魔女狩りの隠れ蓑
今回は、物語の核心へ少し踏み込む回です。
オスカーの曾祖父が残した石版。
そこに刻まれていたのは、流行病の裏で起きていた《魔女狩り》と、王国が隠そうとした過去でした。
そして、ようやく真実へ手が届きかけた、その瞬間――。
ここから物語が、少しずつ大きく動き始めます。
最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。
冒険者ギルド併設の宿、その二階の一室。
普段なら旅人が荷を下ろし、泥だらけの靴を脱いで、ようやく一息つくための部屋だ。
だが今、丸机の上には二つに割れた石版と、一冊の古びた石本が置かれていた。
階下からは、酒場を兼ねた食堂のざわめきが微かに届いてくる。
笑い声。
椅子を引く音。
ジョッキのぶつかる音。
それらが扉一枚を隔てた向こうにあるせいか、この部屋だけが妙に静かに感じられた。
依頼人のオスカー・ベルンハルトは、机を挟んだ向かい側で落ち着かない様子を隠せずにいた。
「……本当に、ありがとうございます。石版だけでも十分ありがたいのに、石刻まで!」
「気にしないでください。依頼なので」
シグがぶっきらぼうに返し、机の上の石版へ視線を落とす。
曾祖父の遺品。
オスカーもまた、古びた石本へ目を落とした。
「祖父から受け継いだものらしいのですが、詳しいことは何も……ただ、曾祖父が最期まで手放さなかったとだけ聞いています」
一度、言葉を切る。
「もし何か残っているなら……知りたくて」
クラルは小さく頷くと、机の前へ進み出た。
黒い外套の裾が揺れ、亜麻色の三つ編みが肩先からこぼれる。
「……やってみますね」
石版を両手で持ち上げる。
ひやりとした重みが、腕に伝わった。
古い石が持つ独特の冷たさ。
その奥に眠る、誰かの想いの気配。
石刻の前にいつも感じる、静かな圧だ。
ノアが一歩だけ後ろへ下がる。
シグもガレフも、自然と口を閉ざした。
クラルは石本を胸元へ抱き寄せ、そっと目を伏せる。
死者の言葉を、この世に一度だけ呼び戻すために。
《白日の石刻》を始める時、クラルはいつも同じように石を抱く。
胸に触れさせるように。
失われたものを、受け止めるように。
そしてーー
睫毛の先に滲んだ涙が、
ぽたり。
一滴、石版へ落ちた。
その瞬間。
淡い光が石版を包み込む。
二つに割れていた石が微かに震え、光の中で輪郭を変えていく。
やがてそれはーー
一冊の本の形を取った。
まるで冷たい石の奥で、何かが目を覚ましたように。
微かな震えがクラルの腕へ伝わる。
部屋の空気が変わった。
階下の喧騒が遠ざかる。
誰も息をすることさえ忘れたような静寂の中ーー
ひとりの男の声が、低く響いた。
「……この話が、表に出るかどうかは分からない」
掠れた、老いた男の声だった。
「いや……出ないほうがいいのかもしれないな」
だが、その響きには不思議と人を立ち止まらせる重みがある。
「それでも、人々はこのことを知らなければならない」
短い沈黙。
「死にたいほどの後悔の上に……私は、生きてきた」
オスカーが、はっと顔を上げた。
曾祖父なのだろう。
年老いてはいる。
けれど、どこかオスカーの面差しに通じるものがあった。
「私の愛した妻、エルマは……本当に、私には勿体ない女だった」
声が少しだけ柔らかくなる。
「明るくて、よく笑って、料理と家事が好きでね。近所の子ども達にまで慕われていた」
ふ、と。
遠い日を懐かしむような気配がした。
「私は一度仕事に没頭すれば、食事も寝ることも忘れるような人間だった。それでもあの人は、怒るより先に呆れた顔でスープを持ってきてくれたものだ」
ほんの少し。
男が笑ったような気がした。
「私のような、彫刻に取り憑かれた男には……勿体ないほどの妻だったよ」
けれどーー
そのぬくもりは、長くは続かなかった。
「……世界的な流行病が来るまでは」
声が沈む。
クラルの胸に抱かれた石本が、かすかに震えた。
視界の奥に、男の見た景色がぼんやりと浮かび上がっていく。
暗い街の通り。
煙突から立ち上る黒い煙。
曇った空。
そして、そこを行き交う人々の顔を覆うーー
白い布。
革で作られた、毒マスク。
「最初は一部の者だけだった」
「医者。役人。王都へ出入りする者ーー」
街を歩く人々。
一人。
また一人。
顔が白く覆われていく。
