夕暮れ、食卓にて
第三話を読みに来てくださり、本当にありがとうございます。
今回は、母と娘、そして「食卓」のお話です。
大切な人との何気ない時間は、失って初めて気付くことがあります。
皆さまにとっても、誰かと囲んだ食卓の温もりを思い出していただけたら嬉しいです。
それでは、第三話「夕暮れ、食卓にて」をお楽しみください。
クラルは、強い風の吹く中、汽車を降りた。
ホームに降りた瞬間、黒い外套の裾がばさりと揺れる。
「わっ……」
肩から斜めに掛けた大きな鞄を抱え直した。
小さな駅だった。
石造りの低い駅舎。
古びた時計台。
遠くへ続く石畳。
春のベルカ村は、風の匂いがする。
焼きたての黒パン。
湿った土。
若葉。
それから、どこか懐かしい煮込み料理みたいな香り。
石造りの家々の煙突からは、白い煙がゆっくり空へ伸びていた。
クラルは依頼書に挟まれていた地図を広げる。
「ええと……右?」
そして、自分の右手を見る。
「こっち」
クラルは地図が苦手だった。
でも今回の道は、クラルにも分かるくらい簡単だ。
駅を出て一本道。
石垣沿いを真っ直ぐ。
赤い屋根の家の手前の家。
「今日は迷わない気がするぞ私」
小さく呟いて、クラルは歩き出した。
風が、春の匂いを運んでいく。
ーー
玄関の前に立っていた女性は、村の景色の中で少しだけ浮いて見えた。
仕立てのいい上着。
綺麗に整えられた髪。
丁寧に磨かれた革靴。
「クラリス・エピタフさん…ですよね?」
「はい。クラルで大丈夫です」
「私はエマ・ベルクです」
女性は小さく頭を下げた。
「王都グランヴィアのアスター大商会で働いています」
それから少しだけ視線を落とす。
「……この家の娘、でもあります」
クラルは静かに頷いた。
エマが温かい紅茶を広口で薄い素敵なカップに二つ運んできた。
「うちの商会で扱っている紅茶です。どうぞ……」
「ありがとうございます」
クラルは小さく頭を下げ、湯気の立つカップを両手で包む。
部屋には焼きたてのお菓子の甘い香りが漂っていた。
けれど、その温かな空気とは裏腹に、エマの視線は何度も部屋の奥へ向いてしまう。
白い布を掛けられた一枚の石版。
「……お母様の石版ですね」
「あ、はい……」
エマは膝の上で手を重ね、小さく息を吐いた。
「母が急に亡くなって…そしたら石版が見つかったんです」
少し俯き、続ける…
「…何か、伝えたいことがあったのかなって…」
クラルは静かに頷いた。
「……分かりました。」
その声は柔らかく、相手の悲しみにそっと寄り添うようだった。
少しだけ紅茶を口に含んでから、クラルは石版へ目を向ける。
「読めるかどうかは……石版に聞いてみます」
「石版に……?」
エマが不思議そうに目を丸くする。
「はい。無理に開くものじゃないので」
「もっと……魔法みたいなものだと思っていました」
クラルは少しだけ笑った。
「そう見えるかもしれません」
カップを静かにソーサーへ戻す。
「でも、私は石版を開くんじゃありません」
「……?」
「石版が、話してもいいと思ってくれた時だけ、言葉は姿を見せてくれるんです」
エマはその言葉を聞いて、ゆっくりと石版へ視線を移した。
ーー
部屋の中央。
白い石版が静かに置かれていた。
クラルはその前に座る。
そして、そっと両手を添えた。
冷たい。
そう思ったのは、一瞬だけだった。
じんわりと…
小さな温もりが伝わってくる。
クラルの瞳が、静かに揺れた。
空白だった石版の表面がやがて一冊の本の姿へと静かに形を変えていった。
死者の記憶が綴られた、たった一度だけ読める本。
石版の向こう側。
クラルはエマの手を引き寄せた!
