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失踪令嬢の恋愛~どうして誰も気付かなかったのか?  作者: さんけい


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終章 アガサ・ディラクール――三年後

 あの大陸側の港町から、さらに十日かけて内陸へ入り、ワイホトのバンスワン家の屋敷へ着いたのは、三年前の夏の終わりだった。


 ワイホトの夜は、窓を閉めても少し乾いている。マインカの夜には、どこかに水の気配があった。

 港から離れたディラクール家の屋敷でも、雨の前には庭の土が湿り、遠い風に海の匂いが混じることがあった。

 ワイホトでは違う。夜の風は石壁を撫で、乾いた草の匂いを連れてくる。初めてこの屋敷へ来た頃、私はその乾きに何度も目を覚ました。


 今は、眠る前に窓を少しだけ開ける。

 リルには叱られる。寝室の窓を夜に開けたままにしないでください、奥様はすぐ喉を痛めます、と。

 三年前はお嬢様だった呼び名が、今では奥様になった。

 リルは最初、その呼び方をひどく言いにくそうにしていたけれど、三日で慣れた。たぶん、慣れたふりだった。

 一月経つ頃には、屋敷の女中達がリルの顔色を見て動くようになった。

 半年で、バンスワン家の台所はリルが通ると鍋の位置を少し空けるようになった。

 一年経つ頃には、フライト様が私に甘い菓子を持ってくる時、まずリルに量を確認するようになった。

 そして今、リルは私の旅支度をしながら、三年前に持ってきた青いリボンを箱の上へ置いている。


「これは、お持ちになりますか」

「ええ」

「もう少し新しいものもございます」

「これがいいの」

「では、こちらへ」


 リルは何も言わず、リボンを薄紙に包んだ。端は少し擦れている。

 船の上で使い、大陸側の港町で使い、ワイホトへ入って初めて商会本店へ行った日にも使った。

 奥様には強すぎる色だと言われたこともある。けれど今は、この屋敷の誰もそんなことは言わない。

 青は、私の色の一つになった。

 机の上には、マインカへの旅程表がある。ワイホトから大陸側の港町へ戻り、そこから船でマインカへ渡る。

 三年前に通った道を、今度は逆に進む。ただし、今度は逃げるためではない。

 ディラクール家から、正式な招待状が届いていた。母の字で書かれた封筒の中に、父の署名がある。

 母の言葉は相変わらず丁寧で、父の一文は短かった。


 ――お前とバンスワン卿が共に来ることを望む。


 父らしい文だった。


 *


 三年前、私が出した手紙に、父はすぐ返事をくれなかった。


 最初に届いたのは、メリア姉様からだった。


 ――無事ならまず食べなさい、リルを困らせすぎないように、フライト様の言うことを全部聞く必要はありません。


 と書いてあった。そして最後にこう書かれていた。


 ――ロイズの海はいつでも見にいらっしゃい。


 次はキャリーからだった。

 怒っています、と一行目にあった。

 その下に、でも無事ならよかったです、と続いていた。

 そしてさらに。


 ――結婚前にお姉様と話すつもりだったのに、勝手に向こうへ渡るなんてあんまりです。


 紙の端には、怒っている時のキャリーらしく、筆圧が強く残っていた。


 ビリー兄様からは、


 ――なぜ僕に一言も相談しなかったのか、いや相談されても困ったかもしれないけれど、でも何か言えたかもしれない。


 と長い手紙が来た。二枚目の最後には、


 ――僕はお前が戻らないと決めたなら、その理由を知りたかった。


 とあった。


 エルクからは、絵が届いた。白い部屋の窓が開いている絵だった。

 窓の向こうに、青い扉がある。扉の前には、二人分の影が並んでいた。絵の隅に、小さな字で「淡い色ではなかった」と書いてあった。

 それを見た時、私は泣いた。リルが茶を置いて、何も言わずに下がった。

 フライト様は部屋へ入ってきて、絵を見て、私の隣に座った。肩へ手を置いて、じっと泣き止むまで待ってくれた。


 父からの返事が来たのは、その後だった。

 怒りは、紙の上で綺麗に折られていた。

 私の無事を確認したこと。フライト様の手紙を読んだこと。リルの処遇については、彼女自身の意思を確認したいこと。婚約破棄の件はマダラール家と整理を進めていること。マインカ国内での私の名誉について、可能な限り守る手を打つこと。

