第七章 シェルカエン
呼び出しを受けたのは、夕刻の訓練が終わった直後だった。
ミルヴァードの兵舎は、夜になっても完全には静まらない。どこかで歯車が回り、炉が鳴り、遅くまで作業する職工の足音が続く。鉄と油の匂いが、ここでは夜の空気そのものみたいに染みついていた。
その中を、俺は伝令の兵に先導されて北棟へ向かった。
「将校会議ですか」
途中でそう聞くと、兵は少しだけ言い淀んだ。
「……詳しくは聞いておりません」
嘘ではないのだろう。
だが、何も知らされていないにしては、声が少し硬かった。
通された部屋は、ミルヴァード軍の会議室にしては妙に静かだった。
扉の前に兵が二人。中へ入ると、さらにもう二人。物々しいというほどではないが、ただの作戦打ち合わせではないと分かるには十分だった。
部屋の中央には、大きな机が一つ。
そこにいた顔ぶれを見て、俺は一瞬だけ息を止めた。
マルコム将軍。
ロットン。
クック。
そして、前より階級章の増えたカーティス。
そこまではまだいい。
だが、その場にもう一人、見覚えのないはずのない男がいた。
シド。
ミルヴァードの天才学者。
スマニア島へ渡る前、竜殺しを渡したあの男だ。
気づけば、俺の目は無意識に壁際へ立てかけてあった剣へ向いていた。
竜殺し。黒灰色の、あの重い刃。
あの剣がなければ、ルークは倒せなかった。
そして俺たちも、あの地獄を越えられなかっただろう。
その記憶が、胸の奥で鈍く疼いた。
「来たか、ダイン」
マルコム将軍が言う。
「はい」
「座れ」
短く命じられ、空いた椅子へ腰を下ろす。
ロットンは机の端へ寄りかかり、クックは腕を組んだまま無表情だった。カーティスは相変わらず岩みたいな顔をしている。シドだけが、机の上へ置かれた書類を見下ろしていた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
その沈黙が長く感じられた頃、最初に喋ったのはシドだった。
「率直に言います」
いつもと同じ、抑揚の薄い声だった。
「スマニア島は取りました」
「ですが、現時点で我々がシェルカエンを奪還することは不可能です」
言葉が、あまりにも平らに置かれた。
俺は一瞬、その意味を飲み込めなかった。
「……不可能?」
気づけば、そう口にしていた。
シドは視線も上げずに続ける。
「兵力。補給。都市構造。防衛設備。人口。技術水準。どれを取っても届かない」
「いまの人類側が正面から攻めて落とせる相手ではありません」
不可能。
その一語が、妙に遅れて胸へ落ちる。
スマニア島の炎が脳裏に蘇った。
ルークの青黒い火。
動かなくなったヤリス。
片腕を失ったルシア。
血の気を失って倒れていたガレット。
あれだけの犠牲で、ようやく一つの島だった。
それでも、正面から攻め続ければ、いつか聖地へ届くのだと、どこかで思っていた。思いたかった。
シェルカエン。
修道院で何度も聞かされた名だ。
人類が求める聖地。
いつか取り戻さねばならぬ約束の地。
祈りのたびに、その名は剣と一緒に胸へ刻まれてきた。
その聖地が、届かない。
不可能だと。
「そこまで言い切れるんですか」
俺は机越しにシドを見た。
「言い切れます」
今度は、はっきりとこちらを見て答えた。
「以前、私はシェルカエンに滞在していました」
「街の規模、城の構造、兵の質、補助機構、水路、防壁、流通、そのすべてを見た上で言っています」
静かな声だった。
だが、嫌になるほど説得力があった。
知らない者が想像で言っているのではない。
見た者の声だ。
だからこそ、腹が立つより先に、言葉を失う。
「……なら、我々は何のために」
そこまで言いかけた時だった。
「シド殿は、少々正直すぎる」
低い声が、場を割った。
カーティスだった。
腕を組んだまま、岩みたいな顔でシドを見ている。
その声音には苛立ちというより、予定どおりに割り込んだ硬さがあった。
シドは何も言わない。
その黙り方だけで、何かを止められたのだと分かった。
「ダイン」
今度は俺のほうへ目が向く。
「君に集まってもらったのは、正面攻勢の話をするためではない」
机の上の地図へ、太い指が置かれる。
「シェルカエンへ潜入し、ある人物を救出してもらう」
「極秘任務だ」
救出。
不可能、という冷たい言葉の直後だったせいか、その一語だけが妙に浮いて聞こえた。
だが、それでもまだ理解できる話ではあった。
正面から奪還できない。だから内部へ入り、誰か重要な人物を引き抜く。軍としてはおかしくない。
マルコム将軍は黙ったまま、こちらを見ている。
ロットンもクックも表情を変えない。
その中で、シドだけがわずかに口を開きかけた。
「救出というより――」
そこへ、カーティスの声が重なる。
「救出だ」
