第九章 罪
夜は、妙に静かだった。
王城の夜というものは、本来もっとかすかな物音に満ちている。遠い回廊を行き交う侍女の足音。交代に向かう衛兵の靴音。どこかの窓から入り込む風が、薄い布をわずかに鳴らす気配。眠りへ向かう城には、眠りきる前の音がある。
けれど、その夜の静けさは、そういう生きたものではなかった。
何かが、息を潜めている。
そんなふうに感じたことを、後から何度も思い出した。
「ヘルザ、まだ?」
寝台の脇で、ミーナ様が頬を膨らませる。
寝室の灯りは、落としすぎない程度に抑えてあった。王族の夜具は簡素に見えて質がよく、薄い布でも火の気を逃がさない。窓辺には小さな卓と椅子。奥には本を置いた棚。幼い頃から使っておられる笛だけが、寝室に不似合いなくらい無防備に置かれていた。
「“まだ”ではありません。今からお休みになるのです」
「えー……」
「えー、ではありません」
「だって、ぜんぜん眠くない」
「そう仰ると思って、お茶も薄めにしました」
「ヘルザはそういうことだけ、すごく頭いいよね」
「医師ですので」
言いながら、私は寝台の布の皺を軽く整えた。
胸の前で手を組み、わざとらしくため息をついてみせると、ミーナ様は笛を指先でくるくる回しながら、どこか楽しそうにこちらを見ている。
十歳になられても、この方は時々、五歳の頃と同じ顔をする。
訓練で魔法師を青ざめさせるような力を見せても、ふとした瞬間には、泉の向こうの少女の続きをせがんでいた頃と変わらない。そういうところに救われ、同時に、ひどく恐ろしくなることがある。
「今日はね」
ミーナ様が、笛を膝の上へ置いた。
「昼間、庭園でへんなの見た」
「へんなの、ですか」
「うん」
その言い方に、私は寝台から少しだけ顔を上げる。
「虫でもいましたか」
「ちがうよ」
ミーナ様は真顔で首を振った。
「人間」
「……人間」
「でも、へんなの」
その瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
ミーナ様にとって、人間そのものはもう珍しい存在ではない。
それでも“へん”と仰るなら、顔立ちではなく、気配のどこかが引っかかったのだろう。
「どのように、です?」
できるだけ平静に尋ねる。
ミーナ様は少し考えてから、言葉を探すように視線を泳がせた。
「まぞくみたいな人間」
私の手が止まった。
「……魔族みたいな」
「うん。まぞくそっくりだけど、人間」
「へんなの」
軽く言う。けれど、この方の“へん”は、たいてい軽くない。
昼間、庭園。
そういえば護衛の兵が、広場で姫様がよそ者へ近づこうとされたと報告していた。深くは聞かなかった。まさか、そこでそんな違和感を拾っていたとは。
「見間違いではなく?」
「ちがうよ」
即答だった。
「だって、気配がちがったもん」
「でも、見た目はちゃんとしてた」
ちゃんと、という曖昧な言葉が、妙に嫌な具合で残る。
私はそこで、無理に問いを重ねるのをやめた。
詰めればもっと話してくださるかもしれない。けれど、この方の感覚を、大人の理屈で無理に整えさせると、かえって核心だけこぼれることがある。
「……護衛の者には、そのお話を?」
「してない」
「なぜです」
「へんだなって思ったけど、うまく言えなかった」
そう言って、ミーナ様は笛を手に取る。
「でも、まだへん」
「まだ?」
「うん。なんか」
笛を指先で弄びながら、ミーナ様は少しだけ眉を寄せた。
「思い出すと、ぞわってする」
その表現に、私は小さく息を呑んだ。
ぞわってする。
子どもの言葉だ。けれど、この方がそう言う時、それは大抵、ただの不快では済まない。
「ミーナ様」
「なに?」
「今夜はもう、そのことはお忘れください」
「えー」
「考え込むと余計に眠れません」
「でも、気になる」
