19 リル――お暇をいただきたく
イーシャさんに「目をこすりすぎないように」と言われたので、わたしは一度だけでやめた。
それでも、鏡を見ると少し赤い。
泣いたように見えるかどうかは分からない。泣くのは苦手だ。怒る方がずっと簡単。怒っている時の方が背筋も伸びる。
けれど今日は、怒ってはいけない。責任を感じて、奥様に暇を願い出る女中でなければならない。
わたしは鏡の前で、もう一度エプロンの紐を結び直した。
結び目はいつも通り。曲がっていない。そこまで崩す必要はない。お嬢様に仕える者として、最後までだらしなく見えるのは嫌だった。
机の下には、小さな鞄を置いてある。中には着替え、替えの襟、手袋、針箱、イーシャさんから渡された紙包み、それからお嬢様に頼まれたものが少し。多すぎると怪しまれる。少なすぎると港町で困る。何度も入れ直して、結局、鞄のふくらみは普段の里帰りより少し小さいくらいにした。
――アガサお嬢様は、もう屋敷にいない。
その事実を考えると、胸より先に腹のあたりが熱くなる。
誰かが今この瞬間にもお嬢様を「かわいそうに」「気が高ぶって」「戻れば」と言っているかもしれないと思うと、手元の櫛をへし折りたくなる。
駄目だ。櫛は高い。お嬢様の髪に使っていたものではないが、物に当たるのは下の子に示しがつかない。
わたしは櫛を机に置き、両手を前で重ねた。
「奥様に、お目通りをお願いいたします」
声に出して練習する。丁寧に。少し低く。喉に怒りを乗せない。
「責任を感じております。お暇をいただきとうございます」
――違う。これは本当すぎる。
責任は感じている。お嬢様をお一人で家を出るところまで追い詰めたことに。お嬢様が何年も「戻りません」と言う日を心のどこかで待っていたくせに、その日が来るまで何もできなかったことに。
けれど、奥様に《《見せる責任》》はそれではない。
「お嬢様のお具合を、わたくしが見誤りました」
言ってみる。
これなら通る。嘘ではない。見誤ったのだ。
お嬢様がどれほど本気か、最後の日まで分かっていなかった。
分かっていたつもりだった。あの方は穏やかに微笑んで、いつもの声で「リル、お願いがあるの」とおっしゃった。
その時、足元の床が抜けたように感じた。あの方は、頼み事の前にわたしの名を呼んだ。いつもより静かに。けれど、決してその声は弱くはなかった。
「わたくしの不注意でございます」
これも嘘ではない。
不注意だった。お嬢様が部屋の小物を少しずつ減らしていたことに気づきながら、すぐに訊かなかった。
旅行記の間に挟んでいた古い地図が消えたことにも、見たその日に問いたださなかった。ワイホトからの手紙を箱ごと移した時、何も言わなかった。
言わなかったのは、聞くのが怖かったからだ。
聞けば、手伝うしかなくなる。
そして今、わたしは手伝っている。
*
奥様の部屋へ向かう廊下は、いつもより長かった。
途中でキャリー様と行き会った。キャリー様はわたしを見ると、足を止めた。
「リル」
「はい、キャリー様」
「本当に辞めるの?」
まっすぐ訊かれた。こういうところはキャリー様らしい。奥様や旦那様より、ずっと早く本題へ来る。
「はい。責任を感じておりますので」
「それ、本当?」
「はい」
キャリー様は眉を寄せた。
「あなた、責任を感じると怒るでしょう」
「……恐れ入ります」
それを言われるとは思わなかった。少しだけ目を伏せる。目を伏せると、叱られている女中に見える。たぶん。
「お姉様は、あなたに何か言った?」
「お嬢様は、お出になる前、特に」
「特に?」
しまった、と思った。キャリー様は拾う。
「お具合が悪いとおっしゃっておりました」
「それだけ?」
「はい」
