12 キャリー・ディラクール――妹――考えたことがなかった
「……ディオ様とのことが原因でしょうか」
ネイラが小さく言う。
「婚約解消?」
「はい」
「それだけではないと思う」
言ってから、自分でも少し驚く。ネイラも私を見た。
「お分かりになるのですか」
「分からないわ」
「では」
「でも、婚約解消一つで姉様がここまで動くとは思えない。姉様は、もっと前から疲れていたんじゃないかしら」
私は刺繍枠を膝に置いた。
「だって、何度目?」
「何がでございますか」
「婚約の話」
ネイラは答えなかった。私も、正確な数は知らない。
正式に進んだものだけでいくつか。候補として会っただけの方もいる。家同士の事情で消えた話も、相手が合わなくて消えた話も、こちらの都合でやめた話もあった。
そのたび、アガサ姉様はきちんと支度した。
相手の方の好きな本を読んだ。家の商いを覚えた。好きだと言われた花を部屋に飾ったこともある。お茶の席で、その方の国の菓子が出たこともあった。
そういうことを、私は横で見ていた。
見て、ああ姉様は真面目だなと思っていた。
真面目すぎて損をする人だな、と。
「私なら、三回目くらいで怒るわ」
「お嬢様なら、一回目でもお怒りになるのでは」
「失礼ね。相手によるわよ」
ネイラは少しだけ笑う。その笑いで、私も少しほっとする。
「でも、アガサ姉様は怒らなかった」
「はい」
「怒らない人は、平気な人じゃないのね」
私はそう言って、糸を指先で引く。今度はまっすぐ入った。
「私、姉様を少し弱いと思っていたの」
「アガサ様を」
「ええ。だって何も言わないから。父上にも母上にも、相手の方にも。嫌なら嫌って言えばいいのに、いつも受け入れて、疲れた顔だけしている。それなら最初から言えばいいのにって」
ネイラは黙って聞いていた。
「でも、出ていったのよね」
「まだ、そうと決まったわけでは」
「決まってはいない。でも、そうなら」
私は針を布から抜いた。
「姉様は、私よりずっと大きなことをしたのかもしれない」
嫌だと言うのは簡単だ。少なくとも、私にとっては。
けれど、嫌だと言い続けても通らない時に、全部置いて出ていく。外出着と靴と鞄だけを持って、自分の部屋から消える。そんなことを、私は考えたことがなかった。
……いや、考えたことくらいはある。ただし、想像の中だけだ。
父上に叱られた時、母上に先回りされた時、婚約者の家の習慣を覚えろと長々言われた時。ああもう、どこかへ行ってしまいたい、くらいは思う。
でも本当に行くとなれば、まず持ち物を考える。金を考える。行き先を考える。護衛はどうするのか、宿はどうするのか、女一人でどこまで行けるのか。考え始めたところで面倒になって、やめる。
アガサ姉様は、それを考えたのだろうか? 考えて、出たのだろうか?
……それとも、誰かがいたのだろうか。
――誰か。
その言葉が浮かんだ時、私は手を止めた。
「ネイラ」
「はい」
「姉様に、好きな人がいたと思う?」
ネイラは今度こそ、はっきり困った顔をした。
「わたくしからは何とも」
「まあ、そうよね」
「ただ」
「ただ?」
「アガサ様は、時折とても楽しそうにお手紙を書いていらっしゃいました」
「誰に」
「そこまでは」
「リルなら知っているかしら」
「リルは、奥様から暇をいただくことになったと聞きました」
「え」
私は針を落としかけた。
「リルが辞めるの?」
「はい。責任を感じているそうです」
「責任」
その言葉は、妙にきれいに整いすぎて聞こえた。
リルはアガサ姉様の側にずっといた。乳姉妹のようなものだと、皆が言っていた。姉様のことなら、母上よりリルの方が知っていると思っていた。
そのリルが辞める。責任を感じて。今。
「変ね」
「お嬢様」
「変でしょう」
「口に出してはなりません」
「出しているじゃない」
「わたくし相手だからです」
「そうね」
私は落ちかけた針を拾う。
リルが辞める。港町へ行くのか、どこへ行くのかは知らない。けれど、アガサ姉様がいなくなった直後に、リルまで屋敷を出る。
変だ。
でも、変だと思ったところで、私に何ができるわけでもない。
父上に言う?
兄上に言う?
たぶん、二人とももう考えている。母上も考えている。屋敷中が考えている。その中で、私は部屋にいろと言われている。
十八歳の婚約済みの娘。まだ家の中の娘。守られる側。
そういうものだ。
……そういうものだと思っていたのに。
「ネイラ」
「はい」
「私、手紙を書くわ。婚約者のあの方に」
「今ですか」
「今」
「何と」
「次に会った時、もう少しちゃんと話がしたいと」
ネイラは少し驚いた顔をした。
「今までも、お話はされていたのでは」
「していたわ。お天気とか、贈り物のお礼とか、お互いの家の話とか」
「十分では」
「十分じゃないかもしれない」
私は机の引き出しを開け、便箋を出した。
「嫌なこと。好きなこと。結婚した後、何を変えたくないか。何なら合わせられるか。そういう話を、一度くらいしておくべきだと思うの」
「お嬢様」
「何よ」
「少し、急に大人びたことをおっしゃいますね」
「失礼ね。私は前から大人よ」
「はいはい」
「今、はいはいって言った?」
「言っておりません」
絶対言った。けれど、私はそれ以上突っ込みはしない。
便箋を前に置き、ペンを取る。
最初の一文が、なかなか出てこない。
彼の名を書きかけて、少し止まる。いつも通りの季節の挨拶から始めればいい。そうすれば手紙らしくなる。母上にも見せられる。相手の家にも失礼はない。
でも、今日はそれでは足りない気がした。
私は一度ペンを置いた。
「難しいわね」
「何がでございますか」
「ちゃんと話すのって」
ネイラは何も言わない。
私はもう一度ペンを取る。
アガサ姉様がどこにいるのかは分からない。
無事なのかも分からない。
誰といるのかも、何を考えて出ていったのかも分からない。
けれど一つだけ、私にも分かったことがある。
黙っていれば、誰かが分かってくれるわけではない。
言っても通らないことはある。言えば面倒になることもある。言わない方が楽な時もある。だけど、言わないまま進むと、ある日いきなり、部屋からいなくなるしかなくなるのかもしれない。
それは困る。
私は、自分の部屋から消える前に、言いたい。
そう思って、手紙の一行目を書いた。
――次にお会いする時、少し長くお時間をいただけませんか。
書いてみると、思ったより普通の文だ。
それでも、今の私にはこれで精一杯だった。




