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イーシスの胚  作者: ozoo39
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第七章 シェルカエン


 呼び出しを受けたのは、夕刻の訓練が終わった直後だった。


 ミルヴァードの兵舎は、夜になっても完全には静まらない。どこかで歯車が回り、炉が鳴り、遅くまで作業する職工の足音が続く。鉄と油の匂いが、ここでは夜の空気そのものみたいに染みついていた。


 その中を、俺は伝令の兵に先導されて北棟へ向かった。


「将校会議ですか」


 途中でそう聞くと、兵は少しだけ言い淀んだ。


「……詳しくは聞いておりません」


 嘘ではないのだろう。

 だが、何も知らされていないにしては、声が少し硬かった。


 通された部屋は、ミルヴァード軍の会議室にしては妙に静かだった。

 扉の前に兵が二人。中へ入ると、さらにもう二人。物々しいというほどではないが、ただの作戦打ち合わせではないと分かるには十分だった。


 部屋の中央には、大きな机が一つ。


 そこにいた顔ぶれを見て、俺は一瞬だけ息を止めた。


 マルコム将軍。

 ロットン。

 クック。

 そして、前より階級章の増えたカーティス。


 そこまではまだいい。


 だが、その場にもう一人、見覚えのないはずのない男がいた。


 シド。


 ミルヴァードの天才学者。

 スマニア島へ渡る前、竜殺しを渡したあの男だ。


 気づけば、俺の目は無意識に壁際へ立てかけてあった剣へ向いていた。

 竜殺し。黒灰色の、あの重い刃。


 あの剣がなければ、ルークは倒せなかった。

 そして俺たちも、あの地獄を越えられなかっただろう。


 その記憶が、胸の奥で鈍く疼いた。


「来たか、ダイン」


 マルコム将軍が言う。


「はい」


「座れ」


 短く命じられ、空いた椅子へ腰を下ろす。


 ロットンは机の端へ寄りかかり、クックは腕を組んだまま無表情だった。カーティスは相変わらず岩みたいな顔をしている。シドだけが、机の上へ置かれた書類を見下ろしていた。


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 その沈黙が長く感じられた頃、最初に喋ったのはシドだった。