空気が、ほんの少しだけ張った。
シドは一拍だけ黙り、それから何事もなかったように視線を落とした。
俺はその短いやり取りの意味を、その場ではうまく掴めなかった。ただ、カーティスが何かを先回りして塞いだ、ということだけは分かった。
「変装には普通のやり方では足りない」
カーティスが続ける。
「魔族は見た目より先に、人間の気配で見抜く」
「そこを越える必要がある」
シドが脇に置いていた革箱を開いた。
中には、二つの小瓶があった。
ひとつは、透明なガラス瓶に白い錠剤が入っている。もうひとつは、霧吹きに似た細長い小瓶だった。
「これを使用します」
シドが言う。
「錠剤は内側から」
「こちらは皮膚と衣服に」
クックが横から補足した。
「魔族にしか感じ取れない気配を偽装する」
「人間に見えるかどうかは問題じゃない。問題なのは、魔族に“人間だ”と思われないことだ」
ロットンが薄く笑う。
「門番は目より鼻と勘で見てくるからな」
シドは小瓶を机の上へ静かに並べた。
「効果は半月ほど持続する見込みです」
「シェルカエンに入る直前で使ってください」
俺は小瓶を見た。
あまりにも小さい。
こんなものが、あの巨大な城壁と街を越える鍵になるというのか。
「確かなんですか」
問うたのは、半ば反射だった。
シドはまっすぐ答えた。
「捕虜で検証済みです」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ冷えた気がした。
検証済み。
さらりと流していい言い方ではない。
だが、ここでそれに引っかかっているのは自分だけのようでもあった。
カーティスは構わず、別の書類束を机へ置いた。
「さらにこれだ」
広げられたのは、詳細な地図だった。
シェルカエンまでの街道。
中央大陸南岸から北上する道。
城壁の位置。
市街地の区画。
そして城の構造図まである。
思わず目を見張った。
「……ここまで分かっているんですか」
「五年前の記録ですが」
シドが答える。
「街の基礎構造はそう簡単には変わらない」
「出発までに覚えてください」
五年前。
その数字が胸のどこかへ引っかかった。
だが、この場で問うべきことは別にあった。
「一体、誰を救出するんですか」
俺の問いに、ロットンもクックも視線を上げなかった。
まるで、その質問が来るのを知っていたみたいだった。
カーティスが、先に口を開く。
「君は知らなくていい」
「ですが――」
「知らないほうがいい」
今度は言い切った。
「仮に捕まった時、知らなければ吐きようがない」
「それで十分だ」
理屈としては、分かる。
分かるからこそ、反論しきれない。
カーティスは最後に、マルコム将軍へ目を向けた。
「現地ではマルコム将軍の指揮下だ」
「君は従え」
そこで初めて、マルコム将軍が口を開いた。
「心配するな、ダイン」
落ち着いた声だった。
俺が信じてきた将軍の声だ。
「これは必要な任務だ」
「お前には、そのために来てもらった」
その言葉に、俺は頷くしかなかった。
その時の俺は、まだそう思っていた。
これが、奪還に代わる必要な任務なのだと。
*
一週間後、俺たちはミルヴァードを発った。
表向きは物資移送に紛れた移動だった。
船でスマニア島を経由し、中央大陸南岸へ渡る。そこから先は徒歩だ。目立つ荷も旗も持たず、ただ街道を北へ進む。
道中、会話は少なかった。
ロットンとクックは必要なことだけを確認し合い、マルコム将軍は無駄口を叩かない。俺も、何か話したところで胸の中のざらつきが薄まる気はしなかった。
シドの言葉が、ずっと残っていた。
不可能。
あの静かな断言を、頭のどこかがまだ受け入れきれていない。
だが、スマニア島の光景を思い出すたび、否定もしきれなかった。
中央大陸南岸へ着いてからは、風の匂いが少し変わった。
海の湿り気が薄れ、代わりに乾いた土と草の匂いが混じり始める。街道は想像していたより広く、踏み固められていた。これだけでも、この先へ行き来する人と物の量が分かる。
北へ向かうほど、人影も増えた。
荷を引く者。徒歩の商人。家族連れ。
魔族もいれば、人間にしか見えない者もいる。角のある者、羽のある者、鱗を持つ者、耳の長い者。見た目はばらばらなのに、同じ道を、同じように使っていた。
誰も、こちらを不自然には見ない。
シドの薬は、効いているらしかった。
唇の裏に残る苦い薬臭さを思い出しながら、俺は無意識に手袋の内側を握った。
魔族にしか感じ取れない気配を偽装する。頭では分かっていても、こうして自然に通れると逆に落ち着かない。
七日目の夕方、丘を一つ越えた時だった。
前を歩いていたロットンが、足を止める。
「見ろ」
その一言で顔を上げて、俺は息を止めた。
遠く、地平の先に城壁が見えた。