「気になっても、今夜のうちは私が預かります」
「預かるって、どうやって?」
「医師には、そういう便利な言い方が許されるのです」
「またそれ」
ミーナ様は口を尖らせたが、すぐに笛へ息を吹き込んだ。
細い音が、寝室の空気をすべる。
小さく、短く、けれど妙に澄んだ音だった。
平和な音だ、と私は思った。
この方は、争いより先にこういうものを好む。火球より笛。武勲譚より、誰かが誰かを助けようとする物語。勝つ話より、手を差し伸べる話。
だからこそ、守らねばならないと何度も思ったのだ。
「ミーナ様、そろそろ寝る時間です」
「もう一回だけ」
「一回だけ、が三回続いております」
「今日はまだ二回だよ」
「訂正します。二回です」
「ほら」
「回数の問題ではありません」
「むう……」
頬をふくらませながらも、ミーナ様は笛を握ったまま寝台へ腰をずらした。
その時だった。
空気が変わった。
風とも違う。物音とも違う。ただ、部屋の中の静けさの質だけが、一瞬で別物になった。
私が顔を上げるより早く、ミーナ様の目が扉のほうを向く。
次の瞬間、扉が押し開かれた。
三人。
灯りの薄い寝室でも分かる。男が三人、なだれ込むように入ってくる。足取りに迷いはない。殺気を隠していない。隠す必要がないと思っている入り方だった。
ミーナ様が、男たちを見て呟く。
「まぞくみたいな人間」
昼間、庭園で見た相手だ。
そう気づいた瞬間には、もう別の危機が始まっていた。
ミーナ様の魔力が溢れた。
空気が軋んだ。息を吸うだけで肺の奥が押し潰されそうになる。灯りが激しく明滅し、窓辺の布が見えない手に引き裂かれるみたいに跳ねた。床板が低く唸り、部屋そのものが悲鳴を上げかけている。
まずい。
三歳の時の、あの森。
ポレロを襲ったリザード。次の瞬間、原形の分からぬものになっていた、あの光景。
あれが、一瞬で脳裏を裂いた。
その時だった。
魔力が消えた。
ぴたりと。
まるで、そこに何もなかったみたいに。
寝室に満ちていた圧が、一瞬で引く。あまりにも急で、私は息の継ぎ方さえ分からなくなった。
男の一人が、半透明の石を手にしていた。
白く濁った、ガラスとも鉱石ともつかぬ質感。
魔封石。
そして、その石を用意できる人間は限られている。
シド。
次の瞬間、胸へ熱いものが走った。
痛みが遅れて来る。
斬られたのだと分かった時には、足の力が抜けていた。
世界が傾く。
視界の端で、ミーナ様がこちらへ手を伸ばしている。
「ヘルザ!」
叫び声が聞こえる。
それが途切れる。
誰かが押さえたのか。
あるいは、意識のほうが先に遠のいたのか。
床が近づく。
血の匂い。
ミーナ様は、まだ笛を握っていた。
ミーナ。
シドに、あの話をしたばかりに。
あの子を、どうする気。
そこで、意識が切れた。
*
白だった。
何もない、と言い切るには、白すぎる空間だった。
壁も床も天井も見えない。ただ、境目のない白だけがどこまでも続いていて、その真ん中に椅子が二つ置かれていた。
その片方に、自分が座っている。
胸の痛みも、血の匂いもない。
けれど安心もなかった。
こういう場所は、たいてい現実より質が悪い。
向かいの椅子には、ヘルドがいた。
相変わらず、気だるげな顔だった。ぼさぼさの黒髪を片手でかき上げ、いかにも面倒そうに足を組み直している。ここが生と死のあわいだろうが何だろうが、あれはたぶん同じ顔をするのだろう。
「残念ながら、死んでないよ」
私は思わず立ち上がった。
「ミーナっ」
椅子が倒れる音はしなかった。この空間には、そういう現実的な音の手触りがない。
「座りなよ」
ヘルドが、肩をすくめるみたいに言う。
「なぜ、あの子がこんな目に」
「どこにいるの」
「うるさいよ。わかってんだろ」
「ふざけないで」
「ふざけてるのはお前だろ」
その声だけが、白い空間で妙にはっきり響いた。