「率直に言います」


 いつもと同じ、抑揚の薄い声だった。


「スマニア島は取りました」

「ですが、現時点で我々がシェルカエンを奪還することは不可能です」


 言葉が、あまりにも平らに置かれた。


 俺は一瞬、その意味を飲み込めなかった。


「……不可能?」


 気づけば、そう口にしていた。


 シドは視線も上げずに続ける。


「兵力。補給。都市構造。防衛設備。人口。技術水準。どれを取っても届かない」

「いまの人類側が正面から攻めて落とせる相手ではありません」


 不可能。


 その一語が、妙に遅れて胸へ落ちる。


 スマニア島の炎が脳裏に蘇った。

 ルークの青黒い火。

 動かなくなったヤリス。

 片腕を失ったルシア。

 血の気を失って倒れていたガレット。


 あれだけの犠牲で、ようやく一つの島だった。


 それでも、正面から攻め続ければ、いつか聖地へ届くのだと、どこかで思っていた。思いたかった。


 シェルカエン。


 修道院で何度も聞かされた名だ。

 人類が求める聖地。

 いつか取り戻さねばならぬ約束の地。

 祈りのたびに、その名は剣と一緒に胸へ刻まれてきた。


 その聖地が、届かない。


 不可能だと。


「そこまで言い切れるんですか」


 俺は机越しにシドを見た。


「言い切れます」


 今度は、はっきりとこちらを見て答えた。


「以前、私はシェルカエンに滞在していました」

「街の規模、城の構造、兵の質、補助機構、水路、防壁、流通、そのすべてを見た上で言っています」


 静かな声だった。

 だが、嫌になるほど説得力があった。


 知らない者が想像で言っているのではない。

 見た者の声だ。


 だからこそ、腹が立つより先に、言葉を失う。


「……なら、我々は何のために」


 そこまで言いかけた時だった。


「シド殿は、少々正直すぎる」


 低い声が、場を割った。


 カーティスだった。


 腕を組んだまま、岩みたいな顔でシドを見ている。

 その声音には苛立ちというより、予定どおりに割り込んだ硬さがあった。


 シドは何も言わない。

 その黙り方だけで、何かを止められたのだと分かった。


「ダイン」


 今度は俺のほうへ目が向く。


「君に集まってもらったのは、正面攻勢の話をするためではない」


 机の上の地図へ、太い指が置かれる。


「シェルカエンへ潜入し、ある人物を救出してもらう」

「極秘任務だ」


 救出。


 不可能、という冷たい言葉の直後だったせいか、その一語だけが妙に浮いて聞こえた。


 だが、それでもまだ理解できる話ではあった。

 正面から奪還できない。だから内部へ入り、誰か重要な人物を引き抜く。軍としてはおかしくない。


 マルコム将軍は黙ったまま、こちらを見ている。

 ロットンもクックも表情を変えない。


 その中で、シドだけがわずかに口を開きかけた。


「救出というより――」


 そこへ、カーティスの声が重なる。


「救出だ」


 空気が、ほんの少しだけ張った。


 シドは一拍だけ黙り、それから何事もなかったように視線を落とした。

 俺はその短いやり取りの意味を、その場ではうまく掴めなかった。ただ、カーティスが何かを先回りして塞いだ、ということだけは分かった。


「変装には普通のやり方では足りない」


 カーティスが続ける。


「魔族は見た目より先に、人間の気配で見抜く」

「そこを越える必要がある」


 シドが脇に置いていた革箱を開いた。


 中には、二つの小瓶があった。

 ひとつは、透明なガラス瓶に白い錠剤が入っている。もうひとつは、霧吹きに似た細長い小瓶だった。


「これを使用します」


 シドが言う。


「錠剤は内側から」

「こちらは皮膚と衣服に」


 クックが横から補足した。


「魔族にしか感じ取れない気配を偽装する」

「人間に見えるかどうかは問題じゃない。問題なのは、魔族に“人間だ”と思われないことだ」


 ロットンが薄く笑う。


「門番は目より鼻と勘で見てくるからな」


 シドは小瓶を机の上へ静かに並べた。


「効果は半月ほど持続する見込みです」

「シェルカエンに入る直前で使ってください」


 俺は小瓶を見た。


 あまりにも小さい。

 こんなものが、あの巨大な城壁と街を越える鍵になるというのか。


「確かなんですか」


 問うたのは、半ば反射だった。


 シドはまっすぐ答えた。


「捕虜で検証済みです」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ冷えた気がした。


 検証済み。


 さらりと流していい言い方ではない。

 だが、ここでそれに引っかかっているのは自分だけのようでもあった。


 カーティスは構わず、別の書類束を机へ置いた。


「さらにこれだ」


 広げられたのは、詳細な地図だった。


 シェルカエンまでの街道。

 中央大陸南岸から北上する道。

 城壁の位置。

 市街地の区画。

 そして城の構造図まである。


 思わず目を見張った。


「……ここまで分かっているんですか」


「五年前の記録ですが」


 シドが答える。


「街の基礎構造はそう簡単には変わらない」

「出発までに覚えてください」


 五年前。


 その数字が胸のどこかへ引っかかった。

 だが、この場で問うべきことは別にあった。


「一体、誰を救出するんですか」


 俺の問いに、ロットンもクックも視線を上げなかった。

 まるで、その質問が来るのを知っていたみたいだった。


 カーティスが、先に口を開く。


「君は知らなくていい」


「ですが――」


「知らないほうがいい」


 今度は言い切った。


「仮に捕まった時、知らなければ吐きようがない」

「それで十分だ」


 理屈としては、分かる。

 分かるからこそ、反論しきれない。


 カーティスは最後に、マルコム将軍へ目を向けた。


「現地ではマルコム将軍の指揮下だ」

「君は従え」


 そこで初めて、マルコム将軍が口を開いた。


「心配するな、ダイン」


 落ち着いた声だった。

 俺が信じてきた将軍の声だ。


「これは必要な任務だ」

「お前には、そのために来てもらった」


 その言葉に、俺は頷くしかなかった。


 その時の俺は、まだそう思っていた。

 これが、奪還に代わる必要な任務なのだと。


          *


 一週間後、俺たちはミルヴァードを発った。


 表向きは物資移送に紛れた移動だった。

 船でスマニア島を経由し、中央大陸南岸へ渡る。そこから先は徒歩だ。目立つ荷も旗も持たず、ただ街道を北へ進む。


 道中、会話は少なかった。


 ロットンとクックは必要なことだけを確認し合い、マルコム将軍は無駄口を叩かない。俺も、何か話したところで胸の中のざらつきが薄まる気はしなかった。


 シドの言葉が、ずっと残っていた。


 不可能。


 あの静かな断言を、頭のどこかがまだ受け入れきれていない。

 だが、スマニア島の光景を思い出すたび、否定もしきれなかった。


 中央大陸南岸へ着いてからは、風の匂いが少し変わった。

 海の湿り気が薄れ、代わりに乾いた土と草の匂いが混じり始める。街道は想像していたより広く、踏み固められていた。これだけでも、この先へ行き来する人と物の量が分かる。


 北へ向かうほど、人影も増えた。


 荷を引く者。徒歩の商人。家族連れ。

 魔族もいれば、人間にしか見えない者もいる。角のある者、羽のある者、鱗を持つ者、耳の長い者。見た目はばらばらなのに、同じ道を、同じように使っていた。


 誰も、こちらを不自然には見ない。


 シドの薬は、効いているらしかった。


 唇の裏に残る苦い薬臭さを思い出しながら、俺は無意識に手袋の内側を握った。

 魔族にしか感じ取れない気配を偽装する。頭では分かっていても、こうして自然に通れると逆に落ち着かない。


 七日目の夕方、丘を一つ越えた時だった。


 前を歩いていたロットンが、足を止める。


「見ろ」


 その一言で顔を上げて、俺は息を止めた。


 遠く、地平の先に城壁が見えた。


 ただの壁ではない。

 白とも灰ともつかない石で築かれた巨大な外郭が、広大な街を丸ごと抱え込んでいる。その内側には塔が何本も突き立ち、さらに中央には、城というよりひとつの山みたいな王城が聳えていた。