ただの壁ではない。
白とも灰ともつかない石で築かれた巨大な外郭が、広大な街を丸ごと抱え込んでいる。その内側には塔が何本も突き立ち、さらに中央には、城というよりひとつの山みたいな王城が聳えていた。
光が違う、と思った。
夕暮れの斜光を受けた壁が、ただ明るいのではなく、磨かれた器物みたいに静かに返している。水路があるのか、城壁の下のほうでは細い反射がいくつもきらめいていた。城下に広がる建物群も、雑然としていない。遠目にも、道と区画と屋根の高さに意志があるのが分かる。
シェルカエン。
修道院で何度も聞かされた名が、ようやく目の前の形を得た。
人類が求める聖地。
奪われた約束の地。
祈りのたび、説教のたび、いつか取り戻すべき場所として教え込まれてきた都。
もっと、禍々しいものを想像していた。
暗く、冷たく、悪意で塗り固められた都を。
だが、目の前にあるのはそれとは違う。巨大で、美しく、洗練されていて、そして――認めたくはないが、豊かだった。
「……これが」
声が、自分でも驚くほど小さく出た。
ロットンが口の端を少しだけ上げる。
「聖地、って面じゃねえな」
茶化しているようにも聞こえたが、その声色にもわずかな緊張があった。
マルコム将軍が短く言う。
「見惚れるな」
「入る前から呑まれるな」
その言葉で、ようやく息が戻った。
城壁へ近づくにつれ、街の輪郭はさらに明瞭になった。
門は高い。
だが、閉ざされているわけではなかった。商人や旅人が出入りし、荷車が検分され、人の流れが絶えず動いている。戦時下の要塞というより、大国の大門だ。
ここが敵地だということを、目の前の景色が一瞬忘れさせる。
クックが低く言った。
「ここからだ」
「気を抜くな」
ロットンはすでに、疲れた旅人の顔へ切り替わっている。
背の丸め方も、歩幅も、視線の置き方も、さっきまでと違う。これが工作員なのか、と変なところで感心しそうになった。
俺たちは城門の列へ並んだ。
喉が乾く。
手のひらに汗が滲む。
目立つな、と頭では分かっているのに、逆にひとつひとつの動作がぎこちなくなる。
門番は、トカゲに似た顔立ちの魔族だった。
黄緑がかった鱗に、縦に細い瞳孔。肩幅は広いが、声は思ったより穏やかだった。
「おい、そこの」
呼び止められた瞬間、背中へ冷たいものが走る。
気づけば、俺の手は剣のほうへ動きかけていた。
その手首を、隣のクックが肘で制する。
ほんの小さな動きだった。
だが、それだけで我に返る。
ロットンが一歩前へ出た。
「へい」
声の調子まで変わっている。
くたびれていて、媚びてもいないが、敵意もない。街道を長く歩いてきた男の声だ。
「スマニア島から追われまして」
「海沿いを点々として、ようやくここまで」
門番の目が細くなる。
「スマニア島?」
「ええ。ひどい有様で」
「食い詰めるよりましだと思って、命からがら」
ロットンは言葉を重ねすぎない。
必要なことだけを置いて、あとは相手に想像させる話し方だった。
門番の顔つきが、疑いから少し別のものへ変わる。
「それは大変だったな」
その声音に、俺は逆に戸惑った。
もっと、値踏みされると思っていた。
細かく詰問され、少しの綻びで見抜かれるのだと。
だが門番は、後ろへ向かって声を張った。
「おい、ノマーク!」
「あのスマニア島から逃げてきたそうだ!」
門の奥から、ばたばたと足音がした。
出てきたのは、小柄な魔族だった。
子どもにも見える背丈だが、顔つきはもっと上だ。肩のあたりに小さな羽根があり、細い尻尾が歩くたびに揺れる。
「そりゃ、よくここまで来た」
ノマークと呼ばれたそいつは、俺たちを見てすぐそう言った。
「難民用の宿があるから使うといい。王が最近、いいのを建ててくれたんだ」
「飯も酒もあるでよ。もちろん金はいらないから」
あまりにあっけなくて、返事が遅れた。
門を、通れる。
それだけでも信じがたいのに、その先に宿と食事まで用意されている。
「……助かる」
ようやくそう言うと、ノマークは少しだけ眉を下げた。
「助かったならよかったさ」
「同胞がひでえ目に遭ってるって聞くのは、気分のいいもんじゃないでな」
同胞。
その言葉が耳に残った。
こっちは偽装している。騙している。なのに向こうは、当たり前みたいに“同胞”と言う。
シドの薬は、本当に効いているらしかった。
門をくぐる。
その瞬間、胸の奥で何かがひっくり返るような感覚があった。
ついに聖地へ入った。
修道院で何度も祈った場所へ、自分の足で踏み込んだ。
なのに、最初に向けられたのは敵意ではなく、気遣いだった。
シェルカエンの街路は、外から見た以上に整っていた。
