忘れていたぬくもり
今週も『白日の石刻 -Claris Epitaph-』を読みに来てくださってありがとうございます。
今回は、かなり大切な回です!!
ガレフが遺した石版。
そして、これまで少しずつ描いてきたシグとガレフの関係、その始まりと《忘却綴理》に込められていた本当の意味が明らかになります。
失ったものは戻らない。
それでも、忘れてしまった記憶まで失われたままとは限らない。
そんな回になっています。
少し静かで、少し長めのお話ですが、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
静かな廊下。
窓から差し込む夕暮れの光が、古い木の床を赤く染めていた。
ギシ……。
誰かが体重を移しただけで、警察庁の古びた廊下が小さく軋む。
シグは、その音にすら反応しなかった。
胸には、一枚の石版を抱えている。
つい数時間前までーー
それは、ガレフだった。
少し離れた場所に佇むクラルを見つめると、シグは小さく息を吐いた。
「……クラル」
呼ばれて、クラルが顔を上げる。
シグは胸に抱えた石版へ視線を落とした。
しばらく何も言わない。
いや…言えなかった。
それでも、ようやく絞り出す。
「頼む」
少しだけ震えた声だった。
「この石版……本にしてくれないか」
その言葉に、誰も声をかけられなかった。
ノアも。
オスカーも。
ステラも。
ファントムも。
ただ、シグの腕の中にある石版を見つめていた。
クラルは静かに頷く。
「うん」
そして、ほんの少しだけ柔らかく続けた。
「空いている部屋を借りよう」
警察署長も事情を察したのか、何も聞かなかった。
ただ一度だけ石版へ目を向けると、
「……こちらを」
それだけ言って、一室を貸してくれた。
ーー
部屋には、重たい静寂だけが流れていた。
窓の外では太陽が傾き、街並みをゆっくりと茜色へ染め始めている。
遠くからーー
ポォォォ……。
蒸気機関車の汽笛が、小さく聞こえた。
机の中央。
そこへ、ガレフの石版が置かれる。
シグは一歩離れた場所に立ったまま、何も言わなかった。
クラルは黒い外套を整え、石版の置かれた机の前へ静かに立つ。
両手で石版を持ち上げる。
胸へ抱く。
冷たい。
その冷たさが、嫌だった。
ガレフの笑い声が脳裏に蘇る。
「ほれ、飯はちゃんと食え」
「寝坊助! おい、早く起きろ!」
うるさくて。
ぶっきらぼうで。
いつも何かに文句を言っていた。
つい数時間前まで、当たり前のように聞いていた声だった。
なのに。
もう二度と聞くことはできない。
クラルは唇を強く噛み締める。
石刻する者は。
依頼人の前で。
死者の前で。
感情に呑まれてはいけない。
そう何度も、自分に言い聞かせる。
それでもーー
閉じた瞼の奥から、堪えきれなくなった雫が零れ落ちた。
ぽたり。
一粒の涙が、石版へ落ちる。
その瞬間だった。
淡い白い光が広がった。
机を。
壁を。
そこにいる全員を。
部屋中を優しく包み込んでいく。
石版の輪郭が、ゆっくりと変わり始める。
硬い石だったはずのそれが…
やがて、一冊の本の形に姿を変えた。
誰も息をしない。
誰も目を逸らさない。
そしてーー
ガレフの記憶が流れ始めた。
……寒かった。
雪だった。
白いはずの雪が、ところどころ黒く汚れている。
焼け焦げた村。
崩れた家。
折れた柱。
誰もいない。
その中を、一人の男が歩いていた。
若い頃のガレフだった。
今より背筋は伸びている。
髪も黒い。
だが、不機嫌そうな顔だけは何も変わらない。
「……ちっ」
舌打ちをする。
「戦争なんざ、大嫌いだ」
その時だった。
ガサッ。
瓦礫の陰から、小さな影が出てきた。
七、八歳ほどの少年。
顔は煤だらけ。
服は破れ、裸足の足は泥に汚れている。
寒さなのか。
恐怖なのか。
小さな身体を震わせながら、泣いていた。
「……」
ガレフは眉間に皺を寄せる。
「ガキか」
少年は何も言えない。
ガレフを見るだけだった。
「……あっち行け」
しっしっ、と手を振る。
すると少年の顔が歪み、その場で泣き出した。
「う……っ」
「だからガキは嫌いなんだ」
ガレフは背を向けた。
歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩、、
……進めない。
「……?」
振り返る。
小さな手が、ガレフのズボンの裾をぎゅっと掴んでいた。
震えている。
泣くのを必死で我慢している。
それでも、離さない。
「……」
その目だけは、真っ直ぐガレフを見上げていた。
ガレフは空を仰ぐ。
そして、深く深くため息をついた。
「ったく……」
大きな手が伸びる。
少年がびくっと身体を縮める。
だが、その手は少年の頭へ乗った。
ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。
「お前、名前は?」
少年は首を横に振った。
「分からねぇのか?」
もう一度、首を振る。
「忘れたか」
若いガレフは腕を組んだ。
少し考える。
「……シグ」
少年が首を傾げる。
「なんとなくだ」
「……?」
「職人っぽい名前だろ」
何の根拠もない。
そう言って、ガレフは豪快に笑った。
ーー
そこから流れる景色は、もう戦争ではなかった。
小さな工房。
ぎこちない共同生活。
料理を焦がすシグ。
「煙出てんじゃねぇか!」
「……食べられる」
「食えるか馬鹿!」
木槌で自分の指を叩いて泣くシグ。
「うぅ……」
「石じゃなくて自分の指直してどうすんだ!」
重い石版を持ち上げようとして、そのまま後ろへ転ぶシグ。
ドンッ!