 光が違う、と思った。


 夕暮れの斜光を受けた壁が、ただ明るいのではなく、磨かれた器物みたいに静かに返している。水路があるのか、城壁の下のほうでは細い反射がいくつもきらめいていた。城下に広がる建物群も、雑然としていない。遠目にも、道と区画と屋根の高さに意志があるのが分かる。


 シェルカエン。


 修道院で何度も聞かされた名が、ようやく目の前の形を得た。


 人類が求める聖地。

 奪われた約束の地。

 祈りのたび、説教のたび、いつか取り戻すべき場所として教え込まれてきた都。


 もっと、禍々しいものを想像していた。


 暗く、冷たく、悪意で塗り固められた都を。

 だが、目の前にあるのはそれとは違う。巨大で、美しく、洗練されていて、そして――認めたくはないが、豊かだった。


「……これが」


 声が、自分でも驚くほど小さく出た。


 ロットンが口の端を少しだけ上げる。


「聖地、って面じゃねえな」


 茶化しているようにも聞こえたが、その声色にもわずかな緊張があった。


 マルコム将軍が短く言う。


「見惚れるな」

「入る前から呑まれるな」


 その言葉で、ようやく息が戻った。


 城壁へ近づくにつれ、街の輪郭はさらに明瞭になった。


 門は高い。

 だが、閉ざされているわけではなかった。商人や旅人が出入りし、荷車が検分され、人の流れが絶えず動いている。戦時下の要塞というより、大国の大門だ。


 ここが敵地だということを、目の前の景色が一瞬忘れさせる。


 クックが低く言った。


「ここからだ」

「気を抜くな」


 ロットンはすでに、疲れた旅人の顔へ切り替わっている。

 背の丸め方も、歩幅も、視線の置き方も、さっきまでと違う。これが工作員なのか、と変なところで感心しそうになった。


 俺たちは城門の列へ並んだ。


 喉が乾く。

 手のひらに汗が滲む。

 目立つな、と頭では分かっているのに、逆にひとつひとつの動作がぎこちなくなる。


 門番は、トカゲに似た顔立ちの魔族だった。

 黄緑がかった鱗に、縦に細い瞳孔。肩幅は広いが、声は思ったより穏やかだった。


「おい、そこの」


 呼び止められた瞬間、背中へ冷たいものが走る。


 気づけば、俺の手は剣のほうへ動きかけていた。


 その手首を、隣のクックが肘で制する。


 ほんの小さな動きだった。

 だが、それだけで我に返る。


 ロットンが一歩前へ出た。


「へい」


 声の調子まで変わっている。

 くたびれていて、媚びてもいないが、敵意もない。街道を長く歩いてきた男の声だ。


「スマニア島から追われまして」

「海沿いを点々として、ようやくここまで」


 門番の目が細くなる。


「スマニア島?」


「ええ。ひどい有様で」

「食い詰めるよりましだと思って、命からがら」


 ロットンは言葉を重ねすぎない。

 必要なことだけを置いて、あとは相手に想像させる話し方だった。


 門番の顔つきが、疑いから少し別のものへ変わる。


「それは大変だったな」


 その声音に、俺は逆に戸惑った。


 もっと、値踏みされると思っていた。

 細かく詰問され、少しの綻びで見抜かれるのだと。


 だが門番は、後ろへ向かって声を張った。


「おい、ノマーク!」

「あのスマニア島から逃げてきたそうだ!」


 門の奥から、ばたばたと足音がした。


 出てきたのは、小柄な魔族だった。

 子どもにも見える背丈だが、顔つきはもっと上だ。肩のあたりに小さな羽根があり、細い尻尾が歩くたびに揺れる。


「そりゃ、よくここまで来た」


 ノマークと呼ばれたそいつは、俺たちを見てすぐそう言った。


「難民用の宿があるから使うといい。王が最近、いいのを建ててくれたんだ」

「飯も酒もあるでよ。もちろん金はいらないから」


 あまりにあっけなくて、返事が遅れた。


 門を、通れる。


 それだけでも信じがたいのに、その先に宿と食事まで用意されている。


「……助かる」


 ようやくそう言うと、ノマークは少しだけ眉を下げた。


「助かったならよかったさ」

「同胞がひでえ目に遭ってるって聞くのは、気分のいいもんじゃないでな」


 同胞。


 その言葉が耳に残った。

 こっちは偽装している。騙している。なのに向こうは、当たり前みたいに“同胞”と言う。


 シドの薬は、本当に効いているらしかった。


 門をくぐる。


 その瞬間、胸の奥で何かがひっくり返るような感覚があった。


 ついに聖地へ入った。

 修道院で何度も祈った場所へ、自分の足で踏み込んだ。


 なのに、最初に向けられたのは敵意ではなく、気遣いだった。


 シェルカエンの街路は、外から見た以上に整っていた。


 石畳は広く、排水の溝まできれいに切られている。建物の高さや並びにも統一があり、雑然としていない。通りのところどころには背の高い灯柱が立ち、魔法灯らしい淡い光が夕暮れの薄さを追い払っていた。遠くでは水の流れる音がする。水路だろうか。


