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22/24

朝焼けに残るもの

今回は、グラニス編の中でも大きな転換点となる回です。


これまで誰かに守られることの多かったクラルが、

怖くて、逃げたくて、それでも初めて誰かの前に立とうとします。


そしてシグとガレフにも、大きな瞬間が訪れます。


静かな夜明けから始まる今回。

朝の光と、その中で起きる出来事の対比も感じてもらえたら嬉しいです。


朝は、まだ完全には明けていなかった。


空の端だけが薄く白み始め、夜の青がゆっくりと街の屋根から溶けていく。


冒険者ギルド併設の宿の前では、すでに出発の準備が始まっていた。


朝露に湿った石畳が、靴音を受けるたび淡く光る。


荷物を背負い直す音。

革袋の留め具を確かめる音。

短く交わされる挨拶。


その気配に驚いたのか、軒先で眠っていた小鳥たちが一斉に羽ばたいた。


ぱたぱた、と小さな翼の音だけが、まだ眠る街に広がっていく…


クラルは大きな斜め掛けの鞄を肩に掛け、白い息を吐いた。


「……朝、早いね」


「仕方ないね。狙われている可能性がある以上、人が少ない時間に移動する方が安全だから……」


ノアはそう言いながら、クラルの外套の襟元をそっと整えた。


その隣で、シグは工具鞄を肩に担ぎ直す。


「安全、ねぇ……昨日の今日で、安全も何もないけどな」


その声には、いつもの軽さがなかった。


少し離れた場所では、ガレフがぼんやりと空を見上げている。


昨日、《忘却綴理》の代償によって記憶を大きく削られた老修復士は、まだ足元すら危うい。


「ガレフさん、大丈夫?」


クラルが声をかけると、ガレフはゆっくりと振り返った。


「……大丈夫だ」


けれど、その目はどこか遠い。


シグが小さく舌打ちした。


「無理すんなよ、ジジイ」


「誰がジジイだ」


「ジジイだろうが」


いつもなら、すぐに返ってくるはずの軽口。


けれどガレフは少し遅れてーーふっと笑った。


「……そうだったな」


「…………」


シグの顔が、わずかに歪んだ。


オスカーは胸元に短剣を差し、緊張した面持ちで頭を下げる。


「皆さん、本当に申し訳ありません。私の依頼に巻き込んでしまって……」


「今さらだろ」


シグがぶっきらぼうに返した。


「ここまで来たら、最後までやるよ」


「……はい」


オスカーは強く頷いた。


今回は冒険者ギルドも最大限の対応をしてくれていた。


護衛として同行するのは三人。


全員がBランク冒険者。


一般的な旅の護衛ではない。


貴族の移動護衛にも近い布陣だった。


「戦士のガルドラだ」


大剣を背負った大柄な男が、豪快に笑う。


「見ての通り、前に出て斬るのが仕事だ。心配すんな。半端な連中なら俺がまとめて吹っ飛ばしてやる」


「魔法使いのレニーよ」


赤みのある髪を後ろで束ねた女性が、杖の先を軽く鳴らした。


「火属性が得意。離れた敵は私が相手をするわ。安心して後ろにいてちょうだい」


「盗賊のキース」


細身の青年が短剣を指先でくるりと回す。


「斥候、奇襲、罠の確認が俺の役目。ま、俺がいる限り、不意打ちなんてそう簡単には食らわないさ」


少し自慢げではあった。


けれど、嫌味ではない。


彼らは自分たちの実力を知っている。


その上で、依頼人を安心させようとしているのだ。


クラルは胸の前で手を握った。


「よろしくお願いします!」


「おう。任せとけ、お嬢ちゃん」


ガルドラが笑う。


その笑顔に、ほんの少しだけ空気が軽くなった。


ーー


一行は宿を後にした。


クラル、ノア、シグ、ガレフ、オスカー。


そして護衛のガルドラ、レニー、キース。


駅までの道は、まだ人通りが少ない。


店の扉は閉ざされ、煙突から上がる細い煙だけが、街が目覚め始めていることを知らせていた。