私は息を呑む。
「……シドは、何を」
ヘルドはすぐには答えなかった。退屈そうに髪をかき上げて、それからようやく口を開く。
「イーシスの胚……」
「あの、どす黒い力」
「あの、憎しみを丸めてぶつけたみたいな力を」
私は黙る。
「あいつは、そう考えたんだろ」
「力を、力のままじゃなく、使える形にできるって」
ヘルドは、薄く笑った。
イーシスの胚。
その言葉に触れた瞬間、私の意識は、別の記憶へ引きずられた。
*
東大陸から神官が来られる。
その報せが王城へ届いた時、最初に感じたのは現実味のなさだった。
神官。
その名は知っている。知らぬ者のほうが少ない。けれど、それは日常の中で口にする名ではなかった。東大陸の上級職。王族のみが直接接することを許される聖域。王と同格に遇される存在。
来訪そのものは年に数度あるとされていても、実際にその場へ立ち会える者は限られている。
しかも、今回はミーナ様と私にも同席が許された。
ただの儀礼ではない。
そう思った。
永遠の泉の中央には、小さな島がある。
遠目にはただ静かな緑の塊にしか見えぬ島だが、近づけば分かる。空気の密度が違う。許された者でなければ、結界に弾かれるより先に、自分がどこへ向かっているのかさえ曖昧になる。
祠は、その島の奥にあった。
石と木で組まれた、簡素な建物だ。
だが、その簡素さは質素というより、余計なものを一切混ぜていない静けさだった。
床には魔法陣が刻まれていた。
見たことのない文字だった。
中央大陸の術式とも、南大陸の工学刻印とも違う。文字のようにも見えるのに、読めるものではない。意味そのものが図形の形を取っているような、不思議な線の集まりだった。
それが青白い光を放ち始める。
私は思わず息を止めた。
転移魔法。
言葉としては知っている。だが、ほとんど不可能とされる術だ。人ひとりを短く移すだけでも奇跡に近いと聞く。それを、東大陸から中央大陸の泉の島へ。
現実に見せつけられてなお、頭が拒んだ。
光の中から、三人が現れる。
最初に目へ入るのは、男だった。
白と金の装束。
笏を持っている。背丈も体つきも、あとで思い返せば大きな特徴はない。なのに、その場で見ている時は、それ以外のものが全部どうでもよくなる。
近づきがたいのではない。
そもそも、同じ次元に立っていないように見えた。
人ではなく、制度が人の形を取ったような存在。
そう見えた。
その両脇に、二人の女がいた。
白と赤の装束は遠目にもよく分かった。神官の娘であると後から知ったが、その時の印象は、親子というより“配置されたもの”だった。動きが少ない。静止している時間が長い。人というより、その場の一部としてそこにあるもの。
王――ザルク様が前へ出て、神官へ人類との情勢を話された。
国交。
南方の人類国家の不穏。
聖泉軍。
交流の断絶以降の軋み。
王として告げるべきことを、無駄なく、過不足なく話される。
神官はただ聞いていた。
表情を変えず、時折ほんのわずかに頷くだけ。何も言わぬのに、聞いていないとはまるで思えない。沈黙のまま、こちらの言葉すべてをどこか別の尺度で測っているような静けさだった。
話が一段落したあと、神官の視線がミーナ様へ向いた。
それだけで、祠の空気が少し変わった気がした。
神官は、ミーナ様の前まで歩み寄った。
見下ろすでもなく、かといって子どもへ合わせるでもない、妙に自然な距離で止まる。
「イーシスの胚よ」
静かな声だった。
大きくないのに、祠の中で妙に遠くまで通る。
「その智と能を、一族の繁栄に使えよ」
「災いなき力を得よ」
私は言葉の意味を、一拍遅れて飲み込んだ。
イーシス。
始祖。
東大陸から中央大陸へ渡り、タイタンの支配からこの地を解放し、王国の礎を築いたとされる伝説の英雄。
なぜ、その名を。
なぜ、ミーナ様へ。