 カルミナとも、ドーンヘルムとも、ミルヴァードとも違う。


 カルミナの活気は濁っていた。

 ドーンヘルムの都は重厚だった。

 ミルヴァードは機械と煙で前へ押す街だった。


 ここは違う。

 洗練されている。しかも、それを見せつけようとしているのではなく、当たり前の水準として持っているように見えた。


 ノマークが歩きながら言う。


「ほんと助かってよかったね」

「でも同胞のこと思うと辛いよな」


 しみじみした口調だった。


 美しい街と、その血の通った言葉が、妙に噛み合っている。


 俺は返事をし損ねた。


 宿は門からそう遠くなかった。

 新しい木の匂いがする、二階建ての建物だった。看板には難民受入用の標が掲げられている。中は清潔で、廊下も明るい。粗末ではあるが、雑には扱っていないのが分かった。


「しばらくはここ使っていいから」

「困ったことあったら表に言ってくれ」


 ノマークはそう言って、鍵代わりの札を渡した。


「……世話になる」


 マルコム将軍が短く答える。


 ノマークは気にした様子もなく、少し笑った。


「ここまで来れたんなら、あとは休めるだけ休んだほうがいいさ」

「じゃあな」


 去っていく背を見送りながら、俺はまだ現実感を持てなかった。


 部屋へ入る。

 扉が閉まった途端、外の柔らかさが一枚剥がれた気がした。


 マルコム将軍が部屋の奥へ歩きながら言う。


「無事、悪魔のアジトに潜入できたな」


 その一言が、妙にこの街に似つかわしくない響きを持っていた。


 悪魔。


 一瞬、その言葉がどこか浮いて聞こえた。


 だが、次の瞬間には別の記憶が押し返してくる。


 ルシアは腕を失った。

 ガレットは死にかけた。

 ヤリスはもういない。


 俺たちはこの地を取り戻すために、あれだけの血を流したのだ。


 そうだ。

 忘れるな。


 目の前の街がどれだけ整って見えても、ここは敵の都だ。

 そう自分に言い聞かせる。


 ロットンが荷を下ろしながら、ちらりと俺を見た。


「何だ、その顔」


「別に」


「別に、って顔じゃねえな」


 クックが無表情のまま窓際へ立つ。


「まだ一歩目だ」

「呑まれるのは早い」


 言い返そうとして、やめた。

 言い返すほど、自分の中の違和感を認めることになる気がしたからだ。


 マルコム将軍は机代わりの台へ地図を広げた。


「今夜は休む」

「明日から動く」


 その声は、相変わらず落ち着いていた。

 頼もしいはずのその声が、さっき門で聞いた魔族の気遣いと、うまく同じ頭の中へ収まらない。


 外では、まだ水の音がしていた。

 人の話し声も、笑い声も、どこか穏やかに響いている。


 その夜、俺はなかなか眠れなかった。


 祈りのたび胸に描いてきた聖地へ、いま自分は盗人みたいに潜り込んでいる。


 それなのに、胸の中で強く残っているのは、憎しみより先に、門番の「それは大変だったな」という声だった。


          *


 翌朝から、潜伏生活が始まった。


 とはいえ、隠れ家へ籠もるようなものではない。

 むしろ逆だった。街へ出て、人の流れに紛れ、見て、覚え、戻って報告する。その繰り返しだ。


 ただし、単独行動は許されなかった。


 常に二人。

 組み合わせは日ごとに変わる。マルコム将軍が決める。


 最初の二日、俺はロットンと組んだ。


 歩きながら、あいつは何気ない顔で色々なものを見ていた。

 通りの広さ。衛兵の巡回。水路にかかる橋の数。商人の荷の種類。門の開閉時刻。広場へ抜ける脇道。何を見ているのか一見すると分からない。だが、帰って報告を始めると、その全部がきちんと繋がっている。


「西側の裏通り、昼は人が多いが日が落ちると半分以下だ」

「北門へ抜ける荷路は、三刻ごとに検分が入る」

「巡回の交代は南区のほうが雑だ」


 報告を聞きながら、俺はようやく気づき始めた。


 マルコム将軍が俺たちに命じている偵察は、ただ街の様子を探るものじゃない。

 もっと狭い何かに向けて、少しずつ輪郭を作っている。


 だが、その輪郭が何なのかは、まだ見えない。


 ロットンは一度も余計なことを言わなかった。

 ただ、時々俺が立ち止まりそうになると、面倒そうに言うだけだ。


「見るなら歩け」

「歩くなら止まるな」


「お前、それしか言わないのか」


「今はそれで足りる」


 不愉快な言い方なのに、間違ってはいない。


 街を歩くうちに、俺は自分の知っていた魔族像が、少しずつ形を失っていくのを感じていた。


 市場は賑わっていた。

 果実を売る声。焼いた肉の匂い。布を選ぶ者たち。水路沿いでは子どもが石を投げて遊んでいる。羽のある魔族と、角のある魔族と、尾の長い魔族が、同じ屋台の前で値切っている。


