18 イーシャ――メイド――白いものは目立つ
リルがあたしの部屋へ来たのは、アガサお嬢様がお姿を消す二日前の夜だった。
その時あたしは、使用人部屋の隅で、ほつれたエプロンの紐を縫い直していた。
人に任せてもよかったが、自分のものは自分で直した方が早い。そういうところを見られると、下の子達はまた「イーシャさんは何でも自分でやってしまう」と言う。
何でもではない。人に任せると、どこを見ればいいかまで教えなくてはならないから面倒なだけだ。
ふと、扉を叩く音がした。
「お入りよ」
顔を出したリルは、いつものように背筋を伸ばしている。けれど、両手でエプロンの前を押さえていた。
叱られに来た子供の格好だ。あの子はもう子供ではないが、困ると昔からああなる。
「イーシャさん」
「何」
「少し、お話があります」
「なら座りなさい。立ったままだと、話が大きく見える」
リルは素直に椅子へ座った。あたしは針を布に刺し、糸を短く引いた。
「お嬢様のこと?」
「はい」
返事は早かった。やっぱりね、と思った。
リルはアガサお嬢様の侍女だ。乳姉妹ではないが、それに近い育ち方をしている。
お嬢様の朝の髪、夜の寝間着、月の具合、食べられるもの、食べられないもの、どの手紙をすぐ開けて、どの手紙を机に置いたまま窓を見るか。そういうものを、あの子は全部見てきた。
そして見たものを、誰かに告げる子ではなかった。
「お嬢様が、お屋敷を出たいとおっしゃいました」
「いつ」
「今朝です」
「行き先は」
「港です」
「おひとりで?」
「いいえ」
リルはそこで口を閉じた。言えば、あたしも巻き込まれる。言わなければ、あたしは何も知らないままで済む。そう考えているのが分かった。
甘い子だ。
「バンスワン卿ね」
「どうして」
「どうして、じゃないわよ。お嬢様がワイホトからの手紙を読む時、あんた、毎回顔に出ていたもの」
「わたしがですか」
「あんたが」
リルはひどく不服そうに眉を寄せた。
「お嬢様ではなく?」
「お嬢様は上手よ。上手に見せようとなさる。けど、あんたはお嬢様が手紙を読む間、やけに静かになる。部屋の外にいる時まで静かになる。廊下の角で、下の子が花瓶を落とした時に怒鳴り込んできたくせに、あの手紙の日だけは叱る声も小さい」
リルは両手を膝の上に置いた。指先が白い。
「あれは、見れば分かるのですか」
「女中は見るのが仕事よ」
「旦那様や奥様は」
「旦那様や奥様は、見るものが違う」
言ってから、少しだけ針を止めた。
旦那様は悪い方ではない。奥様も、お嬢様をどうでもいいと思っているわけではない。
けれど、あの方々はお嬢様を見る時、いつも先に家を見ている。婚約を見ている。評判を見ている。戻ってきた後のことを見ている。
お嬢様が便箋を選ぶ指先までは、見ない。
「イーシャさん」
「何」
「わたしは、お嬢様について行こうと思います」
「そう」
あたしはエプロンの紐を縫い終え、糸を切った。
「止めないのですか」
「止めてほしいの?」
「いいえ」
「なら訊かない」
リルはうつむいた。膝に置いた指が、エプロンを小さくつまんでいる。
「あの方が、戻れなくなります」
「あんたがついて行かなくても、お嬢様が出るなら戻れなくなるわ」
「わたしが手伝えば、もっと」
「ええ。だから、下手な手伝い方をしないことね」
リルは顔を上げる。あたしは立ち上がり、棚から小さな紙包みを出した。針、糸、替えのボタン、細い紐、畳める布、乾かした果物、胃にやさしい薬草。
旅支度というほど立派なものではないが、女が急に家を出る時、これがあるのとないのとでは違う。
「持って行きなさい」
「イーシャさん」
「お嬢様の荷物に入れると目立つ。あんたの荷物に入れなさい」
「なぜ、用意が」
「いつか誰かが使うと思っていたのよ」
嘘ではない。女中の仕事を長くしていると、泣きながら実家へ戻る娘も、男と逃げようとして失敗する娘も、親の決めた奉公先からさらに別の家へ移される娘も見る。
きれいな屋敷の中にも、逃げ道を考える女はいる。考えたことがない女の方が少ない。
「バンスワン卿は、本当にお嬢様を」
「それはあたしに訊くことじゃない」
「でも」
「けれど、手紙は長く続いた。贈り物は高すぎず、安すぎず、使えるものが多かった。お嬢様が婚約している間も、踏み込んだ会話は避けていた。そこまでは見たわ」
リルは黙って聞いていた。
「男の本心までは知らない。でも、軽い男ならもっと分かりやすく雑にやる」
「雑」
「そう。花束が大きすぎる。香水が強すぎる。宝石が高すぎる。言葉が甘すぎる。そういうものは、家の者に見せるための恋よ。あの方の手紙は違った」
あたしは紙包みをリルの膝に置く。
「あんたは、お嬢様を攫わせるんじゃない。お嬢様が歩けるように、靴を履かせる。それだけは間違えないように」
「はい」
リルの返事は小さかった。
「それから、奥様には最後まで嘘をつきなさい」
「奥様に」
