100年の石版
いつも『白日の石刻』を読んでいただき、本当にありがとうございます!
今回から物語は新たな舞台、《中央都市ミラ》へ。
国家図書館を訪れたクラルを待っていたのは、一冊…ではなく、《一枚の誰にも読めなかった石版》でした…
今回も楽しんでいただけたら嬉しいです!
蒸気機関車が、長い汽笛を響かせる。
吐き出された白い煙が、窓の向こうで空へ昇っていった。
流れていく景色は、いつの間にか見慣れたリトスフェル村の緑ではなくなっていた。
広い石畳の大通り。
道沿いに並ぶガス灯。
新しく建てられた煉瓦造りの建物と、長い年月を刻んだ古い建物。
空へ高く伸びる時計塔。
通りを行き交う何台もの馬車。
その間を、黒い煙を吐きながら走る見慣れない乗り物が通り過ぎた。
「……あれ、何だろう」
蒸気車だろうか。
クラルは窓に顔を寄せ、忙しなく視線を動かしていた。
見るものすべてが新しい。
ここは、《中央都市ミラ》。
アルセリア王国最大の都市である。
豊かな水源を持ち、市内には大小無数の美しい水路が網の目のように張り巡らされている。
王都に次ぐ人口を誇り、《国家図書館》をはじめ、多くの学術機関が集まる文化の中心地。
知識と歴史が集まる街。
「……大きい」
クラルは窓に額をつけた。
「大きいなぁ……」
同じ言葉しか出てこない。
それほど、窓の外に広がる街並みに圧倒されていた。
人も。
建物も。
道も。
リトスフェル村とは、何もかもが違う。
「迷子になりそう……」
小さく呟く。
なりそう、ではない。
おそらく、なる。
列車が、甲高い音を立てながら駅へ滑り込んだ。
扉が開いた瞬間、ホームの喧騒が押し寄せてくる。
旅行客。
商人。
武器を背負った冒険者。
胸元に本の紋章をつけた、司書官らしき制服姿の者たち。
大勢の人が行き交い、いくつもの声と足音が重なっていた。
クラルは大きな鞄を肩へ掛け直す。
「よし」
勢いよく歩き出しーー
三秒後、立ち止まった。
「……どっち?」
目の前には、四つの出口。
東口。
西口。
水路口。
中央大通り口。
もはや意味が分からない…
リトスフェル村の駅など、出口は一つしかないのに。
クラルは真剣な顔で案内板を見上げた。
迷う前に腹ごしらえをするべきか。
それとも先に、お手洗いへ行くべきか。
いや、そもそも自分はどの出口へ向かえばいいのだろう。
人生に関わりそうな選択を前に悩んでいると、背後から声を掛けられた。
「クラリス・エピタフ様でしょうか」
クラルは振り返った。
そこには、黒い制服を隙なく着こなした一人の女性が立っていた。
胸元には、白い石と開かれた本をかたどった銀色の紋章。
国家図書館の司書官だ。
「あ、はい。クラリスです」
「国家図書館より、お迎えに参りました」
「……私を?」
「はい。表に馬車を待たせております」
どうして迎えまで用意されているのかは分からない。
だが、クラルは心の底から思った。
(助かった)と。
石畳の道を、馬車に揺られて進む。
窓の外では、幾筋もの美しい水路が陽光を反射していた。
石造りの橋。
水面を進む小舟。
立ち並ぶ書店や工房。
街の中心へ近づくにつれ、建物は次第に大きく、荘厳なものへと変わっていく。
そしてーー。
「……」
視界の先に現れた建物を見て、クラルは言葉を失った。
白い石で造られた、巨大な建築物。
空を突く幾つもの尖塔。
正面玄関へ続く長い大階段。
壁一面に設けられた巨大なアーチ窓。
そして中央には、左右へ開かれた本を思わせる大屋根が広がっている。
《国家図書館》
王国中から、石版と石本が集められる場所。
知識の中心。
歴史の保管庫。
「……本当に大きい」
馬車を降りたクラルは、建物を見上げた。
まるで、図書館そのものが巨大な石本のようだった。
司書官に案内され、館内へ足を踏み入れる。
まず目に入ったのは、途方もなく高い天井だった。
「わー!!」思わずクラルから声が漏れる…
見上げても最上部が霞んで見えるほどの書架。
何階まで続いているのか分からない回廊。
高所を行き交う昇降機。
壁際には、白い石版が隙間なく収められている。
誰かの人生。
誰かが残した言葉。
語られることのなかった、無数の記憶。
世界中の人生が、ここに眠っている。
クラルは自然と足を止めた。
ほんの一瞬。
無数の視線に見つめられているような、不思議な感覚に襲われた。
「こちらです」
司書官に促され、再び歩き出す。
幾つもの階段を上り、回廊を進み、やがて最上階へ辿り着いた。
正面には、重厚な黒い扉。
扉には、白い石と本の紋章が大きく刻まれている。
一般の人間が立ち入れる場所ではない。
クラルにも、それだけは分かった。
司書官が扉を開く。
広い部屋だった。
壁一面を書架に囲まれ、中央には長い机が置かれている。
机を囲むように、数人の司書官が立っていた。
誰も話していない。
皆、クラルが入ってきた瞬間に視線を向けた。