 ちゃんと暮らしている。


 その言葉が頭に浮かんで、すぐ自分で嫌になった。


 そんな見方をすること自体、まるで今までの教えが間違っていたと認めるみたいだったからだ。


 けれど、ほかに言いようがない。


 ここにいる連中は、ただ人を襲って暮らしている化け物には見えなかった。

 少なくとも、街の真ん中では。


 三日目、俺はクックと組んだ。


 ロットンが目立たないところを拾う男なら、クックは目立つところを切り分ける男だった。

 どこを見ているのかは分かりやすい。門、兵、交差点、城へ続く道。だが、その見方が容赦ない。何人立っているか、どこで死角が生まれるか、何歩で駆け抜けられるか。街を景色ではなく構造として見ている。


「そこ、見るな」


 不意にクックが言った。


 俺は視線を前へ戻す。


「見てない」


「見てた」

「二階の窓を見上げる旅人はいない」


 言い方に棘はない。

 ただ事実だけを返してくる。


「……よく見てるな」


「見てなきゃ死ぬ」


 それで会話は終わった。


 昼を少し過ぎた頃、俺たちは街の北寄りへ出た。


 そこには、人類保護区と呼ばれる一角があった。


 最初にその話を聞いた時、俺は意味を取り損ねた。

 保護区。誰を、何から守るのか。


 実際に見て、ようやく少し分かった。


 区画の入口には兵が立っている。

 だが、閉じ込めるための兵ではない。外からの流れを見て、内側の揉め事を抑えるための立ち方だ。中には人間がいた。間違いなく、人間だ。角も尾もない。身なりは裕福ではないが、鎖につながれてもいない。行き来も許されているようだった。


 クックが低く言う。


「驚いた顔をするな」


「……驚くだろ」


「噂と違うからか」


 そう言われると、返す言葉が少し詰まる。


 中央大陸の人間は、魔族に殺されるか、奴隷にされるか、そのどちらかだと聞かされてきた。

 少なくとも、そういう話の積み重ねの中で育ってきた。


 だが、目の前にいる人間たちは、怯えてはいても、繋がれてはいない。


「最近の摩擦を見て、王が保護区を広げたらしい」


 クックはそれだけ言った。


「暴徒化を防ぐためだ」

「もともとこの地にいた人間だけだが、自由滞在を認めてる」


「……王が?」


「そう聞いた」


 王。

 ザルク王のことだろうか。


 人類から聖地を奪った魔王。そう教わってきた名だ。

 それなのに、目の前の事実だけを見るなら、単純な暴君の像には結びつかなかった。


 保護区の前で、幼い子を連れた女がこちらを横切った。

 子どもは人間で、母親も人間だった。兵に目を向けることはしたが、怯えて逃げる様子はない。その普通さが、逆に異様だった。


「……何なんだ、ここは」


 小さく漏れた声に、クックは横目をくれた。


「敵地だ」

「それ以上のことは、今は考えるな」


 命令としては正しい。

 だが、正しいからこそ苦い。


 その日、老いた魔族が通りの端でよろめいた。


 背中の曲がった、小柄な老魔だった。荷を抱えたまま石畳の段差につまずき、包みが崩れる。果実がいくつか足元へ転がった。


 咄嗟だった。


 考える前に、俺の手が出ていた。


「大丈夫か」


 支えてから、はっとする。


 老魔は俺を見上げ、それから何度も何度も頭を下げた。


「ありがとうよ」

「すまんね、すまんね」


 その声は、どこにでもいる年寄りのものと変わらなかった。


 包みを拾い直して渡すと、老魔はまた礼を言って去っていく。


 俺はしばらく、その背を見ていた。


 隣で見ていたロットンが、面倒そうに息を吐く。


「お前、ほんとそういうとこだな」


「何がだ」


「見なくていいもんまで見て、拾わなくていいもんまで拾う」


 言い方は相変わらずだ。

 だが、そこに嘲りだけがあるわけではないのは分かった。


「放っておけなかっただけだ」


「そういうのを、そういうとこだって言ってんだよ」


 ロットンは前を向いたまま続ける。


「ここじゃ、情が遅れになる」

「遅れたやつから死ぬ」


「じゃあ、お前は放っておけたのか」


「お前が先に動いたからな」


 それだけ言って、肩をすくめる。


「まあ、最初にこうなる奴のほうが、たぶんまともだ」


 意外な言葉に、思わずそいつを見た。


 ロットンはこっちを見ない。


「ただ、まともで生き残れる場所じゃねえだけだ」


 それきり、またいつもの顔へ戻った。


          *


 潜伏から十日が経った頃、俺はマルコム将軍と都市中央の広場を調べていた。


 そこは街の心臓みたいな場所だった。


 広い。

 ただ広いだけじゃない。整えられている。石畳の目まで美しい。中央には大きな噴水があり、水は惜しげもなく流れ続けていた。縁には花が植えられ、庭園へ続く道は左右対称に伸びている。


