15 ビリー・ディラクール――次兄――本当に淡い色だったのか
アガサが朝食の席に来なくなってから、四日目の朝。
その席は、誰も触らない家具みたいになっていた。
ナプキンは置かれている。椅子もある。カップもソーサーも、いつも通りに並べられる。
けれど給仕はそこへ茶を注がない。
母上は一度だけそちらを見るが、すぐラリー兄上の方へ話を向ける。
父上は新聞を開いているものの、文字を追っているようには見えない。
キャリーは黙ってパンにナイフを入れていたし、エルクは果物の煮たものを皿の上で崩している。
僕は、アガサの席の前に置かれた空のカップを見ていた。
「ビリー」
ラリー兄上に呼ばれて、顔を上げる。
「昨日頼んだ港町の知人への確認だが、昼までに返事が来るか」
「早ければ。ただ、向こうも港の船名簿をすぐ見せてくれるとは限らないよ。女連れの旅行者を一人ずつ覚えているわけじゃないし」
「覚えていないなら、覚えていないという返事でいい」
兄上らしい言い方だった。必要な空欄には、空欄の名札を貼る。それで帳面は進む。
「リルの方は?」
母上の声が入った。僕ではなく、女中頭に向けた声だった。食堂の端に控えていた女中頭が、静かに頭を下げる。
「ミリア・カースという女の所在は確認いたしました。港町の下宿屋に勤めております」
「リルはそこへ行ったのですか」
「まだ、本人が着いたという知らせはございません」
「そう」
母上はそれ以上言わず、皿の端に残ったパン屑をナイフの背で寄せた。
リルは責任を感じて暇を取った。外にはそう伝えることになっている。長く仕えた娘なので支度金も持たせた。母上はそう決めた。父上も、疑われ続ける者を屋敷に置くのはよくないと判断した。兄上は、外への説明としても自然だと言った。
――自然。
この家では、自然という言葉がよく使われる。
人から見て不自然でない。家として不自然でない。手順として不自然でない。
アガサがいなくなって四日目の朝には、もう、皆が自然な説明を探していた。
「ビリー、午後にマダラール家から使いが来る」
父上が新聞を畳んだ。
「お前も同席しなさい」
「僕も?」
「ラリーは港の件で出る。キャリーを出す話でもない。エルクは……」
父上の目が弟へ向いた。エルクは皿の上の果物を見たままだった。銀の匙の先に、煮崩れた桃が小さく乗っている。
「エルク」
「はい、父上」
「聞いていたか」
「マダラール家の使いが来る。ラリー兄上が港へ行く。ビリー兄上が同席する」
答えは正しい。けれど、声は遠かった。
「ならいい」
父上は短く言い、また僕へ向く。
「ディオ君の言葉をこちらでも確認する必要がある。彼が何を言ったか、それをアガサがどう受け取ったか。そこに行き違いがあった可能性はある」
「……行き違い」
思わず口の中で繰り返すと、父上の眉が少し動いた。
「何かあるのか」
「いや。ただ、姉上は行き違ったから家を出たのかなと思っただけ」
「他に何がある」
父上の返事は早かった。
僕はカップを手に取った。茶は少し冷めていた。香りはあるのに、口に入れると薄い。
「行き違いなら、戻ってきた後に直せる。けど、アガサがもう戻る気がなかったなら、直す場所が違うと思う」
「ビリー」
母上が名前を呼んだ。叱る声ではなかったが、その先を言わせたくない時の声だった。
「……アガサは今、気が高ぶっているのでしょう。ディオ様のことで…… 戻れば休ませます。親戚のどなたかのお屋敷で、少し静かに過ごせば」
「母上は、戻った後のアガサばかり見ている」
「ビリー」
「ごめんなさい」
母上を傷つけたいわけではなかった。ただ、言葉が先に出てしまったのだ。
食堂の空気が少し固くなる。固くなったことを誰も口にしない。
こういう時、アガサなら小さく笑って、別の話を差し出しただろう。庭の白い花が咲いたとか、昨夜読んだ本に港の話があったとか、エルクの絵の具が服についていたとか。
何でもいい。誰かが責められた形にならないように、手頃な布を掛ける。
僕達は、その布をアガサに掛けさせすぎていたのかもしれない。
「兄上」
キャリーがふいに僕を見た。
「何だ」
「姉上が戻らない気だったら、リルは先に知っていたと思う?」
「思う」