その目に浮かんでいるものが何なのか、クラルには分からなかった。
期待。
不安。
焦り。
あるいはーー
祈り。
まるで、ずっと待ち続けていたものが、ようやく現れたかのような目だった。
長机の最奥には、一人の老人が座っていた。
整えられた白髪。
深く刻まれた皺。
穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳には人の心を見透かすような鋭さがある。
老人は静かに立ち上がった。
「よく来てくれた。クラリス・エピタフ君」
落ち着いた、柔らかな声だった。
「私は、国家図書館館長ーーアルヴェイン・ルクス」
「は、初めまして」
クラルは慌てて頭を下げた。
アルヴェインは小さく頷く。
「遠いところを呼び立ててしまって、すまなかったね」
「いえ。汽車に乗るのは好きなので」
場違いな返答だっただろうか。
数人の司書官が僅かに目を瞬いた。
だが、アルヴェインだけは微かに笑った。
「君を呼んだ理由を説明しよう」
そう言って、彼は机の中央へ手を伸ばした。
白い布が、ゆっくりと取り払われる。
その下から現れたのは、一枚の石版だった。
古い石版。
長い年月を経ているはずなのに、傷も汚れもない。
誰かの人生を宿しているはずなのに、そこからは何の温度も感じられなかった。
不気味なほど、白い。
「これは、誰にも石本にすることのできなかった石版だ」
アルヴェインの声が、静かな部屋に響く。
「国家図書館で保管されてから、百年以上になる」
クラルは石版を見つめた。
なぜだろう。
初めて見るはずなのに。
胸の奥が、僅かにざわつく。
懐かしい。
そんなはずはないのに。
ずっと昔から、この石版を知っていたような気がした。
その時だった。
――カタッ。
石版が震えた。
クラルは息を止める。
誰も触れていない。
それなのに、白い石版はもう一度、小さく震えた。
――カタッ。
次の瞬間。
淡い光が、その表面へ灯った。
「……!」
椅子を引く音が重なる。
司書官たちが一斉に立ち上がった。
アルヴェインの表情から、初めて笑みが消える。
光が、石版全体へ広がっていく。
だが、これはクラルの《白日の石刻》ではない。
手を触れてもいない。
涙も流していない。
何より、いつものように音も、香りも、記憶も流れ込んでこない。
ただ、石の表面に文字だけが現れていく。
一文字ずつ。
ゆっくりと。
まるで、見えない誰かが石の上へ書き記しているように。
やがて、一つの文章が浮かび上がった。
《クラリス・エピタフへ》
部屋から、すべての音が消えた。
クラルは瞬きもできなかった。
自分の名前。
なぜ。
どうして、この石版が私の名前を知っているのだろう。
「……やはり」
アルヴェインが、掠れた声で呟いた。
誰かが息を呑む。
誰かが祈るように両手を組んだ。
その時。
背後の扉が、重い音を立てて開いた。
全員が振り返る。
黒い正装。
銀色の髪。
胸元に並ぶ、幾つもの勲章。
その場にいた司書官たちが、一斉に姿勢を正した。
国家図書館最高位司書官。
《黒衣の司書官ーーブラックコート》
その人物を見た瞬間、クラルの思考は完全に止まった。
「……え?」
いつもより低い声が漏れる。
「おばあちゃん?」
そこに立っていたのは、ステラだった。
けれど。
クラルが知っている、家でシチューを作り、手紙を書けと怒鳴る祖母ではない。
鋭い瞳。
隙のない立ち姿。
部屋にいる誰よりも、この場所に相応しい人間に見えた。
クラルが初めて見る、ステラの姿だった。
静まり返った部屋の中を、ステラはゆっくりと歩く。
誰も言葉を発しない。
アルヴェインさえ、黙って彼女を見つめている。
ステラは机の前で足を止めた。
そして、文字の浮かんだ石版へ視線を落とす。
ほんの僅かに、目を細めた。
「……開いたのかい」
その一言に。
館長を含め、その場にいた全員が息を呑んだ。
クラルだけが、何も知らない。
なぜ、石版に自分の名前が刻まれたのか。
なぜ、ステラは驚かなかったのか。
そして。
百年もの間、沈黙を守っていた石版が、何をクラルへ伝えようとしているのか…
クラルはまだ知らない。
この石版が、百年もの沈黙を破ってまで自分を呼んだ理由を。
そしてーー
この石本の最後の一文が、自分自身の出生と運命へ繋がっていることを。
白日の石刻 (リトグラフ・ヴェリタス)
それは、死者が最後に綴る、生者への手紙。
第六話を読んでいただき、本当にありがとうございました!
ここから『白日の石刻』は、少しずつ世界の謎とクラル自身の過去へ踏み込んでいきます。
初登場の人物達も出てきましたし、おばあちゃんがまさかブラックコートだったなんて…
これからも楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
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