 永遠の泉。


 この国の北に広がる巨大な湖。

 修道院で何度も聞かされた名だった。

 聖泉軍の聖印にさえ刻まれる、人類にとって失われた聖地の象徴。

 シェルカエンの豊かさは、あの尽きぬ水に支えられているのだと、幼い頃から教え込まれてきた。


 目の前の噴水を見ていると、その話がただの知識ではなくなる。


 美しい、と思った。


 そして、その感覚に、自分で少し驚いた。


 美しいと思う感性は、人間のものだけじゃないのかもしれない。

 魔族もまた、こういうものを美しいと思うのだろうか。


 そう思った瞬間、俺は妙な寒気を覚えた。


 人間も魔族も、同じものを美しいと思う。

 それは慰めというより、足場が抜ける感じに近かった。


 その時だった。


 前から、小さな足音が近づいてくる。


 見れば、少女が一人、こちらへ向かって歩いていた。


 人間で言えば十歳前後だろうか。

 手には小さな笛を持っている。見た目だけなら、ただの少女だ。


 だが、次の瞬間、全身が強張った。


 何かが来る。


 目に見えない圧が、真正面から押してくるみたいだった。

 空気の密度が変わる。息が浅くなる。喉の奥が勝手に締まる。


 おかしい。


 目の前にいるのは、ただの子どもにしか見えない。

 なのに、身体のほうが先に警戒している。立っているだけで、一歩も動けなくなる。


 隣を見ると、マルコム将軍でさえ、わずかに足を止めていた。


 少女はまっすぐこちらへ来る。

 笛を持ったまま、不思議そうに俺たちを見上げる。


「ねえ」


 声は、本当にただの子どものものだった。


「貴方は魔族? 人間?」


 頭が真っ白になる。


 ここへ来てから、一度も見破られていない。

 門も、宿も、市場も、兵も、誰一人。


 なのに、この少女は一瞬でそこへ触れてきた。


 どうして。

 なぜ。

 こんな子どもが。


 言葉が出ない。

 足も動かない。


 少女の周りには、何も見えない。見えないのに、圧だけがある。

 信じられないほど大きな何かを、その小さな身体が、当たり前みたいに抱えている。


 それなのに。


 少女は首を傾げたまま、ただ俺の返事を待っていた。


 敵意も、警戒もない。

 ただ、不思議だから聞いている。


 その目を見た瞬間、なぜか遠い朝の井戸が浮かんだ。


 リノ。


 栗色の髪を揺らして、勝手に俺を家来にすると決めていた少女。

 弱い人を助けるのだと、当たり前みたいに言っていた少女。

 怖いくせに、怖いからこそ前へ行くのだと笑った少女。


 目の前の少女はリノではない。


 銀の髪。

 笛。

 異様な力。

 魔族の姫。


 何も同じではない。


 それなのに、その無防備な問いかけだけが、ほんの一瞬、リノの声と重なった。


「姫! ここにいましたか!」


 遠くから声が飛んだ。


 少女がそちらを振り向く。


 姫。


 その呼び方が耳へ入った瞬間、マルコム将軍の気配が変わる。


「今のうちだ、離れるぞ」


 低い声だった。


 その一言で、ようやく身体が動いた。

 俺たちは庭園から身を翻して離れる。足音を急がせすぎないようにしながら、それでもできるだけ早く広場を抜けた。


 角を二つ曲がったところで、ようやく息が戻る。


 だが震えは収まらない。


「あの少女が……魔族の姫?」


 喉が乾いて、声が少し掠れた。


「信じられない力を感じました」


 まだ胸の鼓動が速い。

 あれが子どもだとは思えない。あれが“姫”だというのも、現実感がない。


 マルコム将軍は短く息を吐いた。


「ああ」


 それだけなのに、どこか確信に近い響きがあった。


「恐ろしい力だ」


 そう言った口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。


 だが、その微かな違和感は、なぜか胸に残った。


 その日の報告で、マルコム将軍は初めて、明確に何かを掴んだ顔をした。


 部屋へ戻るなり、机へ地図を広げる。

 ロットンとクックが呼ばれ、俺も同席させられた。


「中央広場の北寄り、庭園に面した導線を洗え」


 マルコム将軍が言う。


「王城へ入る女中の流れ、供給路、警備の交代」

「特に子どもの出入りに付随する動線を見ろ」


 ロットンが目を細める。


「……なるほどな」


 クックは何も言わない。

 ただ地図の一点へ視線を落とし、その周辺を頭の中で切っているのが分かった。


 俺だけが、少し遅れてついていく。


「将軍」


「何だ」


「あの姫が、何か関係あるんですか」


 マルコム将軍は視線を上げなかった。


「今は言えん」


「ですが」


「今はだ」


 その言い方に、そこで話は終わりだと分かる。

 分かるが、胸の内のざらつきまでは収まらない。


          *


 十二日目の夕方、部屋へ戻ると、三人ともすでに揃っていた。


 空気が違う。


 ロットンは壁際で腕を組み、クックは荷をまとめ終えた後のように道具を並べている。マルコム将軍は机の上の地図を畳むところだった。


「居所を掴んだ」


 俺が入るなり、将軍はそう言った。


 心臓が一つ鳴る。


「今夜、救出を決行する」


 救出。


 その言葉は変わっていない。

 なのに今は、どこか薄く聞こえた。


 マルコム将軍が続ける。