「二割が五割になり、五割が八割になり……やがて街のほとんどすべての顔が、白い毒マスクに覆われた」
白い仮面。
白い仮面。
白い仮面。
どこを見ても、人の表情が見えない。
「いつしかそれは、病を防ぐための道具ではなくなった」
男の声に、苦いものが混じる。
「《正しい人間》であることを示す印になった」
通りの片隅で、老人が石を投げられていた。
露店の前では、幼い子どもが母親にしがみついて泣いている。
昨日まで笑って挨拶を交わしていた隣人が、今日は監視するような目でこちらを見ている。
「マスクを買えない者など、いくらでもいた。薬も食べ物も足りぬ中で……どうして、それだけを責められよう」
ひどく疲れた吐息が零れた。
「だが、そんなことは誰も気にしなくなった」
「持つ者は持たぬ者を悪だと決めつけた」
「自分が正しい側にいるのだと信じるために……隣人を平気で切り捨てた」
クラルは唇を噛んだ。
ノアも。
シグも。
ガレフも。
誰一人、言葉を発することができない。
「……地獄だったよ」
男は、ぽつりと言った。
そして。
「エルマもまた……その地獄の中で死んだ」
オスカーが息を呑む。
「最後まで、エルマは毒マスクをしていた」
声が震える。
「苦しい……苦しい、と言うあの人のマスクを……私は……」
長い沈黙。
「外してやることが、できなかった」
クラルの指先に力が入る。
「最後に口づけひとつ、してやれなかった」
「手を握って、愛していると伝えることすら……あの仮面越しにしか、できなかった」
男の声が、崩れる。
「あの人の最期の顔を……私は、知らないんだ」
「……っ」
オスカーが口元を押さえた。
涙が止まらない。
「今でも夢に見る」
「あの時、たとえ誰に責められようと、私はエルマのマスクを外すべきだった」
「正しさだの、通達だの……そんなものを言い訳にして」
掠れた声が、絞り出すように続く。
「私は、たった一人の妻すら……看取れなかった」
静寂。
その一言だけで、どれほど長く男が自分を責め続けてきたのか、分かるようだった。
そしてーー
「……エルマを失った後で、私は知ったのだ」
声が変わった。
悔恨だけではない。
もっと深い。
底の見えない暗さが滲む。
「王国が、病に対する政策への怒りと恐怖の矛先を逸らすため……別の《悪》を用意していたことを」
ノアの眉が、ぴくりと動く。
ガレフの目つきが鋭くなった。
男は言った。
「ーー魔女狩りだ」
その言葉が落ちた瞬間。
クラルの腕の中で、石本が微かに軋んだ。
「流行病を招いたのは魔女だ」
「呪いを撒いたのは魔女だ」
「井戸に毒を流したのも魔女だ」
男の声に重なるように、景色が変わっていく。
白い仮面の群衆が、たいまつを掲げて進む。
誰かが泣いている。
誰かが引きずられていく。
石を投げられ。
家を焼かれ。
人々の前へ引きずり出されていく。
その中にーー
本当に罪のある者など、いなかった。
「怒りの行き場を与えれば、人は驚くほど簡単にそれを信じた…群衆とはそういうものなのだ」
「そして……何万人もの人間が、《魔女》として消えていった」
オスカーの顔から血の気が引いていく。
「……私は、それに手を貸してしまった」
絞り出すような声だった。
「いや……手を貸した、などと軽く言ってはならないな」
「私は、自分の彫刻の名と技術を使って……王国の掲げる《正義》に箔をつけた」
広場に巨大な像が立っている。
剣を掲げる英雄。
その足元には、醜く歪められた《魔女》の姿。
「魔女を討つことこそ救いなのだと、民衆に信じ込ませるための像を……私は作った」
「……っ」
オスカーが小さく息を詰まらせる。
「あれは、正義ではなかった」
男の声が低くなる。
「病の責任を隠し、王国の失策から目を逸らさせるためのーー隠れ蓑だったのだ」
石本の震えが強くなる。
「私は見た」
「見てしまった」
「王国が何を隠しーー」
「誰を消しーー」
「何を《魔女狩り》の名で塗り潰したのかを」
クラルの指先に力が入る。
まだ。
終わらないで。
そう願うように、石本を強く抱きしめた。
「消された歴史に埋もれた、この事実を……」
男の声が掠れる。
「誰かが、掘り起こしてくれるなら……私は、それだけで……」
ノアが、はっと顔を上げた。
同時にーー
ガレフが扉を見る。
「魔女狩りとは、隠れ蓑……でーー」
一瞬。
ガレフの目が鋭く細められた。
「本当の……真実はーー」
――ドガァンッ!!
