母親の残した《昔話》
七年間、大切にしまわれていた一枚の石版。
アルタイルがクラルへ託したのは、
亡き母が遺したものだった。
もう一度だけ、その声をーー
そして…。
「ものすごく面白い話じゃないか!」
アルタイルは目を輝かせたまま、机へ身を乗り出していた。
場所を移し、クラルたちはアスター大商会の応接室へ通されていた。
大きな窓。
重厚な机。
壁際には王国全土を描いた地図が掛けられ、その横にはいくつもの帳簿が並んでいる。
先ほどまで見てきた商館の賑わいとは違い、ここだけは随分と静かだった。
「それで? 石版なら何でもいいのか?」
「何でも……というわけではないです」
クラルは困ったように笑った。
「伝えたい想いが残っている石版じゃないと、石本にはならないみたいで」
「なるほど!」
アルタイルはすぐさま頷く。
「では、古ければとか、新しいからいいというわけでもないんだね?」
「たぶん……」
「石版の大きさは一定なの?」
「大体いつも同じぐらいです」
「死後どの程度でーー」
「マスター!!」
エマが止めた。
「質問が多すぎますよ」
「そうか?」
「はい、多すぎます!」
「……まだ三つだぞ?」
「十分です」
ノアが小さく吹き出す。
シグは椅子の背にもたれながら、呆れたようにマスターのアルタイルを見ていた。
クラルはというと、少し楽しかった。
《白日の石刻》について、これほど純粋に興味を持って質問されたことはあまりない。
怖がるでもなく。
疑うでもなく。
ただ、知りたい。
アルタイルの顔には、それしかなかった。
「じゃあ、もう一つだけ」
「まだ聞くんですか?」
「これだけだ」
アルタイルが人差し指を立てる。
「私の母の石版を見てほしい…」
アルタイルは少し黙ってから、椅子を立った。
部屋の奥。
大きな棚の前まで歩いていく。
鍵を取り出す。
カチリ。
扉を開けると、中から小さな木箱を取り出した。
随分と大切に扱っているのが分かった。
アルタイルはそれを両手で持ち、机へ戻ってくる。
ことり。
クラルの前へ置いた。
「これは?」
アルタイルはすぐには答えなかった。
木箱の留め具へ指を掛ける。
開く。
中には、一枚の石版が収められていた。
古びてはいるが、丁寧に布で包まれている。
「お母さんの石版…」
クラルはポツリと言った
「ああ」
アルタイルは石版を見つめた。
先ほどまで商売の話に目を輝かせていた男とは、まるで違う顔だった。
「七年前に亡くなったんだよ」
静かな声。
「病気だった」
エマも黙っている。
どうやら知っていたらしい。
「母は商会の人間ではなかった。帳簿も読めなかったし、商売の話をすると『難しい話は食事の後にしなさい』って、いつも怒られてたよ」
アルタイルが小さく笑う。
「この商会の主になってからも、母にとって私はいつまでも子供扱いされたね」
クラルも少しだけ笑った。
なんとなく分かる気がした。
「死んだあと、この石版が残ったんだ」
アルタイルの指が、石の縁をなぞる。
「国家図書館へ預けることも考えた。だが……できなかった」
「……どうしてですか?」
「手放したくなかったってことかな」
あまりにも素直な答えだった。
「商人失格だな。価値があるなら動かしてこそ意味があるなんて、普段は偉そうに言っているのに」
アルタイルは笑う。
「これだけは、ずっと手元に置いていた」
クラルは石版を見る。
七年間。
この人は母親の残した石を、大切に持ち続けていたのだ。
「……クラル」
アルタイルが顔を上げる。
「これを、石刻してもらうことはできるかい?」
クラルはすぐには答えなかった。
そっと石版へ手を伸ばす。
触れる。
冷たい。
けれどーー
その奥に。
微かな何かを感じた。
ほんのりとした温もりが、石の奥から伝わってくる。
そんな感覚だった。
クラルは小さく頷いた。
「……エマさんにも先ほど私達を助けていただいたし、やってみます」
「ありがとう」
その一言だけだった。
けれど。
エマは少し驚いたようにアルタイルを見ていた。
いつもの彼なら、もっと大袈裟に喜んだだろう。
けれど今は違う。
本当に大切なものを託す時、人は案外静かになるのかもしれない。
