31 フライト・バンスワン――訪れる理由
私は書類を机に置いた。
便箋の隣に、商会の控え、ハリヤー宛の書状の下書き、マインカ側の呼称を確かめるための覚え書きを並べる。
「君に見てほしいものがある」
「私に?」
「ハリヤー殿へ出す私からの書状だ。事実は私から書く。だが、ディラクール家へ届いた時、どの言葉が余計に角を立てるか、私には分からない部分がある。君が読んで、違うと思うところを言ってほしい」
アガサはすぐには手を伸ばさなかった。
「私が読んでもよいのですか」
「読んでほしい」
「父への書状なのに」
「君のことを書いている。君を抜いてしまえば、また私は同じ間違いをする」
アガサの指が、便箋の端から離れた。
「今朝のことを、気にしていらっしゃるのですか」
「気にしている。君を守ると言いながら、君のいないところで君の置き場所を決めようとしていた」
「そこまで言ったつもりはありません」
「君はそこまで言わなかった。私が、そこまで聞いた」
アガサは書状へ目を落とし、紙に触れる前に、まず文字の並びを見る。
ディラクール家にいた頃、彼女が手紙を読む時もこうだったのだろう。封を切り、すぐには中へ入らず、紙そのものの重さを確かめる。
「父は、この一文で怒るでしょう」
アガサは書状の途中を指した。
「どこだ」
「『私の管理下にあります』というところです。父はたぶん、私が物のように扱われていると受け取ります」
「では、どうする」
「『商会管理の滞在家におります』なら、まだよいと思います。私が誰のものかではなく、場所がどこかの話になりますから」
私はすぐに別の紙へ書き留めた。
「他には」
「『安全を保証します』も、少し強いです。フライト様が私を完全に囲っているように見えます」
「安全ではないと書くわけにもいかない」
「『滞在先には女性の管理人がおり、リルも同室しております』では足りませんか。父はそこから安全を読みます。書かれた保証より、配置の方を信じる人です」
なるほど、と思った。
私はハリヤーを商人として知っている。彼がどの数字を重く見るか、どの手順を嫌うかは分かる。だが、父親としてどの言葉に手を止めるかは、アガサの方がよく知っていた。
「君は、やはりよく見ているな」
言うと、アガサは少し困ったように笑った。
「見ているだけでした。言えなかったことの方が多いです」
「今は言っているだろう」
「言ってもよいのだと、まだ練習しているところです」
その言い方に、私は胸の奥を押されたようになった。
――練習。
彼女は、家を出て、海を渡り、対岸の港町の客間に座って、それでもまだ練習と言う。
ならば私の役目は、彼女の言葉を先回りして片付けることではない。待って、受け取り、必要なら書き留めることだ。
「では、練習台になろう」
アガサが顔を上げた。
「フライト様が?」
「そうだ。私なら、君が間違えた言い方をしてもびくともしない。ガノンなら、言い方が悪いと帳面を持って直しに来る。リルなら、その場で叱る」
壁際に控えていたリルが、すぐに口を挟んだ。
「必要なら叱ります」
「ほら」
アガサは笑う。
その笑いを見て、少しだけ部屋の温度が変わったように感じた。
港の光は相変わらず強く、外の車輪の音も止まない。ここはワイホト本国ではなく、逃げ切った場所でもない。ただの中継地だ。それでも、アガサはここで笑った。
「もう一つ、決めておきたいことがある」
私は書類を一枚、彼女の方へ向けた。
「君が今後、この港町に残るか、それともメリア夫人のところへ一度身を寄せるかだ。ロイズ家は海産物の取引でワイホトとも繋がりがある。こちらから連絡を入れることはできる」
「メリア姉様のところへ行けば、家には早く伝わりますね」
「ああ。君の安全を示すには強い。ただ、その分、メリア夫人を巻き込む」
「私は、姉様を巻き込みたくないと言いたいところです。でも、もうリルも、イーシャも、あなたも巻き込みました。今さら綺麗に一人で立っているふりはできません」
アガサは書類の上に置いた手を見た。
「ここに残ります。今は、あなたが用意してくださったこの席で、まず父と母へ手紙を書きます。メリア姉様には、その後で私から書きます」
「分かった」
「それから、商会の文書も、できるものから見せてください。私は守られるだけではなく、役に立ちたいのです」
「役に立つために来たわけではないだろう」
「もちろんです」
アガサは少しだけ首を傾けた。
「でも、好きな人のところへ来て、何もせず椅子に座っているだけでは、私はまた、誰かの決めた何かになってしまいます。あなたの隣にいるなら、あなたの見ているものを少しは見たいのです」
思わず返事が遅れた。
青いリボンに気づいた時より、ずっと深く言葉が遅れた。
彼女は、幼い頃から私に外の話を聞きたがった。
港の名、船の形、商会の帳面、知らない土地の布、向こう側の空気。
私はそれを、子供の好奇心だと思って話していた。
だが彼女はずっと、私の見ているものを見たがっていたのかもしれない。
「なら、仕事は渡そう」
私はようやく言う。
「ただし、簡単なものからだ。疲れたらやめる。食事を抜かない。具合が悪い時は隠さない。この三つは条件にする」
