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失踪令嬢の恋愛~どうして誰も気付かなかったのか?  作者: さんけい


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30 フライト・バンスワン――怒る余地を奪わない

 書類は、本当に必要だった。


 滞在名義、商会への説明、マインカへ送る書状の文面、港役人へ出す控え。大陸側の港町に着いた時点で処理しておかなければならないものは多い。

 アガサをワイホト本国の屋敷へ連れていく前に、彼女がどこにいて、誰の管理下にあり、誰の意思で海を渡ったのかを、紙の上にも残しておく必要があった。

 だから、毎日行くと言ったこと自体は、嘘ではない。

 ただ、書類を作ると言ったのは、少し違った。

 ミゼル夫人の家の客間で、リルに見られ、アガサに見られた時、私は自分でも思った。何を言っているのだ、と。

 私は三十二歳である。マインカの伯爵令嬢を連れて海を渡った男で、バンスワン商会の名を背負う者であり、アガサの父であるハリヤー・ディラクールの友人でもあった。

 条件を並べれば、軽率に動いてよい理由など一つもない。

 それなのに、青いリボン一つで言葉が遅れた。

 困ったものだ。


 *


 青は、彼女に似合っていた。

 ディラクール家で見ていたアガサは、淡い色の中にいた。

 白い花、白い便箋、薄い茶、香りのよい紅茶。

 彼女がそれを嫌っていないことは分かっている。だが、その中にいる時のアガサは、いつも返事を先に用意しているように見えた。

 だが今朝の青は違った。

 リルが結ったのだろう。旅用の衣に合わせて、少し強い色を首筋の後ろへ置いていた。

 アガサが顔を動かすたびに、リボンの端がわずかに揺れる。派手ではない。だが、屋敷の窓辺に置かれる色ではなかった。

 私はそれに気づき――隠しきれなかった。


「バンスワン卿」


 商会の支店へ戻ると、番頭のガノンが執務室で待っていた。

 灰色の髭を短く整えた男で、父の代から商会にいる。私が十八でマインカへ出された時も、この男は荷の帳面を抱えていた。


「朝からずいぶんと念入りに書類をお運びで」

「必要なものだ」

「それは存じております。必要な書類を必要な相手へ運ぶのは、商会の仕事でございますから」


 ガノンはそう言いながら、机の上に帳面を置いた。


「ただ、支店の若い者達が少々そわついております。バンスワン卿が、書類を口実にミゼル夫人の家へ通われるのか、それとも本当に書類が山ほどあるのか、賭けになりかけておりましたので止めておきました」

「止めたなら、それでいい」

「賭けの方は止めました。噂の方は止まりません」


 私は椅子へ腰を下ろし、書類入れを机に置いた。


「昨日の夜、港に着いたばかりの女性二人を、商会管理の滞在家へ入れた。私が同じ家へ泊まらなかったことも含めて、説明はつく」

「説明はつきます。ですが、人は説明のつく話より、説明のつかない顔つきの方をよく覚えます」


 ガノンは淡々と言った。


「あなたが今朝、支店へ戻られた時のことでございます」

「顔つきの話は要らない」

「では、書類の話をいたしましょう」


 そう言って、ガノンは帳面を開いた。こういう時の彼は手強い。こちらが退けたいものを、退けた先の棚から別の名札をつけて戻してくる。


「まず、アガサ嬢の滞在名義はアーシャ・ベル。リル嬢はリリア・カース。ミリア・カースの下宿屋には、明日の朝、こちらから手紙を入れます。リル嬢が一度港町へ着き、知人を訪ねたが会えず、商会筋の紹介で別の勤め口を探した、という流れにできます」