応接室の大きな机が片付けられた。
その中央に、石版だけが置かれている。
クラルはその前に立った。
ノア。
シグ。
エマ。
そしてアルタイル。
四人が少し離れたところから見守っている。
クラルは石版を両手で持ち上げた。
胸元へ抱き寄せる。
ひやりとした感触。
目を閉じる。
――この人の声を。
もう一度。
大切な人へ。
静かな願いとともに、クラルの瞳から涙が零れた。
ぽたり。
石版へ落ちる。
その瞬間だった。
淡い光が広がった。
「……!」
アルタイルが息を呑む。
石が震える。
淡い光の中で、その輪郭がゆっくりと変わっていく。
硬い石が。
まるで長い眠りから目覚めるように。
一冊の本へ。
――石本。
クラルはそれを両手で受け止めた。
静寂。
そしてどこかのリビングの風景と一緒に一人の女性が姿を現した
「……アルタイル」
女性の声がした。
「ーーっ」
アルタイルの肩が震えた。
「アルタイル? 元気? どうせあなたのことだから、本にするまで長い年月をかけたんでしょ!?」
「母さん……」
小さな声だった。
先ほどまで王国を相手に商売をしている男とは思えないほど。
ただの息子の声だった。
石本から、穏やかな笑い声が聞こえた。
「ふふ。変な気分ね。自分が死んだ後、あなたに話しているなんて」
アルタイルが俯く。
その口元だけが、少し笑った。
「ちゃんと食べてる?」
「……最初にそれかよ」
「あなた、仕事に夢中になるとすぐ食事を忘れるでしょう?」
「忘れてないよ……」
エマがちらりとアルタイルを見る。
「……忘れていますね」
「エマ!」
「昨日も昼食を抜きました」
「今それを言うな」
クラルが思わず笑う。
ノアも口元を押さえていた。
石本の母親には、そんな会話など聞こえるはずもなく続ける。
「商会のことは……私はよく分かりません」
少し間が空く。
「でも、あなたが今現在も大切にしている場所だということは知っています」
アルタイルの表情が静かになる。
「だから、ひとつだけ」
「母さんから、あなたに残しておきたい話があります」
「……?」
アルタイルが顔を上げた。
「アスター商会が、まだ小さな商店だった頃。お祖父さんのお父様の頃の話かな?」
エマも反応する。
アスター大商会の始まり。
今では王国中に名を知られる巨大商会だが、最初からそうだったわけではない。
一軒の小さな商店。
そこから始まった。
「私のお祖父様から聞いた話…」
アルタイルの母親の声が続く。
「お祖父様のお父様のお話よ」
「……随分古い話だな」
シグが小さく呟く。
「だから、本当なのかどうかは分からない…なんかワクワクするでしょ」
クラルは、ふとエマを見た。
なんとなく、少し似ている気がした。
どこか楽しそうな声。
「私も若かったし、お祖父様が年を取って、少し耄碌していただけなのかもしれないと思った」
「でも、何度聞いても同じ話をしたのよね…」
ーーー
「……クロエという少女の話」
「クロエ……?」
クラルが小さく呟いた。
聞いたことのない名前だった。
アルタイルも眉を寄せている。
「まだここの商店が本当に小さかった頃」
「何かの理由……店を畳むしかないところまでの事があったそうです」
誰も口を挟まない。
「その時、救ってくれたのがクロエと言う女性だったらしい」
「でも、今となっては誰なんだろうね」
声が少し笑う。
「人だったのか」
「天使様なのか」
「神様なのか」
クラルは石本を見つめた。
不思議な話だった。
「クロエが何をしたのか。それも、もう詳しくは伝わっていません」
「ただ」
「その少女がいなければ、アスター商会はそこで終わっていた」
アルタイルの目から、先ほどまでの涙の気配が少しずつ消えていく。
商人の目になっていた。
知らなかった。
自分の商会の。
さらに昔の話。
「だから、これだけは忘れるなと」
女性の声が静かになる。
「お祖父様は、いつも最後に同じことを言いました」
「そして、いつか」
「クロエ、もしくは、似た女性が現れたなら」
「今度は、あなた達がその人の力になりなさい」
「…………」
部屋が静まり返った。
「私も、その意味は分かりません」
母親が笑う。
「だって、どんな人だったのかさえ知らないんですもの」
