20 リル――出ていく日
「あなたがいなくなると、アガサのものを分かる者が減ります」
「イーシャさんがおります」
「あなたほどではないでしょう」
「ですが、わたくしでは、今はお役に立てません」
奥様が屈んだ気配がした。
「リル、あなたは何か知っているの?」
来た。
来ると思っていた問いなのに、指が膝の上で動きそうになった。押さえても、手袋の下で、爪がまた当たる。
「お嬢様がお出になると知っていたのか、ということでしょうか」
「ええ」
「知りませんでした」
嘘だ。
けれど、知らなかったこともある。
お嬢様が本当に家を出る日を、前の夜まで知らなかった。船の手配をどこまでバンスワン卿が済ませているのかも知らなかった。お嬢様が最後に何を部屋に残すつもりだったのかも知らなかった。
だから、全てを知っていたわけではない。
「では、どこへ行ったかは」
「分かりません」
これも半分は本当だ。
今この時、お嬢様が港へ無事着いているかどうか、わたしには分からない。列車に乗れたか、バンスワン卿と落ち合えたか、道で具合が悪くなっていないか。分からないことばかりだ。
「リル」
奥様の声が近い。
「もし、あとから何か思い出したら、知らせてちょうだい」
「はい」
ーー知らせない。
そう思いながら、礼をした。
奥様はしばらくそのまま黙っていた。やがて机へ戻り、封筒を手に取る。
「支度金よ。今までありがとう」
「そのような」
「長く仕えてくれました。責められて出て行く形にはしたくありません」
「奥様」
今度は本当に、言葉が止まった。
優しい。
本当に、優しい方なのだ。
だから困る。お嬢様が何も《《言えなくなった》》理由の半分は、この優しさなのだと思うと、どうしていいか分からない。
「ありがとうございます」
頭を下げる。床に落ちた光が少しぼやけた。涙が少しこぼれる。
よかった。これなら、出て行く女中としては自然だ。
「ミリア・カースのところへ着いたら、一度知らせなさい」
「はい」
「身体に気をつけて」
「はい」
「リル」
「はい、奥様」
「アガサが戻ったら、あなたのことを伝えます」
わたしは息を吸う。
ーーお嬢様は戻らない。
言ってはいけない。言えば全部終わる。
「ありがとうございます」
礼をして、部屋を下がった。
*
女中部屋へ戻ると、鞄は机の下にそのままあった。誰も触っていない。
イーシャさんが廊下の端に立っていたので、下の子達は近づかなかったのだろう。
「済んだ?」
「はい」
「支度金は」
「いただくことになりました」
「そう。帳面につけておきなさい」
イーシャさんはそう言って、小さな紙をわたしに渡した。
「ミリア・カースの下宿屋までの道。書いたのは厨房の下働きの兄よ。港で荷運びをしていたことがある」
「ありがとうございます」
「信じすぎないこと。道は変わるし、人も変わる」
「はい」
「あなた船には?」
「まだ。乗ったことがありません」
「それでいい。知らないことは知らないと言いなさい。港の女に聞きなさい。あと、男に聞くなら、二人以上いるところで聞きなさい」
「はい」
イーシャさんはわたしの襟元を見る。
手を伸ばし、ほんの少し曲がっていた襟を直す。
「最後まで侍女らしく行きなさい」
「はい」
「それから、港へ着いたら食べること。お嬢様にも食べさせること。恋だの決意だのは、空腹に負ける」
「はい」
思わず笑いそうになった。今度は、少しだけ笑った。
「何」
「いえ。お嬢様も、そう言われたら召し上がると思います」
「なら言いなさい。あんたが言わないで誰が言うの」
わたしは鞄を持った。思っていたより軽い。これで足りるのか、足りないのか分からない。
けれど、持てないほど重い鞄ではお嬢様のそばを走れない。
女中部屋を出る前に、机の上を見た。櫛、針山、使いかけの糸、古いリボン。どれも置いていく。戻るつもりのある部屋に見える。そう見えるようにしておいた。
廊下へ出ると、屋敷の音がした。遠くの掃除、食器を重ねる音、誰かの小さな笑い声。
いつもの朝と同じだ。お嬢様がいない朝なのに。
玄関ではなく、使用人用の出入り口へ向かう。
途中で一度だけ、階段の上を見た。お嬢様の部屋へ続く方だ。行けば、まだ何か残っているかもしれない。髪に使ったリボン、読みかけの本、机の上に置かれたペン。
けれどやめた。行けば、戻れなくなるのはわたしの方だ。
外へ出ると、空気が冷たかった。馬車置き場の方から、干し草の匂いがする。門までは少し距離がある。歩き出すと、鞄の中で針箱が小さく鳴った。
門番がわたしを見て、帽子に手をやった。
「行くのか、リル」
「ええ」
「気をつけろよ」
「ありがとう」
門の外へ出る。振り返らないつもりだったのに、少しだけ振り返ってしまった。
ディラクール家の屋敷は、いつも通りそこにあった。窓も壁も庭も、何も変わっていない。わたし一人が出て行くくらいでは、屋敷は何も困らない。
でも、お嬢様はもうあの中にいない。
そう思った時、庭の端で動くものがあった。
庭番のセム爺が、剪定鋏を腰に下げたまま立っていた。隣にはエルク様がいる。いつもの上着を着て、片手に小さなスケッチ帳を抱えていた。
見送りに来る場所ではない。使用人用の門から少し離れた、生垣の切れ目だ。屋敷の窓からは見えにくい。けれど、庭へ出る者なら必ず通る道が見える。
セム爺は何も言わなかった。ただ、帽子を取った。
わたしは足を止めた。メイドとして礼を返すべきか、それとも見なかったことにして行くべきか、迷った。
先に動いたのはエルク様だった。小さく手を上げる。子供が友達にするような振り方ではない。けれど主人筋の方が使用人にする合図としては、少し軽すぎた。
「リル」
声は届いた。門番には聞こえなかったかもしれない。
「はい、エルク様」
「姉上は、白い靴では歩けないと思う」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
セム爺が横で咳払いをする。
「坊ちゃん、そういうのは相手が困りますぜ」
「そうかな」
「そうです」
エルク様はスケッチ帳を抱え直した。
「じゃあ、青いものと一緒に」
わたしは鞄の持ち手を握った。
青いもの。
お嬢様が鞄に入れた、少し古い旅用のリボンがあった。白いドレスには合わないからと、奥様があまりお好みでなかった色。
けれど、お嬢様がワイホトからの絵葉書を読む時、机の上によく出していた。
「……お伝えできれば、そういたします」
「伝えなくていい。たぶん持ってる」
エルク様はそう言った。
わたしは、頭を下げた。今度は女中の礼ではなく、もう少し深く。
「セムさん」
「何だい」
「奥様には」
「庭の手入れをしていただけですな」
「エルク様は」
「庭を描いていただけですな」
「そうですか」
「そういうことです」
セム爺は帽子をかぶり直した。エルク様は、まだこちらを見ている。見ているというより、たぶん、わたしの後ろにある道の色を覚えている。
「リル」
「はい」
「姉上に、言わなくていいけど」
エルク様は、スケッチ帳の角を指で押さえた。
「僕は、淡い色じゃないと思ってた」
わたしは返事をしなかった。返事をすると、声が崩れそうだった。
代わりに、鞄を持つ手を変えた。右から左へ。空いた右手で、エプロンの裾を少しつまみ、もう一度礼をする。
それから歩き出す。
背中に、庭の土の匂いが残っていた。馬車の停まる通りへ出るまで、もうわたしは振り返らなかった。




