。
そして今日、アガサ嬢が失踪したという。
使いの者は、俺に詳しい話まではしなかった。ディラクール伯爵が、俺から直接話を聞きたいと言っている。父上にも同じ知らせが入った。
一度、自室へ戻ると、昨日まで読んでいた事業計画書が机に出ていた。新しい倉庫の件で、俺は朝から父上に説明する予定だった。だが文字を追っても、何も頭に入ってこなかった。
――アガサ嬢がいない。あの静かな人が。
――俺が、白紙に戻そうと言った相手が。
まさか俺のせいで、と思いかけて、すぐにそれは大げさだと考え直した。
婚約の話がなくなることは、貴族の家では珍しくない。まして正式な結婚式の日取りまで決まっていたわけではない。傷ついたとしても、屋敷から姿を消すほどのことだろうか。
そこまで考えて、俺は例の庭園での彼女の言葉を思い出した。
――こういう時、どうすればよいのか、あまり上手く分からないのです。
あれは、俺への返事だけの話だったのか。
それとも、もっと前からそうだったのか。
扉が叩かれた。
「ディオ」
父上の声だった。
「はい」
俺が答えると、父上はすぐに扉を開けた。いつものような落ち着いた顔だったが、目だけが厳しい。
「支度しろ。ディラクール家へ行く」
「はい」
「その前に、私に話せ」
父上は部屋の中へ入り、扉を閉めた。
「お前はアガサ嬢に、何を言った」
「婚約の話を考え直したいと」
「それだけか」
「はい」
「どういう言い方をした」
――どういう言い方。
俺は少し黙った。
父上は待っていた。苛立っている時ほど、父上は声を荒げない。そこはディラクール伯爵とも似ている。
俺はその沈黙に急かされるように、庭園での会話をできるだけ思い出しながら話した。
話し終えると、父上は深く息を吐いた。
「お前は馬鹿か」
「……父上」
「婚約を白紙に戻そうと、本人へ先に言ったのか」
「……はい」
「両家の話を通す前に」
「ですが、本人同士のことでもあります」
「本人同士のことでもある。だからこそ、順番がある」
父上は俺を見た。
「お前に悪意がないことは分かる。だが、悪意がないから問題が小さくなるわけではない」
俺は返事ができなかった。父上は続けた。
「アガサ嬢は、何と言った」
「分かりました、と」
「それだけか」
「……ディオ様がそうお考えなら、そのように、と」
父上の顔が、さらに厳しくなった。
「それを聞いて、お前は安心したのか」
「安心というか……」
「お前に都合よく聞いたのだな」
俺は反論しかけたが、言葉にならなかった。
あの時のアガサ嬢は、確かに受け入れたように見えた。俺にはそう見えた。
そう見たから、そのまま帰った。彼女がその後どうしたのか、誰に何を言ったのか、俺は知らない。
……知ろうともしなかった。
「ディラクール伯爵には、正直に話す。余計な言い訳はするな」
「はい」
「それから、アガサ嬢を責めるようなことは一言も言うな。お前が振られたのではない。お前が先に手を離した」
「分かっています」
「本当に分かっているか」
父上の声は低かった。俺は答えようとして、また答えられなかった。
本当に分かっているか? そんなものは分からない。
俺には、アガサ嬢が何を思っていたのか、最後まで分からなかった。分からないからこそ、このまま結婚してはいけないと思った。
それなのに、彼女が失踪した今になって、俺は初めて、分からないまま手を離したことの重さを考えている。
窓の外では、朝の馬車が一台、通りを抜けていった。
車輪の音が遠ざかる。
俺はその音を聞きながら、アガサ嬢の静かな声を思い出していた。
――では、そうなのでしょう。
あの時、彼女は何を諦めたのだろう。
俺はまだ、それを知らなかった。




