第五章 スマニア島
カルミナの港は、夜明けの光の中で少しずつ遠ざかっていった。
船は進む。
スマニア島へ。
シェルカエンへ。
魔族のいる場所へ。
そのはずなのに、俺の胸にはまだ、港に残してきたものが引っかかっていた。
ラモーンの言葉。
ルシア副官の「正しいかは別」という声。
荷車のそばに立っていた子どもの目。
置いてきたはずだった。
迷いは港へ置いていけ。
マルコム将軍はそう言った。
俺も、そのつもりだった。
だが海へ出ても、置いてきたものはすぐには消えなかった。
カルミナを発った船団は、夜明け前にはスマニア島付近の小島へ着いていた。
空はまだ暗みを残していたが、東の端だけが薄く白んでいる。海は黒く、波は低い。だがその静けさの中で、小島だけが起きていた。
仮設の桟橋には何本もの灯りが並び、荷揚げの縄が軋み、金属を打つ音が乾いた朝の空気へ響いている。潮の匂いの中に、油と火薬と焼けた鉄の匂いが混じっていた。
船を降りた瞬間、俺はカルミナともドーンヘルムとも違う空気を感じた。
軍営、というより工房だった。
岩地を削って作った広場に、天幕だけではない木組みと鉄骨の簡易小屋が並んでいる。そこでは兵が休むより先に、武器が整えられていた。刃を研ぐ音、何かを煮詰める鍋、管のついた奇妙な器具、机の上へ並べられた小さな金属玉。どれも見慣れない。見慣れないのに、そこで働いている兵たちは、当たり前の道具みたいな顔で触っている。
「……同じ人類の軍とは思えねえな」
横でガレットが小さく言った。
俺は答えようとして、少し遅れた。
頼もしい。
それは間違いない。
だが、温かみがない。
ドーンヘルムの陣はもっと雑だった。剣が立てかけられ、馬の息がして、焚火の周りに兵が座る。人間が先にいる陣だ。
ここは違う。
人より先に、勝つための仕組みが並んでいるように見えた。
カルミナでも、そうだった。
港は人の暮らす場所だった。
だが、俺たちが入った途端、そこは船を出すための形へ変えられていった。
ここも同じかもしれない。
人がいて、声があり、朝の冷えた空気がある。
それでも、最初に目に入るのは人ではなく、武器と道具と、勝つための段取りだった。
頼もしい。
そう思う自分は確かにいる。
けれど、その頼もしさの奥にある冷たさまで、もう見えないふりはできなかった。
「俺もそう思う」
ようやくそう返すと、ガレットは樽を一つ覗き込み、すぐ顔をしかめた。
「酒じゃねえな」
「お前の頭の中では、樽は全部酒なのか」
「八割くらいはそうであってほしい」
軽口を返したつもりだったが、声は少し硬かった。
気が抜けていない。
桟橋の先で、ミルヴァード兵がこちらを見た。
灰青色の外套に、見慣れない留め具。腰には剣だけでなく短筒や小袋、背には細長い筒状の道具まで背負っている。兵でありながら、職人にも見えた。
その一人が近づき、短く礼をした。
「ドーンヘルム第四聖泉軍選抜隊へ。ご案内します」
敬意はある。
だが、歓迎の柔らかさとは少し違う。
任務だから受け入れる。
そういう響きだった。
俺たちはその兵に従って、小島の中央へ向かった。
歩くほどに、違いはさらに目についた。
剣だけじゃない。
槍だけでもない。
木箱の中には、金属の殻をした玉が整然と並び、その隣では矢尻が青白く光る液へ浸されている。机に伏せた兵が、薄い板へ魔法陣みたいな線を刻んでいたかと思えば、別の場所では大きな鎚が赤く熱した刃を打っていた。
やがて案内の兵は、大きめの天幕の前で止まった。
「中に」
中へ入ると、最初に目についたのは地図だった。
島の地形を描いた大布が広げられ、その周囲に数人の男がいた。
一人は背が高く、目元に嫌味なくらい余裕がある。
もう一人は細身で、静かに立っているくせに何かを見逃さない目をしていた。
そして、その後ろに立つ大男が一人。肩幅だけで天幕の中が狭く見える。
最初に口を開いたのは、背の高い男だった。
「へえ。これがドーンヘルムの聖騎士さまか」
言い方からして、歓迎ではない。
ガレットが小さく息を吐いた。
俺も少しだけ眉を寄せる。
「ダインだ」
そう返すと、男は肩をすくめた。
「ロットン。こっちはクック」
細身の男が軽く顎を引く。
その目だけがこっちを順に撫でた。武器、立ち方、傷、癖、そういうものを一瞬で見ていく視線だった。
「そして後ろが、今回の指揮を執るカーティス大佐だ」