「そう。奥様は優しい。優しいから厄介なのよ。泣かれたら、あんたは負ける」
「……はい」
「責められた顔はしないで。あんたはすぐ腹が立つから、無理が出るんだ。責任を感じているようにしておきなさい」
「責任は感じています」
「それでいいわ。それだけ出しなさい。怒りはしまっておくの」
リルは紙包みを両手で持つ。まるで祈祷書でも受け取ったみたいだった。針と干した果物と薬草なのに。
「イーシャさんは、どうして旦那様や奥様におっしゃらないのですか」
「お嬢様がバンスワン卿をお好きだと?」
「はい」
「言ったら、どうなると思う?」
「……縁談の障りになります」
「旦那様は、婚約の整理をお考えになる。奥様は、お嬢様のお気持ちを落ち着かせようとなさる。ラリー様は外への説明を考える。皆様それぞれ、《《お嬢様のために》》動くでしょうね」
あたしは、縫い直したエプロンを畳んだ。
「けれど、その時、お嬢様の恋は、お嬢様のものではなくなる」
「はい」
「だから言わなかった」
リルはうなずいた。
目元が少し赤い。泣くなら今にしておきなさい、と言いかけてやめた。あの子は泣くより怒る方が楽な子だ。無理に泣かせても、明日の朝に目が腫れるだけだ。
「リル」
「はい」
「船に乗ったことは?」
「ありません」
「なら、知っている人に聞きなさい。知ったかぶりはおよし。港の女はそういうのをすぐ見抜くわ」
「はい」
「カースという名前を使うなら、そこへ辿り着ける道を確認すること。名前だけ借りると、途中で駄目になる」
「ミリア・カースのところへは、港町で確認します」
「確認だけでは足りないよ。返事を貰いなさい。紙が無理なら、誰に聞けばいいかまで」
「はい」
返事をするたび、リルの背筋が少しずつしゃんとしていく。
こういうところは頼もしい。叱ると腹を立てるが、必要なことなら飲み込む。だからお嬢様のそばに置かれていたのだろう。
「お嬢様には、何か言っておきますか」
リルに訊かれ、あたしは少し考える。
言いたいことはいくつもある。食事を抜くな。濡れた髪で眠るな。知らない男に荷物を持たせるな。船では荷を体から離すな。便箋より下着の替えを多く持て。
けれど、それはリルが言えばいい。
「お嬢様にお伝えして」
あたしは針山に針を戻した。
「帰る場所を捨てるなら、行く場所を人任せにしてはいけません、と」
「はい」
「それから」
「はい」
「好きな人のところへ行くなら、ちゃんと食べなさい。倒れたら、恋どころではありません」
「……それは、必ず」
リルの口元が少し動いた。笑いかけて、やめたのだと思う。そこはやめなくてもよかったのに。
*
アガサお嬢様がお姿を消した翌日、あたしは奥様に呼ばれた。
――リルが暇を取りたいと言い出した。責任を感じているらしい。長く仕えた娘だから支度金を持たせてやりたい。港町に乳母の知り合いがいると言うが、確認を取れるか。
奥様はそうおっしゃった。
あたしは頭を下げた。
「わたくしが確認いたします」
外では、わたくし。声も少しだけ低くする。
長く屋敷にいるメイドは、余計なことを知っていそうに見えるだけで損をする。
知っていることと、話すことは別だ。そこを間違えた者は長く残れない。
「……イーシャ」
「はい、奥様」
「リルは、本当に責任を感じているのでしょうか」
奥様の声は柔らかい。
ああ、リル。本当に奥様は優しい。優しい素振りで逃げる方の足に絡んでくる。
「はい。お嬢様にお仕えしておりましたので」
「責めたいわけではないのです」
「存じております」
奥様は窓の方へ目を向けた。
庭には白い花が咲いている。アガサお嬢様が好きだった花だと、屋敷の者は皆知っている。花の名を本当に覚えている者は、その半分もいない。
「アガサは、リルに何か言っていたのかしら」
「お嬢様は、ご自分のことを多く話される方ではございませんでした」
「そうね」
奥様はすぐにそう言った。すぐに言えるくらいには、ご存じだったのだ。
それでも、届かなかった。
「ですが、リルはよくお嬢様を見ておりました」
「ええ」
「ですから、責任を感じたのだと思います」
嘘ではない。嘘ではない言葉だけを選んだ。こういう時、丸ごとの嘘より、半分残した本当の方が通りやすい。
「ミリア・カースのこと、お願いね」
「かしこまりました」
あたしはそう言って下がった。
廊下に出ると、リルが少し離れたところに立っていた。奥様に呼ばれる前だったのだろう。いつもの服で、両手を前に重ねている。
すれ違う時、あたしは足を止めなかった。
「目をこすりすぎないように」
小さく言うと、リルの指がほんの少し動いた。
「はい」
返事は屋敷のメイドのそれだった。よろしい。
あたしはそのまま廊下を曲がる。
角を過ぎてから、握っていた手を開く。掌に、さっきまで持っていた小さな糸くずが貼りついていた。エプロンの紐を縫った時の白い糸だ。
白いものは、すぐ目立つ。
あたしはそれを丸め、ポケットへ入れた。




