28 リル――正しい方々というのは
対岸の港町の朝は、マインカの港より少し荒い匂いがした。
窓を開けると、潮と煤と、湿った綱の匂いが入ってくる。魚箱を積んだ荷車が石畳を通り、車輪の音が壁に当たって跳ね返った。遠くで鐘が鳴る。宿の女中らしい娘が向かいの家の前を駆けていき、階下では家政婦長のミゼル夫人が誰かに低い声で指示を出していた。
ここはマインカから海を渡った先にある港町だ。
バンスワン商会がこの港に置いている滞在用の家で、ワイホトの本邸へ向かうには、ここからさらに内陸へ入らなくてはならない。
昨日、船を下りたばかりのお嬢様は、その距離を聞いて、少しだけ目を伏せ、遠いのですね、とおっしゃった。
バンスワン卿は、十日ほどです、と答えた。
その答え方があまりに実務だったので、わたしは危うくその場で咳払いをするところだった。
――十日ほど。
たしかに正しい。正しいけれど、家を出て、船に乗って、海を渡ったお嬢様に最初に渡す言葉としては、少し硬い。
だが、あの方はたぶん、硬くしないと自分の方が危ないのだろう。
その辺りは、見ていれば分かる。
ミゼル夫人は、背の高い未亡人だった。
銀色の髪を後ろできつくまとめ、黒い服に白い襟を合わせている。事情を聞きすぎることはなく、必要な部屋と湯と軽い食事を用意し、わたし達の鞄を見て、足りない布と石鹸の場所だけを教えてくれた。
ただ、昨夜バンスワン卿が帰ろうとした時だけ、眉を少し上げた。
「お帰りになるのですか」
玄関の灯りの下で、ミゼル夫人はそう訊ねた。
「商会の支店に泊まる。ここに残るわけにはいかない」
バンスワン卿の返事は、今のところは間違っていない。
お嬢様は未婚で、家を出たばかりで、わたしがついているとはいえ、この家は商会管理の滞在家だ。
あの方が同じ屋根の下に残れば、後でいくらでも悪く言われる。
ミゼル夫人は、少しだけ顎を引いた。
「賢明でございます」
その言葉を聞いた時、お嬢様の指が椅子の肘掛けに触れた。
――賢明。
まったく、正しい方々は時々、本当に厄介だ。
*
朝の支度をする間、お嬢様は鏡の中の自分を見ていた。
旅用の衣は、昨日船から下りた時と同じ淡い茶色だ。屋敷で着ていたような白や薄青ではない。
布は丈夫で、裾も少し短い。港町の石畳を歩くにはちょうどいいが、ディラクール家の客間に立てば、マリーナ様がすぐ別の服を出させただろう。
「昨夜のことを、怒っている?」
お嬢様は鏡の中からわたしを見た。
「何をでしょう」
「フライト様が、ここに泊まらなかったこと」
「怒っては、おりません」
櫛を通しながら答えると、お嬢様は少しだけ肩を落とした。
「そう」
「ただ、正しい方は時々、とても厄介だと思いました」
「それは、フライト様のこと?」
「お嬢様のことでもございます」
お嬢様は鏡の中で眉を寄せた。
「私も?」
「はい。お嬢様も、正しくあろうとなさいます。ご自分で家を出て、ご自分で船に乗って、ご自分で大陸へ来たのに、バンスワン卿が距離を置くと傷ついたお顔をなさる。でも、傷ついたとはおっしゃらない」
「……言うほどのことではないもの」
「それです」
わたしは櫛を置き、箱の中から青いリボンを拾った。白いドレスには強すぎると奥様があまり好まなかった色だ。けれど今のお嬢様にはよく合う。淡い茶色の衣に、少し遠い海の色が差す。
「今日はこれになさいますか」
「派手ではない?」
「昨日、海を越えてきた方が、リボンの色で遠慮してどうなさいます」
お嬢様は小さく笑った。
「リルは、こちらへ来てから強くなったわ」
「お嬢様が家を出たので、わたしも遠慮の置き場所を少し変えました」
「置き場所」
「はい。全部捨てると、ただの無作法になりますので」
青いリボンで髪を結う。
船の上では風でほどけないようにきつくまとめたが、今日は少し柔らかくした。
けれど、ディラクール家にいた頃のようにはしない。額の横へ落ちる髪を少し残し、首の後ろでリボンの端が見えるようにする。
お嬢様は鏡を見ても、すぐには何もおっしゃらない。
「変?」
「いいえ」
「では」
「私みたいではないみたい」
わたしは櫛を布の上へ置いた。
「お嬢様でございます。ただ、ディラクール家の窓辺に座るお嬢様ではないだけです」
お嬢様はリボンへ指を伸ばした。触れて、すぐ離す。
「フライト様は、気づくかしら」
「気づかれます」
「そう言い切るの」
「昨日、バンスワン卿はお嬢様がパンを三切れしか召し上がっていないことに気づきました。髪のリボンに気づかないなら、今後の教育が必要です」
「教育?」
「はい」
「……誰が?」
「お嬢様ですよ、もちろん」
お嬢様は口元を押さえた。笑っている場合ではないと分かっていても、少し笑ってしまうようだ。
ふと、扉の向こうで足音が止まる。
「リルさん?」
ミゼル夫人の声だった。
「バンスワン卿がお見えです。書類をお持ちとのことです」
「すぐ参ります」
答えると、扉の向こうでミゼル夫人が少し待つ気配があった。何かを言うかどうか、迷っているようだ。
「お茶は、二人分でよろしいですか」
「三人分でお願いいたします」
返事をすると、お嬢様がこちらを見た。
「リル」
「わたしも、お茶を注ぐ係でございます」
「でも」
「お二人だけで書類の話をなさるには、まだ書類が気の毒です」
お嬢様は困ったように笑った。さっきより頬の色が明るい。いいわ。青いリボンも、少しは役に立っている。
*
客間へ入ると、バンスワン卿は窓際に立っていた。昨日とは違う上着で、書類入れを手にしている。
港町の朝の光は、屋敷の客間の光より強い。けれど、あの方はその中で浮いてはいなかった。商会の人間らしく、港の光をもう何度も浴びてきた人に見える。
「おはよう、アガサ」
お嬢様の名を呼ぶ声は、まだ少し慎重だった。
「おはようございます、フライト様」
お嬢様が返すと、バンスワン卿の視線が一度だけ髪へ行った。
気づいた。よし!
わたしが茶器を卓へ置いている間に、バンスワン卿は書類入れから数枚の書類を出した。
「今日必要な手続きについて説明に来た。まず、この家での滞在名義だ。ここは商会管理の滞在家で、ミゼル夫人が管理人として記録に立つ。君はしばらく、アーシャ・ベルという名を使う。リルはリリア・カース。港で使った名と同じだ」
「カースの名は、大丈夫なのですか」
「ミリア・カースには、商会を通じて話をつけた。君達が一度ここへ寄ったように見せるため、必要なら港町の下宿屋にも手を入れる」
お嬢様は書類を見た。紙面の上を目で追っているけれど、読んでいるというより、自分が別の名で書かれていることを確かめているようだった。
「私は、ここではアーシャなのですね」
「外向きには」
「フライト様は」
「私は君をアガサと呼ぶ。少なくとも、この部屋では」
その返事で、お嬢様の指が書類の端を軽く押さえた。
まったく。この方は、ときどき書類の間に、とんでもないものを挟む。