大男が一歩前へ出る。
豪傑、という言葉が最初に浮かんだ。
顔は広く、顎は岩みたいに角張っている。腕も胸も太い。だが、ただ大きいだけではなかった。立っているだけで、場に余計な音が立たなくなる感じがある。
ルシア副官が短く名乗る。
「ルシア。第四聖泉軍選抜隊副官」
ガレットが続く。
「ガレット」
俺ももう一度短く言った。
「ダイン」
ロットンは薄く笑った。
「思ったより若いな。ドーンヘルムは人手不足か?」
ガレットが口を開きかけるより早く、俺のほうが出た。
「ミルヴァードは挨拶がそういう形なのか」
ロットンの表情が、ほんの少しだけ楽しそうに変わった。
それを見て、クックが初めて口を開いた。
「挨拶というより確認だ。使えるかどうかは、年や階級より先に見たほうがいい」
静かな言い方だった。
けれど、ロットンよりよほど刺さる。
カーティス大佐はまだ何も言わない。
ただ俺たちを見ていた。見ているというより、量っている感じだった。
「じゃあ、剣も見せてもらおうか」
ロットンが俺を見たまま言う。
「試し合いだ。嫌なら断ってもいい」
断ってもいい、という言い方が嫌だった。
断ればそれで終わる。
だが、その先に残るものは分かる。
ドーンヘルムの聖騎士は口だけだ。
そういう顔をされるだけだ。
俺が一歩出るより先に、ガレットが半歩前へ出た。
「俺でも――」
「いや」
自分でも驚くくらい早く言葉が出た。
「俺がやる」
ロットンは少しだけ口の端を上げた。
「そう来なくちゃな」
天幕の外へ出ると、朝の白みがもう少し広がっていた。
兵たちの手は止まらない。
だが、こちらへ目を向ける者は増える。仕事の邪魔にならない範囲で、皆が見ている。
即席の円ができた。
ロットンは剣を抜く。
細身の片手剣。軽い。扱いも速そうだ。
俺も剣を抜いた。
柄の感触は馴染んでいる。
カルミナまでのあいだ、何度も握ってきた。だが、こんなふうに見世物みたいな円の中へ立つのは久しぶりだった。
「先に言っとく」
ロットンが剣先を軽く揺らしながら言う。
「俺は手加減が得意じゃない」
「こっちも得意じゃない」
そう返すと、ロットンが初めて少しだけ笑った。
「いい」
始まりの合図はなかった。
ロットンが動いたのを見た時には、もう近い。
速い。
思った通り、軽い剣の速さだ。
初手は受ける。
金属が鳴る。
重くはない。
だが、すぐ次が来る。
上。
横。
下。
流れが切れない。
訓練された剣だと思った。
綺麗で、無駄がない。見せるための剣じゃないが、見た目まで整っている。腹が立つくらい、筋がいい。
押される。
だが、完全には崩れない。
ロットンの剣は速いが、殺しに急ぎすぎない。
こちらを試しているぶんだけ、詰めきらない瞬間がある。
そこで初めて、呼吸が見えた。
踏み込む。
ロットンの表情から軽さが消える。
受けた。
そこへもう一度押す。
綺麗に勝とうとしない。
剣筋が崩れてもいいから、相手の重心だけをずらす。
「……っ」
ロットンの足が半歩だけ泳いだ。
そこを切る。
喉元までは行かない。
だが、止めるには十分な線だった。
剣先が首筋へ止まり、場が静まる。
ロットンは数秒そのまま止まって、それからゆっくり息を吐いた。
「なるほどな」
剣を下ろす。
「綺麗じゃない」
そう言ってから、少しだけ笑う。
「だが、生き残る剣だ」
ざわついていた周囲の空気が、ほんの少しだけ変わるのが分かった。
最初に見られていたのとは違う目だ。
クックが腕を組んだまま言う。
「実戦を潜ってきた動きだ。訓練場の剣じゃない」
その時、背後で小さな破裂音がした。
振り向くと、天幕脇の作業台に二人いた。
一人は小さい。
背丈だけなら少女にも見える。だが、薄灰の髪を後ろで束ねたその女は、俺より先に、俺の剣のほうを見ていた。人を見る目じゃない。道具の癖と、使い手の粗を量る目だった。
もう一人は逆に大きい。
肩も胸も分厚く、立っているだけで天幕の柱が細く見える。だがその男は、掌に乗せた銀色の金属玉を、卵でも扱うみたいな指先で転がしていた。
小柄な女が一歩前へ出た、その瞬間だった。
俺は思わず息を詰めた。
空気が変わった。
冷えた、というのとは違う。
張りつめた糸が一本、朝の空気に渡されたみたいだった。何かをしたわけじゃない。ただそこへ立っただけなのに、場の重さがその女を中心に組み替わる。