凄まじい轟音と共に、部屋の扉が内側へ吹き飛んだ。
「っ!?」
木片が弾ける。
砂埃が舞う。
壊れた扉の向こうから、武器を手にした男達が雪崩れ込んできた。
顔を布で隠した男が五人。
その後ろに、さらに二人。
「石本を寄越せ!!」
先頭の男が怒鳴るより早く、シグが舌打ちした。
「やっぱ狙いはそっちかよ!」
振り下ろされた剣を、工具鞄から抜いた金属棒で受け止める。
ガキィンッ!!
耳障りな金属音が、狭い部屋に響いた。
「クラル! ノア! オスカーを連れて下がれ!!」
「はい!」
ノアが即座にオスカーの腕を引く。
クラルも石本を抱えたまま後ろへ下がろうとした。
と、同時に、
その前へ、大きな影が滑り込む。
ガレフだ。
「嬢ちゃん」
低い声。
「石本を離すな。そいつが連中の狙いだ」
「……う、うん!」
横から男が飛び込んでくる。
ガレフは振り向きざまにその腕を掴んだ。
次の瞬間。
男の身体が宙へ浮く。
「なっ」
そのまま床へ叩きつけた。
ドンッ!!
「ぐぁっ!」
「こ、このジジイ!!」
ガレフがゆっくり顔を上げる。
「ジジイ一人相手に、少々人数を揃えすぎたな」
低い声に、ぞくりとする威圧が混じる。
一方、シグは二人を相手にしながら、巧みに位置をずらしていた。
敵をクラル達から引き離し、狭い部屋の中央へ誘導している。
「ちっ、思ったよりやるじゃねぇか!」
「修復士なめんな」
シグが金属棒を振り抜く。
男の手首を打ち、剣が床へ転がった。
「壊すだけしかできねぇ連中とは、手元の重みが違うんだよ!」
だがーー
その背後から、別の男が飛び込んだ。
「シグ!!」
「分かってる!」
間に合わない。
そう見えた瞬間だった。
「……下がれ、シグ」
低い声。
ガレフが一歩、前へ出る。
その背中がーー
まるで壁のように大きく見えた。
ごう、と。
空気が揺れる。
ガレフが両手をゆっくり前へかざす。
その掌にーー
ぼわり。
碧い光が浮かび上がった。
深い湖の底のような、静かな碧。
美しい。
けれどーー
肌を刺すほど鋭い。
「《忘却綴理》」
低く呟いた瞬間。
碧い光が、無数の糸へほどけた。
「なっ!」
光が走る。
一瞬だった。
碧い糸が男達へ絡みつき、肩、胸、額へと吸い込まれていく。
「なんだ、これ!」
言葉は最後まで続かなかった。
どさっ。
一人。
どさり。
また一人。
次々に、男達の身体から力が抜けていく。
やがて、全員が床へ崩れ落ちた。
静寂。
シグが目を見開く。
「……じじい」
ガレフは荒い息を吐きながら、倒れた男達を見下ろしていた。
額には薄く汗が滲んでいる。
その顔色も、僅かに悪い。
「……やはり、石本だったか」
「え?」
「連中は最初から、オスカーや嬢ちゃんを狙っていたわけじゃねぇ」
ガレフが床へ視線を落とす。
「石本を回収しに来たんだ」
シグが舌打ちした。
「くそっ……!」
そして、クラルの腕の中を見る。
「肝心なところで割り込まれたぞ……魔女狩りが、なんだってんだよ……!」
その時。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が響いてきた。
「何があった!?」
「おい、無事か!?」
ギルドの職員や冒険者達が、一気に部屋へ駆け込んでくる。
壊れた扉。
倒れた賊。
舞い散る木片。
「こいつらを縛れ!」
「治癒師を呼べ!」
「オスカーさん、無事ですか!?」
「大丈夫ですか!?」
シグがすぐにオスカーへ駆け寄る。
怒号と足音が飛び交う。
その中で、クラルだけが腕の中にある異変に気づいた。
「……あ」
石本が。
崩れている。
光を失った石本の端から、砂へ変わっていく。
さらさらーー
さらさらと。
指の隙間から零れていく。
「……終わっちゃった」
小さく零した声に、ノアが振り向いた。
そして。
その視線が、床へ散った砂で止まる。