石畳は広く、排水の溝まできれいに切られている。建物の高さや並びにも統一があり、雑然としていない。通りのところどころには背の高い灯柱が立ち、魔法灯らしい淡い光が夕暮れの薄さを追い払っていた。遠くでは水の流れる音がする。水路だろうか。
カルミナとも、ドーンヘルムとも、ミルヴァードとも違う。
カルミナの活気は濁っていた。
ドーンヘルムの都は重厚だった。
ミルヴァードは機械と煙で前へ押す街だった。
ここは違う。
洗練されている。しかも、それを見せつけようとしているのではなく、当たり前の水準として持っているように見えた。
ノマークが歩きながら言う。
「ほんと助かってよかったね」
「でも同胞のこと思うと辛いよな」
しみじみした口調だった。
美しい街と、その血の通った言葉が、妙に噛み合っている。
俺は返事をし損ねた。
宿は門からそう遠くなかった。
新しい木の匂いがする、二階建ての建物だった。看板には難民受入用の標が掲げられている。中は清潔で、廊下も明るい。粗末ではあるが、雑には扱っていないのが分かった。
「しばらくはここ使っていいから」
「困ったことあったら表に言ってくれ」
ノマークはそう言って、鍵代わりの札を渡した。
「……世話になる」
マルコム将軍が短く答える。
ノマークは気にした様子もなく、少し笑った。
「ここまで来れたんなら、あとは休めるだけ休んだほうがいいさ」
「じゃあな」
去っていく背を見送りながら、俺はまだ現実感を持てなかった。
部屋へ入る。
扉が閉まった途端、外の柔らかさが一枚剥がれた気がした。
マルコム将軍が部屋の奥へ歩きながら言う。
「無事、悪魔のアジトに潜入できたな」
その一言が、妙にこの街に似つかわしくない響きを持っていた。
悪魔。
一瞬、その言葉がどこか浮いて聞こえた。
だが、次の瞬間には別の記憶が押し返してくる。
ルシアは腕を失った。
ガレットは死にかけた。
ヤリスはもういない。
俺たちはこの地を取り戻すために、あれだけの血を流したのだ。
そうだ。
忘れるな。
目の前の街がどれだけ整って見えても、ここは敵の都だ。
そう自分に言い聞かせる。
ロットンが荷を下ろしながら、ちらりと俺を見た。
「何だ、その顔」
「別に」
「別に、って顔じゃねえな」
クックが無表情のまま窓際へ立つ。
「まだ一歩目だ」
「呑まれるのは早い」
言い返そうとして、やめた。
言い返すほど、自分の中の違和感を認めることになる気がしたからだ。
マルコム将軍は机代わりの台へ地図を広げた。
「今夜は休む」
「明日から動く」
その声は、相変わらず落ち着いていた。
頼もしいはずのその声が、さっき門で聞いた魔族の気遣いと、うまく同じ頭の中へ収まらない。
外では、まだ水の音がしていた。
人の話し声も、笑い声も、どこか穏やかに響いている。
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
祈りのたび胸に描いてきた聖地へ、いま自分は盗人みたいに潜り込んでいる。
それなのに、胸の中で強く残っているのは、憎しみより先に、門番の「それは大変だったな」という声だった。
*
翌朝から、潜伏生活が始まった。
とはいえ、隠れ家へ籠もるようなものではない。
むしろ逆だった。街へ出て、人の流れに紛れ、見て、覚え、戻って報告する。その繰り返しだ。
ただし、単独行動は許されなかった。
常に二人。
組み合わせは日ごとに変わる。マルコム将軍が決める。
最初の二日、俺はロットンと組んだ。
歩きながら、あいつは何気ない顔で色々なものを見ていた。
通りの広さ。衛兵の巡回。水路にかかる橋の数。商人の荷の種類。門の開閉時刻。広場へ抜ける脇道。何を見ているのか一見すると分からない。だが、帰って報告を始めると、その全部がきちんと繋がっている。
「西側の裏通り、昼は人が多いが日が落ちると半分以下だ」
「北門へ抜ける荷路は、三刻ごとに検分が入る」
「巡回の交代は南区のほうが雑だ」
報告を聞きながら、俺はようやく気づき始めた。
マルコム将軍が俺たちに命じている偵察は、ただ街の様子を探るものじゃない。
もっと狭い何かに向けて、少しずつ輪郭を作っている。
だが、その輪郭が何なのかは、まだ見えない。
ロットンは一度も余計なことを言わなかった。
ただ、時々俺が立ち止まりそうになると、面倒そうに言うだけだ。
「見るなら歩け」
「歩くなら止まるな」
「お前、それしか言わないのか」
「今はそれで足りる」
不愉快な言い方なのに、間違ってはいない。
街を歩くうちに、俺は自分の知っていた魔族像が、少しずつ形を失っていくのを感じていた。
市場は賑わっていた。
果実を売る声。焼いた肉の匂い。布を選ぶ者たち。水路沿いでは子どもが石を投げて遊んでいる。羽のある魔族と、角のある魔族と、尾の長い魔族が、同じ屋台の前で値切っている。
ちゃんと暮らしている。
