第八章 虚構の将軍
ダインを置いてきた森の闇は、もう船の後方に沈んでいた。
船は、夜の海を南へ滑っている。
波は高くない。だが、静かでもなかった。船腹を打つ水音が、眠りきれぬ獣のように絶えず腹へ響く。空は曇り、星もほとんど見えない。沖へ出るほど陸の気配は薄れ、代わりに潮の匂いだけが濃くなっていった。
シェルカエンはもう遠い。
甲板の隅に、粗末な毛布へくるまれた小さな影がある。
魔族の姫。
王城の奥から攫ってきた少女は、まだ目を覚まさなかった。
正確には、気を失っているだけだろう。こめかみのあたりには、剣の柄で打たれた痕がうっすら残っている。乱れた銀の髪の隙間から覗く顔立ちは、拍子抜けするほど幼い。頬もまだ丸く、閉じた睫毛は長い。
手の中には、小さな笛が握られていた。
意識を失う間際まで離さなかったのだろう。
眠っている顔だけ見れば、どこにでもいる子どもだった。
だが、その小さな身体には、国を揺らすだけのものが詰まっている。
中央広場で初めて見た時の圧を思い出す。
ただ立っているだけの子どもが、空気の密度を変えた。あの場にいた者なら誰でも分かったはずだ。あれは普通の魔力ではない。鍛えた兵の気配でも、王族の威でもない。
もっと底の知れないものだ。
シドが欲しがる理由も、そこにあるのだろう。
詳しくは知らない。
だが、ろくな使い方をされないことだけは分かる。
魔族の気配を偽装する薬を作るのに、どれだけの捕虜を使ったのか。そう考えれば、あの男がこの姫に何をするかも、想像の外ではない。
本当に、いかれている。
風が吹き抜け、毛布の端がはためいた。
ロットンが近づいてきて、足先で甲板を軽く鳴らす。
「起きませんね」
「起きなくていい」
短く返すと、ロットンは肩をすくめた。
「まあ、そうでしょうけど」
少し遅れて、船縁のほうからクックが戻ってくる。夜目にも分かる無愛想な顔のまま、海と空を一度見やり、それから報告した。
「後ろに灯りはありません」
「追ってきている船影も、今のところは見えません」
「そうか」
「ただ、姫が消えたと分かれば、門も港もひっくり返るでしょう」
「だから海へ出た」
俺が言うと、クックは短く頷いた。
城から引き剥がし、夜のうちに岸を離れ、海へ出る。地上で追われるより、そのほうが分がある。シェルカエンの都市構造は堅い。あの都の中にとどまっていれば、いずれ袋の口は閉じる。
閉じる前に抜けた。
結果だけ見れば、作戦は成功だ。
ロットンが、眠る少女を見下ろしたまま言った。
「大したもんだな、将軍」
「魔族の姫を攫って、ほんとにここまで来ちまった」
冗談めかした声音だったが、半分は本気だと分かる。
「結果がすべてだ」
「違いねえ」
ロットンは口の端だけで笑った。
クックはそのやり取りに乗らなかった。少女の足元へしゃがみ込み、拘束具の具合を確かめる。
手首を縛る革帯。
首元へかけた簡易の封じ具。
そして脇に置いた鉛箱。
そのどれもが外れていないことを確認し、ようやく立ち上がった。
城内で使った魔封石は、いまは鉛箱の中へ戻してある。箱の外へ出せば効果は届く。だが、あの石の気配そのものを魔族に悟られる危険もある。
今は気絶と封じ具で抑え、必要な時だけ石を使うしかない。
「石は持つか」
俺が問う。
クックの表情がわずかに険しくなった。
「長くは持ちません」
「亀裂が入った以上、次に箱の外へ出して使えば、どこまで保つか分からない」
「ただ、今すぐ砕けることもない。揺らすな。刺激するな。それだけです」
「十分だ」
シドに渡すまで保てばいい。
ロットンが、ふと視線をずらした。
「ダインのことは良かったんですか、将軍?」
波の音の中でも、その問いだけは妙にはっきり聞こえた。
