第六章 ヘルザとミーナ
スマニア島が戦場になる、五年前のことだ。
あの頃の私は、まだ間に合うと思っていた。
シェルカエンの王城で育つ、幼い魔族の姫。
その肩書きさえ忘れそうになるほど、朝の中庭にいるミーナ様は、ただ無邪気な子どもに見えた。
けれど私は、知っていた。
あるいは、知っていたつもりでいた。
あの方の内側に、幼い笑顔とは似ても似つかないものが眠っていることを。
そしてそれを、誰より本人だけが知らないことを。
「ヘルザ、見てて!」
朝の光が差し込む中庭の真ん中で、ミーナ様はそう言って両手を広げた。
銀の髪がふわりと揺れ、足もとの石畳に淡い影が落ちる。
無邪気な笑顔だけを見れば、どこにでもいる可愛らしい五歳の女の子だ。
もっとも、どこにでもいる女の子が、王城の中庭で火球の形を気にしたりはしないのだけれど。
「今日はちゃんと丸くするの。昨日みたいな、へんなのじゃなくて」
「その前に、息を整えてください」
「また?」
「またです」
「ヘルザ、そればっかり」
「火は、ミーナ様が急ぐと先に走ります」
「火が?」
「ええ。昨日も一昨日も、あなたより先に花壇へ行きました」
「……お花が近かったの」
「花は逃げません。火も、勝手には近づきません」
むう、とミーナ様は頬をふくらませた。
「でも今日はだいじょうぶだもん」
「なぜ、そう思われますか」
「パン、ちゃんと食べた」
「……それは大事です」
「でしょ?」
「ただ、火が丸くなる理由にはなりません」
「ならないの?」
「少なくとも、私はそう習っていません」
「じゃあ言わない」
「誰にですか」
「先生たち」
「賢明です」
ミーナ様はくすくす笑い、それから一応、言われた通りに息を吸った。
「すって、はいて……すって、はいて……」
「肩の力を抜いてください。そうです。そのまま前へ」
「前へ……」
次の瞬間、ぼっ、と火が灯った。
私は思わず目を細める。
やはり大きい。
人の頭ほどもある火球が、空気をわずかに歪ませながら浮かんでいる。
しかも、大きいだけではない。熱の密度が濃い。訓練で扱うには、あまりにも完成に近い火だ。
王城付きの魔法師たちが見れば、まず顔色を変えるだろう。
「どう!?」
火球を浮かせたまま、ミーナ様が得意げに聞いてくる。
「……よく形を保っています」
「丸い?」
「かなり」
「かなりって、まんまる?」
「まんまるに近い、という意味です」
「じゃあ、まんまるじゃない」
「惜しい、という言葉もあります」
「ヘルザ、けち」
「教師ですから」
「ヘルザはすぐそう言う」
「便利な言葉ですので」
「ずるいー」
そう言いながらも、ミーナ様はじっと火球を睨み、ほんの少しだけ輪郭を整えようとした。
たったそれだけで、火の揺らぎが目に見えて安定する。
異常だ。
シェルカエンへ来てから、教師たちは皆、似たようなことを言っていた。
五歳にして、すでに第五級――極焔に届きうる資質を見せている、と。
けれど、私が恐れているのはそこではない。
「えへへ。できるよ、わたし」
「ええ、できています。ですが、そのまま維持して――」
ぼふん。
妙に情けない音を立てて、火球が潰れた。
熱だけがふわりと広がり、花壇の端の草がちりっと焦げる。
「あっ」
「……ミーナ様」
「これはね、お花が」
「今回は花のせいにしますか」
「ちがうの。お花が近くて」
「近い花壇を選んだのは、火ではありません」
「……わたし?」
「はい」
「じゃあ、ちょっとだけわたし」
「全部です」
ミーナ様は不満そうに唇を尖らせた。
私は小さく息をつく。
「ですが、上出来です」
「ほんと?」
「ほんとです。少なくとも、私が五歳の頃よりは遥かに」
「ヘルザも、こういうのやったの?」
「私はもっと地味でした」
「じゃあ、にいさまより?」
「ザルク様を比較に出すのはやめましょう。周囲が困ります」
「なんで?」
「王族の方々は、基準が高すぎるのです」
「ふふっ」
ミーナ様は声を立てて笑った。
本当に、この子は魔法そのものにはそれほど執着していない。
褒められれば嬉しそうにはする。
できれば得意げにもなる。
けれど、目を輝かせるのは火の大きさより、笛の音だったり、本の続きだったりする。
五歳まで過ごしていた、南方の離宮サラディオでもそうだった。
この子が選ぶのは、勇ましい武勲譚ではなかった。
争いの末に誰かが勝つ話より、誰かが誰かを助けようとする話を好んだ。
だからこそ、時々こわくなる。
「もう、おわり?」
「本日はここまでです」
「やだ」
「やだではありません」
「まだできるもん」
「“できる”と“続けてよい”は別です」
「ヘルザって、そういうむずかしい言い方する」
「では、分かりやすく言います。今日は終わりです」
「最初からそう言って」
「最初からそう言うと、聞き流されますので」
「むう……」
笛を指先でくるくる回しながら、ミーナ様は少しだけ考え、それからぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、本読む?」
「訓練が終われば、と昨日から申し上げていました」
「泉の子のつづきがいい」
「またあのお話ですか」
「また」
「よほどお気に入りなのですね」
「だって、あの子、こわいのに行くでしょ」
「泉の中へ、ですね」
「うん。こわいのに、泣いてる子を放っておかない」
「……そうですね」
「わたし、ああいう子が好き」
「笛が出てくるからではなく?」
「それも好き」
「正直でよろしい」
三歳のときのことを、私は忘れられない。
あの日も、こんなふうに穏やかな昼下がりだった。
サラディオの森へ薬草を摘みに行った帰り、ミーナ様が大事にしていたイタチ――ポレロが、一匹のリザードに襲われた。
森の浅い場所に棲む、ごくありふれた魔物だ。
大人が相手なら脅威にもならない。
けれど、子どもと小動物にとっては十分すぎる脅威だった。
「ポレロ!」
ミーナ様が叫んだ。
私は咄嗟に前へ出ようとした。
けれど、その次の瞬間には、終わっていた。
何が起きたのか、本当に理解できなかった。
火でも、風でも、氷でもなかった。
魔法の詠唱も、魔力の練り上げも、何ひとつ見えなかった。
ただ、リザードが一瞬で形を失い、その場に崩れていた。
ミーナ様は震えながら私の服を掴み、「ポレロ、ポレロ」と泣いていた。
自分が何をしたのか、まるで分かっていない顔だった。
あのとき、頭の奥で声がした。
『持ってる』
ぞわり、と背筋が冷えた。
今でも、その声音を思い出すだけで気分が悪くなる。
ヘルド。
私の奥に棲む、もう一つの声。
いつからそこにいるのか、今も分からない。
ただ、私が見ないふりをしたものだけを、いつも正確に指差してくる。
『ただの才能じゃない。魔力でもない』
『あれは、世界の底に手が届く類いのものだ』
私は返事をしなかった。
したくもなかった。
『古い記録にあったよ。闇の魂を持つもの』
『尽きない力を生み、壊れたものを並べ直し、世界の形を定め直す』
あの時も、ヘルドは妙にはしゃいでいた。