「対象は城内にいる」

「俺が見張りと女中を引きつける」

「ダイン、ロットン、クック。お前たち三人で入れ」


 ロットンとクックは、もう知っていたような顔だった。

 少なくとも、驚きは見えない。


「西棟の回廊は二つ目の角で死角になる」

「夜番は四人、うち二人は巡回」

「残る二人は灯りが落ちる刻に持ち場を半歩動く」


 クックが淡々と言う。


「鍵は開ける。時間は短い」


 ロットンが続ける。


「運ぶなら、戻りは北じゃなく西庭だ」

「今夜は庭師の小屋脇が一番薄い」


 詳しい。


 詳しすぎる。

 ここまで知っているなら、今までの偵察の意図も、最初からもっと狭かったのだと分かる。


「待ってください」


 気づけば、声が出ていた。


 三人の視線がこっちへ向く。


「対象は誰なんですか」


 また、その問いだった。


 マルコム将軍はわずかに目を細めた。

 だが、返ってきたのは同じ温度の答えではなかった。


「現場で分かる」


 短い。


「それで十分だ」


 十分じゃない、と言いかけて、喉で止まる。


 ここまで来て、いまさら従わないとは言えない。

 ここが敵地で、俺一人の判断で崩せる任務じゃないことも分かっている。


 マルコム将軍は俺を見たまま言う。


「ここまで来た以上、迷うな」


 その目は揺れていなかった。

 だからこそ、逆に自分の足元だけが少し曖昧になる。


          *


 夜が来た。


 シェルカエンの夜は、思っていたより暗くなかった。

 通りには魔法灯が灯り、水路は白く細い線になって流れている。王城の外郭も、ところどころ光を帯びていた。


 それでも、城へ近づくほど、人の気配は整理されていく。


 西棟の外れ。

 ロットンとクックの案内で、俺たちは壁沿いを進んだ。


 女中の出入り。

 見張りの巡回。

 物音の薄い時間帯。


 全部、計った上でここへ来ている。


 マルコム将軍は途中で足を止めた。


「ここから先は三人だ」


 声が低い。


「俺が反対側を引き受ける」

「時間は長くない。見失うな」


 そう言って、闇のほうへ消えていく。


 その背中を見送りながら、俺はなぜか胸の奥が冷えた。


 ロットンが言う。


「行くぞ」


 西棟の回廊は、クックの言った通りだった。


 二つ目の角で死角になる。

 灯りの落ちる間がある。

 女中の足音が遠ざかる刻限がある。


 そこを縫って進む。


 ロットンが鍵を外す。

 クックが小さな金具を差し込み、音もなく扉を開ける。


 救出だ。


 そう言い聞かせないと、手元が狂いそうだった。


 廊下の奥。

 目的の部屋の前で、ロットンが止まる。


 中に気配が二つ。


 一つは軽い。

 もう一つは――


 俺は、息を呑んだ。


 分かってしまった。


 あの圧だ。


 庭園で感じた、あの見えない重さが、扉一枚隔てた向こうにある。


 ロットンが低く言う。


「入るぞ」


 扉が開く。


 部屋の中には、少女がいた。


 あの庭園の少女。

 笛を持った、小さな姫。


 寝衣姿だった。

 机の上には本が開かれ、枕元には小さな笛が置かれている。

 戦場の中で見た魔族とは、あまりにも違った。


 そばには女の魔族が一人。

 こちらを見た瞬間、表情が凍る。


「誰――」


 最後まで言わせなかった。


 クックが鉛の箱を開き、中から白く半透明な石を取り出す。

 普通の石には見えなかった。妙に冷たそうで、部屋の空気だけが先に変わる。


 それが少女へ向けられた瞬間、津波みたいだった圧がすっと引いた。


 少女が息を呑む。

 女の魔族がその前へ出ようとする。


「姫様、下がって――」


 ロットンの剣が走る。


 一拍だった。


 女は床へ崩れた。

 白い衣に赤が広がっていく。


 赤い。


 その色だけがやけに目についた。


 少女が叫ぶ。


「いや――!」


 その声を聞いた瞬間、俺の中で何かが重なった。


 納屋。

 炎。

 魔族の腕に捕まれたリノ。

 俺へ向けられた、恐怖に濡れた目。


 助けて、と言われた気がした。

 逃げて、と言われた気もした。


 どちらだったのか、今でも分からない。


 目の前の少女は、あの時のリノと同じ顔をしていた。


 違う。

 そう思おうとした。


 こいつは魔族の姫だ。

 リノじゃない。

 村を焼いた側の血を引く者だ。


 なのに、床に倒れた護衛を見て震える小さな肩と、笛を握りしめる手が、どうしても別の誰かに見えなかった。


 クックが舌打ちする。


「おい、おい、そんな馬鹿な」


 石を見下ろした顔が変わる。


「こんなでかい魔封石に亀裂が――」


 石の表面に、細い亀裂が走っていた。


 少女の顔は涙で濡れていた。

 小さな手が笛を握り締め、震えている。


 ただの少女に見える。

 なのに、割れかけた石の下でなお、何か巨大なものが押し返そうとしている気配があった。


「早くしろ」


 ロットンが言う。


 次の瞬間、剣の柄で少女を打った。


 小さな身体がその場へ崩れる。


 音が、あまりにも軽かった。


 俺は動けなかった。


 あの時、リノを奪われた時と同じだ。


 目の前で小さな誰かが倒れる。

 自分は何もできず、ただ見ている。


