表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
失踪令嬢の恋愛~どうして誰も気付かなかったのか?  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/35

18 イーシャ――メイド――白いものは目立つ

 リルがあたしの部屋へ来たのは、アガサお嬢様がお姿を消す二日前の夜だった。


 その時あたしは、使用人部屋の隅で、ほつれたエプロンの紐を縫い直していた。

 人に任せてもよかったが、自分のものは自分で直した方が早い。そういうところを見られると、下の子達はまた「イーシャさんは何でも自分でやってしまう」と言う。

 何でもではない。人に任せると、どこを見ればいいかまで教えなくてはならないから面倒なだけだ。

 ふと、扉を叩く音がした。


「お入りよ」


 顔を出したリルは、いつものように背筋を伸ばしている。けれど、両手でエプロンの前を押さえていた。

 叱られに来た子供の格好だ。あの子はもう子供ではないが、困ると昔からああなる。


「イーシャさん」

「何」

「少し、お話があります」

「なら座りなさい。立ったままだと、話が大きく見える」


 リルは素直に椅子へ座った。あたしは針を布に刺し、糸を短く引いた。


「お嬢様のこと?」

「はい」


 返事は早かった。やっぱりね、と思った。

 リルはアガサお嬢様の侍女だ。乳姉妹ではないが、それに近い育ち方をしている。

 お嬢様の朝の髪、夜の寝間着、月の具合、食べられるもの、食べられないもの、どの手紙をすぐ開けて、どの手紙を机に置いたまま窓を見るか。そういうものを、あの子は全部見てきた。

 そして見たものを、誰かに告げる子ではなかった。


「お嬢様が、お屋敷を出たいとおっしゃいました」

「いつ」

「今朝です」

「行き先は」

「港です」

「おひとりで?」

「いいえ」


 リルはそこで口を閉じた。言えば、あたしも巻き込まれる。言わなければ、あたしは何も知らないままで済む。そう考えているのが分かった。

 甘い子だ。


「バンスワン卿ね」

「どうして」

「どうして、じゃないわよ。お嬢様がワイホトからの手紙を読む時、あんた、毎回顔に出ていたもの」

「わたしがですか」

「あんたが」


 リルはひどく不服そうに眉を寄せた。


「お嬢様ではなく?」

「お嬢様は上手よ。上手に見せようとなさる。けど、あんたはお嬢様が手紙を読む間、やけに静かになる。部屋の外にいる時まで静かになる。廊下の角で、下の子が花瓶を落とした時に怒鳴り込んできたくせに、あの手紙の日だけは叱る声も小さい」