『まさか、本当にいるとはねぇ』
私は返事をしなかった。
だが、否定もできなかった。
目の前には、ただのリザードだったものが、もう動かずに横たわっていたからだ。
「ヘルザ?」
不意に袖を引かれ、私は現在へ引き戻された。
見上げてくるミーナ様が、不思議そうに首を傾げている。
「どうしたの? こわい顔してる」
「……申し訳ありません。少し考え事を」
「また難しいこと?」
「医者は、難しいことを考えるのが仕事ですから」
「わたし、かぜひいてないよ?」
「ええ、今日は元気そのものです」
「じゃあ、しんぱいしなくていいでしょ」
そう言って、ミーナ様は得意げに胸を張った。
心配しなくていい。
そんなはずがない。
あなたは、ご自身でも知らないものをその身に抱えている。
けれど、それをどう言葉にすればいいのか、私には分からない。
ザルク様に話すべきか。
ご両親に伝えるべきか。
何度も考えた。
だが、あの無邪気な顔を見るたびに、口を閉ざしてしまう。
もし、私の考えすぎだったら。
もし、あれがただの偶然だったら。
もし、ヘルドの囁きに、私が怯えすぎているだけだったら。
そんな“もし”を並べて、今日まで先送りにしてきた。
――その判断が正しかったのかどうか。
後になって思えば、あの頃の私は、すでに遅れ始めていたのだと思う。
ミーナ様は私の手を引き、中庭を横切っていく。
侍女たちが少し離れた場所で微笑み、護衛の兵がさりげなく距離を保ちながら後に続く。
王城の朝は穏やかだった。
シェルカエンの空は高く、庭園の噴水は変わらず澄んだ音を立てている。
戦の気配など、ここにはまだ薄かった。
少なくとも、幼い姫の笑い声を聞いているあいだは。
*
本来なら、このまま図書室へ向かうはずだった。
けれど、その前に私は執務室へ寄らなければならなかった。
朝の診察記録を棚へ戻していなかったからだ。
「えー……」
隣で、これ以上ないほど分かりやすく落胆した声が上がる。
「そんなに露骨にがっかりしないでください」
「だって、本すぐ読めると思ったのに」
「診察記録を置くだけです。すぐ終わります」
「“すぐ”って言って、すぐじゃないことある」
「今日は本当にすぐです」
「ほんとに?」
「ええ、本当に」
「ぜったい?」
「絶対です」
「この前も聞いた」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「ヘルザがずるいことするから」
私は小さく息をつき、扉を開けた。
執務室は王城の廊下に面した、小ぶりな部屋だ。
棚には薬草と書付が整然と並び、机の上には今朝まとめた診療記録が置かれている。
若い身でこの部屋を任されていることを、快く思っていない者も王城には少なくない。
だが、腕で黙らせるしかない世界もある。
ミーナ様はそんなことには興味がないらしく、部屋へ入るなり、机の前の椅子にぴょこんと腰かけた。
「ねえ、泉の子、今日はどこまで読むの?」
「それは記録を置いてからです」
「またそれ」
「順番は大事です」
「ヘルザって順番好きだね」
「乱れると困るので」
「わたし、乱れてないよ?」
「予定を乱します」
「それはちがうよ。たのしくしてるだけ」
「言い換えが上手くなられましたね」
「ふふん」
妙に誇らしげに胸を張る。
私は記録を棚へ収めながら、つい口元を緩めた。
その時だった。
控えめなノックの音がして、執務室の扉が細く開く。
「ヘルザ様。こちらにおいででしたか」
侍女の一人だった。
年若いが手際のいい女で、王城内の連絡をよく任されている。
「何かありましたか」
「殿下より、お言葉が」
その一言で、私は手を止めた。
ザルク様から直接の呼び出しとなれば、私事では済まない。
「どういったご用件でしょう」
「ミルヴァードからの学者が、予定どおり到着したとのことです。医務と書庫の案内役として、ヘルザ様にも同席をと」
ミルヴァード。
その名に、わずかに胸が動いた。
シェルカエンと数少ない交流を持つ人類国家。
南大陸の鉱物と技術に優れ、魔法の扱いではこちらに及ばぬ代わりに、別の形で知恵を積み上げてきた国だと聞いている。
「学者?」
椅子の上で、ミーナ様がぱっと顔を上げた。
「人間?」
侍女は一瞬だけ戸惑い、それから柔らかく頷いた。
「はい、姫様」
「見ていい?」
「それは――」
侍女が私を見る。
私は少し考えた。
本来なら、王城へ入る人類との対面を、幼い姫に軽々しく許すべきではないのかもしれない。
けれど、ザルク様が私を呼ぶということは、ある程度の信頼を置ける客人なのだろう。
「殿下が許されるなら、問題はないかと」
「ほんと?」
ミーナ様の目がぱっと輝く。
「人間って、本で見るのと同じ?」
「本にもいろいろあります」
「じゃあ、わたしにもちゃんとわかるかな」
「何がです?」
「人間って感じ」
私は少しだけ目を細めた。
「それは、見れば分かるかもしれませんね」
「ふうん……」
ミーナ様はそれだけ言って、笛をぎゅっと握り直した。
侍女が小さく口元を押さえて笑った。
「ご案内の準備が整っております」
「分かりました。すぐに参ります」
「では、そのように」
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
その報せが、あの静かな朝に最初に差し込んだ、異国の風だった。
「ヘルザ、いこう」
「そんなに急がないでください。客人が逃げるわけではありません」
「でも見たい」
「お気持ちは分かりますが、その前に一つだけ約束を」
「やくそく?」
「ええ。思ったことを全部そのまま口にしないこと」
「えー」
「えー、ではありません」
「でも、ちがうって思ったら?」
「それも、まずは胸にしまってください」
「むずかしい」
「がんばってください」
「ヘルザも?」
「私も努力します」
「なにを?」
「余計なことを言わない努力を」
「ふふっ。できる?」
「できると信じたいです」
ミーナ様は満足げに頷いて、椅子からぴょんと飛び降りた。
*
客間は王城の西棟に用意されていた。
外交使節や、特別に許可された外来の学者を迎えるための部屋で、豪奢ではないが無駄のない設えがされている。
そこへ入る前に、私は一つ息をついた。
「ミーナ様」
「なに?」
「思ったことを全部そのまま口にしないこと。約束を覚えておいでですか」
「おもったこと、ぜんぶ言わない」
「よろしい」
「でも、ちょっとならいい?」
「内容によります」
「むずかしいー」
そう言っているうちに、扉の前の兵が静かに一礼し、中へ通した。
部屋の中には、すでに数人の文官と、王城付きの魔法師がひとりいた。
そして、その中央に立っていたのが――人類の学者だった。
最初の印象は、静かな男、だった。
背は高すぎず低すぎず、痩せすぎてもいない。
着ている服は旅装の延長に見えるほど簡素で、色味も控えめだ。
飾り気のない外見のせいか、かえって目を引くところがない。
なのに、一度視界に入ると、不思議と意識から外れない。