クックも何も言わない。
だが、答えを聞くつもりらしい顔で立っている。
俺は少しの間、海のほうを見ていた。
「ああ」
答えは短かった。
「あの場で斬りかかってくるなら、まだましなほうだ」
「完全に壊れて膝をつくより、よほど分かりやすい」
ロットンが小さく鼻を鳴らす。
「今ごろ追手に拾われてますかね」
「だろうな」
「助かりますか」
「知らん」
突き放した答えだった。
だが、それ以外に言いようがない。
ダインは惜しい男ではあった。
剣は伸びる。前へ出る胆もある。何より、まだまっすぐだった。失ったものを抱え、憎悪を燃やし、正しいと信じた道へ疑いなく足を出せる。
俺が昔、どこかで捨てたものを、あいつはまだ持っていた。
だからこそ邪魔になった。
あの場で迷わず姫を運ぶには、ダインは柔らかすぎた。
魔族の暮らしを見て、門番の善意を受け取り、老魔に手を差し伸べる。その一つ一つが、作戦の中では遅れになる。
遅れは死を呼ぶ。
あるいは、もっと多くを巻き込む。
「一人置いていけば、追う側もそちらに足を取られる」
「全軍を挙げてこちらへ噛みついてくるより、そのほうがましだ」
「恐ろしい上官様だ」
ロットンが軽く言った。
だが、その軽さに混じるものが何もないわけではない。
あいつもダインを馬鹿にしていたが、嫌ってはいなかった。甘いと見下しながらも、使える駒だとは思っていたはずだ。
「そうだな」
俺はそれだけ返した。
クックが淡々と言う。
「死ぬか、捕まるか、逃げるかです」
「逃げ切れれば、まだ使い道はある」
「あるか?」
ロットンが笑う。
「あいつ、もう将軍を見限ったぞ」
「見限るのと、使えるかどうかは別です」
クックの返しは相変わらず乾いていた。
俺はそのやり取りを聞き流し、再び少女へ目を落とした。
笛を握った指先は細い。
爪の形も、まだ幼い。
血と泥と火薬の中ばかり見てきた目には、こういう小ささは時々現実感を失わせる。
こんなものを攫って、何になる。
普通の頭なら、そう思う。
だが普通では足りないから、ここまで来た。
聖地だの正義だのという言葉だけで、あの都が落ちるなら誰も苦労しない。
シドがこの姫に何を見ているのかは知らない。
知りたくもない。
だが、あの男がここまで手間と血を払う以上、ただの人質では済まないだろう。
ロットンが、ふと真顔に戻った。
「将軍」
「何だ」
「本当に、ここまでやる価値はあるんですか」
珍しい問いだった。
ロットンが任務の価値を口にすることは少ない。やるか、やらないか。それだけで動く男だ。
クックも、今度は口を挟まなかった。
俺はしばらく答えなかった。
海は暗い。
前を見ても後ろを見ても、水と夜しかない。陸を離れた船というのは、いつも少しだけ人を昔へ引き戻す。
価値。
その言葉を、まともに考えるようになったのはいつからだったか。
子どもの頃には、そんなものはなかった。
あるのは腹が減るか減らないか、明日まで生きられるかどうか、それだけだった。
「……ある」
やがて俺は言った。
「少なくとも、ここまで積んだものを無駄にしない程度にはな」
ロットンは何も返さなかった。
クックも同じだった。
波の音だけが続く。
南へ向かう船の上で、俺はもう一度、夜の海を見た。
思えば、いつも虚構の中で生きてきたのかもしれなかった。
*
貧しい、という言葉で足りていたのかどうか、今でも分からない。
親父もおふくろも働いていた。
怠けていたわけじゃない。夜明け前から畑へ出て、日が落ちても家へ戻らず、雨が降れば雨の中で、風が吹けば風の中で、黙々と手を動かしていた。
それでも、家の中はいつも空いていた。
倉に積まれるはずの麦は増えない。