 リルは両手を膝の上に置いた。指先が白い。


「あれは、見れば分かるのですか」

「女中は見るのが仕事よ」

「旦那様や奥様は」

「旦那様や奥様は、見るものが違う」


 言ってから、少しだけ針を止めた。

 旦那様は悪い方ではない。奥様も、お嬢様をどうでもいいと思っているわけではない。

 けれど、あの方々はお嬢様を見る時、いつも先に家を見ている。婚約を見ている。評判を見ている。戻ってきた後のことを見ている。

 お嬢様が便箋を選ぶ指先までは、見ない。


「イーシャさん」

「何」

「わたしは、お嬢様について行こうと思います」

「そう」


 あたしはエプロンの紐を縫い終え、糸を切った。


「止めないのですか」

「止めてほしいの?」

「いいえ」

「なら訊かない」


 リルはうつむいた。膝に置いた指が、エプロンを小さくつまんでいる。


「あの方が、戻れなくなります」

「あんたがついて行かなくても、お嬢様が出るなら戻れなくなるわ」

「わたしが手伝えば、もっと」

「ええ。だから、下手な手伝い方をしないことね」


 リルは顔を上げる。あたしは立ち上がり、棚から小さな紙包みを出した。針、糸、替えのボタン、細い紐、畳める布、乾かした果物、胃にやさしい薬草。

 旅支度というほど立派なものではないが、女が急に家を出る時、これがあるのとないのとでは違う。


「持って行きなさい」

「イーシャさん」

「お嬢様の荷物に入れると目立つ。あんたの荷物に入れなさい」

「なぜ、用意が」

「いつか誰かが使うと思っていたのよ」


 嘘ではない。女中の仕事を長くしていると、泣きながら実家へ戻る娘も、男と逃げようとして失敗する娘も、親の決めた奉公先からさらに別の家へ移される娘も見る。

 きれいな屋敷の中にも、逃げ道を考える女はいる。考えたことがない女の方が少ない。


「バンスワン卿は、本当にお嬢様を」

「それはあたしに訊くことじゃない」

「でも」

「けれど、手紙は長く続いた。贈り物は高すぎず、安すぎず、使えるものが多かった。お嬢様が婚約している間も、踏み込んだ会話は避けていた。そこまでは見たわ」


 リルは黙って聞いていた。


「男の本心までは知らない。でも、軽い男ならもっと分かりやすく雑にやる」

「雑」

「そう。花束が大きすぎる。香水が強すぎる。宝石が高すぎる。言葉が甘すぎる。そういうものは、家の者に見せるための恋よ。あの方の手紙は違った」


 あたしは紙包みをリルの膝に置く。


「あんたは、お嬢様を攫わせるんじゃない。お嬢様が歩けるように、靴を履かせる。それだけは間違えないように」

「はい」


 リルの返事は小さかった。


「それから、奥様には最後まで嘘をつきなさい」

「奥様に」

「そう。奥様は優しい。優しいから厄介なのよ。泣かれたら、あんたは負ける」

「……はい」

「責められた顔はしないで。あんたはすぐ腹が立つから、無理が出るんだ。責任を感じているようにしておきなさい」

「責任は感じています」

「それでいいわ。それだけ出しなさい。怒りはしまっておくの」


 リルは紙包みを両手で持つ。まるで祈祷書でも受け取ったみたいだった。針と干した果物と薬草なのに。


「イーシャさんは、どうして旦那様や奥様におっしゃらないのですか」

「お嬢様がバンスワン卿をお好きだと?」

「はい」

「言ったら、どうなると思う?」

「……縁談の障りになります」

「旦那様は、婚約の整理をお考えになる。奥様は、お嬢様のお気持ちを落ち着かせようとなさる。ラリー様は外への説明を考える。皆様それぞれ、《《お嬢様のために》》動くでしょうね」


 あたしは、縫い直したエプロンを畳んだ。


「けれど、その時、お嬢様の恋は、お嬢様のものではなくなる」

「はい」

「だから言わなかった」


 リルはうなずいた。

 目元が少し赤い。泣くなら今にしておきなさい、と言いかけてやめた。あの子は泣くより怒る方が楽な子だ。無理に泣かせても、明日の朝に目が腫れるだけだ。


「リル」

「はい」

「船に乗ったことは?」

「ありません」

「なら、知っている人に聞きなさい。知ったかぶりはおよし。港の女はそういうのをすぐ見抜くわ」

「はい」

「カースという名前を使うなら、そこへ辿り着ける道を確認すること。名前だけ借りると、途中で駄目になる」

「ミリア・カースのところへは、港町で確認します」

「確認だけでは足りないよ。返事を貰いなさい。紙が無理なら、誰に聞けばいいかまで」

「はい」


 返事をするたび、リルの背筋が少しずつしゃんとしていく。

 こういうところは頼もしい。叱ると腹を立てるが、必要なことなら飲み込む。だからお嬢様のそばに置かれていたのだろう。


「お嬢様には、何か言っておきますか」


 リルに訊かれ、あたしは少し考える。

 言いたいことはいくつもある。食事を抜くな。濡れた髪で眠るな。知らない男に荷物を持たせるな。船では荷を体から離すな。便箋より下着の替えを多く持て。

 けれど、それはリルが言えばいい。


「お嬢様にお伝えして」


 あたしは針山に針を戻した。


「帰る場所を捨てるなら、行く場所を人任せにしてはいけません、と」

「はい」

「それから」

「はい」

「好きな人のところへ行くなら、ちゃんと食べなさい。倒れたら、恋どころではありません」

「……それは、必ず」


 リルの口元が少し動いた。笑いかけて、やめたのだと思う。そこはやめなくてもよかったのに。


 *


 アガサお嬢様がお姿を消した翌日、あたしは奥様に呼ばれた。


 ――リルが暇を取りたいと言い出した。責任を感じているらしい。長く仕えた娘だから支度金を持たせてやりたい。港町に乳母の知り合いがいると言うが、確認を取れるか。


 奥様はそうおっしゃった。

 あたしは頭を下げた。


「わたくしが確認いたします」


 外では、わたくし。声も少しだけ低くする。

 長く屋敷にいるメイドは、余計なことを知っていそうに見えるだけで損をする。

 知っていることと、話すことは別だ。そこを間違えた者は長く残れない。


「……イーシャ」

「はい、奥様」

「リルは、本当に責任を感じているのでしょうか」


 奥様の声は柔らかい。

 ああ、リル。本当に奥様は優しい。優しい素振りで逃げる方の足に絡んでくる。


「はい。お嬢様にお仕えしておりましたので」

「責めたいわけではないのです」

「存じております」


 奥様は窓の方へ目を向けた。

 庭には白い花が咲いている。アガサお嬢様が好きだった花だと、屋敷の者は皆知っている。花の名を本当に覚えている者は、その半分もいない。


「アガサは、リルに何か言っていたのかしら」

「お嬢様は、ご自分のことを多く話される方ではございませんでした」

「そうね」


 奥様はすぐにそう言った。すぐに言えるくらいには、ご存じだったのだ。

 それでも、届かなかった。


「ですが、リルはよくお嬢様を見ておりました」

「ええ」

「ですから、責任を感じたのだと思います」


 嘘ではない。嘘ではない言葉だけを選んだ。こういう時、丸ごとの嘘より、半分残した本当の方が通りやすい。


「ミリア・カースのこと、お願いね」

「かしこまりました」


 あたしはそう言って下がった。


 廊下に出ると、リルが少し離れたところに立っていた。奥様に呼ばれる前だったのだろう。いつもの服で、両手を前に重ねている。

 すれ違う時、あたしは足を止めなかった。


「目をこすりすぎないように」


 小さく言うと、リルの指がほんの少し動いた。


「はい」


 返事は屋敷のメイドのそれだった。よろしい。

 あたしはそのまま廊下を曲がる。

 角を過ぎてから、握っていた手を開く。掌に、さっきまで持っていた小さな糸くずが貼りついていた。エプロンの紐を縫った時の白い糸だ。

 白いものは、すぐ目立つ。

 あたしはそれを丸め、ポケットへ入れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