22 メリア・ロイズ――姉――自分のための海
今思えば、あれは返事ではなく、私自身の話だった。
私は嫁いでから、ようやく分かったことがある。
ディラクール家は悪い家ではない。父は切れる人だし、母は細やかで、ラリーはよく働く。家は大きく、豊かで、使用人もよく躾けられていた。
けれど、あの家では、何かを言う前に、もうその言葉の置き場所が決まっていた。
父に言えば条件になり、母に言えば心配に、そしてラリーに言えば手配になってしまう。
私は、それに慣れていた。慣れていたから、嫁ぐまで、それが家というものだと思っていた。
ロイズ家へ来て、初めて、違う騒がしさを知った。
魚が傷む。荷が遅れる。船が戻らない。夫が昼食を忘れて荷受け場へ行く。義母が魚の名前を間違えた私を笑う。使用人が市場の悪口を食堂まで持ってくる。
実家のようにきちんとはしていない。けれど、息はしやすかった。
アガサは、私よりずっと大人しい子だった。
それが性格なのか、家に合わせた形なのか、私は見分けようとしていなかった。姉なのに。
廊下の方から足音がして、夫が戻ってきた。ロイズ子爵家の跡取りである夫は、上着の袖に少し魚の鱗をつけたまま居間へ入ってくた。
「メリア、急ぎの話だと聞いた」
「ええ。実家から手紙が来ました」
「ディラクール家から?」
「アガサが、体調を崩して静養に入ったそうです」
夫は私の向かいに座りかけ、途中で動きを止めた。
「本当に病なのかい?」
「……違うと思うわ」
「じゃあ、何処かへ行ったのか?」
「それもまるで分からないのよ」
「なら君、実家へ行ってくるか?」
返事が早い人だ。私は少しだけ笑った。
「行ってよいの? あなた」
「君の妹だろう? 息子は乳母と母上に頼める。私も明日の朝なら半日空けられる」
「あなたは来なくていいわ。荷受けがあるでしょう?」
「荷は弟に任せるさ」
「それは後で揉めるわ」
「では夕方までに戻るとしよう」
夫はそう言ってから、机の上の手紙を見た。
「君は、前から何か気づいていたのか」
「ええ、少しは」
「でも、言わなかった」
「……ええ」
「どうして?」
責める声ではなかった。だから、私は正直に答えた。
「実家に言ってしまうと、アガサの気持ちが形を変えられてしまうのよ」
「なるほど」
夫はあっさりうなずいた。あっさりしすぎて、こちらが拍子抜けするくらいだった。
「驚かないの」
「ロイズ家にも、親戚回りでも似た話はいくらでもあるさ。親は子のために、家は娘のためにと言いながら、いつの間にか帳面の上へ載せられてしまうってことはな」
「あなたも載せられたの?」
「載ったし、載せられたし、今も載せている。まあ、私はそれでいい。けど、そこから降りたい者がいるなら、怒る前に足場を見た方がいい」
夫は袖についた鱗に気づき、指で払った。小さな銀色が床に落ちる。
「フライト・バンスワン卿の名が出ているのか」
彼には前から話はしていた。フライト氏がアガサのお気に入りであることも。
「母の手紙にはありませんけどね」
「義父上の友人だったな」
「ええ」
「けど、年が離れている」
「十二歳…… 無理とは、言えないけども……」
「それでも、立場的に難しいな」
「だから、彼が軽く動いたとは思えないの」
私はアガサの手紙を夫へ差し出す。夫は受け取ったが、すぐには読まなかった。
「読んでいいのか」
「今は、読んで。姉として隠したい気持ちより、今どこにいるか知りたい方が勝っているの」
「分かった」
夫は便箋を開いた。読む速度は早い。商家の人らしい目で、要点を拾いながら、それでも言葉の端を落とさない。
「……これは」
「何!?」
「港を見ているな」
「……港?」
「バンスワン卿を、というより、その向こうの港を。いや、違うか」
夫は便箋を机へ戻した。
「その男の持つ風景の向こう側を見ている」
「風景……」
「だから、ただの恋文より厄介だ」
「厄介? なの?」
「相手が好きなだけなら、相手が間違えれば冷めるさ。けれど、その相手を通して外を見ているなら、家へ戻しても一度点いた火は消えない」
私は便箋の端をそろえた。
それは、父に聞かせたい言葉だった。母にも。ラリーにも。たぶん、私自身にも。
「それじゃ、実家へ行きましょう」
「すぐに馬車を用意させよう。港道は使わない方がいい。雨の後で少し悪い」
「ありがとう」
夫は立ち上がりかけて、また座った。
「メリア」
「何?」
「君は、戻りたいか」
私は、返事に少し困った。
ディラクール家へ。娘として。姉として。母の手紙を受け取った者として。
戻りたいか。
「いいえ、行きたいわ」
私は言った。
「戻りたい、ではなく」
「そうか」
夫は黙ってうなずき、床に落ちた銀色の鱗を拾い、机の端に置いた。
「では、行こう」
*
出発の支度をしながら、私はアガサへの返事を書きかけていた便箋を見つけた。二月前の手紙に返した後、もう一通書こうとして、出せなかったものだ。
書き出しだけが残っている。
――アガサ。
――こちらの海は、晴れた日より曇った日の方が遠くまで続いて見えます。
その先がない。
私はその紙を折り、持って行く手紙の束に入れた。
実家へ着いたら、父は状況を整理するだろう。
母は私に、心配をかけてごめんなさいと言うだろう。
ラリーは港の確認をしているかもしれない。
ビリーは何か余計なことに気づき、キャリーはもう少し早く怒り、エルクは誰にも通じない言葉で本当のことを言う。
そしてその中に、アガサはいない。
私は帽子を手に取り、鏡の前でリボンを結んだ。ディラクール家で覚えた結び方より、ロイズ家へ来てからの結び方の方が早い。海風でほどけにくいからだ。
窓の外で、干し網が鳴っている。
アガサがもし今、どこかの港へ向かっているなら。
あの子は、初めて本当に、自分のために海を見るのだろう。