冬を越すために干した芋も、春まで残ることは少なかった。食卓に並ぶものは日に日に薄くなり、汁は水に近づき、パンは固く、小さくなっていく。
子どもの頃の記憶というのは曖昧なものだが、腹が減っていたことだけははっきりしている。
いつも、何かが足りなかった。
その村へ、聖泉軍が来た。
最初に来た時、村の連中はみな表へ出た。
立派な旗だった。馬も鎧も光って見えた。兵たちは背筋を伸ばし、偉そうな顔で村の真ん中へ立った。
いま思えば、あれは出征前の調達だったのだろう。
だが、子どもの目にはただ綺麗に見えた。
綺麗で、遠くて、自分たちとは違うものに見えた。
偉い奴が演説した。
聖地を取り戻すのだと言った。
神の御心だと言った。
魔族の脅威から人類を守るためだと言った。
村の年寄りたちは頷き、若い者は顔を強ばらせ、女たちは子を抱いて黙っていた。
その日のうちに、倉は軽くなった。
麦袋が運ばれ、干し肉が持っていかれ、塩も油も、なけなしの蓄えまで荷車へ積まれた。兵たちは感謝を口にした。これは尊い献納だ、未来のための犠牲だ、お前たちも聖地奪還の礎となるのだ、と。
立派な言葉ばかりだった。
だが、言葉が立派であるほど、持っていかれるものは重く感じた。
軽くなるのは倉だけじゃない。
人の顔からも、少しずつ生気が減った。
親父は何も言わなかった。
おふくろも頭を下げていた。逆らってどうなるものでもないと、最初から分かっていたのだろう。
聖地だの神だのと、立派なことを口にする連中が来るたび、村は少しずつ痩せた。
そのくせ、何かが良くなった覚えはない。
兵が去ったあと、親父が倉の前で立ち尽くしていた。
夕方だった。空は赤いのに、倉の中は暗かった。俺はその横顔を見上げたが、親父はこっちを見なかった。
「父ちゃん」
そう呼んでも、返事は少し遅れた。
「……なんだ」
「聖地って、そんなにいいとこなのか」
親父は黙った。
しばらくしてから、低い声で言った。
「知らん」
それだけだった。
知らん。
あの時の俺には、それが妙に腹立たしかった。
知らんのに、どうして取られる。
知らんのに、どうして皆黙っている。
知らんのに、どうして腹だけ減る。
子どもなりに、そう思った。
その頃にはもう分かっていたのだと思う。
聖なる言葉ほど、人のものを奪う。
十五で村を出た。
家にいても何も増えなかったからだ。
親父もおふくろも引き止めはしなかった。止めたところで食わせられないと分かっていたのだろう。
おふくろは古い布袋に固いパンを二つ入れてくれた。
親父は最後まで何も言わなかった。
ただ、門のところで一度だけ言った。
「死ぬな」
それだけで十分だった。
都は、汚かった。
最初の印象はそれだ。
大きくて、人が多くて、物も声も溢れているくせに、底のほうが汚れていた。表通りは賑わっていても、一本裏へ入れば別の顔がある。腹を空かせた餓鬼。荷を奪われた行商。酔って潰れた男。殴られて動かない奴。
自分だけが不幸だと思うには、都にはあまりにもそういうものが多すぎた。
だから馴染むのに時間はかからなかった。
最初は盗みだ。
次は喧嘩。
その次には、殴れば奪える相手と、殴ればこっちが死ぬ相手の見分けがつくようになった。
強い奴が取る。
弱い奴が取られる。
都の裏は、それだけのことを正直に教えてくれた。
聖地だの神だのと違って、そこには嘘が少なかった。
血の匂いは嫌いじゃなかった。
殴られるのも、殴るのも、田畑で痩せていくよりはずっとましだった。少なくとも、自分の手で取ったぶんだけ腹へ入る。
理屈はそれで足りた。
第一期聖泉軍が撤退したという話を聞いたのも、その頃だ。
酒場の隅で誰かが笑っていた。