カルミナで向き合った雷の魔族を前にした時の感覚に、少し似ていた。
だが、あれとは違う。
あの魔族の魔力は、荒々しく空気を裂いてきた。
この女のそれは静かだった。静かなまま逃げ場を狭めるような密度がある。音もなく、場の輪郭だけを変えてしまう。
近くにいた兵が、無意識に半歩だけ場所を空ける。
誰もそれを指摘しない。
指摘しないこと自体が、もう慣れている証拠だった。
ドーンヘルムで魔法を使える人間は珍しい。
だが、魔法を使えるのと、こうして何もせず魔力を帯びているのとは、たぶん別物なのだろうと思った。
「思ったより、まともね」
小柄な女が言った。
褒めているようには聞こえなかった。
「ドーンヘルムの聖騎士って、もっと古臭い剣を振るうと思ってた」
ロットンが肩をすくめる。
「褒めてるのか、それ」
「半分は」
女はようやく俺を見た。
「でも、無駄が多い」
「その剣、相手が人間ならまだ通るでしょうけど、魔族相手に同じつもりなら死ぬわよ」
言い方が刺々しい。
だが、ただ感じが悪いだけではないとも分かる。見てもいない剣なら、こんな言い方はしない。
ガレットが小さく息を吐く。
「初対面でずいぶん言うな」
「事実を短く言ってるだけ」
「長く言ってほしい?」
ガレットは一度口を開き、何も言わずに閉じた。
そこで大きい男のほうが、小さく笑った。
「相変わらずだな、ペルナ」
低いが、思ったより穏やかな声だった。
男は作業台の上から金属玉を一つ摘まみ、爪先ほどの細い針で表面をなぞる。すると殻の継ぎ目に沿って、ごく薄い青い線が走った。
「怯えんな」
「こいつ、口は悪いが腕は本物だ」
「余計な一言よ」
ペルナは眉一つ動かさない。
男は、起動させた玉を布の上へ戻す時だけ、見た目に似合わない丁寧さで置いた。
「俺はヤリス」
「爆薬と魔道具を扱ってる」
そう言ってから、俺の手元の剣を見る。
「そっちは人を斬る剣だな」
「竜をやるなら、もう少し別のものが要る」
カーティス大佐が、そこで初めて口を開いた。
「マルコム将軍が推薦するだけのことはある、か」
低い声だった。
ロットンが鼻で笑う。
「少なくとも、見かけ倒しではないな」
カーティス大佐の視線が、俺からルシア副官、ガレットへ移る。
「お前たち三人、来い」
「作戦会議に入る」
*
再び天幕へ戻ると、地図の上にはいくつか新しい印が置かれていた。
南西の海岸線。
見張り台。
島の中央。
そして北と南、二方向から伸びる進軍路。
さっきまで外で剣を交えていたのが嘘みたいに、天幕の中は静かだった。
ロットンもクックも、もう試す目ではこちらを見ていない。
代わりに、同じ地図の上へ乗る駒を見る目になっていた。
カーティス大佐が太い指で島の南西を叩く。
「スマニア島は、竜使いルークが押さえている」
その一言で、空気が少し変わった。
竜使い。
単なる魔族の頭じゃない。
それだけで、戦の重さが一段変わる。
ロットンが続ける。
「南西は南大陸側を警戒してるせいで見張りが厚い。魔族兵が十前後。隊長格は翼持ちのガーゴイル型」
「狼の魔物も使ってる」
クックが別の印を置いた。
「島内では、人類が拘束され、労働させられているという報告が上がっている」
「港も軍用に組み替えられつつある」
ガレットの顔が険しくなるのが分かった。
「……趣味の悪い話だな」
俺も胸の奥が少し熱くなる。
魔族が人を縛り、働かせている。
それは分かりやすい悪だった。
分かりやすい怒りだった。
だからこそ、少しだけ息がしやすいと思ってしまった。
カルミナで見たものは、そうではなかった。
誰かが怒鳴って奪ったわけではない。
兵は帳面を見て、数を確かめ、黙って荷を運んだ。
それでも、子どもの目は残った。
だが今は違う。
敵は魔族だ。
人を縛り、島を押さえ、竜を使っている。
怒っていい相手が、目の前にいる。
そう思うと、胸の奥の熱は迷いよりも先に形を持った。
カーティス大佐は構わず話を進めた。
「討伐隊は南西の見張り台を叩け」
「なるべく派手にやれ。ルークと竜を引きずり出す」
地図の北と南へ指を滑らせる。
「北はマルコム将軍が押さえる」
「南は俺が引き受ける」
「挟んで一気に制圧する」
ルシア副官が問う。
「討伐隊の編成は」
クックが答える。
「ドーンヘルムからダイン、ガレット、ルシア」
「ミルヴァードからペルナ、ヤリス」
即席だ。
まとまりより、尖りのほうが先に見える。
