閑話 キンタの親父
ストーリーに絡むかどうかはまだわかりません。
ちょっとテイストが違うので閑話にしました。
悠樹が35歳で死んで20年、私も78になった。
妻は75でピンピンしているが、私は入院中の身。
悠樹もこんな想いで入院していたのかと感じながら日々過ごしている。
今日も悠樹との想い出を振り返る事にするか。
悠樹が生まれたのは激しい雨の降る日だった。
逆子でへその緒が絡んでいる状態。
幸い腕利きの産科医の先生と助産師の方々が来てくださったため、なんとか無事出産の運びとなった。
体重は3400g大きな子だ。
妻と相談し、穏やかで暖かな、器の大きい子になってほしいと、悠樹と名付けた。
悠樹は乳飲み子の頃から好奇心旺盛で、何にでも口に放り込み、何にでも手を伸ばし、そしてよく泣く子であった。
昼に精一杯動き騒ぐからか、夜泣きは少なく、その点だけは育てやすい子だった。
悠樹が幼稚園に上がった頃、ある問題が起きた。
悠樹が毎日、生き物を連れて帰ってくるのだ。
それはダンゴムシ、ハサミムシ、ムカデ、クモ等の昆虫に始まり、カエル、トカゲ、ヤモリなどの爬虫類、両生類、そして鳥、犬、猫の鳥類、哺乳類にまで至る。
年少から幼稚園に通い3年。
私が嫁の妊娠に合わせて買った、新築庭付きの一軒家は生き物で溢れた。
幸いにも私は当時大手商社で管理職の座についており、金銭面で大きな苦労はなかったため、面倒を見るとの約束で、悠樹が拾ってきた生き物は全て飼う許可を出した。
この子の将来は生物学者かなと往々にして実現しない親バカを発揮したのだ。
そのまま悠樹はスクスクと育ち、小学生となった。
そろそろ生き物の面倒より友人との遊びを優先したくなる年頃だろうと、私が面倒を見る覚悟をしていたのだが、それは杞憂であった。
悠樹は友人と遊ぶ際、自らの家に呼び、友人に世話を手伝わせていたのだ。
友人も不思議なことに良い子ばかりで、みんなで楽しそうに世話をしたあと、テレビゲームなどをしていた。
犬にゲームをさせようとしている子なんかもいたな。
悠樹は子供ながらに友人に恵まれている自覚があったらしく、親が共働きの子などが来た時は妻に夕食を一緒に食べさせて欲しいと頼んでいるのをよく見た。
また、遅くなるから送ってあげて欲しいと申し訳なさそうに私に頼みにくるのだ。
私は悠樹が可愛くて仕方なかった。
その後も悠樹は好奇心と無邪気さはそのままに中学生になり、高校生になり、大学へと進んだ。
話がそれるが私はこの頃着々と買い集めていた自社株が一定数を超え、役員へと昇進した。
悠樹の中高生時代は悲しいことだが、私はよく知らない。
役員になり一段と忙しくなったためだ。
妻には変わりませんでしたよ、としか聞かされていない。
まぁ家を見るに変わっていないのだろうと言う事は想像がつくが。
綺麗に磨かれた水槽、呑気に寝ている大きな犬にその頭の上にカラス。
猫は青大将の尻尾を噛み、水槽に戻していた。
賢いなぁ!おい。
たまに仕事を持ち帰ることができ、自宅で作業していると、中高生時代の悠樹の友人を見る事があった。
頭が金ピカの子や、ボソボソ喋って何を言っているかわからない子、質実剛健といった佇まいの子までいた。
皆挨拶はしっかりし、悠樹といる時は笑顔だったのでいい子達だったのだろう。
あ、金髪の子だけはそれなりコミュニケーションをとった覚えがある。
確か父子家庭で、うちの妻の作る夕食を喜んで食べていた。
食べ終わると洗い物を手伝い、送るというのに断る、見た目と違い礼儀正しい子であった。
あの子は今どうしているだろうか。
中堅大学に入った悠樹は彼女も作らず、だいたい私と遊んでいた。
私は学生の時分野球部で、悠樹はそれを知りバイトで貯めた金でグローブとバットを買いプレゼントしてくれたのだ。
よくキャッチボールをしたり、バッティングセンターに行ったものだ。
悠樹は昔から線が細く運動はあまり得意ではなかった。
キャッチし損ねたボールを回収するのは今やもう老犬となった犬の役目だった。
老犬といえばこの頃うちにいた生き物が次々と息を引き取り始めた。
昆虫は早いうちから亡くなっていたのだが、ここ最近ヘビ、カラス、猫が天に召され、最早残るのはこの老犬だけになっていたのだ。
悠樹はその度に落ち込み、しかしまた前をみて立ち上がっていた。
強い子だ。
悠樹の連れてきた生き物がいなくなって行くとき、私は悠樹の成長を実感し、また私の元を離れていく事が近い事を感じていた。
そして悠樹の就職が決まった日、それを理解しているかのように、最後の老犬が息を引き取った。