南大陸にすらろくに上がれず帰ってきたらしい。聖地だ神だと偉そうに言っておいて、そのざまだ、と。
俺も笑った。
村から奪うだけ奪って、負けて帰る。
世話のない話だった。
二十になる頃には、都の裏で俺の名はそれなりに知られていた。
腕も立ったが、それだけじゃないらしい。
声をかければ集まる。
喧嘩になればついてくる。
そういう質があったのだろう。
舎弟だの仲間だのと呼ばれる連中が、知らないうちに増えていた。
別に大した信念があったわけじゃない。
ただ、腹が減っていて、飢えた奴の機嫌や怖さが少し分かるだけだ。
都の裏では、それで十分だった。
だが、数が増えれば目立つ。
案の定、騎士団に目をつけられた。
囲まれたのは夜だった。
路地の出口を塞がれ、逃げ道は最初からなかった。舎弟どもは色めき立ったが、あの時点で抜けば全員死ぬと分かる程度には、俺も馬鹿じゃなかった。
出てきたのは、騎士団長ウッドだった。
清潔な鎧だった。
都の裏へ自分の足で来るには場違いなほど、綺麗な男だった。顔立ちも整っていて、声音も低く落ち着いていた。
だからこそ、余計に胡散臭かった。
「マルコム」
名を呼ばれた時、少しだけ笑いそうになった。
裏の名が騎士団長の口から出る。
それだけで十分に滑稽だった。
「お前には二つ道がある」
ウッドは言った。
「ここで罪人として縛られるか」
「あるいは、騎士団のために働くか」
恩赦の代わりに働け、という話だった。
言葉を綺麗にしているだけで、中身は見えている。
表へ出せない仕事を、俺みたいな人間にやらせたいだけだ。
実際、その通りだった。
反王政の密偵。
反乱分子の処理。
場合によっては暗殺。
表では言えない物資の徴発。
聖泉軍のための兵糧や人足を、嫌がる土地からでも黙らせて出させる役。
どれも、裏の仕事だった。
違うのは、今度は王都お墨付きだということだけだ。
村でやられたことを、今度は俺がやる側に回った。
最初は少し可笑しかった。
次には、どうでもよくなった。
都の裏で奪っていたのも、王の名で奪うのも、やること自体は大して変わらない。違うのは罪になるかならないか、その札だけだ。
ウッドは仕事のできる男には寛大だった。
結果を出せば咎めない。
手が汚れていようが構わない。
そういう意味では、実に都合のいい上官だった。
俺もよく働いた。
反逆者を探り、邪魔な奴を消し、嫌がる村から兵と物資を引き剥がした。聖地だの救済だのという立派な看板の裏側で、ずっと裏稼業を続けていた。
第二期聖泉軍の失敗も、内側から少しは見えた。
表では勇敢な戦い、殉教、聖なる撤退。
だが内側で流れてくるのは別の話ばかりだった。
沿岸で魔族に見つかって壊走した。
港へ近づく前に海へ逃げ帰った。
上の保身で兵が捨てられた。
どれがどこまで本当かは知らない。
ただ、綺麗に語られる時点で、ろくでもないことだけは分かった。
そして、第三期聖泉軍に駆り出された。
南大陸北西岸を目指す。
魔族にも会わない辺境の地らしい、と聞かされた。そこを足場にして、いずれ内陸へ進む。上はそんな絵を描いていたのだろう。
だが、海へ出た時点で、もう地獄は始まっていた。
波。
病。
腐った水。
湿気。
飢え。
船というのは、陸で見ているよりずっと人を簡単に壊す。上陸する頃には、兵の何割かが死んでいた。死体を海へ落とすのにも、皆すぐ慣れた。
上陸してからも地獄だった。
不毛地帯。
痩せた土。
草も木もろくにない。補給の見込みは薄く、持ち込んだ食糧は日ごとに減る。
魔族は現れない。
敵がいないことは良いことのはずなのに、兵の顔つきは日ごとに悪くなった。殴る相手も恨む相手も見えないまま、腹だけが減る。
ようやく遭ったのは、魔族ではなくトロルだった。