ルシア副官は速い。
ガレットは粘る。
ペルナは魔法。
ヤリスは爆薬。
それぞれ役目は違うのに、不思議と噛み合いそうな気配だけはあった。
カーティス大佐が俺を見る。
「竜使い相手に、普通の刃は通らん」
そう言って、脇に置かれていた布包みを持ち上げる。
包みが解かれる。
中から現れた剣は、黒灰色をしていた。
鉄より鈍い光。磨かれているのに、まるで岩を削り出したみたいな重さがある。刃そのものが、何か別の理屈で出来ているように見えた。
「滅鱗鉱で作った」
クックが補足する。
「南の地下深部でしか採れない。熱に強く、竜鱗と相性が悪い」
「触れれば結合を崩す」
その横で、ヤリスが口の端を少しだけ上げた。
「ミルヴァードの天才学者シド先生の新作だ」
軽い言い方だった。
だが、天幕の中の誰も笑わない。冗談ではなく、本当にそうなのだと分かる響きだった。
カーティス大佐が、その剣をこちらへ差し出した。
「竜殺しだ」
受け取る。
重かった。
ただの重量じゃない。
役目ごと手の中へ乗せられた感じがした。
「ルークが竜へ出るなら、この剣が要る」
カーティス大佐の目が、まっすぐ俺を捉える。
「そして、それを振るうのはお前だ」
天幕の中が静かになった。
認められたのだと、まず思う。
すぐ次に、その認められ方はあまりにも重いと思った。
聖騎士。
竜殺し。
竜使いを斬る役目。
それは、俺が望んできた場所に近いはずだった。
魔族へ近づく。
聖地へ近づく。
奪われたものを取り戻す戦いの、さらに奥へ進む。
なのに、手の中の剣はただ熱くはならなかった。
重かった。
怒りだけでは持ち上げきれない重さだった。
「……やります」
カーティス大佐はそれ以上、余計なことは言わなかった。
ただ一度だけ頷く。
ロットンが地図の南西へ指を落とす。
「見張り台は壊していい」
「むしろ派手に壊せ」
「静かに片づける必要はない。今回は騒ぎそのものが餌だ」
ヤリスが作業台の端へ置いていた金属玉を一つ持ち上げた。
「見張り台の土台が石なら、こいつで十分吹っ飛ぶ」
「木材が混じってるなら、もっと楽だ」
ガレットがそれを見て眉を上げる。
「それ、投げるだけか」
「投げるだけで済むように作ってる」
ヤリスはそう言ってから、少しだけ笑った。
「手元で破裂しない限りはな」
「縁起でもないこと言うな」
「縁起で戦うわけじゃないだろ」
軽い調子なのに、言っていることは冷たい。
だがその冷たさが、この場所では頼もしさに近かった。
ペルナが、指先で地図の南西側をなぞる。
「ガーゴイルは私が落とす」
「高所にいる相手を、剣でどうにかするつもりはないでしょう」
ガレットがぼそっと言う。
「自信満々だな」
「当然よ」
ペルナは地図から顔も上げなかった。
自慢しているというより、自分の力量を疑われること自体が不愉快らしい。
ガレットは何か言い返しかけて、結局、口を閉じた。
ルシア副官がその横顔を見る。
「炎は」
ペルナの視線が副官へ向いた。
「相手次第」
「ただ、普通の竜火なら少しは止められる」
「少しで十分」
その一往復だけで、二人のあいだに言葉以上の計算が走った気がした。
クックが最後に言う。
「南西で騒げば、北と南の本隊が動きやすくなる」
「逆に言えば、お前たちは目立てば目立つほど危険だ」
ガレットが、笑おうとして失敗したような顔をした。
「なんか、一気に本物っぽくなったな」
「昨日までは、まだ遠くの戦だった。今は喉元に来た感じがする」
俺は竜殺しの柄を握り直した。
重い。
剣そのものより、これで斬らなければならないものの方が、ずっと重かった。
カーティス大佐が地図から手を離した。
「以上だ」
「日が沈むまでは自由にしろ」
「だが手は止めるな」
会議が終わる。
外へ出ると、光はもう昼のものになっていた。
島影は遠く、海の向こうに黒く沈んでいる。
あれがスマニア島だ。
まだただの輪郭にしか見えないのに、その向こうでどれだけのものが待っているのかと思うと、喉の奥が少し乾いた。
*
手の中の竜殺しが、まだ馴染まない。
重みだけが先にある。
ヤリスが俺の横を通りすがりに見下ろした。
「振ってみるか」
「今か?」
「今だからだ」
「戦場で初めて重いって顔されると困る」
言いながら、少し離れた岩場を顎で示す。
俺はルシア副官を見る。
副官は短く頷いた。
「行って」