「頼む」

「それから、ディラクール家へ出す書状ですが、バンスワン卿からは事実を。アガサ嬢からは意思を。混ぜない方がよろしいかと」

「分かっている。私が彼女の意思まで代筆すれば、ハリヤーはそこを疑う」

「伯爵だけではございません。ご本人もお嫌がりになるでしょう」


 今朝の客間で、アガサは言った。あなたまで、私の気持ちを棚に置くのですか、と。

 あの言葉は効いた。

 守ることと、棚に置くことは違う。私はその違いを、今さら港町の客間で突きつけられた。

 十二も年が離れていて、彼女の父の友人で、幼い頃から知っている。だから慎重でなければならない。

 その考えに逃げ込めば、いくらでも正しい言葉が出てくる。

 だが、正しい言葉で彼女を部屋の端へ押しやれば、ディラクール家で起きていたことと大して変わらない。


「バンスワン卿」


 ガノンが帳面の端を指で押さえた。


「保護下という言い方は、おやめになった方がよろしいかと」

「もう言われた」

「でしょうな」


 当然のように返され、私は少しだけ目を伏せた。


「君もそう思ったのか」

「思いました。保護下という言葉は、相手を守るには便利ですが、動く足まで縛ります。アガサ嬢は海を渡ってこられたのでしょう。ここで飾り棚へ置けば、いずれ倒れます」

「飾り棚か」

「言葉が強すぎましたか」

「いや。少なくとも、リルにはそのくらいに見えているだろう」


 ガノンはほんの少し口元を動かした。長く商売をしてきた男が、相手の見積もりを少し上げる時の動きだ。


「リル嬢は、よく見ておいでです。あの方を味方にしておくのは、書類を十枚整えるより効くかもしれません」

「味方にできればな」

「できていないのですか」

「厳しく見られている」

「それなら大丈夫でしょう。見捨てる相手には、厳しくいたしません」


 私は机の上の封筒を取った。

 ハリヤーへの書状は、まだ途中だった。何度も書き直し、最初の二行だけが残っている。


 ――ハリヤー殿。アガサ嬢は無事です。


 その後をどう続けるかで、筆が止まった。

 彼女は私と共にあります、と書けば、私の側へ引き寄せすぎる。

 私が彼女を保護しています、と書けば、アガサを棚に置く。

 彼女は自らの意思で大陸側の港町へ到着しました、と書けば、事実には近い。だが、その事実を読んだ父親がどう動くかも分かる。


「バンスワン卿」


 ガノンが声を落とした。


「ハリヤー伯爵は、まず怒るでしょうな」

「そうだな」

「では、怒る余地を奪わないことです。父親から怒りまで取り上げると、次に来るのは商人の計算になります」


 私は筆を持ったまま、ガノンを見た。


「君は時々、ひどいことを正確に言う」

「番頭の仕事でございます」


 私は書状へ向き直った。


 ――ハリヤー殿。アガサ嬢は無事です。

 ――彼女は自らの意思でマインカを離れ、対岸の港町へ到着しました。現在はバンスワン商会管理下の女性管理人がいる滞在家におります。


 そこまで書いて、手を止める。

 次は、アガサの手紙を読んでください、だ。

 私の言葉より先に、彼女の言葉を読ませる。それでハリヤーが怒るなら、その怒りは私も受ける。だが、彼女の意思まで私が説明するわけにはいかない。


「ガノン」

「はい」

「午後にもう一度、ミゼル夫人の家へ行く。マインカ宛ての文面をアガサに見てもらう」

「仕事を任せるのですか」

「簡単なものからだ。ディラクール家の文面は、彼女の方が分かる」

「よろしいかと。飾られた方は動けませんが、仕事を渡された方は居場所を持ちます」


 ――居場所。


 その言葉は、今の私にはずいぶん重く聞こえた。

 アガサに必要なのは、隠れる部屋だけではない。居場所、座る席だ。自分の字で手紙を書き、自分の目で文面を読み、自分の意思でここにいると言える場所。

 それを用意しなければ、私は彼女を連れてきた男ではなく、彼女を別の場所へ移しただけの男になる。


 *


 午後、ミゼル夫人の家へ着くと、リルが出迎えた。

 玄関の奥には、朝と同じ港町の光が差している。潮を含んだ風で、床に敷かれた薄い敷物の端が少しだけ浮いていた。リルはそれを足先で押さえ、こちらへ礼をした。


「バンスワン卿。お嬢様は客間にいらっしゃいます」

「体調はどうだ」


 そう訊いた途端、リルの眉がわずかに上がった。


「昼食は召し上がりました。パンを二切れ、卵を少し、スープを半分。朝よりは多うございます」

「少ないな」

「少ないです。ですが、昨日の船の上よりはよほどましです」


 リルはそこで扉へ手をかけたが、開ける前にこちらを見た。


「バンスワン卿」

「何だ」

「お嬢様の体調は、わたしを通さず、ご本人にもお訊きくださいませ」


 私は少し言葉を詰まらせた。


「……そうだな」

「わたしを通すと、お嬢様が棚に乗ります」

「耳が痛い」

「痛いなら、効いております」


 このメイドは実に厳しい。

 だが、厳しくされるだけのことを私はした。朝、彼女が茶を三人分頼んだ意味が今なら分かる。

 リルは壁になったのではない。アガサが自分の言葉を失わないよう、部屋の中に重しを置いたのだ。


 客間へ入ると、アガサは窓際の机に座っていた。朝の青いリボンはそのままで、袖口だけ少し直している。目の前には、何も書かれていない便箋が置かれていた。


「フライト様」

「アガサ、調子はどうだ?」


 名前を呼ぶ時、まだわずかな抵抗が残る。

 昔から呼んでいた名だ。それなのに、今は同じ音ではない。六歳の少女へ呼びかける名ではなく、海を渡って私の隣に立った女性の名になっている。


「昼食は、リルから聞いたでしょう」

「聞いた。だが、君にも訊く。足りなかったのなら、何か用意させる」


 アガサは便箋の端へ指を置き、少し考えるようにした。


「食べている時は、これ以上は入らないと思いました。けれど今は、少し足りなかった気がします」

「なら、今のうちに軽いものを頼もう。これから手紙を書くなら、腹が減ったままではよくない」

「リルと同じことを言うのですね」

「リルが正しい」


 アガサは少し笑った。朝よりも力のある笑いだった。ミゼル夫人の家の光に、少し慣れたのかもしれない。



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