第十五章 赤いリボンの少女
土曜日の朝、依子さんから連絡が来た。
「今日、封印を解く。午前中に来られる?」
「行きます」
「ルチルも連れてきて」
「一緒にいます」
「じゃあ十時に保管局で」
ルチルに伝えたら「知っていた」と言った。
「依子さんから連絡来てたの?」
「昨夜のうちに話がついていた」
「私には昨夜言わなかったのに」
「おまえが眠れなくなると思ったから」
「……正しい判断でした」
ルチルが尻尾を揺らした。
「怖いか」
「少し」
「正直だな」
「正直にしかなれないので」
「知っている」
朝ごはんを食べた。いつもより時間がかかった。食べながら、窓の外を見ていた。十一月の朝は空気が澄んでいて、遠くまで見渡せた。
見えないものを見ようとしている、という感覚があった。
封印が解けたら、何が見えるのか。
怖い、という気持ちと、知りたい、という気持ちが、同じ重さで並んでいた。
保管局に着くと、依子さんが準備をしていた。
いつもの事務所的な雰囲気ではなく、保管区域の奥の一室を使うということだった。普段は入らない場所で、壁に沿って棚が並んでいたけれど、中央に椅子が一つ置いてあった。
「ここで?」
「ここが一番、周囲の感情の干渉が少ない。保管局の特殊な構造で、外の怪異の影響が届きにくくなっている」
「安全な場所ということですか」
「封印を解くとき、余計なものが入ってこない方がいい。おまえの感応が暴走しないように」
「暴走する可能性がありますか」
「ゼロではない。封印が解けると、一時的に感応の感度が上がる。そこに外の感情が流れ込んできたら、引きずられるかもしれない」
「対策は?」
「ルチルが側にいること。あと私が封縫の糸を準備している。何かあればすぐ対処できる」
「分かりました」
椅子に座った。
ルチルが膝に乗った。今日はどこにいるか聞いていなかったけれど、膝に来た。
「痛くはないか」とルチルが聞いた。
「まだ何も始まっていない」
「そうだな」
「痛いかもしれないと思ってる?」
「記憶の封印が解けるとき、感情的な痛みを伴うことがある」
「覚悟します」
「……うん」
珍しい返事だった。うん、と言った。いつもはそうだ、とか、分かっているなら結構だ、とか、そういう返し方をするのに。
「ルチル」
「なんだ」
「今日も側にいてくれますか」
「当然だ」
「当然、以外の言い方はできませんか」
「できない」
「そっか」
「……いる。ずっとここにいる」
「ありがとう」
「礼は要らない」
「言いたいので言います」
ルチルが短く鼻を鳴らした。でも離れなかった。
依子さんが「始める」と言った。
封印を解く、という作業は、思っていたよりゆっくりとしたものだった。
依子さんの封縫の糸が、逆の方向に動く感じがした。縫い留めていたものを、ほどいていく。
最初は何も変わらなかった。
それから、胸のあたりが少し重くなった。
感応の感度が上がっているのが分かった。保管区域の棚の中の物たちから、薄い感情が滲み出してくるのを感じた。依子さんが「外に向けるな、内側を向け」と言ったので、外からの感情を遮断するように意識した。ルチルに教わった、選ぶ、という感覚だった。
内側を向けた。
自分の中を見るように。
霧があった。
ずっとそこにあった霧。幼い頃から、感情だけが残っていて、出来事が見えなかった場所。その霧が、少しずつ薄れていった。
見えてきた。
中学二年生のときのことだった。
久瀬ヶ丘中学校。今の高校とは別の場所だけれど、雰囲気は似ていた。
廊下で、よく会う子がいた。
赤いリボンをつけた女の子だった。明るくて、よく笑う子だった。同じクラスではなかったけれど、図書室で毎週会っていた。二人とも本を読むのが好きで、貸し借りをしていた。
名前があった。
その子に、名前があった。
るり、という名前だった。
名前を呼ぶと、いつも振り返って笑ってくれた。
記憶が戻ってきた。
文化祭の準備をした。一緒に飾り付けをした。重いものを持つのが得意だったるりが、私が届かない高いところに貼り紙を貼ってくれた。私が細かい作業をして、るりがおおまかな作業をした。二人でやると早かった。
帰り道、一緒に歩いた。同じ方向だったから。話しながら歩いた。他愛ないことを話した。読んだ本の話、学校の話、好きな食べ物の話。
るりは甘いものが好きだった。特にいちごのケーキが好きで、近所のケーキ屋で誕生日に必ずいちごのケーキを食べると言っていた。
私は、るりのことが好きだった。
友達として。でももしかしたら、それだけじゃない意味でも。その頃の私には、まだはっきりとは分からなかった。
文化祭の当日、何かが起きた。
そこから先が、霧の中だった。完全には晴れなかった。でも断片が見えた。
混乱。走る人。先生の声。旧校舎の方から、何かが来た。
るりが、走った。
私の方に向かって、ではなかった。別の方向に。助けに行こうとしたのだと思う。誰かが怪異に取り込まれかけていて、るりが向かった。
私は、それを見ていた。
止めることができなかった。声も出せなかった。怖かった。何が起きているのか分からなかった。