岩場には、訓練用らしい木杭が何本か打たれていた。
ヤリスは一本の前で立ち止まり、腕を組む。
「普通の剣と同じつもりで振るうな」
「重さに引っ張られると、返しが遅れる」
言われた通り、試しに一度振るう。
鈍い。
いや、ただ鈍いんじゃない。
重心が深い。剣が遅いというより、こちらの動きの甘さを許さない感じがある。
ヤリスが見ていた。
「見た目より素直だろ」
「……素直か?」
「変な癖がない」
「重いだけだ」
その言い方に、少しだけ笑いそうになる。
重いだけで済むなら苦労しない。
もう一度振るう。
今度はさっきよりましだった。
「そう」
「そっちは慣れりゃいける」
ヤリスはそれだけ言って、腰の工具袋を直した。
「竜相手に一番怖いのは、届く時に躊躇うことだ」
「切れるかじゃない。届いた時に押し込めるかだ」
「お前、剣も分かるのか」
「分かる必要がある」
「爆薬だけで全部済むなら楽なんだけどな」
そう言って肩をすくめる。
見た目の豪快さに反して、やっぱり頭の回る男だと思った。
少し離れたところでは、ペルナが一人で立っていた。
何をするでもなく、海のほうを見ている。
ただ、何もしていないように見えて、本当に何もしていないわけではない気配がある。
さっき感じた魔力の圧が、まだ薄く周囲へ残っているようだった。
ガレットが小声で言う。
「あれ、近づきにくいな」
「分かる」
「副官と別の意味で怖い」
「お前、よく本人の前でも喋れるな」
「今は遠いからな」
その時、ペルナが振り返った。
こちらを見たわけでもないのに、こっちまで背筋が伸びる。
あの魔力は、見えないまま人を緊張させる。
ペルナはヤリスへ向けて言った。
「爆薬の湿り、見直して」
「海風で狂う」
「はいはい」
「はいは一回でいい」
ヤリスが苦笑する。
ガレットがぼそっと呟いた。
「あの人の指摘、外れてないんだろ」
ヤリスは文句を言いながらも、結局その通りに爆薬箱を開け直した。
「外れてたら、ただの嫌な女で済むんだけどな」
ペルナは別の箱へ歩いていき、今度は蓋の留め具を指で叩いた。
「そこも。締めが甘い」
ヤリスは天を仰いだ。
「……当たるから面倒なんだよ、ああいうのは」
その感じは、少し分かった。
強いだけの人間なら、見ていれば分かる。
だが、ペルナの怖さはそういうものと少し違う。
何もしていないのに、場の前提が書き換わる感じがある。
人間にもこういう存在がいるのかと、少し遅れて実感した。
*
日が沈む頃、決起集会が開かれた。
勝ちを前にした宴、というには少し硬い。
酒はある。
笑いもある。
だが、皆どこかで無理に明るくしているのが分かる。明日死ぬかもしれない夜の笑いは、どうしても少し乾く。
ドーンヘルムの兵たちは大声で武勇談を語り、ミルヴァード兵たちはそれを半ば面白がり、半ば冷めた目で見ている。誰もが士気は高い。だが、その熱の色が違う。
俺は輪の端で、杯を持ったまま海を見ていた。
夜の海は黒い。
その向こうにスマニア島がある。
明日にはあそこへ渡る。
「なあ」
横から声がした。
ガレットだった。
「そんな顔してると、勝つ前から負け犬みたいだぞ」
「お前に言われたくない」
「ひでえな」
そう言って笑うが、あいつの目も少しだけ硬い。
怖くないわけがないのだ。
「お前こそ、酒飲んでるわりに静かだな」
「酒飲んでるから静かなの」
「素面で考えると、余計なことばっか浮かぶ」
それは少し分かる気がした。
ガレットは杯を揺らしながら、ふと別のほうを見た。
ルシア副官が、輪の外れにいた。
酒は持っているが、ほとんど口をつけていない。
あの人だけ、宴の中でも切り取られたみたいに静かだった。
「行くのか」
俺が聞くと、ガレットは肩をすくめる。
「行く」
「たぶん無視される」
「でも行く」
「酔ってるな」
「少しな」
そう言って、あいつは本当に副官のところへ向かった。
俺は止めなかった。
止めても無駄だと思ったからだ。
副官の前まで行くと、ガレットは何か軽口を言ったらしい。
距離があるので全部は聞こえない。
だが、副官が最初に返した言葉が短く冷たいものであることだけは、見ていても分かった。
それでも、ガレットは引かない。
何を言っているのかは分からない。
ただ、途中から少しだけ声の調子が変わった。いつもの調子の軽さより、ほんの少しだけ真面目になる。
副官はしばらく黙っていた。
