21 メリア・ロイズ――姉――妹の中の彼
アガサが体調を崩して静養に入った、という手紙を読んですぐ、私はまず息子の昼寝用の掛布を直した。
初夏に向かう季節とはいえ、ロイズ家の屋敷は海風が入る。昼間は明るく、窓辺にいれば気持ちがいいが、小さな子供はすぐ足を冷やす。
寝台の端から出ていた足を布の中へ入れてやると、息子は少し唇を動かした。起きはしない。乳母がそばに控えていたので、私は小さくうなずいてから部屋を出た。
廊下に出ると、潮の匂いがした。
私がロイズ家に嫁いで二年になる。
最初の頃は、この匂いが服につくのが不思議だった。ディラクール家にも港の荷は入ってきたし、父の仕事柄、船や商会の話は遠いものではなかった。
それでも、屋敷の窓を開けただけで潮が入る暮らしは違う。朝の市場から魚が運ばれ、昼には干し場の網が風で鳴り、夕方には沖へ出た船の灯りが点々と見える。
アガサは初めてここへ来た時、その灯りをずっと見ていた。
庭や客間ではなく、海の方を。
私は手紙を持ったまま、自分の小さな居間へ戻る。机の上には、母の字がきちんと並んでいた。
――アガサが少し体調を崩しております。
――しばらく静かに過ごさせるつもりです。
――心配をかけたくはありませんが、貴女には知らせておきます。
丁寧な文だった。
……丁寧すぎた。
母は、何かある時ほど文面を綺麗にする。読み返す相手の気持ちを考えているのだろう。
けれど、そうやって言葉を磨くうちに、何が起きたのかは紙の向こうへ隠れてしまう。
――静養。
――少し体調を崩す。
――心配をかけたくはない。
どれも母の言葉であり、家のための言葉だった。
私は便箋をもう一度読む。アガサの所在は書かれていない。
熱の具合も、医師の名も、食事が取れているかもない。
本当に病であれば母なら、薬の名までは書かなくても、食べたものくらいは書く。スープを半分飲んだとか、果物の煮たものを少し口にしたとか、そういう細かなことを。
だけど、それがない。
「奥様」
メイドが茶を運んできた。
「ありがとう。旦那様は」
「荷受け場へ。昼過ぎにはお戻りになるそうです」
「戻られたら、少しお話があると伝えて」
「かしこまりました」
茶はロイズ家のものだ。少し強い。
嫁いだばかりの頃は苦く感じたが、今ではこちらの方が飲みやすい。ディラクール家の茶は、香りがよく、薄く、美しかった。
アガサには、あの茶がよく似合うと言われていた。本人が本当に好んでいたのかは、知らない。
私は椅子に座り、机の引き出しを開ける。その奥の方には、アガサからの手紙をまとめてある。姉妹の手紙だから、特別な箱には入れていない。布紐で括って、季節ごとに分けているだけだ。
最後に来たのは、二月前だった。
――ロイズのお屋敷からは、本当に海が見えるのですね。
――以前伺った時、夜の灯りがとても綺麗でした。
――姉様はもう、潮の匂いに慣れましたか。
そこまでは普通の手紙だった。息子のこと、私の体調、ロイズ家の魚市の話。
アガサはいつも、こちらの暮らしを丁寧に聞いてきた。おざなりではない。
私がどの部屋を使っているか、庭の土が違うか、魚の名前を覚えるのは難しいか。そういうところへ手を伸ばしてくる。
その後に、少しだけ、別の話があった。
――フライト兄様が、先日、マインカの港は海の匂いより先に荷の匂いがする、とおっしゃっていました。
――ワイホトには海がないから、かえって港の匂いをよく覚えているのだそうです。
――そういう覚え方もあるのですね。
私はその時、手紙を読んで笑った。
――フライト兄様。
アガサは幼い頃から、その名を話題に出すことが多かった。
父の若い友人。ワイホトから来た商人貴族。異国の話をしてくれる人。最初は、本当にそういう相手だったのだろう。
幼い頃のアガサは、彼が何をくれたか、何を話したかをよく私に話してくれた。あの頃のアガサは無邪気で明るかった、と思う。
十二、三の頃は、父や母に言えない不満を、私に対し、遠回しにこぼしていた。
婚約の話が変わるたび、気付かれない程度にため息を漏らした。私はあまり無理をしないように、嫌なものは嫌と言ってよいのだと告げ、自身は海の近くへと嫁いだ。
けれど、二十歳に近づくにつれて、アガサの手紙の中のフライト氏が、ただの話題ではなくなっていった。
彼の見たものを見たい。覚えている匂いを知りたい。
父の友人への敬愛、という言葉には収まらない何かが、そこにはあった。
私は、実家へは知らせなかった。知らせたらどうなるか、分かっていたからだ。
父はまず、相手の立場と年齢と家の事情を考える。
母はアガサが傷つかない道を探す。
ラリーは外へどう見えるかを考える。
皆、アガサのために動く。たぶん本気で。
けれど、そうなった時、アガサの手紙は証拠になり、恋は問題になり、フライト・バンスワン卿は処理すべき相手になる。
私は、手紙を布紐から外し、もう一枚読むことにした。
――お姉様は、ロイズ家へ移られてから、ご自分の部屋の窓から見えるものが変わりましたか。
――私は時々、自分の部屋から見える庭が、とても綺麗なのに、どこへも続いていないように思うことがあります。
――変なことを書いてごめんなさい。
――ただ、海は続いているのでしょうね。
この手紙を受け取った時、私は返事を書くのに半日かかった。
すぐに「たまにはこちらにいらっしゃい」と書きたかった。しばらくこちらへ来て、海を見ればいい。魚市へ行って、船具屋をのぞいて、干し網の匂いに顔をしかめて、夜の灯りを見ればいい。そう書きたかった。
でも、私はロイズ家の嫁で、アガサはディラクール家の娘だった。
姉妹だけで決められることには限りがある。呼び寄せるにも、理由が要る。
体調、季節、親戚付き合い、子供の祝い。何でもいいようで、何でもよくはない。
結局、私はこう返した。
――海は続いています。
――けれど、こちらの屋敷にも壁はあります。
――どこへ行っても壁はありますが、窓の向こうが変わるだけで息が楽になることもあります。
と。