群れだった。
鈍いくせに数が多く、皮が厚い。兵はさらに減った。あそこまで来ると、誰がどう倒れたかも細かく覚えていない。
食うものがなくなり、仕方なくトロルの肉を焼いた。
臭く、硬く、不味かったが、腹に入れば何でも同じだった。
そのあとで、ようやく村を見つけた。
最初に見た時、皆ほっとした顔をした。
屋根がある。
煙が上がっている。
畑もある。
やっと補給できる、と。
ウッドはすぐに襲撃命令を出した。
そこで俺は、少しだけ驚いた。
村の半分は人間だった。
驚いたのは、人間がいたことじゃない。
その顔が、うちの村の連中と何も変わらなかったことだ。
痩せて、怯えて、だが生きるために働いている顔だった。
それでもウッドは命令を下げなかった。
襲え、と言った。
食糧と水と家畜を確保しろ。
敵地にいる以上、手段は問わん、と。
村は燃えた。
泣き声がした。
剣の音と怒鳴り声がして、人も魔族もまとめて倒れていった。
物資は手に入った。
結局、どこの地だろうがやることは同じだった。
しばらくその村に留まっていると、今度は魔族に囲まれた。
明らかに戦闘員だった。
数も揃い、動きも揃っている。都で聞く“獣の群れ”とは違った。こっちが乱れているところへ、向こうは慣れた戦術を使ってきた。
距離の取り方。
囲い込み。
退き際。
兵が次々に削られていく。
対応できたのは、一握りだった。
俺を含め、十数名。
他は恐慌を起こすか、命令を待って倒れるか、そのどちらかだった。
ウッドは言った。
「守れ」
誰を、とは言わなかった。
だが、すぐ分かった。
自分をだ。
仲間を捨てて逃げた。
十数名だけを連れて、船のある方角へ撤退した。後ろに残った連中がどうなったか、考えるまでもない。
なんとか船へ辿り着いた時には、腹の底まで疲れていた。
やっと帰れるかと思った。
その時だ。
ウッドが、俺に斬りかかった。
一瞬、意味が分からなかった。
だが、二合も打ち合えば見えた。
今までの暗躍も、今回の失態も、全部俺に被せるつもりだったのだ。裏の汚れ仕事をさせてきた男が、最後にはその汚れごと沈める気でいる。
世話のない話だった。
俺は返り討ちにした。
綺麗な鎧に、血はよく目立った。
残った者たちは、少しの間呆然としていた。
それから、一人、また一人と俺の後ろに立った。
もはや誰に忠義があるわけでもない。
ただ、生きて帰るには俺につくほうがましだと分かっただけだろう。
王都へ戻った時、ウッドは魔族との戦闘で討死したことになった。
生き残った者たちは、誰も真実を口にしなかった。
口にすれば、自分たちもまた第三期聖泉軍の失敗ごと葬られると分かっていたからだ。
報告書の中で、俺は敗残兵をまとめて帰還させた功労者になった。
王都にとっても都合がよかった。
失敗の責任は死んだウッドに押しつけられる。
汚れ仕事を知り、なお使える男は、表に置いても裏に置いても便利だった。
そうして俺は、将軍と呼ばれるようになった。
笑える話だと思った。
聖地だの神だのと飾った軍の地獄を生き延び、上官を斬って帰ってきた男が、今度は将軍だ。
だが、もっと笑える話はそのあとに待っていた。
将軍になって分かったことがある。
シェルカエンは、元々人類の土地でも何でもなかった。
欲しかったのは、あの都そのものだ。
永遠の泉が生む水と豊かさ。
あの国の持つ安定。
尽きぬ資源。
痩せた土地と飢えた村しか知らない国の人間が見れば、喉から手が出るに決まっている。
だが、それをそのまま言えば民はついてこない。
だから聖地にした。
奪われたことにした。
魔族はいつ攻めてくるか分からない、と怯えさせ続けた。
怯えた民は税を払い、息子を差し出し、軍を欲しがる。
