27 アガサ・ディラクール――青いリボン
「アガサ」
フライト様がこちらを見た。
「はい」
「戻りたくなったら、言いなさい」
「……まだそんなことを言うのですか?」
「言うさ」
「怒りますよ」
「怒ってもいい」
「泣くかもしれません」
「それも構わない」
「それでも、戻りません」
「……今は、それでいい」
――今は。
この人は、決して永遠の言葉で私を閉じ込めない。それが好きだった。
手紙でもそうだった。フライト様は、私に「必ず」「ずっと」「何があっても」という言葉をあまり使わなかった。
代わりに、次の季節の港の話、次に来る荷の話を書き、今読んでいる本の続きを訊いてきた。
そして、私が返事を書けるだけの場所を、紙の上に空けてくれる。
私は、その空白が好きだった。その空白へ、自分の言葉を書いてよいのだと思えた。
「フライト様」
「何だ」
「私は、あなたのところへ行きたいのです」
「ワイホトへ、ではなく?」
「ワイホトへも、行きたいです。海の向こうも、商会も、あなたが覚えている匂いも、見たいです」
私は手すりから手を離した。風が指先を冷やす。
「でも、一番は、あなたのいるところへ行きたい」
フライト様はすぐには答えなかった。
リルが少し離れた場所で、わざとらしく荷物の紐を確認し始めた。聞こえている。絶対に聞こえている。それでも今は止めない。
フライト様の手が、私の肩に触れる。
さきほどよりも、ゆっくりだった。支えるためだけではない。確かめるように、外套の布越しに肩を包んでくる。
引き寄せられ、私は彼の隣に立った。今度は船が揺れたからではない。
「それを聞いたら、私はもう父上の友人ではいられない」
「でしょうね」
「君の兄でもない」
「ええ」
「君を連れてきた男になる」
「私の方が、ついてきた人です」
フライト様の指が、肩の上で少しだけ動いた。
「アガサ……」
「はい?」
「そういうところが、昔から君は」
そこで言葉が止まった。
「昔から?」
「いや」
フライト様は海へ目を戻した。
「今の君に言うべき言葉ではなかった」
「言ってください」
「君は、静かに無茶をする」
私は笑った。
「それは、褒めています?」
「怒っている」
「二度目です」
「何度でも怒るさ」
それでも、肩にある手は離れない。
私は海を見た。
遠く、空と水の境が揺れている。そこに何があるのかは、まだ見えない。
けれど、この人はその向こうへ行く方法を知っている。船の揺れを知っている。港の匂いを、荷の重さを、道の名前を知っている。
私はその全部を好きになったのではない。
その全部を見ているこの人のそばへ行きたいと思った。
手紙の中のフライト兄様ではなく、今、隣で私の肩を抱くフライト様のそばへ。
「お嬢様」
リルが言った。
「何」
「そろそろ船室へ。風に当たりすぎです」
「もう少し」
「先ほどから、もう少しが三回目です」
「リル……」
「バンスワン卿からも言ってください」
「アガサ、戻ろう」
「……はい」
リルは勝ったようにうなずいた。
船室へ戻る前に、私はもう一度港の方を見た。マインカの岸が遠く、薄くなってきた。
あの向こうに、父がいる。母がいる。兄弟姉妹がいる。私の部屋がある。白い花の庭がある。
私は振り返る。そして、歩き出した。
*
翌朝、甲板へ出ると、風の匂いが変わっていた。
リルは私の髪をややきつめに結い、青いリボンを使った。母があまり好まなかった色。白いドレスには少し強いと言っていた。けれどこの旅用の外套には合う。
「その色にするのね」
「はい」
「エルクが喜びそう」
「……たぶん」
リルはそれ以上言わなかった。何か知っているのかもしれないが、あえて訊かない。
フライト様は、すでに甲板にいた。船員と短く言葉を交わし、こちらを見る。昨日よりも少しだけ、近づくのが自然になっている。
「眠れたか」
「少し」
「少しなら上出来だ」
「リルには足りないと言われました」
「リルの方が正しい」
リルが後ろで「当然です」と言った。
私は笑い、手すりの近くへ行く。今度はフライト様が隣に来た。揺れた時にすぐ届く距離だ。
海の先に、薄い線が見える。最初は雲かと思った。けれど、雲にしては低く、動かない。
船員の一人が甲板の先で声を上げた。
「港が見えたぞ!」
リルが顔を上げた。フライト様も海の向こうを見る。
私は、少し遅れて息を吸った。
まだ遠い。薄い線でしかない。あれがワイホトへ続くのか、その手前の港なのか、私には分からない。
けれど、見えた。
見えてしまえば、もう、ただの話ではない。
私は手すりに置いた指を、少し強く握った。隣でフライト様の手が動く。私が手を伸ばし、外套の袖を、指先で少しだけ掴む。
フライト様はこちらを見た。
「アガサ」
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
私は海の向こうを見たまま答えた。
「でも、行きます」
袖を掴んだ指の上に、フライト様の手が重なった。
リルが後ろで何か言いかけ、やめた気配がした。
向こう岸は、まだ細い線だった。
その線の向こうに、私の自由があるのかは分からない。行けば別の壁があるのだろう。ロイズ家の海にも壁があると、メリア姉様は書いていた。
それでも、窓の向こうが変わるだけで息が楽になることもある。
そして私は、そこへ行く。
フライト様の手が、私の指を包む。
船は向こう岸へ向かって進んでいた。