歩きながら、ガルドラが自分の武勇伝を話し始める。


「昔な、山賊十五人に囲まれたことがあってよ」


「またその話?」


レニーが呆れたように言う。


「いいだろ別に。安心させてやってんだ」


「十五人じゃなくて十二人だったでしょ」


「細けぇことはいいんだよ」


キースが肩を竦める。


「ちなみに最後に逃げた三人を追い詰めたのは俺だけどな」


「お前、そこだけは絶対に譲らないわね」


三人のやり取りに、クラルは小さく笑った。


怖くないわけではない。


けれど、こうして実力ある冒険者たちが前を歩いてくれているだけで、少しだけ心が落ち着いた。


――丘へ差しかかったのは、それからしばらくしてのことだった。


街道の途中にある、小高い岩場。


ごつごつとした岩肌…左右の見通しはいい。


遠くには駅へ続く道が、朝靄の向こうへ細く伸びていた。


キースが突然、足を止めた。


「……待て」


声色が変わる。


全員の足が止まった。


次の瞬間。


岩陰からーー五つの影が現れた。


全員が、黒い外套を頭から深く被っている。


顔は見えない。


外套の隙間から覗くのは、鈍く光る刃。


昨日、襲撃してきた賊。


その類いだ。


誰もが同時に悟った。


「下がれ!」


ガルドラが大剣を抜く。


レニーが杖を構えた。


キースはすでに短剣を逆手に持っている。


シグも一歩前へ出た。


その後ろで、クラルとノアはガレフの手を取る。


「ガレフさん、こっちへ!」


「……すまねぇな」


ガレフの足取りは重い。


昨日の代償は、記憶だけではなく身体にも確実に残っていた。


オスカーが短剣を抜き、クラルたちの前へ立つ。


だが、その手は震えていた。


クラルも。


ノアも。


ガレフも。


そしてオスカーも。


戦う者ではない。


――守られる側だった。


黒い外套の者たちは、何も言わない。


ただ。


一歩。


また一歩。


こちらへ歩いてくる。


その沈黙が、何より不気味だった。


「やるぞ!」


ガルドラが地面を蹴った。


――その瞬間。


黒い外套の一人が、消えた。


そう見えた。


「え……?」


クラルが声を漏らした直後。


鮮血が散った。


ガルドラの大剣が、手から落ちる。


がらんーー。


乾いた音が、丘に響いた。


ガルドラは信じられないという顔のまま、自分の胸元を見下ろす。


そして。


膝から崩れ落ちた。


「ガルドラ!!」


レニーの叫びが響く。


返事はない。


ついさっきまで笑っていた男が。


石畳の上で、動かない。


「炎よ、槍となりてーー!」


レニーは震える声で詠唱を始めた。


それでも、判断は早かった。


「《ファイアランス》!!」


炎の槍が放たれる。


黒い外套の一人を直撃した。


火柱が上がる。


一人が倒れる。


しかし。


「後ろだ!!」


キースが叫んだ。


レニーが振り返る。


――遅い。


すでに別の黒い外套が、懐へ入り込んでいた。


短い刃が、彼女の腹部を貫く。


「……っ」


杖が手から滑り落ちた。


何かを言おうと唇が動く。


けれど。


声にはならなかった。


レニーが倒れる。


「ふざけんな!!」


キースが飛んだ。


岩を蹴る。


黒い外套の死角へ回り込み、短剣を首筋へ走らせる。


一人。


確かに仕留めた。


だがーー。


「キース!!」


別の大男が腕を振るった。


まるで、虫でも払うように。


鈍い音。


キースの身体が宙を舞う。


岩壁へ叩きつけられーー


そのまま、動かなくなった。


ほんの数十秒。


Bランク冒険者三人が、崩れた。


クラルは、呼吸の仕方を忘れていた。


血の匂い。


鉄の匂い。


朝露に濡れた石畳へ、赤が広がっていく。


「……なんで」


声が震えた。


護衛じゃなかったの?


強いんじゃなかったの?