「それに、あまりにも昔の話だから」
「きっと私が生きている間には、何も起こらないでしょう」
「でも、」
「約束や、想いというものは、誰かが覚えていないと消えてしまうから」
クラルの指が、石本をそっと握る。
「だからアルタイル」
「あなたに預けます」
「もしもいつか、本当にそんな人が現れたならアスターの名に恥じないようにね!」
「その人の力になって、恩返しをきちんとする事!」
短い沈黙。
そして。
声が少しだけ柔らかくなった。
「……それから」
「ちゃんとご飯を食べなさい」
「…………」
アルタイルが俯いた。
「最後までそれかよ……」
声が震えていた。
「あなたは真面目だから仕事ばかりしてちゃ駄目よ」
「あなたは昔から」
声が少しずつ遠ざかる。
「本当に……仕方のない子なんだから……」
そして。
静かになった。
石本の光が弱くなる。
さらさらーー
石本の端から、少しずつ砂へ変わっていく。
アルタイルは何も言わなかった。
ただ。
消えていく石本を見つめていた。
やがて最後の一片が砂となり。
クラルの手の中から零れ落ちた。
「…………」
長い沈黙。
クラルは何を言えばいいのか分からなかった。
けれど。
アルタイルが先に笑った。
「……参ったな」
目元を指で拭う。
「七年ぶりに話した母親から、説教とはね」
「アルタイルさん……」
「ありがとう、クラル」
アルタイルは真っ直ぐに言った。
「本当に」
クラルは少しだけ笑う。
「……はい」
エマも黙って微笑んでいた。
「親って、最後に言うことはみんな同じなんですかね」
そう言って、優しく微笑んだ。
しばらくして。
ノアが砂の残った机を見ながら呟く。
「でも……不思議な話だったね」
「クロエ、か」
シグも腕を組む。
「かなり昔の人なんだろう?」
「そうみたいだね」
クラルも首を傾げる。
「神様だったのかな?」
「どうだろう」
「普通の女の子だったかもしれないよ?」
ノアが答える。
「でも、似た人って言われてもね」
「どんな人かも分からないもんね」
クラルが笑う。
それだけだった。
あまりにも古い昔話。
姿も。
年齢も。
どこから来たのかも分からない。
クロエという名前だけ。
それ以上、話が広がることはなかった。
――はずだった。
「…………待てよ」
アルタイルが突然呟いた。
「どうしました?」
エマが尋ねる。
アルタイルは何かを思い出そうとするように、眉間へ指を当てている。
「クロエ……」
しばらく黙る。
「いや、名前は聞いたことがない」
「?」
「でも……古い話で思い出した」
アルタイルが立ち上がった。
「エマ」
「はい」
「地下の保管庫。古物台帳の一番古いやつを持ってきてくれ」
「古物台帳ですか?」
「ああ」
エマが不思議そうにしながら部屋を出ていく。
クラルたちは顔を見合わせた。
しばらくして。
エマが一冊の分厚い帳簿を抱えて戻ってきた。
「こちらです」
「ありがとう」
アルタイルは受け取ると、机の上で開いた。
ぱらぱらとページを捲る。
「……違う」
さらに捲る。
「これでもない……」
「何を探してるんですか?」
クラルが覗き込む。
「昔、先代から聞いたことがあるんだ」
「先代?」
「私の父だ」
指が止まった。
「……あった」
アルタイルの表情が変わる。
「何が?」
「石版だ」
クラルたちが黙る。
アルタイルは古い文字が並んだ帳簿を見つめたまま言った。
「かなり古い。年代も正確には分からない」
「そんな石版が、ここにあるんですか?」
「ああ」
そして、
次の言葉だけは、少し声を落とした。
「王国による回収を免れた石版だ」
「…………え?」
シグの表情が変わった。
ノアもアルタイルを見る。
クラルもようやく意味が分かった。
「昔、王国が古い石版を大規模に回収した時期があったらしい」
アルタイルが帳簿を指でなぞる。
「理由までは残っていない」
「それを……どうしてアスター大商会が?」
「商売を長くやっているとね…それこそこれが曾祖父の石版だよ……」
アルタイルが笑う。
「倉庫の奥にはね、時代によっては没収を逃れて、そのまま忘れられたものが残る」
だが。
いつもの笑顔とは少し違った。