「痛っ!」
「馬鹿野郎!」
怒鳴りながらも、ガレフは真っ先に駆け寄る。
全部。
全部ーー
ガレフが「馬鹿野郎」と言いながら笑っていた。
「違う違う!」
ガレフがシグの手から木槌を取り上げる。
「石は叩くんじゃねぇ」
石版へ手を添える。
「聞くんだよ」
「……聞く?」
「そうだ」
幼いシグは本当に耳を近づけた。
「馬鹿! 本当に耳を当てる奴があるか!」
「だって聞けって……!」
「そういう意味じゃねぇ!」
怒鳴り声のあと。
二人の笑い声が工房に響いた。
いつも怒鳴ってばかりだった。
だがーー
夜になると、蹴飛ばした毛布を掛け直した。
風邪を引けば、苦い薬を飲ませた。
「嫌だ」
「飲め」
「苦い」
「知るか」
「嫌だ」
「ガキが薬と喧嘩してんじゃねぇ!」
そう怒鳴りながら、一晩中そばにいた。
シグが眠るまで隣に座っていた。
眠ったあと。
ガレフは小さく笑う。
「……ったく」
眠っているシグの頭を撫でる。
「こいつが来てから、暗いのに朝になりやがる」
そんな日々。
ある日。
少し大きくなったシグが工房へ駆け込んでくる。
「おじいちゃーん!」
ガレフの眉がぴくっと動いた。
「いつも言っているが、誰がおじいちゃんだ」
「おじいちゃん」
シグが指を差す。
「俺はまだ若ぇ」
「おじいちゃん」
「ぶん殴るぞ」
「あはは!!」
シグが笑う。
ガレフも、結局笑った。
石本の中。
その光景を眺めていたガレフが、ぽつりと呟く。
「……可愛かったな」
少し照れ臭そうに鼻を擦る。
「お前がおじいちゃんって呼ぶの」
そして、笑った。
「それだけは……忘れなかったぜ」
ーー
景色が変わる。
修復工房。
少し成長したシグが、ガレフの向かいに座っている。
ガレフは珍しく真剣な顔をしていた。
「シグ」
「なんだよ」
「修復士が二人一組なのはな」
少し間を置く。
「俺達が死んだ時、記憶を返すためだ」
シグが頷く。
「能力を使うたびに、何かしら記憶を失う」
「だから二人なんだろ?」
ガレフは一瞬黙った。
そしてーー
「……そう思ったか?」
にやりと笑う。
「やっぱりガキだな!」
「はぁ!?」
豪快な笑い声が響く。
やがてガレフは、机の上の石版へ手を置いた。
「《忘却綴理》はな」
その声が、少しだけ真剣になる。
「死んだ修復士の能力と記憶を、石本へ繋ぐ能力なんだ」
シグが目を見開く。
「修復の仕事も、それの応用なんだよ」
ガレフは自分の手を見る。
「俺も師匠から受け継いだ力だ」
そして。
シグを見る。
「今度は、お前の番だからな」
「……俺の?」
「ああ」
ガレフは笑った。
「できることなら、シグも弟子を取れよ」
「俺が?」
「お前以外に誰がいる」
「無理だよ。ガキなんて面倒くさい」
「そうか?」
ガレフが楽しそうに笑う。
「案外……いいもんだぜ」
その目はーーシグを見ていた。
ーー
やがて。
景色が消えていく。
工房も。
石版も。
幼いシグも。
すべてが白い光の中へ溶けていく。
最後に残ったのは、ガレフ一人だった。
ガレフは頭を掻いた。
「本にしてくれたのは……きっとクラルだろ?」
クラルが息を呑む。
ガレフは笑った。
「ありがとう」
その一言に。
クラルの目から、また涙が零れた。
「最後に頼みがある」
ガレフは真っ直ぐこちらを見る。
「シグに、」
「石本を触れさせてやってくれ」
そして。
今までで一番優しい顔で笑った。
「返してやりたいんだ」
「あいつが忘れちまったものを」
「全部」
「全部ーー返してやりたい」
ーー
光が弱まる。
クラルは涙を拭いた。
そして、静かに頷く。
「……うん」
机の上に残された石本を持ち上げる。
シグの前へ歩いていく。
「シグ」
差し出す。
シグはしばらく、その本を見つめていた。
手を伸ばす。
だがーー触れる寸前で止まった。
震えている。
「……怖い?」
クラルが小さく聞く。
シグは首を横に振った。
「違う」
唇を噛む。
「……どれだけ忘れてるのかって思っただけだ」
そして。
震える指先が…石本へ触れた。
その瞬間。
眩い碧の光が弾けた。
「……っ!」
部屋いっぱいに広がっていく。
けれど。
眩しいのに、不思議と目を閉じたくならない。
温かい。
春の日差しのような光だった。
その光と共にーー
忘れていた記憶が、一気にシグの中へ流れ込んでくる。
工房で眠ってしまった夜。
目を覚ました時には、ガレフの背中にいた。
「起きたか、寝坊助」
大きな背中。
揺れる歩幅。
