29 リル――港町の朝としては
「それから、ディラクール家へ出す手紙についてだが」
バンスワン卿は次の書類を置いた。
「私からも書く。君が無事であること、この大陸側の港町に着いたこと、今は商会管理の女性がいる家に滞在していることは、私から伝える。ただ、君が自分で家を出たことと、すぐ戻る意思がないことは、君の字で書いた方がいい」
「……父は、怒るでしょうね」
「……怒るだろうなあ」
「母は」
「心配するだろうな」
「ラリー兄様は」
「確認先を増やすだろう」
「キャリーは」
「たぶん、まず怒る」
「ビリー兄様は」
「考える」
「エルクは……」
「絵を描く」
お嬢様はそこで笑った。
「どうして分かるのですか」
「君の話に出てきたからだ」
バンスワン卿は、何でもないことのように答えた。
こういうところだ。
お嬢様が話したことを覚えている。しかも、覚えていますと見せつけない。必要な時に、当たり前のように出す。これは強い。強すぎる。お嬢様が好きになるのも仕方がない。
仕方がないが、困る。
お嬢様がまた顔に出ている。
「お茶をどうぞ」
わたしは少し音を立ててカップを置いた。お嬢様が我に返り、バンスワン卿も書類へ目を戻す。お二人とも、茶器に救われたと思っていただきたい。
「それで、わたしは何をすればよろしいでしょう」
お嬢様が訊いた。
「まず休むことだ。昨日船を下りたばかりで、まだ顔色が」
「それは、昨日も聞きました」
「では、今日も言う」
「フライト様」
お嬢様の声が少しだけ強くなった。
「私は、保護されるためだけに来たのではありません」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ」
バンスワン卿は答えたが、お嬢様はすぐにはうなずかなかった。カップを両手で包み、湯気の向こうから相手を見る。
ディラクール家でなら、ここで一度笑って引いたかもしれない。けれど今のお嬢様は引かなかった。
「私は、あなたのところへ来ました」
カップの縁で、湯気が揺れた。
「メリア姉様のところでも、親戚の屋敷でもなく、あなたのところへ来ました。けれどあなたが正しい理由を並べるたびに、私は少し寂しくなります」
「寂しい」
「はい。保護、名義、滞在先、手紙、説明。どれも必要だと分かっています。分かっていますが、あなたまで私の気持ちをそうやって並べてしまうなら、私はどこへ来たのか分からなくなります」
バンスワン卿は書類へ落としていた目を上げる。この部屋に来てから初めて、あの方が本当に言葉を失ったように見えた。
「君を守ることと、君を棚に置くことは違う」
やがて、バンスワン卿はそう言った。
「私はそこを、少し曖昧にしてしまったようだ」
「少し?」
「かなり、かな」
お嬢様はカップを置いた。
「私は、あなたに守られたいです。でも、大事に大事にしまわれたくありません」
「分かった」
「本当に?」
「本当に。今日の書類の中に、君に手伝ってもらえるものがある。マインカ宛ての文面だ。君の家の言い方は、君の方が分かる」
「私が読んでよいのですか」
「読んでほしい。ただし、疲れたらやめて」
「疲れたら、リルが止めてくれます」
「そうだな」
バンスワン卿の視線がこちらへ来た。
「リル」
「はい」
「止めてくれ。アガサだけでなく、私も含めて」
「承知いたしました。無理をなさるようでしたら、どちらも止めます」
なぜかバンスワン卿は少し安心したようだった。
この人は本当に、お嬢様を一人で扱う気がない。そこは信用できる。
できるが、わたしを巻き込む速度が早い。こちらもこちらで、気づけば船に乗り、大陸を渡り、今は港町の客間でバンスワン卿の暴走を止める係にされている。
イーシャさんに言ったら笑うだろう。たぶん、笑いながら追加の針と糸を渡される。
「もう一つ」
お嬢様が言った。
バンスワン卿は書類を置いた。
「何だ」
「昨日、帰られた時のことです」
彼は顔を上げる。
「寂しかったです」
わたしは茶器を持つ手に力を入れた。
言った。とうとう言った。
バンスワン卿は、お嬢様を見たまま動かなかった。さっきまで書類や名義や手続きの話をしていた人とは思えないほど、返事が出てこない。
お嬢様は頬を少し赤くする。それでも、目を逸らさなかった。
「でも、あなたが帰った理由は分かっています。ですから、怒ってはいません」
「……そうか」
「はい」
「私は」
バンスワン卿はそこで言葉を止めた。視線がこちらへ来る。
今度は出るべきだ。わたしはカップを置いた。
「お茶のお代わりを見てまいります」
「リル」
「はい、お嬢様」
「遠くへ行かないで」
「扉の外におります」
お嬢様は小さくうなずいた。
部屋を出る時、扉には細く隙間を残す。使用人としては行儀が悪いが、共犯者としては正しい。
廊下に出ると、ミゼル夫人が少し離れた場所に立っていた。盆を持っている。中には、明らかに十分な量の茶葉と湯がある。
「お代わりでしたら、こちらに」
ミゼル夫人はそう言って、盆をこちらへ差し出した。
「ありがとうございます」
「戻りますか」
「少し待ちます」
「賢明です」
昨夜と同じ言葉だった。けれど、今度は少し違う響きに聞こえた。
廊下の壁には、港の地図が掛けられている。ここからワイホトへ向かう街道は、細い線で内陸へ伸びていた。
お嬢様はその線の先へ行く。
昨日までは、戻らないために進んでいた。今日からは、進んだ先で立つ場所を作らなくてはならない。
茶が冷めないうちに、わたしは扉を叩いた。
「いいわよ」
お嬢様の声だった。
部屋に戻ると、書類は卓の端へ寄せられていた。お嬢様の手の上に、バンスワン卿の手が重なっている。でも、それだけだ。たぶん、お二人はこれで節度を守っているつもりなのだろう。今日のところは、それでよろしい。
わたしは何も見なかった顔で茶を注ぐ。
青いリボンには気づいた。お嬢様が寂しかったと言った。バンスワン卿は逃げなかった。
港町の朝としては、悪くない。