「その石版も、それの中の一つだよ」
「見ることはできますか?」
クラルが聞く。
「もちろん」
アルタイルは立ち上がった。
「母さんの昔話と関係があるかなんて分からないけどね」
そう言って扉へ向かう。
「クラル、石刻してくれるかい?」
「見たい!」
クラルが即答した。
「私も」
ノアが続く。
シグも立ち上がった。
「ここまで聞いて見ないはないでしょ」
「決まりだな」
アルタイルが笑う。
しばらくして。
五人はアスター大商会の地下にいた。
商館の華やかさとはまるで違う。
石造りの壁。
等間隔に灯されたランプ。
いくつもの頑丈な扉。
その最奥。
アルタイルが鍵を回した。
ギィーー
重い扉が開く。
中には古い帳簿や箱。
使われなくなった商会の印。
昔の契約書。
そして、「これだ」
アルタイルが、一つの箱を取り出した。
埃を払う。
留め具を外す。
クラルたちが自然と集まった。
「これが……」
箱の中には、一枚の古い石版が入っていた。
かなり古い。
表面は所々欠け、長い年月を物語るように色もくすんでいる。
王国による大規模な回収を免れ、今まで残っていた石版。
その意味を少なからず知っているクラル、ノア、シグにとって、目の前の一枚はただの古物ではなかった。
ーー
シグが、石版から目を離さないまま呟いた。
「……王国が回収した時代の石版なんだよね?」
「ああ」
アルタイルが頷く。
「少なくとも、台帳にはそう残っている」
ノアの表情が僅かに強張った。
クラルも、胸の奥がざわつくのを感じていた。
ーー古い石版
ーー王国による強制回収
その二つの言葉を、クラルたちはもう知っている。
《魔女狩りと隠れ蓑》
あの石版を巡ってーー
ガレフは、命を落とした。
クラルの指先が、僅かに強張る。
シグも同じことを思い出したのだろう。
いつもの軽い表情は消えていた。
「……クラル」
ノアが小さく名前を呼ぶ。
クラルは一度だけノアを見て小さく頷いた。
そして。
箱の中の石版へ視線を戻した。
怖くないと言えば、嘘になる。
この石版の中に何が残っているのか。
誰にも分からない。
けれどーー
だからこそ。
知らないままにはしたくなかった。
クラルは、ゆっくりと手を伸ばした。
石版へ触れる。
冷たい。
その瞬間。
ーーーじわり。
指先から、何かが伝わった。
「……!」
クラルが目を見開く。
「どうした?」
アルタイルが尋ねる。
クラルは答えなかった。
もう一度。
そっと石版へ触れる。
確かに。
そこにいる。誰かが…そんな気がした。
そして、クラルは小さく息を吸った。
「……やりますね」
「クラル?」
ノアを見る。
シグを見る。
クラルは石版を両手で持ち上げた。
百年近い時を越えて残された、一枚の石。
王国の手から逃れ。
誰にも読まれることなく。
アスター商会の地下で、ただ静かに眠り続けていた石版。
クラルは、その古びた表面を見つめた。
何が残されているのか。
誰の記憶なのか。
なぜ王国は、この時代の石版を回収したのか。
「…………」
クラルの腕の中で。
古い石版が、ほんの僅かに震えた。
「クラル?」
ノアの声がする。
けれどクラルは答えなかった。
胸の奥が、妙にざわついていた。
怖い。
それなのにーー
目を逸らしてはいけない気がした。
クラルは静かに目を閉じる。
そして。
石版を胸元へ抱き寄せた。
――この時の三人は、まだ知らない。
ガレフが命を落とすことになった、あの石版。
《魔女狩りと隠れ蓑》
あの日から途切れていた糸がーーー
百年近くもの間、
誰にも読まれず眠っていたこの一枚へ、
再び繋がろうとしていることを。
最後まで息子の食事を心配するお母さんでした!
そして、何気なく語られた古い昔話。
長い年月の中で忘れられかけていた「誰か」の名前と、
アスター商会に残されていた、もう一枚の石版。
果たして、その中には何が残されているのでしょうか。
ここから少しずつ、
これまで旅の中で残されてきた点が動き始めます。
明日もぜひ、クラルたちと一緒に見届けてください!
ブックマーク、⭐︎評価、ニコちゃんでの応援も、
いつも本当にありがとうございます。
ひとつひとつ、執筆の大きな力になっています!