神官は見抜いている。
その確信だけが、先に来た。
王城の教師たちが“才能”と呼び、私が“異常”と呼び損ねてきたものを、この存在は最初から知っている。
けれど、その張りつめた空気を破ったのは、やはりミーナ様だった。
「しんかんさまは、昔からきたの?」
無邪気そのものの声だった。
私は一瞬、何を言い出すのかと思った。だが次の瞬間、その問いの異常さに気づくより早く、神官の表情が変わった。
ほんのわずか。
それでも確かに変わったのだ。
あの静まり返った顔に、初めて人らしい揺らぎが走った。
未だかつて、気づいた者はいなかったのかもしれない。
ミーナ様は“見てしまった”のだ。
東大陸から転移してきた神官の、その周囲にまとわりつく、別の時間の気配のようなものを。
神官の目が、今度は私へ向く。
言葉はない。
けれど、その視線にははっきりとした圧があった。
――この子をどうか。
そんな意味に近いものを、私は勝手に受け取ってしまった。
その時、両脇の女たちが、ほとんど同時に口を開く。
「殿下、これにて」
声までよく似ていた。
会話というより、決められた終わりの合図に聞こえる。
青白い光が再び魔法陣を満たし、三人の姿はそのまま薄れて消えていく。
あとには、静かな祠だけが残った。
帰途、私はすぐにミーナ様へ問いかけた。
「今の問いは、どういう意味です?」
「ん?」
「昔からきたの、とは」
ミーナ様は少し考えてから、あっさり答えた。
「なんか、ちがう時間が、まわりにあったの」
私は足を止めかけた。
時空転移。
まさか、と思う。
だが、ミーナ様の感覚の異常さと、あの神官の表情を思い返せば、まさかで片づけるには足りなかった。
神官は、ミーナ様の中にあるものを知っていた。
イーシスの胚。
災いなき力。
そして、あの一瞬の揺らぎ。
いま思えば、あの時点でもっと深く恐れるべきだったのだ。
*
白い空間へ戻ると、ヘルドはさっきと同じ格好で座っていた。
「ようやく、気づいた?」
その言い方が癇に障る。
だが、怒る資格が自分にないことも分かっていた。
魔力で動く器。
魔動器。
シドが見せた、あの光る器。魔力を受けて、別の働きへ変える器械。あの時は知恵だと思った。技術だと思った。人間が届かぬ場所へ、別の形で手を伸ばそうとする発想だと。
だが、もし。
ミーナ様の中にある“あれ”が、普通の魔力ではない別の何かで。しかも、それを使える形にできると考えているなら。
私の喉がひりついた。
イーシスの胚。
神官があの子へ向けた、あの言葉だけがまだ耳に残っている。
それが何を指すのか、私には正確には分からない。けれど、普通の魔力と同じものではないことだけは分かる。
怒りや恐怖に触れた時だけ、ミーナ様の内側で別の何かが目を覚ます。私が見てきたのは、その結果だけだった。
だからこそ、シドが欲したのはミーナ様ご自身ではない。
あの子の中にある、説明のつかぬ“何か”だとしか思えなかった。
「……私のせいで」
掠れた声で言うと、ヘルドは気だるげに片目を細めた。
「そうだね」
「そうかもしれないね」
「お前がしゃべったからね」
否定できなかった。
そうだ。私のせいだ。
あの時は、ミーナ様を助けたかった。あの方の中にあるものを、知らずにいることができなかった。
けれど、その結果がこれだ。
ヘルドは私の顔をしばらく眺め、それから退屈そうに言った。
「で、いつまで寝てる気?」
その言葉が落ちた瞬間、白が割れた。
*
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
胸が熱い。
いや、熱いのではない。痛いのだ。
息を吸うたび、傷口の奥がきしむように痛む。
次に匂いが戻る。
薬草。
煎じた液。
鉄。
血を洗ったあとの薄い水の匂い。
医務室だと分かった。
「……ヘルザ様?」