その言葉が頭に浮かんで、すぐ自分で嫌になった。
そんな見方をすること自体、まるで今までの教えが間違っていたと認めるみたいだったからだ。
けれど、ほかに言いようがない。
ここにいる連中は、ただ人を襲って暮らしている化け物には見えなかった。
少なくとも、街の真ん中では。
三日目、俺はクックと組んだ。
ロットンが目立たないところを拾う男なら、クックは目立つところを切り分ける男だった。
どこを見ているのかは分かりやすい。門、兵、交差点、城へ続く道。だが、その見方が容赦ない。何人立っているか、どこで死角が生まれるか、何歩で駆け抜けられるか。街を景色ではなく構造として見ている。
「そこ、見るな」
不意にクックが言った。
俺は視線を前へ戻す。
「見てない」
「見てた」
「二階の窓を見上げる旅人はいない」
言い方に棘はない。
ただ事実だけを返してくる。
「……よく見てるな」
「見てなきゃ死ぬ」
それで会話は終わった。
昼を少し過ぎた頃、俺たちは街の北寄りへ出た。
そこには、人類保護区と呼ばれる一角があった。
最初にその話を聞いた時、俺は意味を取り損ねた。
保護区。誰を、何から守るのか。
実際に見て、ようやく少し分かった。
区画の入口には兵が立っている。
だが、閉じ込めるための兵ではない。外からの流れを見て、内側の揉め事を抑えるための立ち方だ。中には人間がいた。間違いなく、人間だ。角も尾もない。身なりは裕福ではないが、鎖につながれてもいない。行き来も許されているようだった。
クックが低く言う。
「驚いた顔をするな」
「……驚くだろ」
「噂と違うからか」
そう言われると、返す言葉が少し詰まる。
中央大陸の人間は、魔族に殺されるか、奴隷にされるか、そのどちらかだと聞かされてきた。
少なくとも、そういう話の積み重ねの中で育ってきた。
だが、目の前にいる人間たちは、怯えてはいても、繋がれてはいない。
「最近の摩擦を見て、王が保護区を広げたらしい」
クックはそれだけ言った。
「暴徒化を防ぐためだ」
「もともとこの地にいた人間だけだが、自由滞在を認めてる」
「……王が?」
「そう聞いた」
王。
ザルク王のことだろうか。
人類から聖地を奪った魔王。そう教わってきた名だ。
それなのに、目の前の事実だけを見るなら、単純な暴君の像には結びつかなかった。
保護区の前で、幼い子を連れた女がこちらを横切った。
子どもは人間で、母親も人間だった。兵に目を向けることはしたが、怯えて逃げる様子はない。その普通さが、逆に異様だった。
「……何なんだ、ここは」
小さく漏れた声に、クックは横目をくれた。
「敵地だ」
「それ以上のことは、今は考えるな」
命令としては正しい。
だが、正しいからこそ苦い。
その日、老いた魔族が通りの端でよろめいた。
背中の曲がった、小柄な老魔だった。荷を抱えたまま石畳の段差につまずき、包みが崩れる。果実がいくつか足元へ転がった。
咄嗟だった。
考える前に、俺の手が出ていた。
「大丈夫か」
支えてから、はっとする。
老魔は俺を見上げ、それから何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうよ」
「すまんね、すまんね」
その声は、どこにでもいる年寄りのものと変わらなかった。
包みを拾い直して渡すと、老魔はまた礼を言って去っていく。
俺はしばらく、その背を見ていた。
隣で見ていたロットンが、面倒そうに息を吐く。
「お前、ほんとそういうとこだな」
「何がだ」
「見なくていいもんまで見て、拾わなくていいもんまで拾う」
言い方は相変わらずだ。
だが、そこに嘲りだけがあるわけではないのは分かった。
「放っておけなかっただけだ」
「そういうのを、そういうとこだって言ってんだよ」
ロットンは前を向いたまま続ける。
「ここじゃ、情が遅れになる」
「遅れたやつから死ぬ」
「じゃあ、お前は放っておけたのか」
「お前が先に動いたからな」
それだけ言って、肩をすくめる。
「まあ、最初にこうなる奴のほうが、たぶんまともだ」
意外な言葉に、思わずそいつを見た。
ロットンはこっちを見ない。
「ただ、まともで生き残れる場所じゃねえだけだ」
それきり、またいつもの顔へ戻った。
*
潜伏から十日が経った頃、俺はマルコム将軍と都市中央の広場を調べていた。
そこは街の心臓みたいな場所だった。
広い。
ただ広いだけじゃない。整えられている。石畳の目まで美しい。中央には大きな噴水があり、水は惜しげもなく流れ続けていた。縁には花が植えられ、庭園へ続く道は左右対称に伸びている。
永遠の泉。
この国の北に広がる巨大な湖。
修道院で何度も聞かされた名だった。
聖泉軍の聖印にさえ刻まれる、人類にとって失われた聖地の象徴。