感情が薄い。
そう感じた。
冷たい、というのとは少し違う。
表情が動かないわけでもないし、礼も尽くしている。
けれど、その奥にあるものが、まるで水面の下に沈んで見えない。
「お待ちしておりました、ヘルザ殿」
文官の一人が声をかけた。
「こちらが、ミルヴァードより参られた学者、シド ハーバー殿です」
男がこちらを向き、わずかに一礼した。
「お初にお目にかかります」
声も静かだった。
抑揚は乏しいが、聞き取りやすい。
相手を値踏みするような響きもなく、ただ事実として言葉を置く声。
「ヘルザです。医務と、姫様の教育係の一部を任されています」
名乗ると、シドは私の顔ではなく、まず薬箱を見た。
次に、指先。
最後に、目。
「噂より若い」
「よく言われます」
「噂より落ち着いている」
「それも、よく言われたいものです」
「では、今言いました」
お世辞ではなかった。
ただ、観察した順に並べただけの声だった。
私は少しだけ面食らったが、不快ではなかった。
むしろ、奇妙に率直だと思った。
シドの視線がミーナ様へ移る。
ミーナ様は私の半歩後ろから、じっと相手を見ていた。
珍しく、すぐには口を開かない。
「ミーナ様」
小声で促すと、はっとしたように顔を上げる。
「……ミーナです」
「これはご丁寧に」
少し間を置いてから、ミーナ様が首を傾げた。
「やっぱり、ちがう」
「ミーナ様」
「言わない約束だったけど」
「分かっているなら、なおさらです」
「でも、ちがうの」
ミーナ様は、シドを見たまま笛を握り直した。
「静かなのに、音が遠い」
私はわずかに息を呑んだ。
子どもの喩えだ。
けれど、妙に核心を突いている気がした。
「音、ですか」
シドが静かに問い返す。
「うん。ここにいるのに、ずっと遠くで考えてるみたい」
「興味深い感覚です」
「いやな感じってことじゃないよ」
「それは助かります」
「でも、好きって言ったわけじゃない」
「そこまでは求めません」
「求めるの?」
「学者は、結論を急がないものです」
「へんなひと」
「よく言われます」
ミーナ様はそう言われて、ようやく少し笑った。
「シド殿は、南大陸の鉱物技術に通じておられるとのことでしたね」
私は話を本題へ戻した。
「はい。魔法を扱えぬ者の手にも、魔力に触れる術を置けないかと考えています」
「魔法を使えなくても?」
「ええ」
シドは背後の卓上に置かれていた筒状の器具を手に取った。
細長い金属の枠に、透明な管のようなものがはめ込まれている。
見たことのない構造だった。
「こちらでは、こうした形の器具は珍しいかと」
「初めて見ます」
「私も」
と、ミーナ様が横から言う。
「これは?」
「魔動器と呼んでいます」
「まどうき」
「魔法を使えない者の、杖のようなものです」
「杖?」
「まだ、そう呼ぶには粗末ですが」
シドは器具を私のほうへ差し出した。
「よろしければ、少しだけ魔力を込めていただけますか」
「私が?」
「医務をなさるなら、魔力の扱いは安定しているでしょう」
文官たちも興味深げに見守っている。
私は器具を受け取り、軽く重さを確かめた。
金属の感触は冷たく、見た目よりずっと精巧だ。
「どの程度を」
「ほんのわずかで構いません」
言われた通り、私は指先へ意識を集め、ごく軽く魔力を流し込んだ。
直後、器具の先端にはめ込まれた透明な筒が、ふわりと白く光った。
「……っ」
思わず息を呑む。
光は強すぎず、けれど十分に明るかった。
火でもなく、熱もない。
ただ暗所を照らすためだけに生まれたような、安定した光。
ミーナ様が身を乗り出す。
「わあ……」
「熱くはありません」
シドが言う。
「鉱物の性質を使っています。魔力を火へ変えるのではなく、光として留める構造です」
「そんなことが……」
王城付きの魔法師が低く唸った。
私も同じ気持ちだった。
火を灯すのではなく、光だけを取り出す。
言われれば単純にも思えるが、実際に形へ落とし込むのは別だ。
魔法を使えない人間が、こうした発想で魔力に触れようとしていること自体、衝撃だった。
「ほかにも用途が?」
「荷車を動かす機構や、熱を伝える器具も研究中です」
「医療にも応用できるかもしれませんね」
私がそう言うと、シドは初めて少しだけ、はっきりとこちらを見た。
「その可能性を、私も期待しています」
その瞬間、私の中に、静かな感心が生まれた。
魔法を持たぬ者が、魔法に届かぬと決めつけず、別の形で手を伸ばそうとしている。
それは傲慢ではなく、知恵だった。
少なくとも、この時の私にはそう見えた。
「きれい」
ミーナ様が、まだ光る器具を覗き込みながら呟く。
「お気に召しましたか」
「うん。でも、笛のほうが好き」
「それは残念です」
「これは、音しないもん」
あまりに即答だったので、私は吹き出しそうになった。
シドは表情を変えなかったが、ほんのわずかに目元が緩んだようにも見えた。
「では、次は音の出るものを考えるべきでしょうか」
「できる?」
「研究します」
「ほんとに?」
「ええ」
そんなやり取りを聞きながら、私は器具の光を見つめていた。
この男は、ただの客人では終わらないかもしれない。
魔法を持たぬ人間の知恵と、シェルカエンの蓄えが結びつけば、争いの形そのものが変わるかもしれない。
少なくとも、そのときの私は、そう信じる余地があると思っていた。
*
客間を出たあとも、ミーナ様はしばらく上機嫌だった。
「へんな感じだったね」
「変、ですか」
「うん。見た目だけじゃなくて、なんかちがった」
「人類ですから」
「でも、中央の人たちとも、ちょっとちがう気がする」
私は少しだけ目を細めた。
「ミルヴァードの方々は、中央の人類ともまた空気が違うでしょうね」
「やっぱりそう?」
「育った土地が違えば、言葉も、振る舞いも、纏うものも変わります」
「ふうん」
ミーナ様は笛を握り直して、少し考えるように黙った。
「でも、こわくはなかった」
「それは何よりです」
「ただ、ずっと考えてるみたいな顔してた」
「考えるのが仕事の方ですから」
「ヘルザといっしょ?」
「私の場合は、考えているより先に呼ばれることのほうが多いですね」
「それ、たいへん?」
「かなり」
「じゃあ、えらいね」
「それはどうも」
ザルク様の執務室の前には、すでに書記官が待っていた。
私たちの姿を見ると、一礼して扉を開ける。
「ヘルザ殿、姫様。殿下がお待ちです」
中へ入ると、ザルク様は机の向こうではなく、部屋の中央寄りの長椅子に腰を下ろしていた。
政務の最中というより、報告を受けるための姿勢だ。
歳の離れた妹であるミーナ様が入ってくると、その視線だけがわずかに柔らかくなる。
「ミーナ、客人はどうだった」
「へんな感じだった」
ザルク様がわずかに眉を上げる。
「変とは?」
「見た目だけじゃなくて、なんか……ちがった。魔族じゃないって、すぐわかる感じ」
「……ほう」
「角がないとか、そういうのもだけど、それだけじゃないの。うまく言えない」
ザルク様の視線が、今度は私へ向く。