女の声がして、視界が少しずつ形を取る。
看護の女が、息を呑んだような顔でこちらを見ていた。
「気づかれましたか」
「……私は」
声が掠れている。
喉も焼けたように乾いていた。
「どのくらい……寝ていた」
看護の女は一瞬だけ言葉を選んだ。
「五日になります」
五日。
その数字が、痛みより遅れて胸へ沈んだ。
「ミーナ様は」
問いかける声が、思った以上に鋭く出た。
「姫様は、どうなったの」
看護の女の顔が曇る。
「……残念ながら、まだ」
その先は要らなかった。
見つかっていない。
戻っていない。
それだけで十分だ。
私は起き上がろうとして、胸に走った痛みに息を詰めた。
「ヘルザ様、まだ」
「他に」
遮る。
「他に、何か」
看護の女は慌てて言葉を継いだ。
「誘拐に関わったと思われる人間を、一人捕らえたと聞いています」
呼吸が止まる。
「人間」
「はい。森の外れで見つかったと……私は詳しくは」
「尋問は?」
「何度か行われたそうですが、まともな答えは得られていないと聞いています」
その言葉だけで、寝室に踏み込んできた三人のうち、一人だけ様子の違った男の顔が浮かんだ。
他の二人と違った。
殺しに慣れた顔ではなかった。
何かが崩れた顔をしていた。
「いま、その者はどこに」
「おそらく、城の独房かと」
そこまで聞けば足りた。
寝てはいられない。
斬撃は深かった。
だが、肺と心臓は外れている。
止血も済んでいる。
医師である自分が、一番よく分かっていた。
動けば悪化する。
縫合が開く恐れもある。
けれど、今すぐ死ぬ傷ではない。
なら、動ける。
看護の女が制止する。
「ヘルザ様、お傷が」
「分かっています」
そんなことは分かっている。
立ち上がる。
視界が一瞬揺れた。胸の包帯の下で、傷口が鈍く軋む。
ミーナ様の内にあるあれを、力と呼ぶべきか、私にはまだ分からない。力というには不安定で、あまりにも感情に近すぎる。怒りや恐怖に触れた瞬間だけ、あの子の内側で別のものが噴き出す。魔法というより、傷口が開くのに近いと、私はずっと感じていた。
シドはそれを知っていた。
私のせいで、ミーナ様は攫われた。
だから、私が連れ戻す。
その一点だけが、いまの身体を前へ押していた。
*
医務室を出て廊下へ出ると、すぐに衛兵が目を見張った。
「ヘルザ様? まだお休みになっているはずでは」
「殿下に会わせて」
「いまは会議中です」
「構いません」
「ですが――」
それ以上は聞かなかった。
衛兵の制止を振り切って扉を押し開ける。重い木扉が、静かな会議の空気を乱暴に断ち切った。
「殿下、申し訳ございません」
円卓を囲んでいた視線が、一斉にこちらへ向く。
ザルク様。
ガーランド。
ヒクソン。
デーレイ。
フーリエ。
バイン。
幹部が揃っている。
それだけで、事態がどれほど重いかが分かった。
最初に眉をひそめたのはバインだった。
「此処がどういう場か、わかっているのか!? 療養中の身が来る場所ではない」
「承知の上です」
声が荒くならぬよう抑える。
抑えなければ、泣きそうになる気がした。
「殿下、申し上げねばならないことがあります」
ザルク様は、短く頷かれた。
「話せ」
その一言に無駄がない。
だからこそ、こちらも無駄を挟めなかった。
「ミーナ様には、隠された力があります」
会議の空気がさらに張る。
「通常の魔力では説明のつかない発露です」
「私はそれを……以前、ミルヴァードの学者シドに話しました」
バインが鋭く息を吸った。
「何だと」
「ミーナ様を助けたかったのです」
「あの方の中にあるものを、知らずにいることができなかった」
「愚か者!」
バインが机を叩くように声を荒げる。
「人間に王家の話を持ち込むなど、言語道断だ!」
その叱責は正しかった。
反論できない。
だからこそ、私は頭を下げることもしなかった。