 最後に、父はこう書いていた。


 ――お前が自分で出たのなら、父として怒る前に、その言葉を読まねばならないのだろう。

 ――だが、怒っていないわけではない。


 その一文を読んで、私は少し笑った。

 父は怒っていた。父らしく、きちんと怒っていた。

 それでも、連れ戻す命令は来なかった。


 母の手紙は、少し遅れて届いた。何度も書き直した跡があった。

 最初の何枚かを破って捨てたのではなく、たぶん、全部残してから別の紙に写したのだと思う。母はそういう人だ。


 ――貴女を守るつもりで、貴女の先ばかり見ていました。

 ――今どこに立っているのかを、もう少し見ればよかった。


 私はその手紙を、長い間持っていた。許すとか、許さないとかではなかった。

 母を嫌いになったわけではない。父も、兄も、あの家も。嫌いではないから苦しかったのだと、ワイホトへ来てから何度も思った。


 結婚までは、一年かかった。

 フライト様は急がなかった。急がなかったというより、急ぐべきではないと言い続けた。

 父との書簡、マインカ側の名誉の整理、ワイホト側の受け入れ、バンスワン家と商会の手続き、私自身の意思確認。

 意思確認は、何度されたか分からない。

 そしてある日、私はとうとう言った。


「フライト様」

「何だ」

「私の意思は、毎月封蝋を押さなければ有効になりませんか」


 フライト様は黙った。

 その夜、リルが別室で腹を抱えて笑っていたと、後からミゼル夫人に聞いた。


 求婚は、その三日後だった。

 ワイホトの庭で、乾いた風が吹いていた。花は少なかったが、香草がよく育っていた。

 フライト様はいつものように、先に条件を並べようとした。年齢、父との関係、国、商会、私の立場。私は最後まで聞いた。聞いてから、言った。


「言い訳は、あと何枚ありますか」


 フライト様は、少し困った顔をして、それから笑った。

 指輪は、派手ではないが、ワイホトの青い石が小さく入っていた。色は深く、光に当てると、少しだけ緑が混じった。

 私はそれを受け取った。


 *


 あの日から二年。

 私は今、バンスワン家の奥様と呼ばれている。そして商会の文書室にも席がある。

 最初はマインカ向けの控えを写すだけだった。次に、マインカ語の文面を直すようになった。今では、マインカとの取引で相手が言葉を柔らかくしすぎて本題を隠している時、ガノンに呼ばれる。


「奥様、この文は怒っていますか」

「怒っています」

「どの程度」

「表の茶会なら笑顔で席を立つ程度です」

「では、かなりですな」


 そんな会話をするようになった。

 リルは、私が仕事を増やしすぎると怒る。ガノンも怒る。フライト様は最初止めようとして、私に見られ、リルに見られ、ガノンに見られ、今では「今日はここまで」とだけ言うようになった。

 その「ここまで」の声が、私は好きだ。

 しまうためではなく、隣で区切るための声だから。


「奥様」


 リルが箱の蓋を閉めた。


「青いリボンは、こちらへ入れました。手紙の束は?」

「持って行くわ」

「全部ですか」

「ええ。父と母のもの、メリア姉様、キャリー、ビリー兄様、エルクの絵も」

「絵は別箱にいたしましょう。角が傷みます」

「お願い」


 リルは絵を丁寧に包んだ。三年前の絵は、少し紙が波打っている。何度も見たからだ。けれど色はまだ鮮やかで、青い扉は紙の中で開いている。

 扉が叩かれた。


「アガサ」


 フライト様の声だった。


「どうぞ」


 扉が開き、フライト様が入ってくる。旅程表を手にしていた。三年前より少しだけ髪が短い。商会で遅くまで仕事をしてきた日は、眉間に疲れが出る。今夜も少し疲れていたけれど、私を見ると、手元の紙を下げた。