「お前もそう思ったか、ヘルザ」
「ええ」
私は頷いた。
「人類特有の空気のようなものは、たしかにありました。ミーナ様はそれを感覚で拾われたのでしょう」
「空気、か」
「子どもの言葉ではありますが、的外れではないかと」
ザルク様は短く息をつき、それからミーナ様を見た。
「お前は、そういうところだけ妙に鋭いな」
「そういうところだけってなに、にいさま」
「全部鋭いと、周りがもっと困る」
「ザルク様までそう仰るのですか」
思わず私が口を挟むと、ザルク様はわずかに笑った。
「事実だろう」
「ヘルザ、すごくびっくりしてた」
「ミーナ様」
「でも、光るのはきれいだった」
その言葉で、場の空気が少しだけ本題へ戻る。
ザルク様の目が、私へ向いた。
「お前から見て、あの器具はどうだ」
「実用の余地は十分あると思います」
「魔法師たちも似たことを言っていた」
「火ではなく、光として魔力を留める発想が見事です。医療にも応用できるかもしれません」
「医療にも」
「夜間処置の明かりとして有効です。熱を持たないのが大きい」
ザルク様は短く頷いた。
王族である以前に、こういう方は理解が早い。
感心する時も疑う時も、まず要点を掴みにいく。
「人類の知恵も、侮れぬということか」
「少なくとも、あの学者個人について言えば」
「個人について言えば、か」
その言葉の選び方に、私は少しだけ背筋を伸ばした。
ザルク様もまた、手放しで信用しているわけではないのだ。
「それで、シド殿は何を望んでいる」
「王城書庫の閲覧です」
「ほう」
わずかに目が細まる。
「理由は、魔力運用の古い知見と、医療記録の参照。特に後者については、魔法を使えぬ者にも届く形へ変えたい、と」
「ずいぶん立派な話だ」
「はい」
「お前はどう見る」
問われて、私は少し考えた。
この問いに対して、答えを軽くしてはいけない。
けれど重くしすぎても、本音から遠ざかる。
「……全てを開くべきではありません」
「当然だ」
「ですが、限定的な閲覧であれば、価値はあると思います。特に医務関連は、ミルヴァードとの知見交換に繋がるかもしれません」
「相手は人類だぞ」
「承知しています」
「それでも、か」
「それでも、です」
部屋が静かになる。
ザルク様は私の顔をしばらく見ていた。
私の若さを理由に判断を軽く扱う方ではないが、その代わり、こちらの言葉にどれだけ責任が乗っているかは厳しく見てくる。
「ヘルザ」
「はい」
「お前は、悪意を見つけるのが少し遅い」
思いがけない言葉に、私は顔を上げた。
「見つけられないわけではない。ただ、最後まで別の理由を探す」
「それは長所でしょうか」
「時と場合による」
「……今は」
「まだ分からん。だから見ろ」
ザルク様は静かに続けた。
「書庫は開く。ただし、扉を開けるだけだ。奥まで招くわけではない」
「承知しました」
「軍事、防衛、王家の私記には触れさせるな」
「はい」
「単独で歩かせるな。迷ったと言えば済む場所ではない」
「監督役をつけます」
「違う」
ザルク様の目が、私を捉えた。
「お前も見るのだ、ヘルザ。あの男が何を見るのかを」
その言葉は重かった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ当然だと思えた。
「承知しました」
「それと」
ザルク様の視線が、今度はミーナ様へ移る。
「ミーナ」
「なに、にいさま」
「あの学者に必要以上に近づくな」
「なんで?」
「相手が悪いという話ではない。お前は王族だ。軽々しく距離を詰めてよい立場ではない」
「でも、光るの、おもしろかった」
「それは分かる」
「本の話もした」
「それも分かる」
「じゃあいいでしょ」
「よくない」
即答だった。
ミーナ様は不満そうに唇を尖らせる。
「むう……」
「興味を持つなとは言わん。だが、節度は守れ」
「せつどってなに」
「ヘルザに聞け」
「ずるい」
「便利な役目だからな」
そこで、珍しく私は少しだけ眉を上げた。
「ザルク様までそういうことを」
「事実だろう」
ザルク様の口元が、わずかに笑う。
この兄妹の会話を見ていると、王族というより、ただ歳の離れた兄と妹に見える瞬間がある。
そういう時ほど、私は少し安心し、同時に少し不安になる。
この穏やかさが、いつまで続くのだろうと。
「ヘルザ」
再び名を呼ばれ、私は意識を戻した。
「書庫閲覧の件は、お前から先方へ伝えろ」
「はい」
「相手の知を借りるなら、こちらも目を開いていろ。善意に寄りかかるな」
「承知しています」
「本当にか?」
「……できる限りは」
「それでいい。最初から完璧を言う者よりは信用できる」
ザルク様はそう言って、話は終わりだと示すように軽く顎を引いた。
部屋を辞そうとした時、ミーナ様がくい、と私の袖を引く。
「ヘルザ」
「何でしょう」
「せつどって、なに」
私は一瞬だけ迷ってから、小声で答えた。
「近づきすぎないことです」
「なんで?」
「立場があるからです」
「にいさまも、たまにむずかしい」
「本日は特にそのようですね」
「じゃあ、ヘルザがやって」
「何をです」
「せつど」
「それは、私がミーナ様にお願いしたいところです」
「やだ」
「でしょうね」
執務室を出ると、廊下の空気は先ほどより少し冷たく感じられた。
許可は下りた。
しかも、かなり現実的な条件付きで。
それは妥当な判断だと思ったし、私も同意していた。
それでも胸の奥には、奇妙な高揚が残っていた。
人類の学者が、シェルカエンの書庫へ入る。
これまでなら考えにくかったことだ。
だが、もし本当にそこから新しい知が生まれるのなら。
争いを少しでも遠ざける足場になるのなら。
その可能性に、私は心を動かされていた。
今思えば、あまりにも素直すぎたのだろう。
けれどあの時の私は、まだ信じたかった。
知が橋になりうるのだと。
人と魔族のあいだに、剣以外の道を引ける者がいるのだと。
そして何より、その橋を、自分も支えられるのかもしれないと。
『橋ってさ、渡るためだけに架けるとは限らないんだよ』
不意に、頭の奥で声がした。
ヘルドだった。
私は足を止めなかった。
止めてしまえば、その言葉の意味まで考えてしまいそうだったからだ。
*
翌朝、王城書庫の鍵を受け取ったとき、私は少しだけ緊張していた。
鍵そのものは大仰なものではない。
黒鉄の、飾り気のない一本だ。
だが、その重みは見た目よりずっと大きい。
ここで開くのは扉だけではない。
王城の奥に積み重ねられてきた、記録と判断の蓄えだ。
「ヘルザ様、お顔が少し硬いですよ」
鍵を渡してきた書記官が、どこか面白がるように言った。
「普段なら、もう少し人を安心させる顔をなさるでしょうに」
「そう見えるだけです」
「では今日は、見た目どおりということですね」
私は返事をしなかった。
書記官は小さく肩をすくめ、それでも声は少しだけ低くなった。
「こちらも、完全に気を許したわけではありません」
「分かっています」
「なら結構です。殿下が許された以上、我々は従います。ただし、許可と信頼は同じではない」