夜中に熱を出した日。
額に置かれた冷たい布。
何度も水を替えるガレフの手。
「……死ぬなよ」
「風邪で死なないよ……」
「うるせぇ。寝ろ」
失敗して泣いた日。
「向いてない……俺、修復士なんて無理だ」
「一回失敗したぐらいで何言ってやがる」
「でも……」
「明日もう一回やれ」
初めて修復が成功した日。
酒場。
ガレフが大きなジョッキを机へ置いた。
「今日は祝いだ!」
「俺、まだ酒飲めないけど」
「俺が飲むんだよ!」
「なんでだよ!」
大声で笑った。
あの大きな背中。
あの手。
あの声。
全部。
全部。
思い出した。
「……っ」
声にならない。
シグの膝が震える。
「……なんだよ」
涙が落ちる。
「なんだよ……これ……」
次から次へと。
止まらない。
「俺……」
こんなに。
こんなにもーー
愛されていた。
「……っ、ジジイ……!」
部屋の隅では、ノアが静かに涙を拭っている。
クラルも泣いていた。
オスカーは顔を伏せ。
ファントムもフードを深く被っていた。
ステラだけは。
真っ直ぐ、シグを見つめていた。
長い沈黙。
「こんなに……」
シグが震える声で呟く。
「こんなにしてもらってたのに……」
拳を握る。
「今……思い出すのかよ……」
悔しかった。
もっと早く思い出したかった。
生きているうちに。
ありがとうと言いたかった。
でも。
もう、いない。
シグは袖で乱暴に涙を拭った。
そして、立ち上がる。
拳を強く握る。
「俺……もっと強くなるよ」
誰もいない場所へ向かって。
それでも。
きっと届くと信じるように。
「ジジイ!」
声が震える。
「今度は俺が繋ぐ」
ステラがゆっくり頷いた。
「……うん」
クラルも涙を浮かべながら笑う。
ノアも静かに微笑み、小さく頷いた。
シグもただ…泣きながら、少しだけ笑った。
碧い光が静かに消えていく。
役目を終えた石本の輪郭が、さらさらと崩れ始めた。
淡い砂となって、シグの手の中へ落ちていく。
部屋には再び、夕暮れの柔らかな光だけが残った。
誰もすぐには口を開けなかった。
シグは残された砂を両手で包み込み、ゆっくり息を吐く。
「……ありがとう」
その一言だけだった。
しばらくして。
ノアが、シグの手の中に残された砂へ視線を落とす。
少しだけ首を傾げた。
「シグ?」
「……ん?」
「最後に残された言葉なら……」
ノアは自分の手を見る。
「《灰読》で今、お伝えできますよ?」
部屋の空気が、少しだけ張りつめた。
ガレフが死ぬ間際。
最後に残した言葉。
シグは砂を見つめたままーー
小さく首を横に振った。
「……いや」
「まだいい」
クラルが不思議そうに見上げる。
「聞かなくていいの?」
「ああ」
シグは少しだけ口元を緩めた。
「ジジイのことだ」
鼻をすすりながら笑う。
「どうせ最後まで偉そうに説教するか…」
少し考える。
「「酒持ってこい」とか言い出すに決まってる」
一瞬の静寂。
そして。
「……ふふっ」
クラルが吹き出した。
ノアも小さく肩を震わせる。
オスカーも口元を押さえた。
ステラは呆れたように笑う。
「なるほどね」
「確かに、ガレフなら言いそうだ」
部屋に。
久しぶりの笑い声が広がった。
ほんの少し前まで。
涙しかなかった部屋に。
シグは手の中の砂を、そっと包み直した。
「もう少しだけ……」
小さく呟く。
「このまま持っていようと思う」
夕日が窓から差し込み、ガレフだった砂を優しく照らす。
急がなくていい。
最後の言葉はーー
きっと。
また、おじいちゃんに会いたくなった日に聞けばいい。
シグは、そんな気がした。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
今回はずっと書きたかった、ガレフとシグの回でした。
ぶっきらぼうで、口も悪くて、いつも「馬鹿野郎」と怒鳴っていたガレフ。
でもシグが忘れていた時間の中には、ちゃんとたくさんの優しさが残っていました。
そして最後の言葉は、まだ聞きません。
いつかシグが、もう一度「おじいちゃんに会いたい」と思った日に――その時まで取っておこうと思います。
今週もここから三日間です!
土曜日・日曜日も20時10分に更新予定です!
物語はいよいよ、大きく広がって進んでいきます。
続きも読んでみたいと思っていただけたら、ブックマーク・評価で応援していただけると本当に励みになります!
それでは、また明日20時10分に。




