25 アガサ・ディラクール――船の上
船に乗ってから、リルは三度、私に何か食べるよう言った。
*
一度目は、桟橋を離れてすぐだった。まだ港の建物が近く、荷を運ぶ男達の声も聞こえていた。
リルは鞄から柔らかいパンを出し、小さく切って紙に載せる。
「お嬢様、召し上がってください」
「今は」
「今です」
リルの声は、屋敷で聞くものより少し強い。けれど船の上では、そのくらいでちょうどよかった。
風と波の音がある。人の声も、綱が軋む音も、板を踏む靴音もある。屋敷の廊下で低く言われるより、こちらの方が不思議と聞きやすい。
「戻らないと決めた方は、食べる時に食べなくては」
そう言われて、私はパンを受け取った。
味はよく分からなかった。けれど、噛んで飲み込むと、自分の体がまだこちら側にあることだけは分かった。
手も足も、喉も胃も、船の揺れの中で私を支えている。心だけが先に走って、体を置いて行けるわけではない。
「水もですよ」
「わかったわ」
返事をすると、リルは満足そうにうなずいた。屋敷にいた頃なら、私が「はい」と言えばそこで終わった。けれど今のリルは、私が飲み込むところまで見ている。
けど、それでいいのだと思った。もう、丁寧な返事だけで済ませてはいけない。
*
二度目は、船室に案内された後だった。
小さな船室で、寝台が二つ、壁に折り畳みの椅子が一つ。窓は丸く、硝子の向こうに波が見える。
リルは荷物を寝台の下に押し込み、扉の掛け金を確認し、私の外套を脱がせようとしてやめた。
「寒ければ、そのままで」
「ええ」
「横になられますか」
「まだ大丈夫」
「大丈夫という言葉は、あまり信用しないことにします」
「リル」
「イーシャさんに言われました。お嬢様が『大丈夫』とおっしゃった時は、まず椅子を出せと」
私は思わず笑いそうになった。
「イーシャが?」
「はい。あと、好きな人のところへ行くなら食べなさい、と」
「……それもイーシャが?」
「はい。倒れたら恋どころではない、と」
今度は少し笑ってしまった。リルも口元を動かしたが、すぐ荷物の紐を結び直すふりをした。
イーシャは、知っていたのだろう。驚くことではないはずだった。
リルが知っていたのだから、リルを見ているイーシャが気づかないわけがない。
彼女は屋敷の隅に立っているようで、誰の靴音が廊下で止まるか、誰の手が茶器に触れる前に迷うか、そういうことをよく見ていた。
私は、隠していたつもりだった。
フライト兄様からの手紙を受け取っても、すぐには開けようとはしなかった。
開けたくないのではない。むしろすぐ読みたい。
けれど、すぐ読めば、封を切る指が急ぎすぎる。急ぎすぎれば、リルに見えてしまう。だからまず、机に置く。窓を見る。別の手紙を先に開く。
母からの言づけ、婚約者からの短い文。そういうものを先に済ませる。
それから、フライト兄様の封筒へ手を伸ばす。
封蝋を傷つけないように開けるのは、ただ惜しかったからだ。ワイホトの商会印。少し硬い紙。こちらのものとは違う匂いのする封。そこには、私がまだ見たことのない道がついている気がした。
スージーは、そういうところを、きっと見ていた。
女学校の寝室棟で、私は何度も封筒を机に置き、また取るということを繰り返した。
便箋を選んだ。白を出し、薄い青を出し、花の透かしが入ったものを戻した。
インクの小瓶を三つ並べて、結局いつもの青黒いインクを選んだ。彼女は何も言わなかった。何も言わない代わりに、私が返事を書いている間だけ、同じ部屋で本を読むふりをしていた。
隠せていると思っていた。訊かれなかったから。
でも、訊かないことは、知らないことではない。
*
三度目にリルが食べ物を出した時、私は甲板にいた。
港はもう遠い。建物の形は低くなり、屋根の色も見分けがつかない。海は思っていたより大きく動いている。
旅行記の挿絵では、海はただ広く、静かに広がっていた。けれど本物は違った。足元から持ち上がり、落ち、体の内側まで揺らしてくる。
それでも何とか、気分まで悪くならないあたり、私は船に向いているのもかしれない。
フライト様は少し離れたところで、船員と話していた。屋敷で見る時とは、雰囲気が違う。
ディラクール家の客間で茶を飲んでいる時、フライト様は父の友人だった。年下ではあっても、対等に話す相手。商会の話をし、港の相場を話し、ワイホトの情勢を話す。私はその横で、呼ばれれば挨拶をし、話しかけられれば答えた。
――フライト兄様。
そう呼んでいた頃、その言葉は安全だった。父の友人で、私に異国の話を聞かせてくれる人。私が婚約の話で泣いた時も、腹を立てた時も、手紙の向こうで受け止めてくれる人。
けれど、二十歳になって再び会った時、呼び名の中身が変わってしまった。
私は最初、それに気づかないふりをした。
フライト様はたぶん気づいていた。だから少し距離を置いた。私と二人きりになる時間を避け、父と話す時は必ず父の方を向き、私が茶を運ぶと礼を言ってすぐカップを見た。
昔のように「アガサ、その本は面白かったか」と訊く回数が減った。
それが、かえって苦しかった。私のことを子供として見ないからこそ、距離を置いているのだと分かったから。
そして、好きだと気づいたのは、その時だったのかもしれない。
……いえ、本当は、その少し前から分かっていた。
手紙の中で、あの方が「君」と書くたび、私は返事を書く手を止めた。
幼い頃の私へ向けた「君」と、今の私へ向けた「君」が、同じ字なのに違って読める日があった。
読み違いだと思った。自分の都合で紙を熱くしているだけだと思った。
だから、何度も冷ました。冷ましたつもりだった。
「アガサ」
名前を呼ばれた。
フライト様がこちらへ来る。甲板の風で外套の裾が揺れていた。あの方は船に慣れている。揺れを避けるのではなく、揺れの来る場所を先に知っているように歩く。
「寒くないか」
「少し」
「船室へ戻るか」
「もう少し、ここにいたいのです」
「なら、手すりから離れすぎないように」
そう言われた時、船が大きく傾いた。
足元が横へ逃げる。私は手すりを掴もうとして、指が空を切る。背中へ腕が回った。
「危ない」
低い声が、耳の近くに来た。
肩を抱き寄せられたのだと分かった時には、もう体の半分がフライト様の外套の内側に入っていた。
潮と羊毛と、革の鞄に似た匂いがした。
屋敷の客間で嗅いだことのある香りではない。旅をする人の匂いだった。
「……ありがとうございます」
「礼は後でいい。足元を見なさい」
そう言いながら、フライト様はすぐには腕を解かなかった。
肩にある手の重さが、船の揺れより先に体へ残る。私は足元を見た。見ろと言われたからではない。顔を上げると、何を言ってしまうか分からなかったからだ。
「お嬢様、足を斜めに置いてください」
少し後ろから、リルの声がした。
「揺れに逆らうと転びますよ」
「ええ」
「それから、バンスワン卿」
「何かな?」
「支えるなら、支えるとはっきりなさってください。半端に離される方が危のうございます」
フライト様の腕が、わずかに強くなった。
「リル」
「実際の話でございます」
私は横を向いた。海を見るためではない。たぶん、リルに見られたくなかった。
「……君のお付きは頼もしいな」
「はい」
「昔から?」
「昔からです」
「そうか」
フライト様は、そこでようやく少しだけ笑ったようだった。表情はわからないが、声の端が変わった。
まるで手紙の中で、冗談を書く時のように。