飢えても怒りは上を向かない。上手く魔族へ流れていく。
反戦や融和を口にする者は、魔族の手先と呼ばれて消える。
地方は痩せ、若いのは徴兵され、それでも恨みは王政や騎士団へ向かわない。
生活が苦しいのは魔族のせいだと、皆が思い込む。
大した仕組みだと思った。
汚いが、よくできている。
知った時、怒りは湧かなかった。
むしろ納得した。
俺が村で見たものも、都で見たものも、第三期で見たものも、全部その仕組みの内側にあったのだと分かったからだ。
真実を知ったところで、飢えた村は戻らない。
死んだ兵も戻らない。
ウッドに捨てられた連中も、俺たちが襲った村の連中も、いまさらどうにもならない。
だったら、ここまで積んだ死に見合うだけのものを奪うしかない。
綺麗事で腹は膨れない。
正しさで国は回らない。
なら、勝てる形を取るだけだ。
それがどれだけ醜くても、いまさら引き返す理由にはならない。
*
甲板が大きく揺れ、俺は一度だけ現実へ引き戻された。
毛布の中の少女は、まだ眠っている。
小さな笛を握ったまま、呼吸だけを静かに繰り返していた。
その寝息を聞いて、また昔の空腹が喉の奥へ戻ってきた。
俺はゆっくりと少女のそばへ歩み寄った。
毛布の端から覗く顔は静かだった。
眠っているあいだは、本当にただの子どもにしか見えない。こめかみの痕が痛々しいくらいで、それ以外はひどく小さい。笛を握ったままの指先が時折わずかに動く。
あれだけの気配を持つものが、こんな細い腕や喉に収まっているのが妙に不自然だった。
哀れだとは思わない。
思えば足が鈍る。
だが、道具だと切り捨てるには、あまりに幼い。
「将軍」
クックが呼ぶ。
「夜明けまでには着きます」
「向こうも準備はしているはずです」
「そうか」
ロットンがこちらへ視線を寄越した。
「シド殿、どんな顔しますかね」
「喜びはせんだろうな」
「でしょうね」
「喜ぶより先に測りそうだ」
その言い方に、クックは何も言わなかった。
否定しない時点で十分だった。
やがて東の空がわずかに薄み始めた頃、船は入り江へ滑り込んだ。
ミルヴァード側の仮拠点だった。
岩場と倉だけの簡素な場所に見えるが、それは表向きにすぎない。人払いはされ、兵の姿も少なく、音も抑えられている。こういう仕事に慣れた場所の静けさだ。
岸へ板が渡される。
ロットンが少女を抱え上げ、クックが鉛箱を持つ。俺は先に降りて周囲を見た。追手の気配はない。潮と油と、濡れた木の匂いだけがある。
シドが待っていたのは、倉の前ではなかった。
倉の奥、荷の陰に隠された搬入口の前だった。
「こちらへ」
扉の向こうは、下りだった。
長い石段。
湿った空気。
壁に埋め込まれた魔導灯。
一つ二つ階を下りる程度では終わらない。岩盤を穿って作られた通路が、地下深くへ続いている。
シドの研究施設は地上にはない。
港の下へ広がる、ひとつの地下都市みたいな空間がその本体だった。
ロットンが低く口笛を吹く。
「相変わらず趣味が悪い」
「効率を優先した結果です」
シドは振り向きもせずに答える。
その返しの温度のなさに、ロットンは肩をすくめた。
通路を抜けた先で、空間が一気に開けた。
地下とは思えない広さだった。
高い天井を支える石柱。
何列にも並ぶ作業台。
鉛で覆われた壁面。
魔導灯の白い光。
薬液の満ちたガラス槽。
見慣れない金属管。
運搬用の台車。
寝台にも処置台にも見える台がいくつも並んでいる。
治療の場にも見えるし、処刑場にも見えた。
いや、その両方なのだろうと、俺は一目で理解した。
施設の中央近くまで進んだところで、シドがようやく立ち止まる。
「そこへ」
示された台の上へ、ロットンが少女を横たえた。
