31、ギデオンとオフィーリア
◇◇
「ギデオーン!」
幼い頃の私はそれこそ兄弟……とくにギデオンには一切の遠慮がなく……。
「ん? どうした、オフィーリア」
それはギデオンが何をしても笑顔で私を受け入れると信じて……もとい若干なめていたからだ。
「ねえ、ギデオンって『童貞』なの?!」
そう、こんな質問をいけしゃあしゃあとするくらいにはとてつもなく遠慮がなかった。
「……どうしたんだ。急に??」
思った通り、この時もギデオンは頭が痛いというように手で押さえつつ、それでも優しく私に尋ねる。
「“ギデオンは子育てに夢中だからきっと童貞だ”ってレスターたちが……ところで『童貞』って何?」
「そっかー……とりあえずアイツら半日耐久、俺専用サウンドバッグにするとして、オフィーリア……女の子が『童貞』なんて言葉をめったに口にしちゃいけないぞ。めっ!」
「ふ〜ん。わかった! ……じゃあ『処女』って何?」
「よし……お兄ちゃん、さっそく“サウンドバッグ”でかる~く運動してこようかな?」
パンッパンッとギデオンが額に青筋を浮かべ、自分の手のひらに血管の浮いた拳を何度も打ちつける。
「ジャレッドが男の『童貞』は生き恥だけど、女の『処女』はみんなの夢と希望なんだって……でも、それにも賞味期限があるらしいよ!」
「そうか……サウンドバッグ前にその話を母上にもチクっておこうかな?」
男兄弟が多い女の子あるあるかもしれないが、下ネタや悪い言葉ほど覚えやすい。
だけど、それが子供の私には自由そのものに見えて眩しかったりもする。
だけどどんなに変なことを言おうと、ギデオンが私を庇って守ってくれる。
私はギデオンの強い拳をすっかり自分の拳だと一時期そうすっかり勘違いしていた。
それがまさに“虎の威を借る狐”であることに気付くには、それからほんの少し時間がかかる。
(ギデオンって……いったい何をしたら怒るんだろう?)
ギデオンのその節ばった大きな手で撫でられるたびに、そんな黒い好奇心がうずうずとした。
でも……まさか、私に食べられても怒らないだなんて……嫌わないだなんて、まさか想像すらしてなかったよ。
――お兄ちゃん。
◇◇
「ギデオン。今すぐ服を脱いで!!」
ギデオンの部屋に入れてもらい、お茶を出された次の瞬間。私は真っ先にそう言う。
「…………」
ギデオンの部屋にはストーブがあり、その上ではヤカンがシュンシュンと鳴っている。
確かにこの辺りは都に比べればずっと寒いが、夏でもギデオンはこうしてストーブを焚く。
それはひとえにいつでも私が訪ねてきてお茶が飲めるようにするためだ。
(私がディアベルゼ殿下に最も惹かれたのは、その“優しさ”……)
だけど、私がその優しさに重心を置く価値観を育てたのは……間違いなくギデオンだろう。
私はその心地よさを骨の髄まで浸って知っている。
もちろんこの二人の優しさのベクトルは全くの別物だわ。
ディアベルゼ様の繊細で細やかでどこまでも深く広い視点を持った優しさに対して……ギデオンの優しさはもっと狭く分厚く肉厚な……鬱陶しいくらいの過剰さが、時に気持ち悪い――そんな優しさ。
だから幼かった私は定期的にギデオンと距離をとった。
だって、何だか私の独立心と自由を邪魔する気がしたから……だけど離れたら途端に寂しく不安になり、またつい舞い戻ってしまう。
そんな私の勝手さえギデオンは笑顔で受け入れた。
(……あれ? というかそんなワガママ勝手を当然と生きていた私が、この先これがなくなって果たして大丈夫なの??)
もしかしてディアベルゼ様の優しさでは物足りなくなる日がきたりなんかして……いやいや、ま、まさかまさか!?
(そう思うのに、何か胸の奥がモヤモヤする……こ、これってかなり危険信号では!?)
「そ、そんな……オフィーリア。お兄ちゃん、これでもお年頃だからちょっと恥ずかしい!」
けれどその思考も目の前の部屋を狭くするほどのデカブツがもじもじする様に一瞬でスンと引っ込む。
「な〜にがお年頃なの! とっくに結婚適齢期のくせに?!」
私は兄のシャツをひん剥こうとするが、それをギデオンはひらりひらりと躱す。
く〜無駄に滑らかな良い動きがよりイライラするよ〜!
「グオォ……」
というわけで、実力行使させて頂きます!
「いや、ヒグマ姿は卑怯だって……!?」
さすがに慌てるギデオンだが、そんな奴をあっという間にヒグマで組み敷き、ビリビリとプレゼントの包装紙のように毟っていく。
「あ〜れ〜、ご無体を〜!」
しなを作るな結婚適齢期!?
これは色んな意味で世間には見せられない光景だわ……。
とはいえ、これで兄の上半身はすっかり綺麗に片付いた……。あるのはその素の身体一本だけになる。
私はシュルンと人間の姿に戻った。
「さあ……見せてもらいましょうか。その背中!」
「…………」
だが、それにはツンと顔を背け、私に見せる気はサラサラないみたい。
「いいや……もう観念してよ?!」
「…………」
ギリギリと力技で無理やり後ろ向きにさせようとするが、ギデオンはアホみたいな鋼鉄の筋肉を誇っている。
……誰! この人をこんな風に育てたのは!?
これだからモンディスカは!
しかも私の動きを封じるため、ギデオンは私をそのままぎゅうっと抱き締めてきた。
「はーい……よしよしよし……いい子いい子」
そう、なだめてくるが、暴れてるのはギデオンが背中を素直に見せないからでしょうか!?