そのあと、ほんの少しだけ顔を横へ向ける。
追い払うなら、そのまま去れとでも言いそうなのに、そうはしない。
ガレットがまた何か言った。
今度は、副官の口元がわずかに動いた。
笑った、と言うには小さすぎる。
だが、確かにいつもと違った。
俺は思わず目を凝らした。
「……なんだ今の」
自分でも聞こえないくらい小さく呟く。
強さのことしか見ていないみたいな人だった。
あんなふうに少しでも表情を崩すところを、ほとんど見たことがない。
ガレットが戻ってきた時、顔はいつも通りだった。
だが、少しだけ機嫌がよく見えた。
「どうだった」
「死ななかった」
「何が」
「俺が」
そう言って笑う。
「副官、今日はちょっと機嫌がましだった」
「そう見えた」
「だろ」
杯をあおってから、ガレットは少しだけ静かになった。
「……明日、生きて帰れたらいいな」
軽口みたいな声だった。
だが、それだけに本音だった。
俺は海を見た。
明日の先はまだ見えない。
だが、もう逃げる場所もない。
宴の笑い声は続いている。
火は揺れ、酒は回り、兵は明日の話をしている。
その全部の下で、明日こぼれるものの気配だけが、静かに沈んでいた。
夜風が、少し冷たかった。
*
翌朝、空がまだ青にも白にもなりきらないうちから、小島の陣は動き始めていた。
誰かが起こしに来る前に目が覚めた。
眠れなかったのか、眠りが浅かったのか、自分でもよく分からない。ただ、起き上がった瞬間には、胸の奥のどこかがもう戦の形をしていた。
外へ出ると、潮風が夜の名残をまだ少しだけ含んでいた。
だが、兵たちの動きにはもう迷いがない。船へ荷を運ぶ者、武具を確かめる者、最後の調整をする者。声は低く、無駄な音だけが消えていた。
ガレットはもう起きていた。
肩当てを締めながら、こちらへ目をやる。
「ひどい顔だな」
「お互い様だ」
「俺はいつも通りだ」
「そういうことにしとけ」
そう返すと、ガレットは少しだけ笑った。
昨夜より、その笑いは軽かった。軽くしているのだと分かるくらいには。
少し離れた場所で、ルシア副官が剣帯を確かめている。
その動きには、昨日と何も変わらない速さと無駄のなさがあった。宴の席でほんの少しだけ見えた柔らかさは、朝にはもう跡形もない。
ペルナはすでに外套を脱ぎ、細い指で手袋の縁を引き上げていた。
その横でヤリスが爆薬入りの革箱を一つずつ確かめている。大きな指が、信じられないくらい丁寧に留め具を撫でていく。
「湿りはない?」
ペルナが聞く。
「ない。三つは石用、二つは木組み用、残りは予備だ」
「予備まで使うようなら、もう失敗よ」
「そりゃそうだ」
ヤリスは笑いもしないで答えた。
その時、カーティス大佐がこちらへ来た。
朝の光の中で見ると、昨日よりさらに大きく見える。
「討伐隊、前へ」
俺たち五人が並ぶ。
カーティス大佐はひとりずつ顔を見た。
声は大きくなかったが、それだけで背筋が揃う。
「南西見張り台を叩く。騒げ。壊せ。引きつけろ。本隊はその隙に動く」
最後に、俺の手元の竜殺しへ目が落ちる。
「躊躇うな」
「はい」
それだけだった。
だが、その一言が昨日より重い。
島へ渡る前、俺は一度だけカルミナの方角を見た。
もう見えない。
港も、倉庫も、荷車も、子どもの目も、海の向こうへ隠れている。
見えないなら、忘れられるはずだった。
そう思った。
けれど、忘れることと、見ないことは違う。
その違いを、俺はまだうまく言葉にできなかった。
小舟へ乗り込む時、海はまだ鈍い色をしていた。
島影は近くなっている。黒い塊だったものに、崖の線や木々の影が見え始めていた。
オールが静かに水を切る。
誰もほとんど喋らない。
ただ一度、ヤリスが小声で言った。
「上陸したら右手の岩陰を使う。正面の坂は見られてる」
ロットンの偵察で頭に入っている地形なのだろう。
ルシア副官が頷き、ペルナは島だけを見ている。
その横顔には、恐れの色がない。
ないからこそ、逆にこちらの呼吸が浅くなる。怖がらない人間を見ると、自分の怖さだけがはっきりすることがある。
やがて、舟底が浅瀬を擦った。
「降りる」
副官の声と同時に、俺たちは水へ踏み込んだ。
脛まで濡れる。
冷たい水を蹴り、岩陰へ駆ける。波の音が遠のき、代わりに島の音が耳へ入ってくる。風に鳴る葉擦れ。どこか遠くの獣の声。見張り台の上で触れ合った金属の、かすかな響き。
見上げる。