 ロットンは迷いなくその身体を抱え上げる。


「黒騎士の護衛が来る前に行くぞ」


 俺はまだ動けなかった。


 頭が追いつかない。


 救出じゃない。

 連れ出すんじゃない。


 攫うつもりだったのか。


 床で、女魔族がかすかに動いた。

 血の中で、唇だけが震える。


「ミ……ナ、さま……」


 その弱い声が、耳へ刺さる。


 ミーナ。


 それが、あの少女の名なのだと分かった。


 ロットンが振り返る。


「ダイン!」


 クックの声も重なる。


「置いていくぞ!」


 足が、遅れて動いた。


 床に倒れた女魔族を尻目に、俺は部屋を出る。

 何をしているのか、自分でも分からないまま。


          *


 城外の森に設けた待ち合わせ場所に着いた時、マルコム将軍はすでにいた。


 衣に赤い染みがあった。

 だが傷は見当たらない。


「遅い」


 将軍はそれだけ言った。


 ロットンが抱えた少女を見て、わずかに頷く。


「問題は」


 クックが短く言う。


「魔封石に亀裂が入った。長くは持たない」


 マルコム将軍の目が細まる。


「十分だ。ここを離れる」


 俺はようやく声を絞り出した。


「……これは、何なんですか」


 三人の動きが止まる。


「救出じゃない」


 喉が焼ける。

 それでも言葉だけは止まらない。


「誘拐じゃないか」

「あの少女を、姫を……何のために」


 マルコム将軍がこちらを見る。


 その目は冷たくはなかった。

 むしろ、困った部下を見るような、静かな目だった。


「任務だ」


「違う!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。


「任務なら、最初から言うべきだった」

「知らなかったのは、俺だけだったのか」


 ロットンが鼻で息を吐く。


「だから俺は、あんたじゃ駄目だって言ったんだ」


「何だと」


「ここにいる間も、老魔の手助けしたり、魔族に情を持ったり」

「そういうのが顔に出すぎる」


 その言い方に、胸の奥が熱くなる。

 だが、怒鳴り返すより先に、ロットンはさらに続けた。


「ついでに教えといてやる」

「スマニア島は、元々魔族の住処だ」

「人類が奪われた土地でもなんでもない」


 意味が、すぐには入ってこなかった。


「……何を言ってる」


「そのままだ」

「お前が殺しまくった魔族は、ただ自分の土地を守りたかっただけだ」

「お前も同罪だよ」


 うそだ、と口が動いた。

 だが、声にならない。


 スマニア島。

 聖地奪還の足掛かり。

 そう教えられてきた。そう信じて戦った。


 それが、最初から違っていた?


 クックが淡々と言う。


「驚くのが遅い」

「情報の選び方なんて、どこの国も似たようなものだ」


 少女が、ロットンの腕の中でかすかに身じろぎした。

 気絶しているはずなのに、まぶたがわずかに震えている。

 こちらの声が、意識の底に届いているようにも見えた。


「少女をどうする気だ」


 ようやくそれだけ言うと、ロットンではなく、クックが答えた。


「シド殿だ」

「実験に使いたいらしい」


 頭の中で、何かが切れた。


 あの静かな学者が。

 あの剣を作り、俺たちをあの戦場へ送り出した男が。


「ふざけるな」


 剣を抜いていた。


 自分でも、いつ柄を握ったのか分からなかった。

 ただ、気づけば切っ先がマルコム将軍へ向いている。


 ロットンが肩をすくめる。


「ほらな」


 マルコム将軍は動かなかった。


「ダイン」


 声だけが落ちる。


「今さら何を言っている」

「これは任務だ。命令だ。すべてはシェルカエン奪還のため」


「そんなもの、正義じゃない」


「正義でなくとも必要なことはある」


 将軍の声は揺れない。


「お前も戻れば、晴れて騎士団長だ」

「剣を納めろ。本来なら上官へのこのような行いは死罪だが、今までの働きに免じて許してやる」


 その言葉が、ひどく遠く聞こえた。


 かつて憧れた英雄の声のはずなのに、いまは別の何かに聞こえる。


「俺は、貴方を尊敬してついてきました」


 剣を握る手が震える。


「だが、この命令はきけません」


 マルコム将軍が、ようやく剣へ手をかけた。


「やれやれ」


 その声が落ちた瞬間、首筋に鋭い痺れが走る。


 何が起きたのか分からなかった。

 ただ、膝が抜ける。剣が重くなる。地面が近づく。


 倒れた。


 動かない。


 視界の端で、クックが短い筒を下ろしていた。

 吹き矢。


「痺れ毒だ」


 クックが言う。


「数刻は動けん」

「このまま追手の魔族に捕まるか、その場で八つ裂きにされるか、どっちがましだ?」


 声が出ない。


 地面へ頬がついたまま、三人の足音だけが遠ざかっていく。


 ロットン。

 クック。

 マルコム将軍。


 その腕に抱えられたまま、ミーナも一緒に消えていく。


 俺だけが、その場に残った。


 夜の森は静かだった。

 静かなまま、俺の中で壊れたものだけが、やけに大きな音を立てていた。


 リノを奪ったものを憎んで、ここまで来た。


 なのに今、俺は、誰かにとってのリノを奪う側に立っていた。

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