「ええ」
「あなたも、そこを取り違えないでください」
そこまで言って、書記官は一礼した。
王城書庫は北棟の奥にある。
人の出入りが少なく、足音さえ自然に小さくなる場所だ。
石壁は朝の冷気をまだ残していて、回廊に差し込む光も細い。
城の中でも、ここだけは時間の進み方が違うように感じることがある。
「ほんとに行くの?」
背後から声がして、私は足を止めた。
振り返ると、柱の陰からミーナ様が半分だけ顔を出していた。
隠れているつもりらしいが、隠れきれていない。
「……ミーナ様」
「見つかった」
「見つかります」
少し離れた場所で、護衛の兵が困りきった顔をしていた。
止めようとはしたのだろう。
だが、止められる姫なら最初からこんなところにいない。
「ザルク様が何と仰ったか、お忘れですか」
「近づきすぎるな、でしょ」
「はい」
「だから近づいてないもん」
「十分近いです」
「まだ遠いよ?」
「その理屈は通りません」
ミーナ様はむう、と頬をふくらませたが、すぐに少しだけ真面目な顔になった。
「でも、あの人、やっぱりへんな感じする」
私は眉を寄せる。
「変、ですか」
「うん。見た目じゃなくて。なんか……ここにいるのに、ずっとどこか見てるみたい」
「どこか?」
「わかんない。でも、目の前のもの見てるのに、それだけじゃない感じ」
曖昧な言葉だった。
子どもの勘、と言ってしまえばそれまでだ。
けれど、ミーナ様の曖昧さは時々、説明の整った言葉より先に核心へ触れる。
「ミーナ様」
「なに」
「その話は、今は胸の中だけに留めておいてください」
「ヘルザにも?」
「私には、あとで」
「じゃあ、あとで言う」
「お願いします」
ミーナ様は頷いたが、すぐにまた表情を変えた。
「本、忘れないでね」
「忘れません」
「ぜったい?」
「絶対です」
「じゃあ、いってらっしゃい」
くるりと踵を返し、今度こそ去っていく。
その小さな背を見送りながら、私はひとつ息を吐いた。
書庫の前には、すでにシドが待っていた。
「お待たせしました」
「いえ。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
声は相変わらず静かだった。
昨日と同じ簡素な服装。
手には薄い革の手帳だけを持っている。
余計なものを持ち込まないのは、几帳面というより、必要のないものに意識を割かない性質からだろう。
「これより先は、閲覧に条件があります」
「承知しています」
「単独行動は許されません。常に私か、監督役の書記官が同席します」
「ええ」
「閲覧できるのは、許可された棚のみです。医務記録、補助魔法、魔力運用の一部理論書。王家の私記、防衛、軍事関連には触れられません」
「妥当です」
返答に迷いがない。
交渉しようともしない。
そこに従順さというより、優先順位の明確さを感じた。
欲しいものが分かっている者の受け答えだ。
「それから」
私は少し言葉を選んだ。
「ここで得たものを、すべて持ち帰れると思わないでください」
「持ち帰るのは記憶だけです」
「記憶のほうが厄介です」
「では、忘れるふりをしましょうか」
私は鍵を持つ手を止めた。
「冗談ですか」
「いいえ。できないことを言いました」
それだけ答えて、シドは黙った。
言い返さないのは反省ではなく、争点がそこにないからだろう。
私は鍵を差し込み、扉を開いた。
王城書庫には独特の匂いがある。
革と紙と、乾いた木の匂い。
そこへ長いあいだ閉じ込められていた冷気が混じる。
書架は高く、天井近くまで届いていて、梯子が何本も立てかけてある。
窓は小さく、代わりに淡い魔法灯が等間隔に灯されていた。
シドは中へ入ってすぐ立ち止まった。
感嘆はしない。
ただ、視線だけが静かに巡る。
「驚かれましたか」
「予想以上です」
「規模が?」
「蓄積が」
シドは、書架の上段から下段へ視線を落とした。
「見せるための並びではない。使うための並びです」
「……よくお分かりに」
「使った者の癖は、棚に残ります」
その言葉を聞きながら、私はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
少なくとも、ただ珍しがるために来たわけではない。
それは昨日から分かっていたつもりだったが、いま改めて実感した。
「では、こちらから」
私は許可の下りた棚へ案内した。
「この列が医務記録です。外傷、熱症、疫病、薬草、補助魔法の副作用。年代ではなく症例と用途で並べています」
「合理的ですね」
「先代の医務長の案です。私は少し手を加えただけで」
「どう加えましたか」
「夜間処置と小児症例を分けました。現場ではその確認が多いので」
シドが私を見た。
「やはり、若くても役目を果たせるなら年齢は問題ではありませんね」
「その話はまだ続くのですか」
「実感が深まったので」
私は思わず、少しだけ笑ってしまった。
シドはすぐに棚へ向き直り、一冊目を手に取った。
開き方が丁寧だ。
乱暴に扱わない。
それだけのことに、妙な安心を覚える自分が少し可笑しかった。
数刻のあいだ、書庫は静かだった。
頁をめくる音。
時折、私が用語や分類の違いを説明する声。
後ろで書記官が記録を取る羽根筆の音。
シドは必要な時だけ質問した。
「この“灼熱症”は、火傷とは別に扱っているのですか」
「ええ。外傷ではなく、過剰な魔力暴走による全身熱です」
「暴走の起点は術者側だけですか」
「多くはそうです。ただ、外から過剰な魔力を浴びた例もあります」
「稀に?」
「非常に」
「なるほど」
その「なるほど」が、ただの理解の響きではないことに、私はだんだん気づき始めていた。
彼は記録を読んでいるのではない。
条件を探している。
「この補助魔法の失敗例は」
「治療側の魔力が強すぎた症例です」
「強すぎることも害になる」
「当然です。多ければよいというものではありません」
「……ええ」
短く返すその声が、ほんの少しだけ沈んだ気がした。
「シド殿?」
「興味深いだけです」
そう言って、また頁をめくる。
迷いはない。
けれど熱に浮かされてもいない。
冷静なまま、深く潜っていくような読み方だった。
昼を過ぎる頃には、書記官のほうが先に疲れを見せ始めた。
「さすがに、少し休まれますか」
「必要ありません」
「こちらが必要です」
書記官が即答する。
私は吹き出しそうになったが、堪えた。
「休憩にしましょう」
私が言うと、シドはようやく本を閉じた。
「分かりました」
「嫌そうですね」
「中断は好みません」
「好まなくても、中断していただきます」
「あなたも、案外強引だ」
「医者ですので」
「便利な言葉ですね」
「ええ。何度でも使います」
小卓へ移り、薄い茶を受け取る。
書庫の中とはいえ、茶はぬるくはなかった。
ありがたい、と素直に思う程度には、私も疲れていた。
「医療記録ばかりご覧になるのですね」
私は率直に尋ねた。
「魔力理論にもっと興味があるのかと思っていました」