南西の見張り台は、崖際へ食い込むように建っていた。
石積みの基礎に、上部は木組み。高い。頂には見張りが立ち、その下には粗末な柵と小屋が見える。
そして、低い唸り声。
狼だ。
柵の内側、鎖につながれた影が三つ、四つ。
普通の狼より大きい。肩が高く、背に濃い毛が逆立っている。目だけが暗い光を返していた。
ルシア副官が低く言う。
「右から回る。ヤリス、合図で崩して。ペルナ、高いの。ダインとガレットは下」
返事が重なる。
そこまでは静かだった。
だが、最初に崩したのは沈黙のほうだった。
ヤリスが腰の袋から金属玉を取り出し、親指で何かを押し込む。
青い線がひと筋だけ殻を走り、次の瞬間、それは弧を描いて飛んだ。
見張り台の根元。
石と木の継ぎ目へ吸い込まれるように落ちる。
爆音。
地面が跳ね、木片と石片がまとめて吹き上がる。
柵が砕け、狼が一斉に吠えた。
「行く」
ルシア副官が飛ぶ。
あの人だけ、最初から速さの質が違った。
斜面を駆け上がるというより、段差のあいだを切り取って進んでいく。狼が鎖を引きちぎるより先に、その首元へ刃が入る。
一匹目が倒れる。
返す刃でもう一匹。
血が飛ぶより先に、副官の身体は次へ移っていた。
その上、見張り台の中腹で叫び声が上がる。
翼が鳴った。
ガーゴイルだ。
石像みたいな灰色の身体に、蝙蝠に似た翼。人間に近い輪郭が残っているせいで、余計に不快だった。そいつがこちらを見下ろした瞬間、ペルナが一歩前へ出る。
詠唱は聞こえなかった。
ただ、空気の密度が変わる。
頬をかすめた冷気の次に、青白い細線が三本、真っ直ぐ空へ伸びた。矢だと分かったのは、飛んだあとだった。
氷の矢。
一本目が翼を貫き、二本目が喉へ刺さり、三本目が頭部を穿つ。
ガーゴイルは声を上げる間もなく、台の上から落ちた。
その落下音より先に、ペルナが次の敵を見ている。
「左」
その一言で俺は反応していた。
左手の小屋から魔族兵が二体飛び出す。
剣を抜く。
ぶつかる。
重い。
人間より骨が硬いのか、刃の返りが少し鈍い。
だが、押せない相手じゃない。
一体の剣を外へ流し、踏み込む。
腹へ浅く入る。
だが体勢は崩れる。
そこへガレットの槍が横から入った。
「今の、俺の分だな」
「勝手に数えるな」
短く返しながら、もう一体へ向き直る。
見張り台の上ではさらに爆音が続く。
ヤリスが二個目を投げたのだろう。今度は木組みの上部が派手に傾き、見張りが二人まとめて落ちてくる。
豪快に壊しているように見えて、壊す場所の選び方がいやに正確だった。
崩したいところだけを崩している。
狼がもう一匹、低く滑るように飛びかかってきた。
ガレットが槍で払う。
完全には止まらない。速い。
その横を、ルシア副官の刃が走る。
毛皮が裂け、狼が地を転がる。
止まりきる前に、もう一度。今度は喉。血が土へ沈む。
「後ろ」
副官が言う。
振り向くと、石柵の陰から魔族兵が二体。
片方は湾刀、もう片方は槍。訓練されている。踏み込みにためらいがない。
俺は槍のほうへ入った。
長物は中へ入れば殺せる。
だが、その一歩が半拍遅い。
槍先が肩を掠める。熱い。浅い。
踏み止まる。
懐へ入る。
柄を押し上げ、そのまま鍔元を切る。
敵が呻く。
その喉へ剣を押し込んだ。
「ダイン!」
ガレットの声。
湾刀の一体がそっちへ回っていた。
駆け寄る前に、ガレットが槍の石突で膝を打つ。体勢が崩れたところへ横薙ぎ。槍なのに、打ち込み方が妙に重い。
倒れた魔族兵の胸へ、さらに一撃。
ガレットは軽口の多い男だが、戦っている時だけは妙に迷いがない。
その間にも、見張り台は順調に壊れていった。
ヤリスの爆薬が土台を砕き、ペルナの氷矢が高所の敵を落とし、ルシア副官が狼と前衛を切り裂く。俺とガレットは下に散った兵を止め、逃がさない。
呼吸が合っている、と思った。
即席の隊だ。
噛み合えば強いかもしれない――昨夜そう思ったが、実際に噛み合うと想像以上だった。
勝てる。
その感覚が、まだ形になりきる前に胸の内へ生まれる。
見張り台の上部がついに大きく傾いだ。
木組みが悲鳴みたいな音を立てる。
「離れて!」
ヤリスの声。
俺たちは一斉に引いた。
直後、塔の半分が崩れた。
木片、石、砂埃。
視界が茶色く濁る。
その濁りの向こうで、島の奥から何かが吠えた。
いや、吠えたというより、空そのものが軋んだ。