いま必要なのは懺悔ではなく、先へ進める情報だ。
「これ以上申し上げることは、もうございません」
短く切る。
「ですが、いまは私を裁く時間ではありません」
デーレイが唸るように笑った。
「ずいぶん言うじゃねえか、医者」
ヒクソンは腕を組んだまま、低く問う。
「それで?」
「姫はどこにいる」
「ミルヴァードです」
自分で口にして、言葉の冷たさに胸が痛む。
「おそらく、シドのもとに」
ヒクソンが立ち上がりかけた。
「ならば全軍を」
だが、その言葉をフーリエが遮る。
「それでは遅いですわ」
「軍を動かした時点で、相手に姫様の価値を知らせ直すことになります」
声は柔らかい。
けれど切れ味は鋭い。
「下手をすれば、刺激するだけです」
「待ってられるか」
デーレイが噛みつくように言う。
「攫われたのは姫だぞ」
「待てと言っているのではありません」
フーリエは微笑を崩さないまま返した。
「考えずに動くな、と申し上げているのです」
その横で、ガーランドが静かに立ち上がった。
「私が一人で向かいます」
低く、よく通る声だった。
ガーランドはいつもそうだった。
大きな声で場を制するのではない。言葉を置いた瞬間、その場の温度だけを変える。
鎧も、装飾も、その場では目立つほどではない。
だが、立ち上がっただけで、誰が前に出る者なのか分かる。
ザルク様はすぐには応じなかった。
黙って私を見る。
「ヘルザ」
「はい」
「お前の予想は確かか」
「はい」
躊躇わず答える。
「ミーナ様の力を、神官様はイーシスの胚と仰いました。しかし、私にも詳細は分かりません」
「怒りや恐怖に呼応し、本人の意思と無関係に現れる危険な力です」
「それを……シドは強く興味を持ちました」
円卓の空気がさらに重くなる。
「加えて」
私は続ける。
「誘拐に関与した人間が一人、捕らえられたと聞きました」
「その者に聞けば、行き先は分かるはずです」
デーレイが鼻を鳴らす。
「ああ、森で寝てた奴か」
「何を聞いても黙り込んでいやがる。殺せって言ってるようなもんだ」
「毒を盛られたって顔してたぜ。仲間にでも売られたんじゃねえの」
「あんなの、さっさと処刑しちまえばよかったのによ」
その言葉を聞いた瞬間、記憶が引っかかった。
三人のうち、一人だけ。
あの夜、明らかに慌てていた男がいた。
他の二人と違った。
殺しに慣れた顔ではなく、何かが崩れた顔をしていた。
「その人間と話をさせてください」
気づけば、そう言っていた。
ザルク様の目が細まる。
「信用できると思うか」
「思いません」
即答する。
「ですが、ミーナ様を救う鍵を持っている可能性があります」
「どうか」
しばらく沈黙が落ちた。
やがてザルク様は、低く言われた。
「いいだろう」
胸の奥で何かが動く。
「ただし、ガーランド」
「フーリエ」
「御意」
「承りましたわ」
「二人も同行しろ」
「何かあれば、その場で人間を始末しろ」
私は小さく息を吸った。
「ありがとうございます」
恐れている暇はなかった。
もう、前へ進むしかない。
*
独房へ向かう廊下は冷たかった。
石壁の温度だけではない。王城の奥へ行くほど、人の声が減り、空気が固くなる。
前を歩く衛兵の靴音が、妙に大きく響いた。
ガーランドが隣を歩く。
その歩幅は大きいのに、足音は不思議なほど静かだ。
フーリエは反対側で、裾を乱さず進んでいる。赤髪の柔らかな波だけ見れば華やかだが、いまは目元の冷たさのほうが印象に残る。
「ヘルザ殿」
ガーランドが低く言う。
「傷は問題ないのか」
「問題はあります」
正直に答える。
「ですが、寝ているわけにはいきません」
ガーランドはそれ以上言わなかった。
フーリエが柔らかく言う。
「お顔の色は最悪ですわよ」
「承知しています」
「承知していて、そのまま来るあたりが医師らしいのかしら」