「条件が多いです」
「多くても飲んでくれ。私は君を席に着かせたいが、倒れさせたいわけではない」
「分かりました。では、私からも条件を出してよろしいですか」
「ああ」
「私が疲れた時に休むよう言うのは構いません。でも、私が何かをしたいと言った時、まず止める理由を並べるのは少し待ってください」
リルが壁際で、わずかにこちらを見た。
私はその視線を受け止めた。厳しい審査の席にいるようだったが、逃げるわけにはいかない。
「分かった。理由を並べる前に、君が何をしたいのかを聞く」
「今の返事の仕方は、好きです」
アガサはそう言って、目を伏せた。こちらの方が、まともに見ていられなくなる。
「返事だけかい?」
「今は」
「手厳しいな」
「リルに習いました」
リルがすぐに「わたしのせいではございません」と言った。アガサは笑い、私も少し笑った。
*
その後、リルが軽い食事をミゼル夫人に頼みに出た。
扉が閉まると、部屋には港の音と紙の擦れる音だけが残った。
完全に二人きりではない。リルはすぐ戻るだろうし、廊下にはミゼル夫人の気配もある。それでも、朝より少しだけ静かだった。
アガサはハリヤー宛の書状を読み直していたが、やがて手を止めた。
「昨日の夜のことを、もう一つ言ってもよいですか」
「もちろんだ」
「あなたがここに泊まらなかった理由は、分かっています。分かっていますが、寂しかったです」
紙へ置いた指が止まる。
謝るのは簡単だった。謝れば、私の方は少し楽になる。だが、彼女は謝罪を求めているのではない。そう言ったのだ。
「私は、君を遠ざけたかったわけではない」
「はい」
「ここに残れば、君を守るためにしたことが、君を傷つける材料になる。そう考えた」
「はい。分かっています」
「だが、分かっていることと、寂しくないことは違うのだな」
アガサは少し驚いたように私を見た。
「そうです」
その一言は、今朝のどの返事よりも素直だった。
「私はあなたに、いつも正しい方でいてほしいわけではありません。正しくいてくださるから、こうしていられるのだとも思っています。でも、時々、正しさの向こう側に置いていかれる気がします」
彼女の手が、机の上で便箋の端を押さえた。
「家でも、そうでした。私のために、私の先のことが決まっていく。私のために、言わない方がいいことが増えていく。あなたの正しさはそれとは違うと分かっています。それでも、昨日の夜、扉が閉まった時に、少しだけ同じ匂いがしました」
――同じ匂い。
私はその言葉を受け取るしかなかった。
「そう感じたなら、私が間違えた」
「フライト様」
「君を守ることと、君を棚に置くことは違う。今朝も言ったが、私はそこを曖昧にした。これからもそうしてしまうかもしれない。その時は、こうして言ってほしい」
「言って、よいのですか」
「言ってくれ。君が黙ったまま笑う方が、私は怖い」
アガサはしばらく黙っていた。
窓の外で、港の鐘が鳴る。午後の商いが動き始める時間だった。私は商会へ戻らなければならない。ハリヤーへの書状を仕上げ、港の確認をし、ガノンが用意した控えを見なくてはならない。
だが、その前に一つだけ決めた。
「明日も来るよ」
アガサは私を見た。
「書類は、まだありますか」
「ある。君に見てほしい文面も、手続きも、山ほどある」
「なくなったら?」
「なくなっても来る」
彼女の指が、便箋から少し離れた。
「その時は、何を理由に?」
私は一度だけ息を吸った。
書類の話に戻ることもできた。ミゼル夫人への確認、港役人への控え、ワイホト本国への早馬。理由など、探せばいくらでもある。
だが、アガサはもう理由を訊いているのではなかった。
「君に会いたいからだ」
言ってしまうと、書類を作るよりずっと簡単だった。
アガサはしばらく私を見ていた。頬の色がゆっくりと濃くなる。けれど、今度は視線を落とさなかった。
「私も、会いたいです」
扉の向こうで、リルの足音が止まった。おそらく、入るタイミングを測っている。実に優秀なメイドだ。
少ししてから、控えめに扉が叩かれた。
「軽い食事をお持ちしました」
アガサは、まだ私を見たまま答えた。
「入って」
リルが盆を手に入ってくる。パンと、果物の煮たものと、薄いスープがあった。卓の上にそれを置き、私とアガサの手元を一度だけ見る。
そして私は、いつの間にかアガサの手に触れていた。指先だけ。だが離す理由も、もう探せなかった。
リルは何も言わず、スープの器をアガサの前へ置いた。
「お嬢様。会いたい方に会うにも、まず召し上がってください」
「リル」
「バンスワン卿もです。人を会いたいと言わせた方は、その場で倒れるような食事の抜き方をなさらないでくださいませ」
アガサが笑った。今度は声が出た。
私は、重なった指先をそのままにして、空いた手でスプーンを取った。
「分かった。食べる」
「よろしいかと」
リルは満足したように、茶を注ぎ直した。
大陸側の港町の午後は、まだ騒がしかった。外では荷車が通り、商人が声を上げ、港へ向かう風が窓を細く鳴らしている。だが客間の中には、書類と食事と、青いリボンの揺れる小さな時間があった。
私はその時間を、もう書類のせいにはしなかった。




