24 ハリヤー・ディラクール――父――アガサの部屋
「父上、お呼びでしょうか」
「ああ。アガサのことだ」
「姉上の青の話ですか?」
「手紙の話だ」
「同じですよ」
私は息を吐いた。マリーナは小さく目を伏せ、メリアは少しだけ口元を緩めた。キャリーは、ほら、という顔をしそうになったが、それでも抑えた。
「……エルク、私達にも分かるように言いなさい」
「父上は、姉上が港を見ていたと思っていますよね」
「違うのか?」
「はい、港の向こうです。もっと言えば、向こうへ行ける人の背中です」
「比喩は要らんぞ」
「ですが、比喩でしか残らないものもありますよ」
マリーナが「エルク」とたしなめるように名を呼んだ。だがエルクは母を見ようとはせず、私をじっと見据えた。
「姉上は、白い部屋から出たかったんじゃないと思います」
「白い部屋……………… では何だ」
意味はわからん。だが、そのまま続けない限りエルクの話は進まない。
「白い部屋に、青い扉があることを知ってしまったんです」
私は黙った。
青い扉。フライト・バンスワン。ワイホト王国。
港、手紙、海の向こう。
エルクの言葉は、いつもなら私は取り合わない。だが今は、方針が全く見えない。
条件、手順、確認。それらだけでは、今のアガサの手紙の中にあるものを掴めない。
「なら、その青い扉を、誰が開けた」
「姉上です」
事もなげに、エルクは言う。
「フライトではないのか?」
「フライト卿は、たぶん扉の形をしていただけです」
「扉の形をした人間などいない!」
「だから絵に描くんですよ」
キャリーが少し咳をした。笑いを隠したのかもしれない。私は叱る気になれなかった。
「エルク……」
メリアが弟に声をかけた。
「ねえ、アガサは、あなたに何か言っていた?」
「僕の絵を見てくれました」
「じゃ、言葉では?」
「この色はどこへ続くの、と」
「何の色?」
「ワイホトの顔料です。フライト卿が姉上にくれたもの」
初めて聞く話だった。
「いつのことだ?」
「春です」
「なぜ報告しなかった?」
「絵の具でしたし」
「エルク!」
「だって父上は、僕の絵の具のことをいちいち報告に入れないでしょう?」
言い返せない。その通りだったからだ。
絵の具。顔料。青。娘が弟の絵を見て、その色がどこへ続くのかと訊いたこと。
私は、それを報告として受け取らなかった。必要な情報とは見なさなかった。
しかし、必要な情報は、そこにあったのかもしれない。
「よし、アガサの部屋を見る」
私は立ち上がる。マリーナも続こうとしたが、メリアがそっと手を添えた。
「お母様、私も行きます」
「ええ」
「父上、キャリーも」
「分かっている」
「エルクは?」
「来なさい」
エルクはスケッチ帳を抱え直した。
*
アガサの部屋は、――白かった。
以前にも入ったことはある。幼い頃、熱を出した時。新しい家庭教師を迎える前。婚約の話が進む時。
だが、こうして娘の不在を確かめるために入るのは初めてだった。
部屋は片付いている。机、椅子、寝台、棚。必要なものは残っている。
けれど、使われていたものは抜かれていた。
机の右側に、文箱を置いていた跡がある。ほこりが薄く、四角く途切れていた。
「ここには?」
「手紙の箱があったわ」
キャリーが言った。
「ワイホトからの?」
「たぶん」
「誰が確認したんだ?」
「女中頭と、母上よ。でも、中身までは」
引き出しを開ける。便箋、封筒、封蝋、小さな帳面。
新品に近いものが多い。よく使われるものはない。
スージー嬢が言ったという、便箋を選ぶ時間。メリアが持ってきた手紙。リルが持ち出したはずの荷。
「父上」
メリアが窓際の棚から旅行記を一冊取った。
「これをご覧下さい」
「何だ」
「ここに、紙が挟んであります」
薄い紙だった。
港の簡単な見取り図。駅から桟橋までの道、茶店の位置、荷馬車の通る道。
店の名はない。だがわかる。これは行ったことのない者が港で迷わないための紙だ。
誰の字だ? アガサのものでもフライトの字でもない。リルか、あるいは別の者か。
――以前から計画していた――
ラリーがいれば、そう言っただろう。
――計画。
その言葉を使えば、私の知っていたアガサはさらに遠いものとなる。
机の端に、小さなインクの染みが残っていた。青黒い染みで、拭き取った跡がある。
ここで手紙を書いたのだろう。迷い、直し、封をした。私はその時間の横を、何度通り過ぎただろう。
ふと気付くと、エルクが、部屋の隅に立っていた。
「何を見ている」
「白の中に残った穴です」
「穴?」
「文箱の跡。旅行記の隙間。机の染み。持って行ったものより、残った形の方がよく見える時があります」
私は机の上の便箋に目を落とした。
残されたもの。持って行かれなかったもの。
娘は、選んで出ていったのだ。
「……フライトへ手紙を書く」
私は言った。
「問いただすのですか?」
キャリーがすぐに訊いた。
「いや、まずは確認するだけだ」
「確認って言っても名前だけでしょう。アガサ姉上を連れ戻す命令を書かないでください」
メリアが妹を見た。キャリーは引かなかった。
「姉上が自分で出たなら、父上の命令は、フライト様ではなく姉上に向かってしまいます」
「分かっている」
「本当に?」
「……分かろうとしている」
キャリーはそれ以上言わなかった。
マリーナは寝台のそばに立ち、枕元に置かれた小さな陶器の皿を見ていた。アガサが夜に指輪や髪飾りを置いていた皿だ。今は空である。彼女はそこに手を伸ばしかけ、触れずに戻した。
「アガサは、怒っているでしょうか」
マリーナはつぶやく。誰に訊いたのでもないようだった。
「怒っているかどうかは分かりません」
メリアが答えた。
「でも、戻れば分かる、とは思わない方がいいと思います」
「そうね」
私はアガサの机を見る。
書斎で見慣れたそれとは違う。帳面や契約書、数値も条件もない。ただ、娘がここで何かを選んだ跡がある。思い出が、そこにはある。
なのに今私は、それを証拠として見ている。
そのことが、ひどく苦く感じられた。
「父上」
エルクが言った。
「何だ?」
「もし、手紙を書くなら、白い紙に青いインクはやめた方がいいです」
「なぜだ」
「青は、姉上が持って行った色です」
エルクの言葉は相変わらず分かりにくい。だが、今日に限っては無視しきれない。
「では、お前は何色で書けと言いたいんだ」
「黒で。それが父上の色です」
「私の色か」
「はい。言い訳をしない時の色です」
キャリーが今度こそ口元を押さえる。メリアは弟を見て、小さく首を振った。マリーナは叱らなかった。
私は、机の上の白い便箋を一枚だけ取った。
「書斎へ戻る」
誰もすぐには動かない。
アガサの部屋の窓は閉じられていた。庭の白い花が見える。よく手入れされた庭だ。娘はこの庭を嫌っていたわけではない。たぶん、好きだった。
だが、庭は海へ続かない。
その程度のことを、私は今になって考えていた。




