14 エルク・ディラクール――弟――姉上の色
あれは二年前だった。
僕が港の倉庫を描いた時、フライト様が横からのぞき込んで、「君は影を怖がらないね」と言った。
僕は意味が分からず、ただ見えるものを描いただけです、と答えた。
するとあの人は笑って、僕の絵の隅に自分の名を書いた。
――これは未来の図案師殿へ。
父上は笑った。母上も笑った。
図案師など、伯爵家の息子が本気で目指すものではないという笑いだった。
でもアガサ姉上は笑わなかった。フライト様も笑わなかった。
その時から、僕はあの人を少しだけ信用している。
かなり、ではない。かなり信用すると危険だからだ。
僕は絵葉書をもう一度見た。
――いつか、この色を君にも見せたい。
それは兄のような人が、幼い頃から知る娘へ送る言葉だろうか。
分からない。
僕は十六歳だ。大人達の言う恋だの縁談だの婚約だのは、だいたい薄い絹をかけた檻に見える。外からはきらきらしていて、中からは格子が見える。
たぶん僕の年で分かった顔をすると、ビリー兄上あたりに鼻で笑われる。
でも、絵葉書の青は分かる。姉上はこの青を好きだったはずだ。
好きな色を見せたい、と言われたら、人はどうなるだろう。
少なくとも、父上が決めた相手の家の紋章の色を覚える時とは違う顔をするだろう。
僕は顔を覚えている。
フライト様が屋敷に来ていた日の夕方、姉上は階段の踊り場に立っていた。窓から西日が差して、ドレスの裾が薄い金色に染まっていた。姉上はいつも通り静かに立っていた。けれど、その静けさはいつもの客間の静けさではなかった。
水面だ。
風が来る直前の水面。
何かが映るのを待っている顔だった。
その時、僕は描きたいと思った。
でも描かなかった。
あれはたぶん、見てはいけない色だった。
僕は絵葉書を旅行記へ戻そうとして、手を止めた。
戻すべきか。
持っていくべきか。
父上に渡せば、手がかりになる。フライト様が関わっている可能性が出る。
港、海の向こう、絵葉書。点はいくつもある。ラリー兄上ならすぐ並べる。父上ならもっと早く並べる。
並べた後、どうするだろう。
追う。止める。連れ戻す。
それが正しいのかもしれない。
姉上は伯爵家の娘で、家には責任がある。
未婚の令嬢が黙って姿を消すなど、大事件だ。父上ならそう言う。ラリー兄上も言う。母上は戻った後の噂を考える。キャリー姉上はもっと口が速いから、たぶん「変よ」と言う。
――僕は。
僕は絵葉書の青を見た。
あの青は、姉上の部屋のどこにもなかった。
カーテンの薄青とも、ドレスの青とも、父上の商会の印章に使う濃紺とも違う。もっと遠い青。近づくほど深くなり、手を入れたら手首ごと別の世界へ持っていかれそうな青だ。
姉上は、この青へ行ったのかもしれない。
そう思うと、黒い鳥が少し静かになった。
悲しいのに。
不思議と、少しだけ静かになった。
「エルク様」
廊下の向こうで、メイドの声がした。
僕は絵葉書を袖の内側へ滑り込ませた。
手が勝手に動いたのだ。僕は何もしていない。僕の中の黒い鳥がくちばしでくわえた。そういうことにしておく。
「こちらにいらっしゃいますか」
「ああ」
僕は答えた。メイドが扉のところへ来て、ぎょっとした顔をした。
「お入りになっては」
「絵具箱を探しに来た。アガサ姉上がくれると言っていた」
「旦那様から、このお部屋には」
「じゃあ父上に言えばいい。僕が青を盗みに来たって」
メイドは困った顔をする。
僕は引き出しを開けた。そこに小さな箱があった。姉上が言っていた絵具箱だ。
中には紙に包まれた青の顔料が入っている。ほんの少しだけだが、深い色だった。
海の底で眠る竜の鱗みたいな青。
よし。この比喩は少し格好いい。後でどこかに使おう。
「これを持っていく」
「それは」
「姉上が僕にくれると言ったものだ」
「ですが」
「父上に聞くなら聞いて。僕は逃げない」
――姉上と違って。
そう言いかけて、やめた。言うと、何かが汚れる気がした。
メイドは迷ったが、僕が箱を持って部屋を出るのを止めなかった。三男は便利だ。多少変なことをしても、また絵のことかと思われる。
廊下へ出ると、屋敷の空気はまだざわついていた。
父上の執務室の方から男達の声がする。ラリー兄上もいるのだろう。
母上の部屋の方へは侍女が急いでいる。キャリー姉上の部屋の前にはネイラが立っていた。皆、それぞれの場所で、姉上のいない穴を布や言葉や手順で塞ごうとしている。
でも穴は穴だ。大きな白い穴。そこから、風が入ってきている。
僕は自分の部屋へ戻った。
扉を閉め、鍵をかける。
袖から絵葉書を出すと、机の上に置いた。隣に絵具箱を置く。港の青と、顔料の青。二つの青は似ていないのに、同じ方角を向いていた。
僕はスケッチブックを開いた。
白い紙。
まだ何も描かれていない。
そこに、まず窓を描いた。
次に、窓辺に置かれた船を描いた。
帆は閉じている。けれど船底には、ほんの少し水が触れている。誰も気付かないくらいの水だ。そこから腐るか、浮くかはまだ分からない。
いや、違う、もう浮いている。
僕は線を引き直す。
船は窓辺にない。窓の外へ出ている。白い部屋から抜け出し、薄暗い水路を進み、港へ向かっている。帆にはまだ風が入っていない。でも船首はもう家の方を向いていない。
その絵の端に、僕は小さく青を置いた。
フライト様の絵葉書の青でも、姉上の部屋のカーテンの青でもない。
僕がこれから作る青だ。
――アガサ姉上の色。
誰かが聞いたら笑うだろう。
姉上はそんな色ではない、と言うだろう。アガサは淡くて、穏やかで、控えめで、家に馴染む色だと。
違う。姉上は、まだ塗られていなかっただけだ。
僕はそう思う。
そしてそれは、僕だけが思っていればいい。少なくとも今は。
絵葉書は、スケッチブックの一番後ろに挟んだ。父上にも、ラリー兄上にも、まだ見せない。見せた瞬間、この青は手がかりという名の縄になる。
姉上が自分で選んだ色なら、少しくらい、乾くまで待ってもいい。
僕はペンを取り、絵の下に小さく書いた。
――白い檻より、遠い青へ。
うん。
かなり格好いい。
たぶんビリー兄上に見せたら笑われる。
でもアガサ姉上なら、少し首を傾げて、それから言うだろう。
「ここだけ、風が吹いているみたい」
僕はその声を思い出して、ようやく少し息を吐いた。