るりが、怪異の中に入っていった。
その後のことは、もっと霧の中だった。保管局の人が来た。何かが処理された。
次に気づいたとき、るりのことが思い出せなくなっていた。
ただ、寂しかった。何かを失くした、という感覚だけが残っていた。
「ましろ」
依子さんの声がした。
「大丈夫?」
目が開いていた。いつの間にか閉じていたらしい。
保管区域の一室だった。椅子に座っていた。ルチルが膝の上にいた。
「……大丈夫です」
「全部見えた?」
「全部ではない。でも、かなり」
「どこまで?」
「るりさんのことを思い出した。一緒にいたこと、話したこと。文化祭の日に、るりさんが怪異の中に向かったこと。そのあと、記憶が薄れたこと」
依子さんが息を吐いた。
「記録にあったリストの高槻、やっぱりましろちゃんだった」
「そうですね」
「封印の強さは? 完全に解けた感じはある?」
「解けた、というより、見えやすくなった感じです。まだ霧が残っている部分がある」
「一度で全部は難しかったかもしれない。続きは後日でもいい」
「文化祭まで時間がないので、今日中にできるだけお願いしたい」
「無理はしないこと」
「します」
「無理はしないことと言った」
「すみません。でも、知りたいことが増えた」
依子さんが苦笑した。
「少し休んでから続けよう」
休憩の間、ルチルと二人になった。
依子さんがお茶を入れに行った。
「覚えていた」
「そうか」
「るりさんのことを。友達だった。図書室でよく会った。赤いリボンをつけていた。甘いものが好きで、笑顔が明るかった」
「……そうか」
「ルチル、るりさんのことを知っていた。ずっと」
「知っていた」
「今は言える?」
ルチルは長い間黙った。
「……言える範囲が、今日で広がった」
「じゃあ教えてください」
「あたしは、るりの感情から生まれた」
短く言った。
それだけだった。でも、それだけで十分だった。
「感情から生まれた、というのは」
「怪異の根として残ったるりの中から、感情の一部が分離して、今のあたしになった。完全なるりではない。でも、るりから来ている」
「分離した感情というのは?」
「忘れないでほしい、という感情。置いていきたくない、という感情。それがあたしの核だ」
「忘れないでほしい、が今のルチルに」
「そうだ。だからあたしはおまえのそばにいたがる。おまえがるりのことを覚えていた。封印されていても、感情が残っていた。その感情に引き寄せられた」
「私がるりさんのことを覚えていたから、ルチルが私のそばにいる」
「正確には、おまえの感応がるりの残した感情に共鳴していた。だからあたしが現れた。スカウト、という形を取ったが、最初からおまえのそばに来るつもりだった」
「仕組まれていた?」
「仕組んだわけではない。引き寄せられた」
「ルチルは、るりさんの一部ですか」
「一部だ。全部ではない」
「残りのるりさんはどこにいますか」
「学校の怪異の根の中に。封印された場所に。それがあの学校の怪異の中心だ」
「つまり、私がルチルとあの学校に向かったのは、るりさんを拾いに行くためだった」
「……そうだ」
「ルチルが私をスカウトしたのも、そのため?」
「それだけではない。おまえの感応は本物だし、おまえが向いていることも本当だ。でも、るりのそばに置きたかった、という気持ちも、あった」
「るりさんのそばに?」
「おまえはるりを覚えていた。おまえがそばにいれば、るりが完全には消えない。そう思った」
私はルチルを見た。
小さな体で、首に赤いリボンをつけた生き物が、膝の上にいた。
「ルチルの赤いリボン、るりさんのリボンですか」
「……るりがいつもつけていたものと、同じ色だ。あたしがこの形になったとき、自然についていた」
「忘れないように?」
「そうかもしれない。あたし自身も、忘れないように」
「ルチルも、るりさんのことを忘れたくないんですね」
「忘れたくない。消えてほしくない。でも、このまま怪異の根として残り続けるのも、るりが望んでいることではないと思っている」
「るりさんが望んでいることは何ですか」
ルチルが少し動いた。
「……覚えていてもらうことだ。消えていく前に、誰かにちゃんと覚えていてもらうこと。そして」
「そして?」
「手放してもらうこと。覚えていてもらった上で、手放してもらうこと。それが、るりが本当に望んでいることだとあたしは思っている」
「手放す、というのは、忘れるということじゃないんですね」
「違う。覚えたまま、でも縛らない。記憶の中に置いておく。それが手放すということだ」
「難しい」
「難しい。でもそれしかない」
私はルチルをしばらく見た。
「ルチルはどうなりますか、るりさんが手放されたとき」
ルチルが目を伏せた。
「……分からない」
「分からない?」
「あたしは、るりの感情から生まれた。るりの感情が解放されたとき、あたしがどうなるかは、あたしには分からない。消えるかもしれない。変わるかもしれない。このままかもしれない」
「怖い?」
「……怖いかもしれない。ただ」
「ただ?」