エマは何が起きているのか分からず、ただ息を呑んだ。
湯気の匂いがした。
鍋の音が聞こえる。
夕暮れが小さな窓から差し込む。
クラルの外套と二本のおさげがふわりと揺れた。
音が満ちる。
香りが満ちる。
まるで、そこに本当に夕暮れの台所が現れたようだった。
小さな鍋。
夕暮れ時のカシャカシャと賑やかな台所だ。
幼いエマが、椅子に乗って笑っている。
「みて、お母さん!まるくできた!」
小さな手で作った不格好なハンバーグ。
「ふふ、上手よ、エマ」
母親が笑う。
焼きたてのスコーン。
少し焦げかけた卵焼き。
粉だらけのテーブル。
何気ない日々。
クラルはゆっくりと目を閉じた。
「お母様は、この時間が大好きだったんですね」
エマの胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「お母さん……こんなことを大切に思っててくれたんだ…」
エマの頬を涙が伝った。
クラルは静かに石本をエマへ差し出す。
「どうぞ。」
エマは両手で受け取り、壊れ物を抱くように胸へ抱きしめた。
その温もりを確かめるように。
やがて石本は、さらさらと白い砂となって崩れ落ちていく。
それでもエマは最後の一粒まで、大切そうに抱き続けていた。
ーー
しばし想いに更けた後…
エマが、はっとしたように顔を上げた。
「あ!…」
急いで立ち上がる。
向かった先は、本棚だった。
奥から取り出したのは、一冊の古いノート。
擦り切れた表紙。
丸くなった角。
何度も開かれた跡がある。
「これ、お母さんの料理のレシピノート!」
エマは確かめるようにページをめくる。
ハンバーグ。
スコーン。
煮込み料理。
どれも見覚えのある料理ばかりだった。
そして…!?
ページの間から、はらりと一枚の紙が落ちた。
エマはそれを拾う。
そこには、母親の字でこう書かれていた。
ーーーーー
エマへ
元気がない日は、あなたの好きな、お肉とじゃがいもとにんじんの煮込みに、お砂糖を少しだけ多めに入れて作るの。
甘い料理は、心を元気にする魔法の食べ物よ!
そしてちゃんとご飯は食べなさい。
泣きたい日も、眠れない日も、まずは温かいものを食べなさい。
あなたがどこの町にいても、お母さんの味は、あなたの味方です。
ちゃんと食べるのよ!
それから、食べたらすぐ寝るの。
辛い事や悩み事は起きてから考えればいいから。
大抵の事はそれで解決するものよ。
それでも、もし、ご飯が食べられないなら、少し抱えすぎかな?
頑張るのはいいけれど、ご飯を食べられる心のゆとりや時間を作る事は絶対!!
あなたらしく生きればいいから…
何事も程々に。
とりあえず誰かと一緒にご飯を食べなさい!!
母より
ーーーーー
エマの肩が震えた。
「……なんで、見透かされてるんだよ」
声が掠れる。
「私、疲れてたんだな…」
ぽつり、と零れる。
「仕事も、生活も……ちゃんとしてるふりばっかりして」
紙を胸に抱きしめる。
「帰ってこなかったのに……ずっと、お母さん想っててくれたんだ」
クラルは何も言わなかった。
ただ、そばにいた。
ーー
その夜。
久しぶりに、エマは台所に立った。
鍋の中で、肉とじゃがいもとにんじんが、ことこと音を立てている。
少しだけ多めの砂糖。
母が書いていた通りに。
湯気が立ちのぼる。
懐かしい匂いが、台所いっぱいに広がった。
遅いから今夜は泊まっていくといいと言われたクラルはエマと一緒にそれを食べた。
その瞬間。
エマから涙が、ぽろりと落ちた。
「……甘い」
クラルも、小さくスプーンを口に運ぶ。
そして。
エマとクラルは、顔を見合わせた。
「甘いですね」
「甘いね」
声が揃った。
一瞬の沈黙。
それから、二人とも笑った。
「あはは」
エマは声を出して笑った!