くっそー、かくなる上は……。
「…………コショコショ」
ギデオンは左わき腹が弱い。
そこをすかさず高速でコチョコチョとすれば、さすがのギデオンも音を上げ、身をよじり、隙ができた。
チャンス!
私はその隙にその後ろへとささっと回る。
そこにあったのは―――。
「……やっぱり……」
ギデオンの背中には大きな火傷の痕。
しかし、それより一部欠けたそこに私は確信を得た。
あーあ、なんで歯形って自分のものだって分かるんだろう? ……型なんてとったこと無いのに。
「これ……私の歯形が少し残ってるじゃない。やっぱり……やっぱり、私。ギデオンを食べてた……」
身体全体から力が抜ける。
うん、分かっていた。
分かっていたのに、ショックで頭痛と吐き気がする。
ああ、私はなんて馬鹿なの。
私の当時の恐れはそれよりずっと前にに実現していただなんて。
「――違う!? 食べてない!!」
ギデオンは咄嗟にそう言ったが……私はそれに頭を振った。
「証拠を目の前に今さら庇わないで……!?」
何で逆ギレしてるんだろう私。
最低じゃない。
なのにこの感情を扱いきれずに被害者であるギデオンについ当たった。
だって……。
「食べていない」と言うなら、この歯形は何なの?
こんな風に庇われて……私はこの罪悪感をどう扱えばいいの?
ギデオンが怒らなきゃ、私はどうやってこの自分がしでかしたことの事の重大さを受け止めればいいのよ!?
「ヒッ……ヒッ……怒ってよ……怒ってよ……ギデオン……! 私を……半殺しのサンドバッグにするくらい……!」
気付けば私は泣き出していた。そんな私をギデオンが無言で抱き締め、頭をよしよしと撫でる。
(……ベッドで、ギデオンに寝ながらこんな風に抱き締められるのは初めてだ……)
意外なことにギデオンはいつものベタベタをベッドにいる時は一切したりしなかった。
せいぜい手を繋ぐ位。
だけどそれが幼心に急に距離を置かれたようで妙に寂しかったのを覚えている。
(変なの……こんな事で距離が縮まるだなんて……すごく変なの……!)
いいや、変なのは私の方。
罪を犯した分際で……被害者である兄に甘えているんだから。
「うっ、うっ……殴ってよ……殴れ……ばかぁ!」
「殴らないよ……オフィーリアはかわいい女の子なんだから」
「たかが、ちんちん一本あるか無いかの違いでしょう!?」
「…………」
ギデオンが身体を離し、眉間にしわを寄せ……難しい顔をする。
「女の子が……そんなこと言うんじゃありません」
「…………分かったから、今のはディアベルゼ様には言わないで!」
こんな時にもこんな保身に走る私は、やはり図々しく身勝手だと思う。
「オフィーリア……もう一度言うけど、オフィーリアは俺を食べていない」
「――だからッ」
「俺の肉を食い千切っておきながら……ポイッと捨ててお菓子に夢中になったからな!」
「………………………………………………え?」
ギデオンが私の頭を撫でながら、だけど、真顔で続ける。
「だからな。むしろ、ああ言う場面ではちゃんと責任もって残さず食べてくれないか? ……さすがのお兄ちゃんもアレには傷ついた!」
「………………」
「『ああ……オフィーリアにとってお菓子以下なんだな、俺の価値って……』てな!」
「ご、ご……ゴメンナサイ……!」
どうしよう。想定外すぎるし滅茶苦茶気まずい!?
「あと……ついでに愚痴らせてもらうが、それでも死をあの瞬間覚悟したし、だけどお前の栄養になるなら悪くないとも思った。けれどそれを……付き合って間もない現場に居合わせてもいない奴に言われるのは……正直……」
それを聞いて私もピンときた。
「それで、ついイラッとしてディアベルゼ様に対してあんな風にキレたってわけなのね?」
「ああ。……だけど、冷静に考えれば殿下は愛情の深さをものの例えとして仰っただけで、他意は無い。それをあんな風にするのは良くなかった」
「へー……大人!」
「大人なんだよ。……いや、大人げ無かったけど!」
その言葉に私は思わず笑った。
だけど、めったに本心を明かさないギデオンがそんな風に明かすってことは、もうだいぶディアベルゼ様への怒りは鎮火してるに違いない。
うん、ギデオンは何だかんだ言っても……本人がいうように大人なんだと思う。
「ギデオン……もう一度抱きしめて、頭を撫でてよ……」
「え……?」
「今日だけ、お願い!」
「…………」
ギデオンは黙ってベッドの上で私を抱き締め、頭を優しく撫でた。
私はギデオンの背中に手を回し、私が噛み千切った痕を手でなぞり、そっと撫でる。
きっと……すごく痛かっただろう。
ギデオンは許したけど、それでもこれは決して消えない。
私の罪だ。
「ギデオン……お兄ちゃんはね。お菓子以下なんかじゃないよ」
「……ん?」
「お兄ちゃんがいない世界なんて……私、想像できないもん。お兄ちゃんは私の人生」
「…………」
ギデオンは私のその言葉を聞いて抱き締める力が一瞬強まった気がした。
だって私の血肉はすでにギデオンに作られている。
お菓子は外から入ってくる嬉しいものだけど……お兄ちゃんはもう、そういうのじゃなくて……もはや私の時間。世界。存在そのものの一部で……好きや嫌いで語れる次元じゃないんだ。きっと。
だから好き放題いえるし、絶対の存在なの。
「オフィーリア……食べるものが無くなったら最後に俺を食べて……」
「絶対にお断り!」
それが、きっと兄妹なんだわ。




