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コウイチ編 第一話「航路」


静かな宇宙だった。


恒星の光だけが、

黒い海みたいな空間を照らしている。


大型航行船アサギリは、

ゆっくりと宙域を滑っていた。


警報なし。

通信なし。

重力波異常なし。


ただ、

長い航路だけが続いている。


操縦席で、

コウイチは小さく鼻歌を歌っていた。


誰も知らない歌。


一定じゃない。

少し揺れる。

エンジン音へ自然に混ざっていく。


コウイチは片手で操縦桿を軽く倒す。

船体がわずかに傾いた。


正規航路から、

ほんの少しだけ外れる。


理由はない。


ただ、

そっちの星雲が綺麗だった。


窓の向こう。

巨大なガス星雲が、

青く揺れている。


コウイチは少し目を細めた。


「……いいな」


独り言。


長距離航行は孤独だ。


地球との通信には時間差がある。

返事はすぐ来ない。


だから航行士は、

みんな少し変わる。


独り言が増える。

癖が増える。

歌を歌う。


コウイチも、

そのうちの一人だった。


端末が小さく点滅する。


新着通信。


送信元。

カエデ。


コウイチの表情が少し緩む。


映像を開く。


『コウ、そこ登っちゃ駄目!』


『やー!』


小さな子供の声。

画面が激しく揺れる。


『あっ、待って待って!』


転びそうになったところで、

カエデが抱き上げる。


『こら』


『えへへ』


小さな男の子。

コウ。


コウイチにそっくりな目で笑っている。


『パパー?』


通信越しにコウイチが笑う。


「おー」


『いつ帰ってくるの?』


「あと九日くらい」



『9回寝たらね』


カエデが横から補足する。


『長い!』


「ごめんな」


コウは少し考える。

それから急に嬉しそうな顔になった。


『ねえ!』


『こんど宇宙のおみやげいる!』


「またか」


『石!』


カエデが吹き出す。


『前の石、まだ大事にしてるもんね』


『きらきら!』


コウイチは少し笑った。


「じゃあ綺麗なの探すか」


『ほんと!?』


『約束!』


「約束」


通信越し。

コウが嬉しそうに跳ねる。


その様子を、

カエデが優しい顔で見ていた。


少しして、

コウは眠そうに目を擦り始める。


『ほら、もう寝る時間』


『やー』


『パパにおやすみは?』


コウは小さく欠伸して、

端末へ近づいた。


『おやすみ、パパ』


「おやすみ」


『だいすき』


コウイチが少し止まる。


それから静かに笑った。


「俺も」


通信が切れる。


静かな操縦席。

でも少しだけ、

温かかった。


コウイチは小さく息を吐く。

それからまた、

鼻歌を再開した。


数時間後。


未登録宙域。


計器の一つが小さく反応する。


コウイチが顔を上げた。


「……ん?」


重力偏差。

微弱反応。


航路図にない。


コウイチは手動で観測角度を調整する。

暗い宇宙の奥。


小さな恒星。


その周囲を回る、

青緑色の惑星。


大気あり。

液体水あり。

酸素濃度正常。


コウイチの目が少し細くなる。


「……へえ」


船をゆっくり接近させる。


雲。

海。

森。


人工物はない。


何もない星だった。


静かだった。


あまりにも。


コウイチは観測艇を降下させる。

映像が操縦席へ映る。


風。


草原。


波の音。


誰もいない空。


コウイチはしばらく、

何も言わず見ていた。


通信もない。

警報もない。

仕事の呼び出しもない。


ただ、

風だけが吹いている。


不意に、

コウの声を思い出す。


『きらきら!』


カエデの笑い声。


『また石?』


静かな部屋。


帰る場所。


コウイチは小さく笑った。


「……ここなら」


ぽつりと呟く。


「連れて来れそうだな」


端末に、

航路記録保存の表示が出る。


本部送信用データ作成。


コウイチはその画面を見たまま、

少し黙る。


もし送れば、

開発が来る。

企業が来る。

軍が来る。


人が増える。


それは悪いことじゃない。

でも。


この静けさは、

消える。


長い沈黙。


コウイチは送信入力欄を閉じた。


未送信。


規約違反。


でも、

それでよかった。


操縦席へ深く座る。

窓の向こう。

青緑の星。


コウイチは、

また鼻歌を歌い始めた。


静かな旋律。


その星は、

誰にも知られないまま、

ゆっくり回っていた。

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