嘘ではない。お嬢様はお具合が悪いとおっしゃっていた。食事を下げる時、そう言うようにとわたしに命じた。だからこれは、お嬢様の言葉だ。
キャリー様はわたしをじっと見る。視線を受けても、顔を上げない。女中は主人筋の娘をまっすぐ見返さない方がいい時がある。
「リル」
「はい」
「お姉様が本当に戻らない気なら、あなたは止めた?」
返事がすぐ出なかった。
――止める。
お嬢様の前に立つ。扉を塞ぐ。奥様を呼ぶ。旦那様に知らせる。
そうすれば、たぶん家はお嬢様を止めた。婚約のことを話し合い、静養先を決め、評判を守り、リルはよく知らせたと褒められたかもしれない。
けれど、その後のお嬢様は。
「……わたくしは、使用人でございます」
ようやく、口が動いた。
「止めるべき時は、止めます」
「今回は?」
「……間に合いませんでした」
これも嘘ではない。
キャリー様は何か言いかけたが、廊下の向こうから女中頭が来るのが見えたせいか、口を閉じた。
「そう」
その一言だけ残して、キャリー様は行ってしまった。
わたしは廊下に立ったまま、重ねた指に力を入れる。爪が手袋の内側に当たる。少し痛いくらいでちょうどいい。
*
奥様は、小さな書き物机の前にいらした。
窓の近くに置かれた机で、光がよく入る。お嬢様の部屋より明るい。白い花を活けた花瓶が、端に寄せてあった。水は替えたばかりなのか、硝子の内側に細かな泡がついている。
「リル」
奥様の声は低い。けれど、わたしを責めるための声ではなかった。
「はい、奥様」
礼をする。
「イーシャから聞きました。港町に、乳母の知り合いがいるそうね」
「はい。ミリア・カースと申します。母の古い知り合いで、下宿屋に勤めております」
「そこへ行くつもりなの」
「はい」
奥様は机の上の封筒に指を置いた。封はまだされていない。
「責任を感じていると聞きました」
「はい」
言葉は短く。余計なことは足さない。足せば、そこから露わになる。
「リル、あなたを責めたいのではありません」
「存じております」
「アガサは、あなたを信頼していました」
「……はい」
そこだけ、声が少し詰まる。
奥様がそれをどう受け取ったのかは分からない。たぶん、責任を感じているとして聞いたのだろう。それでいい。そう聞こえるようにしたのだから。
「だからこそ、あなたがそばにいてくれればと思っていました」
「申し訳ございません」
「アガサが戻った時、あなたがいないと、あの子は心細いのではないかしら」
その言葉は、少しずるい。
奥様に悪気はない。分かっている。けれど、お嬢様が戻ることを前提にして、わたしをそこに巻き込もうとなさる。
戻った後のお嬢様。休ませるお嬢様。親戚の屋敷へ移すお嬢様。縁談を考え直すお嬢様。
そこに、お嬢様が「戻りません」とわたしが言った場合の姿はない。
わたしは膝を床に目を落とす。
「わたくしは、お嬢様のお具合を見誤りました」
床の模様を見る。磨かれた木の上に、窓の光が細長く落ちている。
「お食事をお持ちした時も、休まれれば戻られるものと思っておりました。お嬢様がどれほど思い詰めていらしたか、気づけませんでした」
「リル」
「おそばにおりましたのに」
これは、本当だ。
言っているうちに、本当に喉が詰まってきた。泣けないと思っていたのに、声が勝手に落ちる。奥様の衣擦れが聞こえた。近づいてくる。
「顔を上げて」
「いいえ」
上げられない。上げたら、怒りまで出る。
「わたくしは、お屋敷に残れば、皆様にお気遣いをいただいてしまいます。けれど、その度にお嬢様のお姿がないことを思い出します。どうか、お暇をいただけませんでしょうか」
奥様は、すぐには答えてくれない。
窓の外で、鳥が鳴いた。廊下を誰かが通る足音もする。