シェルカエンの豊かさは、あの尽きぬ水に支えられているのだと、幼い頃から教え込まれてきた。
目の前の噴水を見ていると、その話がただの知識ではなくなる。
美しい、と思った。
そして、その感覚に、自分で少し驚いた。
美しいと思う感性は、人間のものだけじゃないのかもしれない。
魔族もまた、こういうものを美しいと思うのだろうか。
そう思った瞬間、俺は妙な寒気を覚えた。
人間も魔族も、同じものを美しいと思う。
それは慰めというより、足場が抜ける感じに近かった。
その時だった。
前から、小さな足音が近づいてくる。
見れば、少女が一人、こちらへ向かって歩いていた。
人間で言えば十歳前後だろうか。
手には小さな笛を持っている。見た目だけなら、ただの少女だ。
だが、次の瞬間、全身が強張った。
何かが来る。
目に見えない圧が、真正面から押してくるみたいだった。
空気の密度が変わる。息が浅くなる。喉の奥が勝手に締まる。
おかしい。
目の前にいるのは、ただの子どもにしか見えない。
なのに、身体のほうが先に警戒している。立っているだけで、一歩も動けなくなる。
隣を見ると、マルコム将軍でさえ、わずかに足を止めていた。
少女はまっすぐこちらへ来る。
笛を持ったまま、不思議そうに俺たちを見上げる。
「ねえ」
声は、本当にただの子どものものだった。
「貴方は魔族? 人間?」
頭が真っ白になる。
ここへ来てから、一度も見破られていない。
門も、宿も、市場も、兵も、誰一人。
なのに、この少女は一瞬でそこへ触れてきた。
どうして。
なぜ。
こんな子どもが。
言葉が出ない。
足も動かない。
少女の周りには、何も見えない。見えないのに、圧だけがある。
信じられないほど大きな何かを、その小さな身体が、当たり前みたいに抱えている。
それなのに。
少女は首を傾げたまま、ただ俺の返事を待っていた。
敵意も、警戒もない。
ただ、不思議だから聞いている。
その目を見た瞬間、なぜか遠い朝の井戸が浮かんだ。
リノ。
栗色の髪を揺らして、勝手に俺を家来にすると決めていた少女。
弱い人を助けるのだと、当たり前みたいに言っていた少女。
怖いくせに、怖いからこそ前へ行くのだと笑った少女。
目の前の少女はリノではない。
銀の髪。
笛。
異様な力。
魔族の姫。
何も同じではない。
それなのに、その無防備な問いかけだけが、ほんの一瞬、リノの声と重なった。
「姫! ここにいましたか!」
遠くから声が飛んだ。
少女がそちらを振り向く。
姫。
その呼び方が耳へ入った瞬間、マルコム将軍の気配が変わる。
「今のうちだ、離れるぞ」
低い声だった。
その一言で、ようやく身体が動いた。
俺たちは庭園から身を翻して離れる。足音を急がせすぎないようにしながら、それでもできるだけ早く広場を抜けた。
角を二つ曲がったところで、ようやく息が戻る。
だが震えは収まらない。
「あの少女が……魔族の姫?」
喉が乾いて、声が少し掠れた。
「信じられない力を感じました」
まだ胸の鼓動が速い。
あれが子どもだとは思えない。あれが“姫”だというのも、現実感がない。
マルコム将軍は短く息を吐いた。
「ああ」
それだけなのに、どこか確信に近い響きがあった。
「恐ろしい力だ」
そう言った口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
だが、その微かな違和感は、なぜか胸に残った。
その日の報告で、マルコム将軍は初めて、明確に何かを掴んだ顔をした。
部屋へ戻るなり、机へ地図を広げる。
ロットンとクックが呼ばれ、俺も同席させられた。
「中央広場の北寄り、庭園に面した導線を洗え」
マルコム将軍が言う。
「王城へ入る女中の流れ、供給路、警備の交代」
「特に子どもの出入りに付随する動線を見ろ」
ロットンが目を細める。
「……なるほどな」
クックは何も言わない。
ただ地図の一点へ視線を落とし、その周辺を頭の中で切っているのが分かった。
俺だけが、少し遅れてついていく。
「将軍」
「何だ」
「あの姫が、何か関係あるんですか」
マルコム将軍は視線を上げなかった。
「今は言えん」
「ですが」
「今はだ」
その言い方に、そこで話は終わりだと分かる。
分かるが、胸の内のざらつきまでは収まらない。
*
十二日目の夕方、部屋へ戻ると、三人ともすでに揃っていた。
空気が違う。
ロットンは壁際で腕を組み、クックは荷をまとめ終えた後のように道具を並べている。マルコム将軍は机の上の地図を畳むところだった。
「居所を掴んだ」
俺が入るなり、将軍はそう言った。
心臓が一つ鳴る。
「今夜、救出を決行する」
救出。
その言葉は変わっていない。
なのに今は、どこか薄く聞こえた。
マルコム将軍が続ける。
「対象は城内にいる」
「俺が見張りと女中を引きつける」