「あります」
「ですが、そちらはざっと確認する程度でした」
シドは茶器を見たまま答えた。
「理論は積み上げた者の考え方が残ります。ですが医療記録には、積み上がる前の失敗と限界が残る」
「失敗と限界」
「届かなかった理由が、そこにある」
私は少し黙った。
その言い方は、どこか冷たくも聞こえる。
けれど、現場にいる者なら完全には否定できない。
成功例は手本になるが、失敗例は境界を教える。
どこまでなら間に合い、どこからは間に合わないか。
「……医者のようなことを仰るのですね」
「私は医者ではありません」
「ですが、聞き方が」
シドはそこで視線を上げた。
「私は、届かないものを届く形にしたいだけです」
その一言は、静かだった。
静かなのに、妙に真っ直ぐだった。
私はそこで、少しだけ迷った。
この男に、どこまで話すべきか。
昨日からその迷いは胸のどこかに引っかかっていた。
王城書庫へ入れるほどの信頼を、ザルク様は条件付きで与えた。
私もそれに同意した。
ならば、聞いてみる価値があるのではないか。
そんなふうに思ってしまったのだ。
「シド殿」
「はい」
「……これは、正式な相談ではありません」
「ええ」
「ただ、あなたの言う“届かないものを届く形にしたい”という考え方に、少しだけ賭けてみたくなった」
シドは何も言わなかった。
先を促しもせず、遮りもせず、ただ待っている。
その静けさのせいで、かえってこちらが言葉を整えなければならなくなる。
私は一度、口を閉ざした。
ここから先は、本来なら王族の内側に留めるべき話だ。
医者としても、教育係としても、軽々しく外の者へ渡していいものではない。
それでも、私は続けてしまった。
あの子を守る方法が、他に見つからなかったからだ。
「……子どもの話です」
「症例ですか」
「違います」
自分でも、思ったより早く否定していた。
「では、続けてください」
「まだ幼い子です。けれど、持っている力が普通ではない。強い、という言葉では足りません。規格に収まらない、と言ったほうが近い」
シドは黙って聞いている。
「普段の魔法だけを見れば、むしろ出来すぎているくらいです。制御も悪くない。けれど一度だけ、説明のつかない形で力が出た」
そこで初めて、シドが口を開いた。
「普段は制御できている?」
「ええ」
「その一度だけが異質だった」
「そうです」
私は自分の手元へ目を落とした。
「森で、魔物がその子の大事なものを傷つけた。次の瞬間には終わっていた。火でも風でも氷でもない。詠唱もなかった。術式も見えなかった。ただ、一瞬で崩れたんです」
サラディオの森。
ポレロの鳴き声。
リザードの影。
ミーナ様の泣き声。
そして、次の瞬間には形を失っていた、あの光景。
『持ってる』
あの時の声が、唐突に蘇った。
ぞわり、と背筋が冷える。
「本人は?」
シドが短く問う。
「何が起きたのか分かっていませんでした。怯えて、泣いていた」
「術式なし。本人の自覚も薄い」
それだけ言って、シドは少しだけ目を細めた。
「普通の暴走ではないですね」
私は顔を上げた。
「やはり、そう思いますか」
「ええ」
「では、これは何なんです」
思ったより強い声が出た。
抑えようとしたのに、うまくいかなかった。
「私は医者です。見たものに名前をつけたい。原因を知りたい。治せるなら治したい。けれどこれは、私の知っているどれにも収まらない」
シドは表情を変えなかった。
だが、軽く聞き流しているわけでもなかった。
「類例はあるかもしれません」
「本当に?」
「断定はできません。ですが、探す範囲は絞れました」
「何で、そこまで言えるんです」
「条件が見えたからです」
短い答えだった。
「幼く、通常時は制御可能で、逸脱だけが異質。しかも結果が属性魔法の延長に見えない。異常魔力の記録なら、当たる場所は限られます」
私は黙って聞いた。
「……怖くないんですか」
気づけば、そんなことを聞いていた。
「何を」
「今の話を聞いて、まず探し方を考えることが」
「他に、先にすることがありますか」
私は言葉に詰まった。
「怖がることです」
「それで、その子は救えますか」
返せなかった。
正しい。
正しいのに、冷たい。
そう思った。
「私はそうではありません」
「でしょうね」
その一言に、私は少しだけ眉を寄せた。
「馬鹿にしていますか」
「いいえ」
シドの声は静かだった。
「あなたは、その子を守ろうとしている。私は現象を見ようとしている。それだけです」
私は言い返せなかった。
その通りだったからだ。
「……不愉快なくらい正しい」
「よく言われますか」
「いいえ。今、言いました」
シドはほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったのかどうか、分からない程度に。
「何か分かるかもしれません」
彼はそう言った。
「保証はできませんが」
「……十分です」
私は自分でも驚くほど素直に答えていた。
「ただし」
シドが続ける。
「一つだけ、確認したい」
「何でしょう」
「その子は、あなたにとって症例ですか」
息が止まった。
「違います」
「なら、あなたはまだ見誤っていません」
「まだ?」
「はい。恐れる者は、時々、守る相手を間違える」
私はしばらく言葉を失った。
この男は冷たい。
けれど時々、思いがけないところだけ妙に正確に人を見る。
「記録を当たります」
シドはそう言って、閉じていた本へ手を戻した。
「あなたの話だけで結論は出しません。ですが、無駄にもしたくない」
「ええ」
「分かったことがあれば伝えます」
私は小さく頷いた。
その時の私は、その言葉を信じてしまったのだ。
*
それから先の数日は、静かで、妙に速かった。
シドは本当に書庫へ籠もった。
朝、私が鍵を開ける頃には、もう北棟の回廊に立っている。
夜、閉庫を告げる頃になっても、まだ頁の上に視線を落としている。
許可された棚の範囲から一歩も出ないくせに、その内側は端から端まで掘り返すように読んでいった。
医務記録。
異常魔力の症例。
補助魔法の失敗例。
旧い理論書の注記。
彼は最初から最後まで、同じ温度で頁をめくった。
「シド殿は」
三日目の午後、後ろで監督していた書記官が、うんざりしたように呟いた。
「食べておられるのですか、あの方」
「最低限は」
「人は最低限で動くものではありません」
「本人は、動いているつもりでしょう」
「倒れられたら、こちらの記録に残ります」
「それは困りますね」
「困るのは記録ではなく人命です、ヘルザ様」
「……同感です」
そう答えながら、私は盆に載せた軽食を持って書庫へ入った。
シドは机に開いた数冊の本のあいだで、まるでそこから一歩も動いていないかのような顔をしていた。
魔法灯の淡い光に頬の線が少し鋭く見える。
痩せたわけではない。
ただ、集中が余分なものを削いでいるように見えた。
「休んでください」
「今、少し」
「それを昨日も聞きました」
「では、少し前から」