「……まだ」
「え?」
「少しだけなら」
「ノア?」
ノアは答えなかった。
静かにしゃがみ込み、石本だった砂をひと握り掬い上げる。
白い指先から、さらさらと砂が零れる。
やがてーー
その掌に淡い光が灯った。
《灰読》
灰となったものに残る、最後の言葉の残滓を掬い上げる力。
石本そのものの記憶を読むことはできない。
拾えるのはーー
死者がどうしても伝えたかった最後の言葉だけ…
ノアは、そっと目を閉じた。
ざわめく部屋の音が遠ざかっていく。
指の隙間から砂が零れるたび、掠れた男の声が耳元で響いた。
「私は……魔女狩りをしてしまった……」
ノアの肩が、ぴくりと揺れる。
「とんでもないことに……手を貸してしまった……」
砂が落ちる。
「歴史に埋もれた……この事実を……」
また、一粒。
「魔女狩りとは……隠れ蓑……」
ノアの眉が寄る。
「本当の……真実は…………」
「……!」
ノアの目が見開かれた。
だがーー
声は、そこで途切れた。
残った砂が、音もなく掌から零れ落ちる。
淡い光が消える。
ノアはしばらく、そのまま動かなかった。
「……ノア?」
クラルがそっと覗き込む。
顔を上げたノアを見てクラルは息を呑んだ。
青ざめていた。
いつも静かなノアの表情が、はっきりと強張っている。
「ノア……どうしたの?」
すぐには答えない。
ノアは部屋の中を、一度だけ見回した。
賊を縛る冒険者達。
オスカーを支える職員。
ガレフの様子を見るシグ。
誰もこちらを見ていない。
それを確認してからーー
ノアはクラルへ身を寄せた。
耳元で、小さく囁く。
「……後で伝えるね」
「え?」
クラルが目を瞬く。
ノアの指先が、ぎゅっとクラルの袖を掴んだ。
「でも……」
一度だけ息を飲む。
「たぶん、これで終わる話じゃない」
その真剣な目に。
クラルの胸が、ひやりと冷えた。
その時。
喧騒の向こうで、シグの声がした。
「じじい、大丈夫か?」
「……あァ?」
ガレフが顔を上げる。
その瞳に…ほんの一瞬。
空白が過ぎった。
「……?」
クラルは、それを見逃さなかった。
胸の奥がざわつく。
石本を狙った賊。
《魔女狩り》という言葉。
王国が隠した《真実》。
そしてーー
ノアの顔色を変えた、最後の言葉。
階下からは、まだ酒場のざわめきが聞こえている。
笑い声。
ジョッキの音。
誰かが楽しそうに歌っている。
いつもと変わらない夜。
なのに。
クラルには、その音がひどく遠く感じられた。
まるでーー
ここから先へ続く大きな闇の入口に、今まさに足を踏み入れてしまったように。
クラルは床へ散った砂を見下ろす。
もう二度と読むことのできない、死者の告白。
オスカーの曾祖父が、生涯抱え続けた後悔。
そして。
最後まで語ることのできなかった真実。
誰かが、それを残そうとした。
そしてーー
誰かが今も。
消そうとしている。
その事実だけが、灰のように静かにクラルの胸へ降り積もっていった。
――その日の夜。
捕らえた賊達が護送中に全員死亡したと、ギルドから知らされた。
「……全員?」
クラルの問いに、職員は黙って頷く。
七人。
誰一人として、口を開くことはなかった。
そして彼らが全員、自ら命を絶ったと聞かされた時。
クラルはようやく理解した。
これはもうーー
百年前に終わった話ではない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
今回から、《魔女狩り》と王国が隠してきた真実が少しずつ繋がり始めました。
百年前の出来事のはずなのに、なぜ今も石本を狙う者がいるのか。
そして、ガレフに起き始めている小さな異変――。
この先、クラル達の旅にも大きく関わってきます。
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