「医師らしいかどうかは分かりません」
「ああいう年頃の子を巻き込む話は、嫌いですの」
その言葉に返事はできなかった。
ただ、少しだけ呼吸がしやすくなった気がした。
独房の前で、衛兵が立ち止まる。
「この中です」
鍵が回る音。
重い扉が開く。
中は暗かった。
灯りはあるが弱い。湿った石の匂いと、閉じ込められた人間の体温の匂いが混ざっている。
男は、隅にうずくまっていた。
こちらが入っても、顔を上げる様子はなかった。膝を抱え、壁と床の境目に体を押しつけるようにしている。その姿は、もはや何かへ備えるものではなく、自分の中へ沈み込もうとする者のそれに見えた。
あの夜、ミーナ様の寝室にいた三人の一人。
そう理解した瞬間、胸の傷より別の痛みが蘇る。
けれど同時に分かった。
この男もまた、自分と同じ場所にいる。
自責の底だ。
「ここで十分でしょう」
ガーランドが低く言う。
「違うわ」
フーリエが男を見つめたまま言った。
「壊れてますわね、この人」
壊れている。
そう見えた。
裏切り、失望、自責、その全部が混ざって、ひとつの姿に押し込められているように見える。
「私が一人で話します」
私が言うと、ガーランドがすぐに眉をひそめた。
「危険です」
「この状態で?」
「追い詰められた者ほど、何をするか分からん」
もっともだった。
だが、ここで警戒だけを前へ出せば、この男はたぶん口を開かない。
「お願いします」
私は扉の内側へ一歩入る。
「何かあれば、すぐお呼びします」
ガーランドは不満を隠さなかったが、最終的には頷いた。
フーリエも、黙ってこちらへ道を譲る。
扉が半ばまで閉じる。
私は、うずくまる男の前で立ち止まった。
「あなたの名は?」
返事はない。
「聞こえていますね」
それでも、男は動かなかった。
私は少しだけ息を整える。
ここで責めても仕方がない。
怒鳴っても意味はない。
必要なのは、ミーナ様へ辿る道だ。
「お願い」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「私は、命に代えてでもあの子を……ミーナを助けなければならない」
そこで、男の肩がわずかに動いた。
床に落ちていた視線が、ゆっくりとこちらへ向く。
その目は、まだ濁っていた。
だが、完全に死んでいるわけではなかった。
「場所を教えて」
「あなたが知っていることを、全部」
男が、ゆっくり顔を上げた。
目の下に濃い影が落ちている。
数日でここまで人は擦り切れるのか、と思うほど、顔が変わっていた。
けれど、視線が私の胸元へ落ちた時、その目にかすかな認識が走る。
包帯。
寝室で斬られた女だと分かったのだろう。
唇が、少しだけ動く。
「……俺は」
掠れた声だった。
「自分の行いが、正義だと信じてた」
「命令に従った」
「聖地を取り戻すためだと、そう信じた」
言葉が、途切れ途切れに床へ落ちていく。
「でも、あの子は……ただの子どもだった」
私は黙って聞いた。
断罪の言葉は、いくらでもある。
だが今ここでそれをぶつけても、ミーナは戻らない。
「いや……どこかで、分かってた」
「欺瞞だったことを」
男は乾いた唇を震わせる。
「カルミナで、分かっていたはずだった」
「海賊と手を組んで、村から荷を集めて、それでも聖地のためだと自分に言い聞かせた」
「スマニア島でも、シェルカエンでも……俺は、見たものを都合よく切り捨てた」
言葉がそこで細くなる。
「敵なんて……どこにもいなかった」
「俺は、見ようとしなかっただけだ」
その言葉を聞いても、胸の奥にある怒りは消えなかった。
許したわけではない。
許せるはずもない。
それでも、この男を使わなければ、ミーナには届かない。
「たとえ、そうであっても」
私は一歩だけ近づく。
「ミーナを救える鍵は、あなたにしかない」