「るりが正しく終われるなら、それでいい、とも思っている」
「それでいい、って」
「るりの幸せの方が、あたしの存続より大事だ」
私は何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。
ルチルが膝の上で、丸くなった。「泣くな」と言った。
「泣いてない」
「声が変わっている」
「泣いていない」
「……そうか」
「泣いていない、けど」
「けど?」
「もし消えても、私は覚えてます。ルチルのことも。覚えていてもらうことが大事なんでしょう」
ルチルが動きを止めた。
「……それは」
「忘れません。消えても。手放しても。記憶の中に置いておく」
「高槻ましろ」
「なに」
「おまえは、反則だ」
「なんでですか」
「そういうことを言うな」
「なんで」
「……こっちが困る」
「どう困るんですか」
「消えたくなくなる」
私は少し黙った。
「消えないでほしい」
「おまえが決めることではない」
「でも、そう思う」
「……知っている」
ルチルが目を開けた。
「知っているから、困ると言っている」
「困らせてごめんなさい」
「謝るな」
「謝りたいので謝ります」
「……勝手にしろ」
依子さんがお茶を持って戻ってきた。二人の空気を見て、「なんか重たかった?」と聞いた。
「少し」
私が答えた。
「話せた?」
「少し」
「それなら続きをやろうか、封印の残り」
「お願いします」
二回目の封印解除は、一回目より深かった。
霧の残っていた部分が、少しずつ晴れていった。
文化祭の日の断片が、もう少し見えた。
るりが怪異に向かっていった。誰かを助けようとしていた。その誰かが誰だったか、まだはっきりしなかった。ただ、当時の晴澄さんがそこにいた気がした。
るりが怪異に引き込まれていくとき、一つだけ鮮明に見えたことがあった。
振り返った。
最後に振り返った。
こちらを見た。
笑っていた。
泣きそうな顔で笑っていた。でも笑っていた。
「忘れないで」
声ではなかったかもしれない。
でも、そう言っていた。
そして消えた。
目を開けたとき、涙が出ていた。
泣いていないと言ったのに、涙が出ていた。
依子さんが何も言わなかった。タオルを渡してくれた。
ルチルも何も言わなかった。膝の上で、ただ、そこにいた。
「見えました」
しばらくして、私は言った。
「話せる?」
「はい。るりさんが最後に振り返った。こちらを見て、笑っていた。忘れないで、と言っていた」
「……そうか」
「覚えていると言いたかった。あのとき。でも声が出なかった。怖くて、動けなかった」
「それは仕方ない」
「でも後悔している」
「後悔してもいい。ただ」
「ただ?」
「今からでも、伝えられるかもしれない」
「今から?」
「るりさんの残した感情が、まだ学校にある。おまえの感応なら、届くかもしれない」
私はルチルを見た。
「届きますか」
「……届くかどうかは、やってみないと分からない」
「でも可能性はある?」
「おまえの感応が今まで届いてきた場所を考えれば、可能性はある」
「文化祭に向けて、準備します」
「うん」
「あの日、動けなかった。でも今は動ける」
「そうだ」
「今は、感応がある。一人じゃない。依子さんもルチルも、志季さんも、先輩も」
「……全員巻き込むつもりか」
「巻き込みません。一緒に動きます」
ルチルが尻尾を揺らした。
「同じことだ」
「違います」
「どこが」
「巻き込むは一方的。一緒に動くは、みんなが選んでいること」
ルチルが短く鼻を鳴らした。
「……詭弁だ」
「違います」
「まあいい。結果は同じだから」
「私も選んで動きますよ、念のため」
依子さんが言う。
「ありがとうございます」
「礼はいい。ましろちゃんが動く理由は分かった。ルチルが動く理由も、今日分かった。じゃあ私はなんで動くかというと」
「なんでですか」
「なかったことにしてほしくないから、かな。四年間、消えることもできないままそこにいた子が。それはやっぱり、なんとかしたい」
「依子さんらしい」
「そう?」
「そう思います」
「ならよかった」
依子さんが立ち上がった。
「さて、文化祭まで五日。やることを整理しよう。真壁さんへの報告、晴澄さんへの状況説明、当日の動き方」
「はい」
「ましろちゃん、今日の体力は?」
「まだあります」
「無理してない?」
「してます。でも、今日やらないといけない気がする」
「そういうときは大体正しい判断してるよね、ましろちゃんは」
「なんとなくですが」
「なんとなく、大事だよ」
依子さんが笑った。
私も笑った。泣いた後だったので、少し変な笑い方になったかもしれない。
ルチルが「みっともない顔だ」と言った。
「黙ってください」
「事実だ」
「今日は黙ってて」
「嫌だ」
「お願いします」
「……しょうがない」
黙った。
今日だけ、珍しく。
保管局の窓から、十一月の空が見えた。
青かった。
るりさんが好きだった空の色が、こういう色だったかどうか、記憶にはなかった。でも今日、その人のことを思いながら見る空は、きれいだと思った。
文化祭まで、五日だった。