「支度は進んでいるかい」

「リルのおかげで」

「それは間違いない」


 リルは礼をした。


「旦那様、奥様は青いリボンをお持ちになります」

「そうか」

「お気づきになるよう、先に申し上げました」

「リル」

「当日になって気づかれないと、奥様が少し残念なお顔をなさいますので」

「リル」


 今度は私が呼んだ。リルは何も悪くないとばかりに、包んだ絵を持ち上げた。


「こちらを別箱に入れてまいります」


 そう言って部屋を出ていった。扉はきちんと閉められた。昔と違って、隙間は残されていない。

 フライト様はそれを見送り、少し笑った。


「信用されたものだ」

「三年かかりました」

「リルに?」

「ええ」

「私はまだ時々、試されている気がする」

「それは一生続くと思います」


 フライト様は旅程表を机へ置いた。


「マインカへ着くのは、予定通りなら十六日後だ」

「はい」

「港町で一泊する。船は翌朝」

「三年前と同じ港?」

「同じ港だ。ミゼル夫人から手紙が来ていた。泊まるなら必ず自分の家へ、と」

「嬉しい」

「リルも喜ぶだろう」

「ええ」


 フライト様はそこで少し黙る。私は手紙の束を箱へ入れながら、横顔を見た。


「どうしました?」

「戻りたくなければ、戻らなくていい」


 私は手を止めた。


「三年経っても、それを言うのですか」

「言う」


 返事は早かった。


「私は君を連れてきた。君は自分で来たと言うだろうし、実際そうだ。それでも、マインカへ戻ることで君が苦しくなるなら、行かなくていい」

「招待状は父からです」

「断れる」

「母も待っています」

「それでも」

「キャリーには、帰ってきたら一晩中話を聞かせなさいと書かれました」

「それは逃げにくいな」

「ええ」

「エルクは」

「新しい絵を見せると」

「……それは、私も見たい」


 私は箱の蓋に手を置いた。


「無論、怖くないわけではありません。父に会うのも、母に会うのも、ラリー兄様がどんな顔で私を見るのかも。ディオ様の件はもう片づいたと聞いていますけれど、それでも、マダラール家の名を聞けば、たぶん少しは息が詰まります」


 フライト様は、大丈夫だとも、気にしなくていいとも言わず、私が置いた言葉をそのまま聞いていた。


「なら、明日の朝でも遅くない。船を出す前に、旅程は変えられる。君が会いたいと思って書いた手紙でも、明日になって足が止まるなら、それも君の返事だ」

「三年経っても、あなたはそれを言うのですね」

「言う。君が私の妻になっても、ここがワイホトの屋敷でも、私がそれを言わなくなったら、君はまた誰かの決めた道を歩くことになる」


 その言い方に、少し笑ってしまった。


「私は怒るかもしれません。ここまで支度して、リルにも皆にも動いてもらって、それでも直前で戻らなくていいと言われたら、きっと腹が立ちます」

「怒ればいい。怒って、それから決め直せばいい。私は君をなだめるより先に、荷物を降ろす場所を探す」

「泣くかもしれません」

「その時は、リルに叱られる前にハンカチを出す」

「あなたが?」

「三年あれば、それくらいは覚える」


 私は箱の中の青いリボンに触れた。三年前、船の上で使い、大陸側の港町で使い、ワイホトへ入って初めて商会本店へ行った日にも使ったリボンだった。


「でも、会いたいのです」


 それだけは、もう揺れなかった。


「父にも、母にも。メリア姉様にも、キャリーにも、ビリー兄様にも、エルクにも。怒られるかもしれませんし、泣かれるかもしれませんし、何もなかったように茶を出されるかもしれません。それでも、もう一度会いたい」