男の目が揺れる。
「早くしないと、あの子がどんな目に遭うか……分からない」
そこで、男はようやくはっきりこちらを見た。
「……ダイン」
「え?」
「俺の名だ」
声はまだ弱い。
だが、さっきよりわずかに生きた響きがあった。
「ダイン」
私はその名を繰り返す。
「ダイン、お願い」
「案内して」
ダインは一度、強く目を閉じた。
それから、ゆっくりと言う。
「あの子は、おそらくシドのいるミルヴァードにいる」
「俺に、案内させてくれ」
牢の外から、ガーランドの声が飛ぶ。
「ヘルザ殿、それは危険すぎる」
「信用できません」
当然の反応だった。
私は振り返らずに答える。
「だったら、ついてきてください」
ガーランドが沈黙する。
その間に、フーリエがやわらかく口を開いた。
「その風貌では、すぐに人目を引きますわ」
私がそちらを見ると、フーリエは少しだけ肩をすくめた。
「私の幻影魔法が必要になります」
「放ってはおけませんわ」
その言葉は、妙に強かった。
ガーランドが低く息を吐く。
「ならば十分です」
もとより、そのつもりだったのだろう。
こうして、形が見えた。
私。
ガーランド。
フーリエ。
そしてダイン。
最良ではない。
だが、いま動くには十分だった。
*
王の前へ戻ってからの話は速かった。
大軍は動かせない。
動かせば、ミーナ様の命が先に危うくなる。シドの狙いが分からぬ以上、なおさらだ。
少人数で行くしかない。
ザルク様は最後まで無駄な言葉を挟まれなかった。
必要な確認と、必要な許可だけを与える。
「必ず連れ戻せ」
ただ、その一言だけが、王としてではなく兄として落ちた気がした。
出立の準備はすぐに始まった。
ガーランドは自ら武装を整える。重装ではなく、長距離移動と潜入を前提にした軽い装備だ。それでも、その体躯では隠しようがない威圧がある。
腰の剣は古い。
飾り気はないが、柄の革だけが何度も巻き直されていた。長く使い、手に馴染ませた武器なのだと分かる。
彼はその剣を一度抜き、刃を確かめると、何も言わず鞘へ戻した。
その動作に怒りはない。
だが、迷いもなかった。
フーリエはすでに実務へ戻っていた。
卓上には、南大陸沿岸の地図と、人類側から得ていた古い街道記録が広げられている。
ミルヴァードへ向かう道のり、踏む地形、補給の途切れる地点。
現時点で魔族側が持つ南大陸の情報を、彼女は無駄なく整理していた。
「人目を避けるなら、この経路ですわ」
「ただし、時間はかかります」
「姫様の状況を考えるなら、多少危険でもこちらを選ぶべきでしょうね」
柔らかい声のまま、判断は早い。
フーリエの怖さは、そこにある。
優雅に見えるのに、迷う時間を相手に与えない。
ダインはまだ消耗していた。
独房から出されたばかりの顔色で、立っているだけでも本来は無理がある。
だが、その目の底には、牢へ入る前より明確な焦点が戻っていた。
私は、自分の傷へ包帯を巻き直した。
痛い。
息を吸うたびに胸がきしむ。
腕を上げれば縫合のあたりが熱を持つ。
それでも、動ける。
私のせいで、ミーナ様は攫われた。
だから、私が連れ戻す。
夜明け前の気配が、城の石壁に薄く滲んでいる。
東の空はまだ暗い。
けれど、完全な夜ではもうない。
出立の直前、私は一度だけ足を止めた。
脳裏に浮かぶのは、寝室で笛を吹いていたミーナ様の横顔だ。
昼間のへんな人間の話をしながら、眠くないと頬をふくらませていた顔。
あの夜を、取り戻すことはできない。
けれど、あの子を取り戻すことは、まだできるかもしれない。
「行きましょう」
私が言うと、ガーランドが短く頷いた。
フーリエは微笑を薄く引き締める。
「ええ。姫様を迎えに」
ダインは何も言わなかった。
ただ、前を向いた。
私たちは、夜の終わりへ向かって歩き出した。