Bランクって、すごいんじゃなかったの?


なのに。


なんで、こんな簡単にーー


足が震える。


心臓が痛いほど鳴っている。


――逃げたい。


その言葉が、頭に浮かんだ。


逃げなきゃ。


ここにいたら死ぬ。


私はただ依頼を受けただけ。


石刻をしただけ。


こんなの知らない。


私には関係ない。


怖い。


怖い。


怖い。


逃げたい。


その時だった。


ぎゅっ。


握っていた手が、小さく震えた。


ノアの手だった。


クラルは、はっと隣を見る。


ノアも震えていた。


いつも静かで。


優しくて。


クラルよりずっと落ち着いているノア。


この間、あんなにも恐ろしい力を見せたノア。


そのノアが震えている…


それでも。


ノアは、クラルの手を離さない。


汗で濡れた手を。


震えながら、ぎゅっと握り返してくれている。


そして。


優しい目でクラルを見ていた。


――怖くても、ここにいるよ。


そう言っているようだった。


クラルの胸が、ぎゅっと痛んだ。


私は、何を考えた?


逃げようとした。


ノアを置いて。


ガレフを置いて。


シグを置いて。


オスカーを置いて。


死んでいった冒険者たちのことまで、見ないふりをして。


自分だけ。


「……違う、違う違う!!!」


クラルは小さく呟いた。


怖い。


今だって、逃げたい。


足だって震えている。


私は弱い。


だけど…


だけど!!