 フライト様が私のそばへ来た。

 昔なら、そこで少し距離を測っただろう。今も、完全に測らなくなったわけではない。けれど、手は迷わず私の肩へ置かれた。三年前の船の上より、ずっと自然に。


「あなたとなら、行けます」

「戻る、ではなく?」

「戻る、ではありません。私はもう、あの家の娘としてだけ帰るわけではないもの。あなたの妻として、ワイホトで暮らす者として、会いに行くのです」


 フライト様の手が、肩の上で少し強くなった。


「それなら、私も君の隣に立つ。ハリヤーに怒られる時も、マリーナ夫人に泣かれる時も、ラリーに手順を確認される時も」

「キャリーには何を言われると思いますか」

「まず、遅いと言われるだろう。その後で、君の服と私の顔を見比べる」

「ありそうです」

「ビリー殿は、しばらく黙ってから核心に来る。エルク殿は、たぶん色の話をする」

「エルクは、あなたを青い扉の形だと言うかもしれません」

「扉か。なら、私は開け放しにされないよう、蝶番をよく見ておく」


 私はそこで笑った。


「あなた、そういうところが本当に商人です」

「君と暮らしていると、比喩も在庫管理の対象になる」

「ひどい」

「君も相当ひどい。静かに無茶をして、周りを巻き込み、最後には全員に荷物を持たせる」

「昔から、静かに無茶をすると言われました」

「言ったのは私だ。だが、今は訂正した方がいい。君は静かに無茶をして、しかも後からこちらがそれを手伝いたくなるようにする」

「それは、褒めていますか」

「半分は」

「では、もう半分は?」

「私がどれほど振り回されたかという記録だ」


 私は笑った。


「では、その記録も荷物に入れてください。明日、マインカへ持っていきましょう」

「もちろん」


 フライト様は私の手を取った。指輪の青い石が、灯りを受けて小さく光る。


「君が持ってきたものごと、全部持つ。手紙も、リボンも、家族への怒りも、嫌いになれなかった家も、私に言えなかった寂しさも、これから向こうで受け取る言葉も」

「そんなに持てますか」

「商会の男を甘く見ない方がいい」

「でも、重いものもあります」

「知っている。だから、一人で持つとは言わない。君が持つものに、私の手も掛ける。落ちそうなら支えるし、重すぎるなら一度下ろす。捨てたいなら、その時に一緒に考える」


 その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。フライト様の指が、私の手を少し包む。


「私も、君の手を離すのはあまり得意ではない」

「知っています」

「そうか」

「三年一緒にいますから」


 フライト様は困ったように笑った。私はその手を握り返し、窓の方を見ながら私のそばへ来た。

 昔なら、そこで少し距離を測っただろう。今も、完全に測らなくなったわけではない。けれど、手は迷わず私の肩へ置かれた。三年前の船の上より、ずっと自然に。


 フライト様は私の手を取った。指輪の青い石が、灯りを受けて小さく光る。


「君が持ってきたものごと、全部」


 その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。

 三年前、私は何もかも捨ててきたつもりで船に乗った。けれど本当は、たくさん持ってきていた。手紙、リボン、家族への怒り、疲れ、好きだった庭、嫌いになれなかった家、リル、フライト様への恋。

 捨てたのではなく、抱えて渡った。

 この三年で、抱え方を覚えた。

 フライト様が私の手を持ち上げ、指輪の近くに口づけた。まだ少し照れる。三年経っても、そこはあまり変わらない。


「明日は早い」

「はい」

「窓を開けたまま寝ないように」

「リルと同じことを言うのですね」

「リルが正しい」

「そういうところも、変わりませんね」

「変える気はない」


 私は笑い、窓の方を見た。

 ワイホトの夜は乾いている。けれど、もう知らない空気ではない。

 石壁の向こうで、香草が風に揺れている。遠くで鐘が鳴り、屋敷のどこかでリルが女中に指示を出す声がした。

 机の上には、マインカへの旅程表。

 箱の中には、青いリボンと手紙の束。

 別の箱には、エルクの絵。

 白い部屋の窓が開き、その向こうに青い扉がある絵だった。扉の前には、二人分の影が並んでいる。

 私はフライト様の手を握り返した。


 今度は、帰るためではなく、会いに行くために海を渡る。



 END


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