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失踪令嬢の恋愛~どうして誰も気付かなかったのか?  作者: さんけい


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幕間二 港町

 港町の駅は、屋敷の者が使う駅とは匂いから違っていた。


 石炭の煙、濡れた木材、馬の汗、潮を含んだ風、それから魚市場の方から流れてくる強い匂いが、ひと息ごとに混じってくる。アガサは列車を降りたところで一度だけ足を止め、ホームの先に見える帆柱の群れを見た。帆布が畳まれ、縄が鳴り、荷を積んだ男達が短い声で合図を交わしている。その向こうにある海は、旅行記の挿絵よりずっと広く、色も一定ではなかった。


「こちらへ」


 フライトは人の流れを見てから、アガサを先に歩かせた。手を取ろうとはしなかったが、ぶつかりそうな荷車が来るたび、半歩だけ前に出る。その半歩が、屋敷で会っていた頃の「フライト兄様」と違っていて、アガサは手袋の中で指を曲げた。


「宿には入らないのですか」

「まだだ。先にリル嬢と合流する。宿に名を残すのは、その後の方がいい」


 そう言って、フライトは駅前の広場を横切った。客引きの少年、荷馬車、港へ向かう女達、野菜を積んだ手押し車。貴族の令嬢が歩く場所ではない、と母なら言うだろう。けれどアガサの足は止まらなかった。裾を踏まないよう、少し持ち上げる。旅用の濃い色のドレスは、家で着る淡い服より重い。だがその重さが、今は都合よかった。風にあおられても、体が勝手に戻されることはない。

 桟橋近くの茶店は、店というより船具屋の横に張り出した小さな部屋だった。入口に吊るされた鈴は鳴らず、代わりに床板がきしむ。壁には潮で色の変わった地図が掛けられ、丸いテーブルには傷が多かった。奥の棚にカップとソーサーが並んでいるのを見て、アガサは少しだけ息を吐いた。


「ここなら港を見ていられる。リル嬢は駅からまっすぐ来るはずだ」

「目立ちませんか」

「目立つ。だが、隠れようとしている者より、待ち合わせている者の方が人の記憶には残りにくい」


 フライトはそれだけ言って、店の女に茶を三つ頼んだ。二つではなく三つ。まだ来ていないリルの分まで、当然のように数えられたことに、アガサは胸元の釦に指を添えた。緊張で喉は渇いていたが、出された茶にすぐ手を伸ばせない。カップの縁から立つ湯気を見ていると、屋敷の朝の音が、少し遅れて耳の奥に戻ってくる。銀器の触れる音。母の声。父が新聞を畳む音。兄が何かを確認する時の短い返事。


「アガサ」


 名を呼ばれて顔を上げると、フライトは窓の外を見ていた。彼の視線の先、駅の方から小さな旅行鞄を提げた娘が歩いてくる。濃い灰色の外套に、飾りの少ない帽子。顔を少し伏せ、目のふちを赤くして、歩き方まで心細そうに作っていた。

 けれど茶店の前でその娘は足を止め、扉を開けるなり、鞄を床に置いた。


「お嬢様、二日分のお食事、ちゃんと減らしておきました」


 アガサは立ち上がりかけて、椅子の背に指をかけたまま止まった。リルはそのまま胸に手を当て、息を整えるような仕草をしてから、ちらとフライトを見た。


「それから、奥様は最後までお優しかったです。だから余計に出にくかったです」

「リル」

「泣くのは無理でしたので、目は少しこすりました。女中頭さんには、責任を感じているように見えたと思います。奥様から支度金もいただきました。後でお返しになるなら、帳面につけておいてください」


 早口ではなかった。ただ、言うべきことが順番に出てくる。アガサはようやく椅子から離れ、リルの前に立った。


「本当に来てくれたのね」

「行くと言いました」

「怖くなかった?」

「怖かったです。けど、お嬢様を一人で港に出す方がもっと怖いです」


 それは少し怒った声だった。屋敷の廊下では決して出さない声。アガサは何か言おうとして、先にリルの帽子の端が曲がっているのに気付いた。手を伸ばす前に、リルが自分で直す。


「それより、お嬢様。その髪は駄目です」

「髪?」

「はい。港の風でほどけますし、その結い方は屋敷のお嬢様です。座ってください。今直します」


 フライトが黙って席を外し、店の女から水差しと手拭いを借りて戻ってきた。リルは礼を言うより先に受け取り、アガサを窓から少し離れた椅子に座らせる。手つきはいつもの支度と同じだったが、櫛を通す速度は少し違った。人目を避け、飾りを外し、髪を低い位置でまとめ直す。最後に、持ってきた幅の広いリボンで結び目を押さえた。