この日悠樹は泣かなかった。
こいつがここまで頑張ってくれたんだ、次は俺の番だ、と涙を必死でこらえながら言っていた。
そして悠樹が家を出ることになった。
悠樹が就職したのはここからでも通える距離にある中堅の営業会社だった。
しかし、独り立ちしてみたいんだと言い、会社の近くにアパートを借りた。
この家は悠樹がいたから賑やかだったんだな、と実感するようになった。
悠樹がいない生活に慣れないといけないなと考えていたが、悠樹は毎週末帰ってきた。
悠樹の話を聞くに悠樹の会社はいわゆるブラック企業のようであった。
自慢の息子にそんなところで働かせたくはなかったが、悠樹が気にしている様子がなかったので何も言わなかった。
この時無理にでも辞めさせていれば何か変わったかもしれないと、後悔している。
それから数年、悠樹は必死に働き、それなりの結果を出してはいるようだった。
問題は結婚のけの字も出てこないこと。
聞く分には会社の労働時間的に結婚は厳しそうであった。
まぁもし悠樹に相手ができた時は会社を辞めさせて、うちで嫁さん共々面倒見てやろう。
私の貯蓄はそれを余裕を持って迎え入れるだけの額がある。
そんな事を考えていた時だった、悠樹が最初に入院したのは。
難病であった。
会社を2年休職し、なんとか復帰する事はできたが、体の節々に後遺症が残ってしまった。
もうキャッチボールできないね、と謝る悠樹に私は涙した。
それからさらに数年が経ち、悠樹が34歳の時それは発覚した。
最近また体の力がうまく入らないと言い出したので、病院に行かせたのだ。
ステージ4の膵臓癌だった。
いわゆる末期癌だ。
私はこの時初めて目の前が真っ暗になるという事を経験した。
どうしていいかわからない。
天真爛漫で無邪気で、優しい悠樹が何をしたというのだ!
いいおっさんになったいうのに、未だに父さん!父さん!と駆け寄ってきては、肩揉んでくれたり、ドライブに連れて行ってくれる。
そんな悠樹が……。
それから数日、私は悠樹を助ける方法を文字通り死ぬ気でさがした。
……しかし救う方法など、なかった。
最早神に祈るしか、私ができる事はなかった。
悠樹は、ポスピスで余生を過ごす事を希望した。
私は妻と共に毎日会いに行った。
悠樹はいつも笑顔で、スマホで遊んだり、漫画読んだり、贅沢してるよ!っと言っていた。
時間の流れは止められない。
悠樹は日に日に衰弱し、痛み止めを打っての生活となった。
そんな中、悠樹の誕生日がきた。
3人で祝う。
病院で。
その日、癌が発覚してから悠樹は初めて俺の前で泣いた。
親孝行できなくてごめんなさい。
孫の顔見せられなくてごめんなさい。
先立つ不孝を許してください。
私は自慢の息子が何故私に謝らなければいけないのががわからなかった。
この理不尽をぶつける先はない。
私は悠樹にお前という息子がいて、私がどれだけ幸せだったかを説明しようとした。
……しかし伝える事は出来なかった。
それを伝えれば優しい悠樹はまたいなくなってしまう自分を責めるだろう。
ただただ悠樹を抱きしめながら泣くしか私にできる事はなかった。
それから2カ月が過ぎたころ、悠樹は眠るように逝った。
伝えたい事はいくらでもあったが、うまく言葉に出来ず、伝える事が出来なかった。
それから私は会社を辞め、妻と過ごす時間を増やすことにした。
使う予定のなくなった貯蓄は十分すぎるほどに余りあるのだ。
悠樹は私たちが死んだように生きる事は望んでいないだろう。
私は生き物にすがる事にした。
犬を飼い、猫を飼い、鳥を飼い、ヘビを飼った。
悠樹のようにうまくは出来ないけれど、必死に面倒をみた。
家の中が少し騒がしくなったが、いつも動物達の中心にいた我が家の天使はもういない。
だが動物達には関係ない。
私はそのあっけらかんと生きる生き物達の姿に少し救われた気がした。
それから20年その子達も看取り、今私は入院している。
病名は膵臓癌。
あの時助けてくれなかった神は私にも悠樹と同じ病を施した。
これは救いなのだろうか。
……いつものように回想にふけりながら、私はベッドのリクライニングを倒した。
今日も疲れた。
もう寝る事にしようか。
明日も妻は来るだろうか。
妻は元気ではあるがもう年だ、見舞いも疲れるだろう。
無理はして欲しくない。
あぁ…意識が薄れていく。
ふふっ我ながらなんていい寝つきなんだろう。
……おやすみなさい。
「おぬし、悠樹と会ってみたくはないか?」
知らない老人が私の前に現れ、そう問いかけた。