シドはすぐには手を伸ばさなかった。
まず、顔を見る。
呼吸を見る。
こめかみの痕。
手首の拘束。
首元の封じ具。
握られた笛。
その一つ一つへ視線が落ちる。
触れもしないまま、長く見ていた。
慈しみではない。
確認している目だった。
五年前に見た面影を、そこへ探しているようにも見えた。
その横で、クックが鉛箱を開く。
「石に亀裂が入りました」
「長くは持ちません」
シドの目が、初めてわずかに細くなる。
「……予想より早い」
「予想の問題か?」
ロットンが鼻で笑った。
「こっちは城からこれを運んできたんだぞ」
「十分です」
シドは平板に答えた。
「むしろ、これだけ持てば上出来でしょう」
上出来。
人ひとりを攫い、兵を捨て、城を敵に回した夜の成果を、実験の途中経過みたいに言う。
この男は、やはり何かが外れている。
俺は今まで、汚れた仕事を山ほど見てきた。
自分でもやってきた。
だがシドは、そのどれとも違う。
俺は泥を知っている。
泥の中で立ち、泥を使い、泥で相手を沈める。
だが、この男はたぶん、泥を泥とも思っていない。
ただ素材として見ている。
人も、魔族も、血も、罪も。
すべてが現象で、すべてが条件なのだろう。
「薬は役立ったようですね」
シドが言う。
「捕虜どもも、少しは報われたな」
ロットンが吐き捨てる。
クックは黙っている。
俺も何も返さなかった。
シドは少女を見下ろしたまま、まるで気にしていない様子だった。
「準備は整っています」
その一言で、周囲の助手たちが静かに動き始める。
白布。
金属器具。
記録板。
管。
薬液。
どれも音を立てずに運ばれ、台の周囲が整えられていく。
俺はその光景を見て、さすがに一歩だけ動きを止めた。
ここまで来れば分かる。
これは尋問ではない。
人質の保管でもない。
もっと別の何かだ。
それでも、もう関係はない。
ここから先はシドの領分だ。
「帰還の報告は、私からではなく貴方がたからお願いします」
シドがこちらを見ずに言った。
「必要なものは受け取りました」
それで終わりだった。
用は済んだ、ということだ。
俺はロットンとクックへ目をやる。二人とも、それ以上ここに留まる気はなさそうだった。
「行くぞ」
短く言って踵を返す。
地下通路を戻るあいだ、誰も喋らなかった。
潮の匂いのする地上へ出た時、ようやく肺の奥の空気が入れ替わる気がした。
*
船ではなく、今度は陸路でミルヴァード本市へ戻った。
まだ朝は浅く、工房の煙も本格的には上がっていない時間だった。だが、街そのものは眠らない。歯車と鉄の都は、夜と朝の境目も曖昧だ。
療養棟の手前まで来たところで、俺は足を止めた。
中に入れば、必ず聞かれる。
ダインはどうした、と。
ガレット。
ルシア。
ペルナ。
スマニア島を越えてなお生き残った連中は、まだあの若い聖騎士へ期待を残している。特にガレットはそうだろう。あの軽口の多い男は、軽さのぶんだけ情も深い。
俺は一度だけ息を吐いた。
扉を開ける。
療養棟の中は薬草と鉄の匂いが混ざっていた。
白布で仕切られた寝台。
静かな足音。
遠くで器具の触れ合う小さな音。
生き延びた者のための場所だ。
最初にこちらへ気づいたのはペルナだった。
見舞いのつもりだったのか、寝台脇の椅子に浅く腰かけていた身体を起こし、わずかに眉をひそめる。
「マルコム将軍、何か御用命でしょうか」
ガレットも顔を上げる。
まだ傷の色は残っているが、起き上がれる程度には戻っている。ルシアは寝台の端へ腰掛けたまま、何も言わずこちらを見た。隻腕の影が、朝の薄い光の中でやけに鋭く見える。
俺は一拍だけ置いた。
「ダインは死んだ」
それだけで、空気が止まった。
「極秘任務の最中だ」