「言葉遊びをしている場合ではありません」
私が盆を机の端へ置くと、シドはようやく本から目を離した。
「あなたは、心配性ですね」
「医者ですので」
「本当に便利だ」
「ええ。何度でも使います」
シドは小さく息をついたが、差し出したパンと果実には手を伸ばした。
「何か、見つかりましたか」
私が尋ねると、彼は少しだけ間を置いた。
「断片なら」
「断片?」
「古い記録は名前を揃えません。同じ現象でも、書き手が違えば別のものとして残る」
「つまり」
「ばらばらの記録が、同じものを見ている可能性がある」
私は思わず身を乗り出した。
「その中に、あの子の例も?」
「近いものはあります」
「どんな」
「まだ言えません」
私は眉を寄せる。
「なぜです」
「私の中でも、まだ形になっていない」
焦れないわけではなかった。
だが、軽々しく何かを断言されるよりはましだった。
「分かったなら、必ず」
「ええ」
シドはそこで、ほんの少しだけ視線をずらした。
「……その子どもを、あなたは大事に思っているのですね」
私は答えるのに一拍かかった。
「ええ」
「だから、ここまで口を開いた」
「そうです」
「なるほど」
また、その言い方だった。
理解したようでいて、感情には踏み込まない。
踏み込まないのに、核心だけは押さえてくる。
私はその距離感を、ありがたいと思っていた。
下手な慰めより、ずっと。
だから私は、気づけなかったのだと思う。
あの男が知りたがっているのが、ただ“治すため”だけなのかどうかを。
四日目の昼、書庫の入り口で、ミーナ様にばったり出くわした。
「……ミーナ様」
「ばったりだね」
「待ち伏せです」
「ちがうよ。通りかかっただけ」
「通りかかるには、あまりにも奥です」
護衛の兵がまた困った顔をしている。
最近よく見る顔だった。
ミーナ様は私の言葉を気にする様子もなく、開いた扉の隙間から中を覗き込んだ。
「まだいる」
「おります」
「ずっと読んでるの?」
「ずっと、とは申しませんが」
「へんなひと」
その小さな呟きに、私は思わず口元を押さえた。
「聞こえます」
「でも、ほんとだもん」
「ミーナ様」
私は声を落とした。
「ここへ入ってはなりません」
「わかってる」
「なら、なぜいらしたのです」
ミーナ様は少しだけ考えてから、笛を握る手を胸の前で止めた。
「……なんか、気になって」
「何がです」
「昨日より、もっとへん」
私は目を細めた。
「どう変わりましたか」
「うーん……」
ミーナ様は言葉を探すように首を傾げた。
「昨日は、遠いところ見てる感じだったでしょ」
「ええ」
「今日は、何か見つけそうな感じ」
私は扉の向こうを振り返った。
シドは机に向かったまま、こちらには気づいていないように見える。
「……ミーナ様」
「なに」
「そのお話は、ここでは終わりです」
「また胸のなか?」
「はい」
「むずかしい」
「そうですね」
「ヘルザ」
「はい」
「わたし、あの人に、あんまり近づかないほうがいい?」
不意の問いに、私は返事を失った。
ザルク様に釘を刺されたばかりだ。
だから答えは決まっているはずだった。
なのに、その瞬間だけは、ただ立ち止まってしまった。
「……今は、そのほうがよいでしょう」
「そっか」
ミーナ様は驚くほど素直に頷いた。
「じゃあ、本読んで待ってる」
それだけ言って、今度こそ本当に去っていく。
私はその背を見送りながら、胸の奥に小さなざらつきが残るのを感じていた。
何だというのだろう、この感じは。
不安、と呼ぶにはまだ輪郭がない。
けれど、楽観だけでは進めない何かが、確かにそこにあった。
*
その報せが届いたのは、曇った夕方だった。
南棟から駆けてきた文官が、息を整えるより先に言った。
「ミルヴァードで……王が崩御したと」
私は反射的に立ち上がった。
「何ですって」
「すでに後継が決まりつつあるとのことです。ですが、問題はその先で……」
文官は一度言葉を切り、唇を強く結んだ。
「新王派が、対シェルカエン強硬を打ち出しています。正式文書はまだですが、交易停止と、交流使節の帰還命令が出る見込みです」
書庫の空気が、一瞬で変わった。
紙の匂いも、冷気も、急に遠くなる。
聞こえるのは自分の呼吸と、書記官が羽根筆を置く音だけだった。
シドだけは、すぐには動かなかった。
開いていた本の頁を静かに閉じる。
それからようやく顔を上げた。
「……そうですか」
あまりにも平らな声で、私は逆に戸惑った。
「シド殿」
「予兆はありました」
「予兆?」
「王が変われば、国の選ぶ道も変わる」
「それで済む話ではありません」
「ええ。済みません」
シドはそこで立ち上がった。
机の上に広げていた手帳を閉じる動きに、迷いはなかった。
「お戻りになるのですか」
「命が出れば」
「あなたご自身は、どうお考えなのです」
思わず、そんな問いが口をついた。
シドは私を見た。
いつもと同じ静かな顔だった。
だが、その奥がますます読めなくなっている気がした。
「国が選んだ道です」
それだけだった。
それだけなのに、ひどく遠かった。
「……あなたは、それでよいのですか」
「よいかどうかで決まるものではありません」
その返答に、胸のどこかが少しだけ冷えた。
ああ、この人は本当に、国と個人を分けて考えているのだ。
いや、分けているというより、そのあいだに自分を置くことに慣れすぎているのかもしれない。
「では、書庫の閲覧は」
「ここまででしょう」
シドはそう言って、閉じた本へ手を置いた。
「まだ全ては見切れていませんが、必要な断片は得ました」
その言い方が、妙に耳に残った。
見切れていない。
だが、得た。
何を。
どこまで。
「……その子のことは」
私がそう口にすると、シドはわずかに目を細めた。
「調べは続けます」
「戻ってからも?」
「ええ」
「本当に?」
「あなたは疑い深い」
「医者ですので」
いつもの返しのはずだった。
だが、今はどこか空々しかった。
シドはほんの一瞬だけ、何か言いかけるような顔をした。
けれど結局、何も言わなかった。
「見つけたものが形になれば、いずれ」
「いずれ、ですか」
「今はそれしか言えません」
外では風が強くなっていた。
王城の窓は厚いのに、それでも外の空気が変わったのが分かる。
交流の断絶はまだ正式な戦ではない。
だが、あの静かな朝に吹き込んできた風とは、もうまるで別物だった。
帰還の準備は早かった。
早すぎて、私は逆に現実感を持てなかった。
つい昨日まで書庫に籠もっていた人間が、今日にはもう去る。
その事実が、薄い布越しの出来事のように感じられた。
西棟の前で、最後の見送りをした時も、シドはいつも通り静かだった。
「短い滞在でした」
私が言うと、彼は頷いた。
「十分でした」
「そうでしょうか」
「時間の長さで決まるなら、学問はもっと簡単です」
「では、何で決まるのです」
「拾った断片が、どこへ繋がるかで」
私はその言葉をすぐには飲み込めなかった。
「……あの子のことを、忘れないでください」
そう言ったのは、半ば願いだった。