「でも美味しい!!」
「はい、とっても美味しいです!!」
とクラルは言った
外では、春の風が窓を揺らしている。
石本が見せてくれたのは、特別な秘密ではなかった。
宝物でも、隠された真実でもない。
小さな台所。
焦げかけたハンバーグ。
焼きたてのスコーン。
並んで料理をした、母と娘の時間。
それが今、ひと皿の料理になって、エマを支えていた。
クラルは静かに湯気を見つめてポツリと話す。
「…本って、不思議ですね」
エマが顔を上げた。
「石でできていても、紙でできていても」
クラルは、少しだけ微笑む。
「ちゃんと、人を温めるんです」
エマは頷いてほぼ真っ暗な窓の方を見た…
窓の向こう。
ベルカ村の夜空には、柔らかな煙がゆっくり溶けていた。
温かいご飯は、どうしてこんなに人を元気にするのだろう。
ーー誰かを想って作られた料理には、
言葉にならない優しさが宿るのかもしれない。
ーー
夜は静かに更けていった。
久しぶりにたくさん話したからだろうか。
エマは少しだけ晴れやかな顔をしていた。
「本当にありがとうございました」
「いえ、ご飯をご馳走になったうえに一晩泊めていただくことになってしまって…ありがとうございます!」
クラルもお礼を言った
「またベルカ村に来てください」
「その時は迷わず来られるように頑張ります」
「絶対迷いますよね?」
「たぶん」
二人は笑った。
そんな他愛もない会話を交わしながら、クラルは、その夜をエマの家で過ごした。
ーー
翌朝。
春の光が村を照らしていた。
鳥の声。
パンを焼く香り。
遠くで鳴る鐘の音。
ベルカ村は今日も穏やかだった。
「それじゃあ」
大きなカバンを肩に掛けながら、クラルは手を振る。
「本当にありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。なんだか夢のような1日でした!またいつでも遊びに来てくださいね!」
エマも笑顔で手を振った。
昨日より少しだけ柔らかな顔だった。
その姿を見届けてから。
クラルはベルカ駅へ向かった。
ーー
蒸気機関車の発車時刻までは、まだ少しある。
クラルがホームへ足を踏み入れた、その時だった。
「……?」
人だかり。
駅員まで集まっている。
ざわざわとした空気。
クラルは首を傾げながら近づいた
輪の中心には、一人の男性がいた。
年は三十代くらいだろうか。
旅装のコート。
疲れた顔。
そして、その腕の中にはーー
割れた石版。
石本になる前の白い石。
それが、真っ二つに砕けていた。
男は、それを大切なものを扱うように抱えている。
まるで。
失いたくない何かを抱き締めるように。
「誰か…」
男の声が聞こえた。
「誰か、石版を直せませんか…」
ホームに沈黙が落ちる…
誰も答えられない。
石版は、一度壊れれば終わりだ。
それが常識だった…
その時!!
人混みの向こうから、ゆっくり声がした。
「……見せてもらってもいいですか?」
低く落ち着いた、でもはっきり声。
振り返る人々。
クラルも思わず視線を向ける。
そこに立っていたのは。
煤で汚れた工具鞄を肩から提げた青年だった。
風に揺れる髪。
首元には古びたゴーグル。
そして。
どこか疲れたような瞳。
青年は砕けた石版を見つめながら言った。
「壊れた石本ならーー」
静かに…
『僕が綴じます』
春の風がホームを吹き抜けた。
白日の石刻 (リトグラフ・ヴェリタス)
それは、
死者が最後に綴る、生者への手紙。
第三話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
今回のお話では、「ご飯を食べる」という当たり前の時間が、誰かを支える大切な記憶になることを描いてみました。
お母さんのレシピも、料理も、石本手紙も…
どれも「想いを届けるもの」という意味では同じなのかもしれません。
そしてラストには、新たな人物が登場しました。
「僕が綴じます。」
次回からは、修復士シグとの新たな物語が始まります。
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明日、明後日も20時10分に投稿しますのでもらしくお願いします!!
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