「これで少しは旅の人です。まだ綺麗すぎますが、それは仕方ありません」

「リル」

「お嬢様、ここから先は、綺麗なだけでは困ります。船の中で具合が悪くなった時、誰に言うか。荷物をどこに置くか。夜に扉を開けないこと。食べられる時に食べること。その辺りを先に覚えてください」

「はい」


 アガサが素直に返事をすると、リルはそこで初めて少し口を曲げた。


「そこでお嬢様が『はい』と言うのは、よいことです。屋敷では、皆さまそれで安心してしまいましたけど」

「……あなたも、そう思っていた?」

「思っていました。けれど私は、怒る係でしたから」


 フライトが小さく息を漏らした。笑ったわけではない。たぶん、笑いそうになったのを抑えたのだろう。リルはその音を聞き逃さず、すぐに彼の方へ向き直った。


「バンスワン卿。船は」

「夕方の便だ。ワイホトの沿岸船に乗り、途中で商船に移る。客名簿には、私の商会の者として入れてある。アガサはアーシャ・ベル、君はリリア・カース。カースの名を使う許可は取ってある」

「ミリアさんのところは」

「明日の朝、こちらへ着く便で手紙が行く。君が一度そこへ寄ったように見せるためだ」


 リルは目を細めた。疑っているというより、手順を自分の中で組み替えている顔だった。


「では私は、港町に来て、ミリアさんに会えず、別の勤め先を探したことになりますね」

「そうなる」

「お嬢様は」

「私の連れだ。港で合流した遠縁の娘という扱いにしてある。ただし、必要がない限り人前で話さない方がいい」

「分かりました」


 リルは短く答え、鞄を開けた。中には自分の服より、アガサの替えの襟、手袋、簡単な針箱、干した果物を紙に包んだもの、そして小さな瓶が丁寧に詰められていた。


「これは?」

「船で気分が悪くなった時の香りです。奥様のお部屋からではなく、台所の方からもらってきました。あと、柔らかいパンもあります。お嬢様、今のうちに少し食べてください」

「今?」

「今です。戻らないと決めた人は、食べる時に食べます」


 アガサは言われるまま、リルの差し出した紙包みを受け取った。パンは少し潰れていたが、手でちぎるとまだ柔らかかった。口に入れる。味はほとんど分からない。それでも喉を通ると、体が自分のものに戻ってくるようだった。

 フライトはその様子を見てから、懐中時計を開いた。


「あと一刻ほどで、桟橋へ向かう。アガサ、もう一度だけ聞く。ここからなら、まだ列車に戻れる」

「戻りません」


 アガサの返事に、リルの手が止まった。フライトも、時計の蓋を閉じるまでにわずかに間を置いた。


「君の家へ知らせを入れるなら、私がする。君の名を守るために、できることはする」

「はい」

「だが、船に乗れば、君の家は私を許さないだろう」

「父は、まず手順を考えると思います。母は、先のことを考えます。兄は、外にどう伝えるかを考えます。キャリーは怒るかもしれません。エルクは……」


 そこでアガサは少しだけ目を伏せた。


「エルクは、たぶん、絵を描きます」


 リルは何も言わず、包みを畳んだ。フライトは窓の外へ目をやる。港では、荷を積み終えた船の上で男が帽子を振っていた。別の船からは、太い縄が桟橋へ投げられる。木箱が滑り、馬が鼻を鳴らし、茶店の女が空いたカップをトレイに載せて運んでいく。

 アガサはカップを持ち上げ、冷めかけた茶を飲んだ。屋敷の茶より渋く、香りも荒い。けれどソーサーへ戻す時、指は震えなかった。


「行きましょう」


 最初に立ったのはアガサだった。

 フライトが代金を置き、リルが鞄を持つ。店の扉を出ると、潮風が三人の間を抜けた。アガサの結い直された髪は乱れず、リルの外套の裾だけが大きく揺れる。桟橋へ続く石畳は濡れていて、馬車の車輪跡に薄く海水が溜まっていた。

 フライトはそこでようやく手を差し出した。アガサはその手を見て、それから自分の足元を見た。石畳のすき間を越えるには、助けがあった方がいい。


「お願いします」


 彼の手に、手袋越しの指を預ける。長くは握らない。けれど離した後も、掌の形だけは残った。

 リルが後ろから言った。


「お嬢様、船に乗ったらまず座る場所を決めます。窓際は駄目です。風が強いですから」

「はい」

「それから、知らない方に話しかけられても、にこにこしすぎないでください」

「はい」

「……そこは、少しだけ練習しましょう」


 アガサは思わずリルを見た。リルは真面目な顔で、しかし鞄を持つ手に力を入れ直している。フライトが先を見ながら、少しだけ肩を揺らした。

 船の影が、桟橋の上に落ちていた。


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