ラリー兄上が答えるより早く、僕が言っていた。キャリーは少し目を大きくしたが、すぐに皿へ視線を落とした。
「そうよね。リルが何も知らないで辞めるとは思えない」
「キャリー」
今度は母上が妹の名を呼んだ。
「リルを疑っているのではありません。ただ、あの子は姉上のことになると、私達よりずっと怒るから」
「怒る?」
父上が訊き返す。キャリーは口を閉じ、パンの端を小さく切った。父上相手には言い過ぎない。それが妹のやり方だ。
僕はエルクを見た。弟はまだ皿を見ている。けれど匙は止まっていた。果物の煮汁が白い皿の上で細い線を引いている。
「エルク」
「何です、兄上」
「お前、アガサの部屋へ行っただろ」
「行きました」
「何か見つけたのか」
「白い部屋でした」
父上がわずかに息を吐いた。キャリーは額に手を当てた。母上は困ったように唇を結んだ。こういう時のエルクの答えは、家族を疲れさせる。
ただ、僕にはそれが、答えを外した言い方には聞こえなかった。
「白いだけ?」
「遠くに青がありました」
「絵の話?」
「たぶん」
エルクはようやく顔を上げた。
弟の目はいつも通り、言葉にできない何かを秘めているかのようだ。
今はそれだけではない。何かを見てしまい、それを言葉にすると壊れると思っている目だった。
「お前、父上に言うことはないのか」
僕が言うと、エルクは父上を見た。それから、ちら、と姉上の空のカップを見た。
「今はありません」
「今は?」
ラリー兄上の声が低くなる。エルクはうなずきもしないで、匙を皿に置いた。
「姉上が見ていた色は、父上達の言う淡い色ではないと思います」
その言葉で、食堂の中が止まった。
淡い色。父上も母上も、姉上をそう呼ぶことがあった。
穏やかで、淡く、優しい娘。
そこには褒め言葉しかないはずだった。僕もそう思っていた。姉上は淡い色のドレスが似合う。淡い声で話す。淡く笑う。
けれど、淡いと思っていたのは、僕達が強い色を姉上に着せなかったからかもしれない。
「エルク」
父上が弟の名を呼んだ。
「それは何の話だ」
「絵の話です」
「比喩ではなく、分かるように言いなさい」
「分かるように言うと、たぶん嘘になります」
キャリーが小さく噴き出しかけて、すぐ口元を押さえた。母上は叱るより先に疲れた顔をした。ラリー兄上は苛立っていたが、父上は弟から目を離さなかった。
僕はその時、アガサがこの席にいたらどうしただろうと考えた。
たぶん、エルクを庇う。けれど庇っているようには言わない。父上に分かる言葉と、エルクに分かる言葉の間に、細い橋をかける。そうやって、誰も落ちないようにする。
その橋を、僕達は当たり前に渡っていた。
「父上」
僕はカップを置いた。
「午後のマダラール家の使いには同席します。その前に、僕はアガサの部屋へ行ってもいいですか」
「何を見に行く」
「アガサがいないことを」
父上はすぐに返事をしなかった。母上が何か言いかけたが、ラリー兄上が先に口を開く。
「余計なものを動かすな」
「動かさない」
「手紙や帳面があれば、父上へ」
「分かってる」
分かっている、と言ってから、本当に分かっているのか自分でも怪しくなった。
何かを見つけたら、それは父上へ渡すべきものなのか。アガサが隠したかったものならどうするのか。
リルが辞めてまで持って行きたかったものがあったなら、それをこちら側の手順に戻していいのか。
答えは出ない。
ただ、アガサの席に茶が注がれない朝を、これ以上ただ眺めているのは嫌だった。
朝食が終わると、皆それぞれの用へ向かった。父上は書斎へ、ラリー兄上は港への手配へ、母上は女中頭を連れて奥へ、キャリーは手紙を書くと言って自室へ戻った。エルクは食堂を出る前に、僕の横で一度止まった。
「ビリー兄上」
「何だ」
「姉上の部屋で、窓を開けるなら気をつけて」
「どうして」
「風が入ると、白いものはすぐ飛びます」
また絵の話か、と言いかけてやめた。エルクはそれだけ言うと、細い肩を少し丸めて廊下を歩いていった。
僕は食堂に残ったアガサのカップを見る。中は空だ。最初から注がれなかったのだから、当然だった。
けれど空のカップは、茶が注がれなかったことを突きつけていた。




