二つのカップ
今週もあっという間に金曜日ですねー。
ガレフがいなくなった作業場。
届いたのは、決して綺麗とは言えない文字で書かれた、一通の手紙でした。
残された人は、すぐに前を向けるわけじゃない。
それでも、止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き始めます。
作業場のテーブルの上に、開いたままの封筒と、何度も読み返された手紙が置かれていた。
便箋の端が、少しだけ折れている。
窓から差し込む朝の光の中を、細かな埃がゆっくりと舞っていた。
工具。
煤のついた布。
読みかけの本。
片付ける者のいない作業場は、以前よりもずっと散らかっているはずなのに、妙に広く感じられた。
シグは椅子へ深く腰掛けたまま、ぼんやりと天井を見上げる。
ガレフがいた頃は、食事を終えた食器をそのままにしていると、すぐに怒鳴られた。
『食ったら片付けろ。工具より先に腐るぞ』
「食器は工具じゃねえだろ」
そう言い返すと、
『分かってるなら片付けろ』
決まって、そんな答えが返ってきた。
けれど、一人になってからは、適当に水で濯いで、次の食事にも同じ皿を使う。
洗ったとは言えないカップが、作業台の端に二つ置かれている。
なぜ二つあるのか。
自分でも分からない。
昔から使っていた癖で、無意識に二人分を出してしまったのかもしれない。
シグは片方のカップを見つめ、眉間に皺を寄せた。
「……ダメだな。こんな生活じゃ」
返事はない。
分かっている。
それでも、つい返事を待ってしまう。
静かすぎる作業場の中で、壁に掛かった古い時計の音だけが響いていた。
カチ。
カチ。
シグは小さく息を吐き、テーブルの上の手紙へ視線を戻す。
二、三日前に届いたものだった。
差出人は、クラル。
便箋に並ぶ文字は、決して綺麗とは言えない。
ところどころ大きさが違い、行も少しずつ曲がっている。
きっと何度も書き直したのだろう。
消した跡や、インクの滲んだ場所がいくつも残っていた。
シグは、もう一度最初から読み始める。
ーーシグへ。
私は、ノアと旅に出ることにしました。
そして、私は、シグとも一緒に旅をしたいと思っています。
ガレフとシグのお話を聞くのが、私はいつも大好きでした。
二人が言い合いをしていると、少し怖い時もあったけれど、本当はお互いを大切にしていることが分かって、私はいつも面白くて笑います。
だから。
今度は私たちと、一緒に旅をしましょう!
そこまで読んで、シグは小さく鼻を鳴らしたーー
「…子供の作文かよ」
内容も。
文字も。
言葉の選び方も。
十六歳の少女が書いたにしては、あまりにも飾り気がない。
けれど、その先へ目を移すと、シグの表情から少しずつ笑いが消えていった。
ーー私は、ガレフが亡くなった時、怖くなって逃げようとしました。
助けたかったのに、足が動きませんでした。
今でも、あの時のことを思い出します。
もし私にもっと力があったら。
もっと勇気があったらって思います。
ガレフを助けられたのではないかと思います。
でも、ステラおばあちゃんは、怖いと思うことは悪いことじゃないと言ってくれました。
ノアも、私のそばにいてくれました。
だから私は、怖かった自分をなかったことにはしたくありません。
逃げようとした私も、ガレフを助けたかった私も、どちらも私だからです。
シグは、手紙を持つ指に少しだけ力を込めた。
あの日。
丘の上で。
クラルが震えていたことは気づいていた。
自分だって、何もできなかった。
師匠が倒れる姿を見ていることしかできなかった。
それなのに、クラルは自分だけを責めていた。
手紙は続いている。
――私は、自分の能力が何のためにあるのか、まだ分かりません。
亡くなった人の記憶を読むことが、本当に正しいのかも分かりません。
知らなくてもいいことを、知ってしまうかもしれません。
誰かを傷つけてしまうかもしれません。
それでも私は、知りたいと思いました。
自分のことも。
この力のことも。
石本に残された人たちのことも。
そして、今度こそ。
私のそばにいる大切な人が苦しんでいる時、何もできずに立っているだけの人間にはなりたくありません。
私は、大切な人を守れる人間になりたいです。
だから、ノアとシグと旅がしたいと思いました。
一緒に行こう!!