「我々の盾となり、名誉の死を遂げた」
ガレットの顔から、すっと色が抜けた。
「……は?」
最初は、その一語だった。
意味を拒むみたいな、薄い声。
「その働きがなければ、こちらも危うかった」
俺は続ける。
ガレットはしばらく口を開けたまま固まっていた。
軽口の早い男が、何も返せない。その事実だけで、言葉の落ちた深さが分かる。
やがて、喉の奥から押し出すように言う。
「……あいつが?」
「ひとりで?」
責める声ではなかった。
信じたくない、という響きのほうが強かった。
「そうだ」
「ふざけんなよ……」
ガレットの拳が、膝の上で震える。
「何でだよ」
「何であいつが、そういう役回りなんだよ」
怒鳴るほどの力も、まだ戻ってはいないのだろう。
だから余計に、声の奥にあるものが生々しい。
「俺がいれば」
「ルシアが万全なら」
「くそ……」
悪態の形をしているのに、そこにあるのは悔しさだった。
助けられなかったことへの怒り。
自分がその場にいなかったことへの怒り。
その向け先が定まらず、ただ言葉だけが荒くなる。
ペルナは立ち上がったまま、しばらく何も言わなかった。
それから、壁を睨んだまま吐き捨てるように言う。
「……何やってんのよ、あの馬鹿」
「ああいうのは、無駄に頑丈で、無駄に運だけ良くて、こっちを苛つかせながら生き残るもんでしょ」
「勝手に綺麗に……死んでんじゃないわよ」
その言葉を、俺は受け流した。
言い返す必要はない。
ルシアだけは、何も言わなかった。
寝台の端に腰掛けたまま、ただ俺を見ている。
その目が厄介だった。
責めてもいない。
悲しんでもいない。
もっと冷たい。
言葉の中身ではなく、言った男のほうを見ている目だ。
俺は知っている。
この女は、嘘そのものより、嘘を吐く人間のわずかなズレを見る。
ルシアは小さく目を細めた。
「……そう」
それだけだった。
短すぎて、感情も読めない。
この女は、信じなかったのではない。
保留したのだ。
いまは動けない。
片腕を失い、身体もまだ戻っていない。
ここで言葉を弄んでも仕方がないことも分かっている。
だから、ただ記憶した。
俺の言葉を。
俺の声を。
俺が嘘を置いた時の空気を。
厄介な女だ。
ガレットが顔を覆った。
肩が少しだけ揺れる。泣いているというより、感情の置き場を失っているように見えた。
「……くそ」
「あいつ、そういうの向いてねえだろ」
「向いてねえくせに、何で先に行くんだよ」
その声が、療養棟の静けさに沈んでいく。
ペルナは拳を握ったまま、まだ壁を睨んでいた。
ルシアは相変わらず、何も言わない。
沈黙のまま、ただ俺から目を逸らさない。
そこにあるのが悲しみではなく、測るような静けさであることだけは分かる。
俺はそれ以上何も言わなかった。
弔いの言葉も、慰めも、今は逆効果だ。
それらしい言葉を重ねるほど、嘘の輪郭だけが濃くなる。
「休め」
最後に、それだけ言った。
ガレットは返事をしない。
ペルナは舌打ちだけを返した。
ルシアは、やはり何も言わなかった。
療養棟を出て扉が閉まったあとも、あの沈黙だけは耳に残った。
ガレットの悲嘆。
ペルナの悔しさ。
そして、ルシアの無言。
嘘を信じた者と、信じていない者。
反応は分かれたが、どちらにせよ同じことだった。
ダインはもう戻らない。
少なくとも、戻る場所は元のままではない。
廊下を歩きながら、俺は一度だけ目を閉じた。
失うには痛い手だった。
それでも、手を引く理由にはならない。
窓の外では、ミルヴァードの朝が本格的に動き出していた。
煙突から煙が上がり、工房の鐘が鳴り、人が鉄と火の都をまた回し始める。
すべては進んでいく。
戻れないまま、前にだけ。