クラルはノアの手を、強く握り返した。


もう片方の手で、ガレフの外套を掴む。


「ノア。ガレフさん」


声は震えていた。


それでも、言った。


「私の後ろにいて」


「クラル……?」


ノアが目を見開く。


クラルは二人を庇うように、一歩前へ出た。


小さな身体で。


震える足で。


二人の前に立つ。


それで戦況が変わるわけではない。


黒い外套の者たちが怯むわけでもない。


自分に戦う力があるわけでもない。


それでも。


クラルは逃げなかった。


シグが一瞬だけ振り返る。


クラルと目が合った。


その瞳に、ほんの僅かな迷いが揺れる。


そして。


シグは両手を前へ翳した。


「……仕方ねぇか!」


両手が、淡い碧色に光り始める。


「……!」


クラルは息を呑んだ。


知っている。


その光を。


修復の光。


そして同時にーー


何かを失う光。


「シグ……だめだよ……」


声が漏れる。


だがシグは黒い外套を睨んだまま、手を下ろさない。


《忘却綴理》


――その瞬間。


敵が動いた。


速い。


シグの術が完成するよりも早く、刃が迫る。


「シグ!!」


クラルが叫んだ。


――だが。


その間へ、一つの影が滑り込んだ。


「え……?」


ガレフだった。


刃が。


老修復士の腹部を貫いた。


時間が止まった。


シグの瞳が、大きく見開かれる。


「……ジジイ?」


ガレフの口元から、血が零れた。


それでも。


ガレフは笑った。


いつもの。


歯を見せるような、不器用な笑い方だった。


「……弟子にばっか……」


息を吐く。


「背負わせる師匠が……いるかよ」


「……っ!」


ガレフの右手が、碧く光った。


シグのものより深く。


重く。


静かな光。


《忘却綴理》


碧い光が、黒い外套の一人を包み込む。


敵の身体から力が抜ける。


そのまま、崩れ落ちた。


けれど。


ガレフの身体も、大きく揺れた。


「ガレフ!!」


クラル、ノア、オスカーの声が重なる。


シグだけが動けなかった。


目の前で血を流す師匠を、呆然と見つめている。


「……なんで」


声が壊れる。


「なんでだよ……ジジイ……」


ガレフは答えない。


腹部から流れる血が、朝露に濡れた石畳を赤く染めていく。


それでも。


倒れない。


一歩。


また、一歩。


身体を引きずるように。


残る黒い外套たちへ向かって歩いていく。


その足跡には。


一本の赤い線が残った。


「ジジイ……!」


シグの声が震える。


「もういい!」


ガレフは止まらない。


「やめろよ!!」


その背中は、少しずつ遠ざかっていく。


「頼むから…頼むよ……!」


シグの頬を、涙が伝った。


「もう戦わなくていいから!!」


叫んでも。


ガレフは振り返らなかった。


ただ真っ直ぐに、敵だけを見ていた。


黒い外套の一人が、剣を握り直す。


狙いはーーシグ。


老人は、もう長くない。


ならば次に始末すべきは、能力を持つ修復士。


一気に間合いを詰める。


「シグッ!!」


クラルが叫ぶ。


だが。


シグはガレフしか見ていなかった。


避けられない。


刃が振り下ろされる。


その瞬間ーー


眩い白光が、丘を包んだ。


「ーーっ!?」


一瞬。


朝日そのものが爆ぜたのかと思った。


誰もが反射的に目を閉じる。


風が抜ける。


そして。


静寂。


クラルが恐る恐る目を開いた。


「……え?」


シグへ斬りかかろうとしていた男が、地面に倒れている。


その背後にいた最後の一人も。


何が起きたのか。


誰にも分からなかった。


ただ一人。


黒い外套を纏った、細身の男が立っていた。


風に黒衣が揺れる。


冷たい瞳が、倒れた者たちを一瞥した。


そして、ゆっくりとクラルたちを見る。


「大丈夫か」


低い声。


その一言で。


張り詰めていた空気が、ほんの僅かに緩んだ。


――助かった。


誰もが、そう思った。


「ジジイッ!!」


シグの悲鳴が、丘に響いた。


全員が現実へ引き戻される。


ガレフはーー


黒い外套の男たちの目前で、力尽きていた。


うつ伏せに倒れた身体へ、シグが駆け寄る。


「ジジイ!」


夢中で抱き起こす。


「おい! しっかりしろ!」


ガレフが苦しそうに咳き込んだ。


血が零れる。


「喋るな……」


シグが首を振る。


「もういい。何も言わなくていいから……」


ガレフの唇が、僅かに動いた。


「だから……喋んなって……」


シグの声が震える。


「お願いだから……もう……」


ガレフの目が。


ゆっくりと、シグを見る。


そして。


ほんの少しだけ。


いつものように笑った。


「……くそ……がき……」


「…………」


それが。


ガレフの最後の言葉だった。


「……ジジイ?」


返事はない。


「おい……」


シグが、ガレフの身体を揺らす。


「ジジイ……?」


クラルは動けなかった。


ノアも。


オスカーも。


誰も、声を出せなかった。


朝の丘を朝の光と風が抜けていく。


さっきまで聞こえていた小鳥の声さえ、今はもう聞こえなかった。


その沈黙の中。


黒い外套の男が、静かに口を開いた。


「私はファントム」


クラルが顔を上げる。


「国家図書館ーー司書官直属暗部」


男の黒い瞳が、クラル。


そしてノアへ向けられる。


「クラリス・エピタフ。ならびに灰読のノア」


黒衣が朝風に揺れた。


「君たちの《王国特別通行証》の使用を受け、冒険者ギルドから国家図書館へ早馬が走った」


一度、言葉を切る。


ファントムは倒れたガレフへ、ほんの僅かに視線を落とした。


「その報せを受けーー駆けつけた」


朝日が、ようやく丘の向こうから昇り始める。


夜が完全に終わる。


街が目を覚ます。


けれど。


クラルたちにとって。


その朝はーー


あまりにも多くのものを失った朝になった。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


「……くそ……がき……」


ガレフらしい言葉だったんじゃないかなと思っています。


そして今回、戦えるわけでも、特別な力を使えるわけでもないクラルが、それでもノアとガレフの前へ立ちました。


強くなったというより、怖いまま、それでも逃げなかった。


クラルにとっては、その一歩がとても大きなものだったと思います。


そして最後に現れた、国家図書館暗部のファントム


ここから物語は…


次回もお付き合いいただけたら嬉しいです!


『白日の石刻 -Claris Epitaph-』は

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また次のお話で。

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