26 アガサ・ディラクール――計画
リルは紙に包んだ干した果物を差し出した。
「お嬢様、これも」
「また?」
「またです」
「リル、私はそこまで」
「お嬢様は、朝からパンを小さく三切れと水だけです」
「数えていたの」
「もちろんです」
フライト様が私の肩から手を離す。離しても、隣に立ったままだ。風よけになる位置だと気づいたのは、少ししてからだった。
私は干した果物を一つ口に入れた。甘い。少し酸っぱい。噛むたびに、歯にくっつく。
こういうものを旅先で食べる自分を、昔の私は考えたことがなかった。
六歳の私は、フライト兄様からもらった絵葉書を宝物にした。
十二歳の私は、うまくいきかけた婚約の話が変わってしまった夜、泣きながら手紙を書いた。
十五歳の私は、嫌いな相手の前で笑う練習をして、部屋に戻ってから「今日はうまくできました」と書いた。
十八歳の私は、もう泣き言を書く年ではないと思い、港の話だけを訊いた。
そして二十歳の私は、婚約者から、合わないまま結婚すれば互いに不幸になると言われた。
ディオ様が悪い人だったとは思わない。
あの方は、たぶん正しかった。私達は合っていなかった。
私も、あの方と暮らしていく自分をうまく思い描けなかった。だから、言われたことそのものに怒ったわけではない。
ただ、《《またか》》、と思った。
――また、私の行き先が変わる。
――また、私のこれからが話し合われる。
――また、私が好きになろうとした時間も、嫌いにならないようにした努力も、条件の前で畳まれてしまう。
あの夜、たまたまフライト様が客として屋敷にいた。
父と話すために来ていた。予定通りの訪問だったのか、少し早まったのか、私は知らない。
食堂では会わなかった。母が私を休ませるようにしてくれたからだ。それもまた、優しさだった。たぶん。
でも、部屋の中で一人になると、その優しさは壁になった。
誰も責めていない。誰も悪くない。
だからどこにもぶつけられない。
私はその夜、フライト様に会った。
中庭へ続く廊下だった。フライト様は私に気付いても、すぐに近づいては来なかった。
「アガサ」
そう呼ばれても、子供の頃のように「フライト兄様」とすぐには返せなかった。
いや、返したくなかった。
私はその時、初めて自分で呼び名を変えた。
「フライト様」
あの方は、少しだけ黙った。けれど、叱らなかった。昔の呼び方へ戻しもしなかった。
それで私は、もう戻れないと思った。
「君は今、疲れている」
「ええ、疲れています。疲れてしまいました」
「そんなときに、何かを決めるべきではない」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「ずっと決めないようにしてきました。だから、こうなりました」
「アガサ」
「……連れていってください」
口に出した後で、足が震えに気付いた。フライト様はじっと私を見ていた。
「私は君の父上の友人だ」
「知っています」
「君より十二歳年上だ」
「そんなことも当然」
「隣国の者で、商売の都合もある。君を連れて出れば、君の家は私を許さない」
「それも、たぶん」
「たぶんでは足りない」
あの方の声は厳しかった。
だから、私は救われた。
簡単に頷かれたら、私は泣いてしまったかもしれない。
甘い言葉で連れ出されたら、途中で怖くなったかもしれない。
けれどフライト様は、私が言った言葉の重さを、私より先に軽くしようとはしなかった。
「では、足りるまで話してください」
「今夜は戻りなさい」
「それでは明日も、同じことを言います」
「明日になれば、気持ちが変わるかもしれない」
「変わらなかったら?」
「その次の日も考える」
それから本当に、まず一日話した。
二日目に、私はもう一度頼んだ。三日目に、リルを巻き込んだ。
四日目に、港までの道を確かめた。五日目に、フライト様は先に出た。
そして六日目から、私は具合が悪いことになった。
それを計画、と父なら言うかもしれない。
けれど私にとっては、そんな大仰なものではない。少しずつ、ただ進めただけだった。
戻れと言われるたびに、それでも行くかを確かめる一歩。フライト様に止められるたびに、それでもあの人の方へ歩くかを確かめる一歩。リルに「本当に?」と訊かれるたびに、リルまで連れて行く重さを確かめる一歩。
そして今、海の上にいる。
「アガサ」
また名前を呼ばれた。
私は顔を上げた。フライト様は海の向こうを見ている。横顔に風が当たり、髪が少し乱れていた。客間では見えなかった線が、そこにある。年上の男の人。父の友人。手紙の相手。私が選んだ人。
その全部が、同じ横顔の中にあった。
「気分は悪くないか」
「大丈夫です。揺れは感じますが」
「船はそういうものだ」
「はい」
「無理はするんじゃない」
「リルにも同じことを言われました」
「なら、二人分聞くといい」
私は小さく笑った。
「フライト様」
「何だ」
「家では、皆、私が穏やかだと思っていました」
「そうだろうな」
「あなたも、そう思っていましたか」
「昔は」
――昔は。
その短い返事が、胸に触れた。
「今は?」
「穏やかに見せるのが上手だと思っている」
「それは、褒めています?」
「少し。少しは、怒っている」
「なぜ」
「君があまりに長く、一人でそうしていたから」
私は手すりに触れた。冷たい。潮で少し湿っている。
「一人ではありませんでした」
「リルか」
「リルも。スージーも、たぶんイーシャも。メリア姉様も、少し」
言ってから、気づいた。
そうだ。知らなかったのは、家族全員ではなかった。
メリア姉様は、知ろうとしてくれていた。家を出たからこそ、家の中の私を見ていた。
エルクも、きっと何か見ていた。あの子は感じたことが、言葉より絵になってしまうけれど、私の部屋の白さを、たぶん誰より嫌っていた。
父と母とラリー兄様は気付かなかった。
キャリーは、知らなかったことに腹を立てているだろう。
ビリー兄様は、変だと思いながら言葉を探すだろう。
私は、あの家を嫌っているわけではない。言い聞かせなくても、今は分かる。嫌いではないから苦しかった。
優しくされるたびに、きちんと守られるたびに、私の行き先が私のものではなくなってしまう。
父は条件を考え、母は先を考え、ラリー兄様は外を考える。
皆が私のために考えてくれていた。
でも、私が誰のところへ行きたいかは、考えられる前にしまわれてしまっていた。