シグは、しばらく動かなかった。
手紙の最後には、余白が無くなってきて、さらに小さな文字で、こう付け加えられていた。
ーーそれから、ちゃんと食事をしてください。
ステラおばあちゃんが、シグは一人だと適当な物しか食べないんじゃないかと言っていました。
ノアも同じことを言っていました。
私もそう思います。
旅に出れば、みんなで食事ができます。
私のパンも分けてあげます。
たぶん、その方がいいと思います。
だからシグも一緒に行きましょう
「……余計なお世話だ!なんだコイツ」
呟いた声は、ほんの少しだけ震えていた。
シグは便箋をテーブルへ戻し、目元を片手で覆った。
「……真っ直ぐすぎんだろ」
シグは目元を覆ったまま、苦笑した。
「どっかのジジイみてえだ」
不器用なくせに。
うまい言葉なんて一つも知らないくせに。
後悔も。
迷いも。
怖さも。
仲間を思う気持ちも。
全部、隠さずにぶつけてくる。
まるであのジジイみたいに。
『お前はどうしたい』
いつも最後には、そう聞いてきた。
答えを教えることはなかった。
どれだけ迷っていても。
どれだけ間違っていても。
自分で決めろと、背中を乱暴に押すだけだった。
シグは少し目を細めた。
笑ったようにも見えた。
泣くのを堪えているようにも見えた。
それから、作業台の奥へ手を伸ばす。
そこには、小さな硝子瓶が置かれていた。
瓶の中に入っているのは、ガレフの石本が崩れた後の砂だった。
淡い光を失った、ただの白い砂。
けれどシグにとっては、そこに確かにガレフがいる。
「ジジイ」
瓶を持ち上げる。
「俺、行っていいよな」
静かな作業場に、声だけが落ちた。
当然、返事はない。
シグは瓶を見つめたまま、わずかに口元を緩める。
「……いや」
「聞かなくても分かるわ」
あんたならこう言うか!
『悪くねえ』
『行ってこい』
そして、きっと最後に。
『食器くらい洗ってから行け』
そんな言葉まで聞こえた気がして、シグは思わず吹き出した。
「うるせえよ」
笑った声は、途中で少し掠れた。
瓶をそっと作業台へ戻す。
もう一度、手紙を開く。
最後の一文へ目を落とした。
ーー私は、大切な人を守れる人間になりたいです。
その文字を、親指でゆっくりとなぞる。
「悪くねえ」
シグは小さく呟いた。
「手ぇ貸してやるか」
便箋を丁寧に折り直し、封筒へ戻す。
雑に扱われていた手紙を、今度は壊れ物に触れるように胸ポケットへしまった。
そして立ち上がる。
椅子の背に掛けていた上着を取り、煤に汚れた工具鞄を持ち上げた。
扉へ向かいかけて。
ふと足を止める。
作業台の上には、濯いだだけの皿と、二つのカップが残されていた。
シグはしばらくそれを眺める。
「……分かったよ」
誰に言うでもなく呟くと、食器をまとめて抱えた。
その日。
ガレフがいなくなってから初めて。
作業場の流し台から、食器を洗う水の音が聞こえた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、シグのお話でした。
ガレフがいなくなった作業場に残された、二つのカップ。
頭ではもういないと分かっていても、身体はまだ、二人で暮らしていた頃のまま。
そんなシグのところへ届いた、クラルからの手紙でした。
「俺、行っていいよな」
きっとシグは、ガレフから答えを聞きたかったんだと思います。
でも、、
ガレフなら、答えを教えてはくれない。
最後に決めるのは、いつだって自分自身だから。
そしてシグが最初にしたことは、旅支度でも、工具を磨くことでもなく。
ずっと放っていた食器を洗うことでした。
ほんの小さなことですが、シグにとってはきっと、大きな一歩だったんじゃないかなと思います。
そして、ここからまた物語が動き始めます。
クラル。
ノア。
そして、シグ。
三人の旅は、この先どこへ向かうのか。
そして彼女たちが触れていく、百年前に残された記憶とはーー
『白日の石刻』は毎週
金・土・日 20時10分
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今日は金曜日!
ということで、今週もここから3日間よろしくお願いします!
明日、土曜日の20時10分にまたお会いしましょう!
「続きが気になる!」
「シグ、行ってこい!」
と思っていただけましたら、
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いつも読んでくださって、本当にありがとうございます。