「ダイン、ロットン、クック。お前たち三人で入れ」
ロットンとクックは、もう知っていたような顔だった。
少なくとも、驚きは見えない。
「西棟の回廊は二つ目の角で死角になる」
「夜番は四人、うち二人は巡回」
「残る二人は灯りが落ちる刻に持ち場を半歩動く」
クックが淡々と言う。
「鍵は開ける。時間は短い」
ロットンが続ける。
「運ぶなら、戻りは北じゃなく西庭だ」
「今夜は庭師の小屋脇が一番薄い」
詳しい。
詳しすぎる。
ここまで知っているなら、今までの偵察の意図も、最初からもっと狭かったのだと分かる。
「待ってください」
気づけば、声が出ていた。
三人の視線がこっちへ向く。
「対象は誰なんですか」
また、その問いだった。
マルコム将軍はわずかに目を細めた。
だが、返ってきたのは同じ温度の答えではなかった。
「現場で分かる」
短い。
「それで十分だ」
十分じゃない、と言いかけて、喉で止まる。
ここまで来て、いまさら従わないとは言えない。
ここが敵地で、俺一人の判断で崩せる任務じゃないことも分かっている。
マルコム将軍は俺を見たまま言う。
「ここまで来た以上、迷うな」
その目は揺れていなかった。
だからこそ、逆に自分の足元だけが少し曖昧になる。
*
夜が来た。
シェルカエンの夜は、思っていたより暗くなかった。
通りには魔法灯が灯り、水路は白く細い線になって流れている。王城の外郭も、ところどころ光を帯びていた。
それでも、城へ近づくほど、人の気配は整理されていく。
西棟の外れ。
ロットンとクックの案内で、俺たちは壁沿いを進んだ。
女中の出入り。
見張りの巡回。
物音の薄い時間帯。
全部、計った上でここへ来ている。
マルコム将軍は途中で足を止めた。
「ここから先は三人だ」
声が低い。
「俺が反対側を引き受ける」
「時間は長くない。見失うな」
そう言って、闇のほうへ消えていく。
その背中を見送りながら、俺はなぜか胸の奥が冷えた。
ロットンが言う。
「行くぞ」
西棟の回廊は、クックの言った通りだった。
二つ目の角で死角になる。
灯りの落ちる間がある。
女中の足音が遠ざかる刻限がある。
そこを縫って進む。
ロットンが鍵を外す。
クックが小さな金具を差し込み、音もなく扉を開ける。
救出だ。
そう言い聞かせないと、手元が狂いそうだった。
廊下の奥。
目的の部屋の前で、ロットンが止まる。
中に気配が二つ。
一つは軽い。
もう一つは――
俺は、息を呑んだ。
分かってしまった。
あの圧だ。
庭園で感じた、あの見えない重さが、扉一枚隔てた向こうにある。
ロットンが低く言う。
「入るぞ」
扉が開く。
部屋の中には、少女がいた。
あの庭園の少女。
笛を持った、小さな姫。
寝衣姿だった。
机の上には本が開かれ、枕元には小さな笛が置かれている。
戦場の中で見た魔族とは、あまりにも違った。
そばには女の魔族が一人。
こちらを見た瞬間、表情が凍る。
「誰――」
最後まで言わせなかった。
クックが鉛の箱を開き、中から白く半透明な石を取り出す。
普通の石には見えなかった。妙に冷たそうで、部屋の空気だけが先に変わる。
それが少女へ向けられた瞬間、津波みたいだった圧がすっと引いた。
少女が息を呑む。
女の魔族がその前へ出ようとする。
「姫様、下がって――」
ロットンの剣が走る。
一拍だった。
女は床へ崩れた。
白い衣に赤が広がっていく。
赤い。
その色だけがやけに目についた。
少女が叫ぶ。
「いや――!」
その声を聞いた瞬間、俺の中で何かが重なった。
納屋。
炎。
魔族の腕に捕まれたリノ。
俺へ向けられた、恐怖に濡れた目。
助けて、と言われた気がした。
逃げて、と言われた気もした。
どちらだったのか、今でも分からない。
目の前の少女は、あの時のリノと同じ顔をしていた。
違う。
そう思おうとした。
こいつは魔族の姫だ。
リノじゃない。
村を焼いた側の血を引く者だ。
なのに、床に倒れた護衛を見て震える小さな肩と、笛を握りしめる手が、どうしても別の誰かに見えなかった。
クックが舌打ちする。
「おい、おい、そんな馬鹿な」
石を見下ろした顔が変わる。
「こんなでかい魔封石に亀裂が――」
石の表面に、細い亀裂が走っていた。
少女の顔は涙で濡れていた。
小さな手が笛を握り締め、震えている。
ただの少女に見える。
なのに、割れかけた石の下でなお、何か巨大なものが押し返そうとしている気配があった。
「早くしろ」
ロットンが言う。
次の瞬間、剣の柄で少女を打った。
小さな身体がその場へ崩れる。
音が、あまりにも軽かった。
俺は動けなかった。
あの時、リノを奪われた時と同じだ。
目の前で小さな誰かが倒れる。
自分は何もできず、ただ見ている。
ロットンは迷いなくその身体を抱え上げる。