シドはまっすぐに私を見た。
「忘れません」
声に熱はない。
だからこそ、逆に嘘には聞こえなかった。
「見つけたなら、必ず」
「ええ」
それだけ言って、彼は視線を少しだけ外した。
「ヘルザ殿」
「何でしょう」
「あなたは、疑うときにも相手の逃げ道を残す」
私は眉を寄せた。
「……それは忠告ですか」
「観察です」
「不愉快です」
「でしょうね」
「では、なぜ言うのです」
「役に立つかもしれないので」
珍しく、ほんの少しだけ口元が動いた。
笑ったのかどうか、判別できない程度に。
そのまま彼は馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まり、車輪が石を軋ませる。
見送りの兵たちが一斉に道をあける。
私は、その背を見送るしかなかった。
あの時の私は、去っていくことそのものより、途切れたことのほうに戸惑っていたのだと思う。
もう少しで、何かが分かるのではないか。
ミーナ様の中にあるものの輪郭が、少しでも見えるのではないか。
そんな希望だけを残して、シドは去った。
王城へ戻る途中、私は何度も振り返りそうになった。
振り返ったところで、もう馬車は見えないのに。
*
その夜から、王城の空気は少しだけ変わった。
すぐに何かが壊れたわけではない。
廊下を行き交う者の足音は変わらず、食堂では湯気の立つ皿が並び、朝になれば鐘は鳴った。
書庫の扉も、診療室の窓も、昨日までと同じ場所にあった。
けれど、同じであることと、同じように感じられることは違う。
ミルヴァードからの正式な通達が届いたのは、その二週間後だった。
文面は驚くほど整っていた。
交流使節の引き上げ。
交易の停止。
相互往来の凍結。
敵意を煽る語は慎重に避けられていたが、その丁寧さがかえって、断絶の意志の固さを際立たせていた。
ザルク様はそれを黙って読み終え、静かに机へ置いた。
怒りを露わにもしなければ、場当たりに嘆きもされなかった。
だからこそ、重かった。
王城から去る人類は多くなかった。
もともと出入りは限られていたし、残っていたのも使節や技術補佐、交易記録に携わる者たちがほとんどだった。
それでも、門から外へ出ていく馬車を見送るたび、細い糸が一本ずつ切れていくような感覚があった。
市場では、人類の商人が店を閉める時刻が早くなった。
城下の人類居住区へ向かう道では、兵が一つ多く声をかけるようになった。
侍女たちは水汲みの帰り、何かを言いかけて、途中でやめることが増えた。
大きな事件はない。
だが、何も起きていないという顔をするには、日々の端々が少しずつ硬くなりすぎていた。
私はそのたび、最後に去っていった一台を思い出した。
あれからしばらく、シドから何か届くことはなかった。
当然だと思うべきだった。
国交が絶たれたのだ。
個人の約束が、その上を越えて届くほうがおかしい。
それでも、私はどこかで待っていた。
あの男が言っていた“断片”が、いつか形になるのではないかと。
見つけたものがあるなら、何らかの形で届くのではないかと。
届かなかった。
季節が一つ過ぎ、二つ過ぎても、何も来なかった。
やがて、待っていること自体を意識しなくなった頃になっても、結局それは来なかった。
ミーナ様は、育った。
五歳だった身体は、六歳になり、七歳になり、八歳になった。
笛を持つ手は少しずつ長くなり、歩く足取りから幼い危うさが減っていく。
読める本も増えた。
泉の子を何度も読んでいた頃からすれば、ずいぶん頁の厚い本へも手を伸ばすようになった。
それでも、変わらないものもあった。
争いの多い話は相変わらず好まなかったし、武勲譚は三頁と進まない。
訓練の合間に笛を吹き、窓辺で本を読み、時おりこちらが気を抜いた隙に庭へ出ようとする。
そういうところは、拍子抜けするほどそのままだった。
「ヘルザ、わたし、もう子どもじゃないよ」
七歳のある日、ミーナ様は本気の顔でそう言った。
「そう仰る方は、たいていまだ子どもです」
「じゃあ、どう言えばいいの」
「何も言わずに大人になるのが一番です」
「むずかしい」
「でしょうね」
そんな他愛のないやり取りを、何度交わしたか分からない。
力もまた、育っていた。
王城付きの教師たちは、年々口数が少なくなった。
褒める言葉が減ったのではない。
安易に褒められなくなったのだ。
才能が鮮やかすぎて、月並みな賞賛では追いつかない。
十歳が近づく頃には、慣れぬ者なら、そばに立つだけで息を詰めるほどの圧を纏うようになっていた。
それでも、あの日のような異常は表に出なかった。
少なくとも、私の知る範囲では。
それが安堵だったのか、先送りに過ぎなかったのか、当時の私には分からない。
ただ、何も起きていない時間が長くなるほど、人は“このまま何も起きないのではないか”と期待してしまう。
人類と魔族のあいだの空気は、逆だった。
年を追うごとに、目に見える形で冷えていった。
以前は距離を測るような戸惑いだったものが、やがて“どちらが先に裏切るか”を探るような警戒へ変わった。
交易の途絶は生活の端々に影を落とし、行き来の減少は想像を増やす。
想像は往々にして、現実より先に敵意を育てる。
使者も、戻らなかった。
ドーンヘルムへ送った使者は帰還せず、ミルヴァードから来るはずだった返書も届かなかった。
王城ではそのたび会議が開かれ、結論は慎重に保留され続けた。
だが、保留は平穏と同じではない。
判断が延びるほど、空気だけが悪くなることもある。
ミーナ様が十歳になられる頃には、その悪さはもう、誰の目にも隠しきれないところまで来ていた。
訓練場で兵の声が少し硬くなる。
会議を終えた文官たちの肩が前より落ちる。
市場から戻った侍女たちが、何でもない顔で噂を飲み込む。
目立つ事件はない。
けれど、どこにも事件がないことが、逆に不穏だった。
「ヘルザ」
十歳になったばかりの春、ミーナ様が庭園で笛を止めて言った。
「さいきん、みんな、前より静かだね」
私はすぐには答えられなかった。
「……そう見えますか」
「うん。怒ってるわけじゃないのに、静か」
その言い方に、私は少しだけ寒気を覚えた。
怒りは、声になるうちはまだ扱える。
けれど、声にならず沈んだものは、どこへ向かうか分からない。
「ミーナ様」
「なに」
「今日は、もう少しだけ訓練を」
「えー」
「えー、ではありません」
「静かな話から、なんでそうなるの」
「静かだからこそ、です」
「ぜんぜんわかんない」
「分からなくていいこともあります」
そう言いながら、私は自分で自分の言葉を信じきれていなかった。
分からなくていいはずがない。
ただ、まだ言葉にしたくなかっただけだ。
あの異常な力は、表に出ていない。
ミーナ様はまだ無邪気で、王城はまだ立っていて、戦はまだここへ届いていない。
そうやって、いくつも“まだ”を並べていた。
――だが、空気だけは確かに変わっていた。
そして、空気が変わったあとに起きることを、私は知っていたはずだった。