「黒騎士の護衛が来る前に行くぞ」
俺はまだ動けなかった。
頭が追いつかない。
救出じゃない。
連れ出すんじゃない。
攫うつもりだったのか。
床で、女魔族がかすかに動いた。
血の中で、唇だけが震える。
「ミ……ナ、さま……」
その弱い声が、耳へ刺さる。
ミーナ。
それが、あの少女の名なのだと分かった。
ロットンが振り返る。
「ダイン!」
クックの声も重なる。
「置いていくぞ!」
足が、遅れて動いた。
床に倒れた女魔族を尻目に、俺は部屋を出る。
何をしているのか、自分でも分からないまま。
*
城外の森に設けた待ち合わせ場所に着いた時、マルコム将軍はすでにいた。
衣に赤い染みがあった。
だが傷は見当たらない。
「遅い」
将軍はそれだけ言った。
ロットンが抱えた少女を見て、わずかに頷く。
「問題は」
クックが短く言う。
「魔封石に亀裂が入った。長くは持たない」
マルコム将軍の目が細まる。
「十分だ。ここを離れる」
俺はようやく声を絞り出した。
「……これは、何なんですか」
三人の動きが止まる。
「救出じゃない」
喉が焼ける。
それでも言葉だけは止まらない。
「誘拐じゃないか」
「あの少女を、姫を……何のために」
マルコム将軍がこちらを見る。
その目は冷たくはなかった。
むしろ、困った部下を見るような、静かな目だった。
「任務だ」
「違う!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「任務なら、最初から言うべきだった」
「知らなかったのは、俺だけだったのか」
ロットンが鼻で息を吐く。
「だから俺は、あんたじゃ駄目だって言ったんだ」
「何だと」
「ここにいる間も、老魔の手助けしたり、魔族に情を持ったり」
「そういうのが顔に出すぎる」
その言い方に、胸の奥が熱くなる。
だが、怒鳴り返すより先に、ロットンはさらに続けた。
「ついでに教えといてやる」
「スマニア島は、元々魔族の住処だ」
「人類が奪われた土地でもなんでもない」
意味が、すぐには入ってこなかった。
「……何を言ってる」
「そのままだ」
「お前が殺しまくった魔族は、ただ自分の土地を守りたかっただけだ」
「お前も同罪だよ」
うそだ、と口が動いた。
だが、声にならない。
スマニア島。
聖地奪還の足掛かり。
そう教えられてきた。そう信じて戦った。
それが、最初から違っていた?
クックが淡々と言う。
「驚くのが遅い」
「情報の選び方なんて、どこの国も似たようなものだ」
少女が、ロットンの腕の中でかすかに身じろぎした。
気絶しているはずなのに、まぶたがわずかに震えている。
こちらの声が、意識の底に届いているようにも見えた。
「少女をどうする気だ」
ようやくそれだけ言うと、ロットンではなく、クックが答えた。
「シド殿だ」
「実験に使いたいらしい」
頭の中で、何かが切れた。
あの静かな学者が。
あの剣を作り、俺たちをあの戦場へ送り出した男が。
「ふざけるな」
剣を抜いていた。
自分でも、いつ柄を握ったのか分からなかった。
ただ、気づけば切っ先がマルコム将軍へ向いている。
ロットンが肩をすくめる。
「ほらな」
マルコム将軍は動かなかった。
「ダイン」
声だけが落ちる。
「今さら何を言っている」
「これは任務だ。命令だ。すべてはシェルカエン奪還のため」
「そんなもの、正義じゃない」
「正義でなくとも必要なことはある」
将軍の声は揺れない。
「お前も戻れば、晴れて騎士団長だ」
「剣を納めろ。本来なら上官へのこのような行いは死罪だが、今までの働きに免じて許してやる」
その言葉が、ひどく遠く聞こえた。
かつて憧れた英雄の声のはずなのに、いまは別の何かに聞こえる。
「俺は、貴方を尊敬してついてきました」
剣を握る手が震える。
「だが、この命令はきけません」
マルコム将軍が、ようやく剣へ手をかけた。
「やれやれ」
その声が落ちた瞬間、首筋に鋭い痺れが走る。
何が起きたのか分からなかった。
ただ、膝が抜ける。剣が重くなる。地面が近づく。
倒れた。
動かない。
視界の端で、クックが短い筒を下ろしていた。
吹き矢。
「痺れ毒だ」
クックが言う。
「数刻は動けん」
「このまま追手の魔族に捕まるか、その場で八つ裂きにされるか、どっちがましだ?」
声が出ない。
地面へ頬がついたまま、三人の足音だけが遠ざかっていく。
ロットン。
クック。
マルコム将軍。
その腕に抱えられたまま、ミーナも一緒に消えていく。
俺だけが、その場に残った。
夜の森は静かだった。
静かなまま、俺の中で壊れたものだけが、やけに大きな音を立てていた。
リノを奪ったものを憎んで、ここまで来た。
なのに今、俺は、誰かにとってのリノを奪う側に立っていた。