ペルナが初めて、はっきりと顔を上げる。
「来る」
その一言の次には、もう影が落ちていた。
見上げる。
翼だ。
それも一つじゃない。
赤い。
高くなり始めた光を背に、三つの巨影が旋回している。
鱗は濡れた鉄みたいに光り、喉の奥で火を溜めるたび、胸骨のあたりが赤く脈打つ。
レッドドラゴン。
それが三体。
さっきまで順調だった戦の空気が、そこで一段変わった。
だが、ルシア副官は変わらない。
「引くな」
短い声だった。
「予定通り。ここで引きつける」
ヤリスはすでに次の爆薬を手にしている。
ペルナの指先には、またあの冷たい張りが集まり始めていた。
ガレットが槍を握り直す。
「派手って、こういう意味かよ」
俺は答えなかった。
答える前に、一体目が降りてきたからだ。
熱が来る。
咆哮と一緒に吐き出された炎が、視界いっぱいへ広がった。
だが、その前へペルナが出る。
小さい背中だった。
それが一歩前へ出ただけで、また空気が張る。
見えない膜がある、と分かったのは、炎がそれにぶつかった瞬間だった。
完全には止まりきらない。
だが、広がり方が変わる。押し返され、逸らされ、直撃の形を失う。
熱はそれでも凄まじい。
頬が焼ける。
息が詰まる。
それでも、通った。
「今!」
ルシア副官が駆ける。
炎の縁を縫うみたいに、あの人の身体が竜の死角へ入る。
ガレットが反対側へ回る。ヤリスが地面へ筒を叩きつけた。次の瞬間、白い煙が勢いよく噴き上がる。
霧だ。
竜の視界を奪うための煙幕。
竜が首を振り、爪で地面を抉る。その斜め下、首の付け根の鱗が一瞬だけ浮いたのが見えた。
俺は踏み込んだ。
竜殺しを両手で押し込む。
重い。
だが、通る。
普通の刃が滑りそうな鱗のあいだへ、竜殺しだけが噛み込む。
手応えが違う。
竜が咆哮した。
熱風が顔を打つ。
「効いてる!」
ガレットの声がする。
それは俺も分かった。
レッドドラゴン級を押している。
しかも一体だけじゃない。
ペルナの氷矢がもう一体の翼膜を裂き、ヤリスの爆薬が地面を跳ねさせて着地を狂わせる。ルシア副官はその間を縫って、ありえない速さで足元を攪乱していた。
勝てる。
今度は、はっきりそう思った。
その時だった。
島の奥、見えない森の向こうで、何かが怒った。
竜の咆哮とも違う。
魔族の叫びとも違う。
もっと深く、もっと重い、何か巨大なものが目を開いたような気配だった。
ペルナの顔色が初めて変わる。
「……来るわよ」
その声には、さっきまでの刺々しさがなかった。
空気が沈む。
三体のレッドドラゴンが、同時に退くように高度を取った。
道を開けるみたいに。
その中央へ、黒い影が降りてくる。
人影。
だが、人で止まっていない。
長い外套が風を孕み、その下で何か別の輪郭が脈打っている。
細い。
だが、その細さが弱さには結びつかない。あれほど細いのに、場の重さだけが増していく。
ゆっくりと地へ降り立つ。
レッドドラゴン三体が、その少し後ろへ控えるように位置を変えた。
竜が従っている。
従わせているのではなく、そこにいることを当然として従っている。
ルークは顔を上げた。
若い、と一瞬思う。
だが、それもすぐ消えた。年齢なんて意味を持たないと分かる目だったからだ。
瞳が暗い。
色が暗いんじゃない。底に何か別のものが沈んでいるみたいに暗かった。
「ずいぶん騒がせてくれたな」
声は低く、むしろ乾いていた。
「ここの見張り台は、もう少し使うつもりだった」
「人の領分じゃねえところまで土足で踏み込みやがって」
ルシア副官は一歩も引かない。
「お前がルーク」
「そうだ」
ルークの目が、こちらを順に撫でた。
ルシア副官。
ペルナ。
ヤリス。
ガレット。
そして最後に俺の手元で止まる。
竜殺しだ。
その瞬間だけ、瞳の奥にわずかな変化が走った気がした。
「面白いもん持ってるな」
「人間のくせに、そこまで用意して来たか」
言葉が落ちるより先に、レッドドラゴンの一体が低く唸った。
来る。
「左右!」
ルシア副官の声で、俺たちは一斉に左右へ弾けた。
炎が走る。
地面が赤く裂けたみたいに見えた。
さっきまでの竜火より、明らかに濃い。熱が塊になって押してくる。
だが、ペルナが前へ出る。
また、空気が張った。
目には見えない。
それでも、そこに膜があるのだと分かる。炎は真正面からぶつかったはずなのに、押し込む勢いを削がれて左右へ流れる。
額に汗が滲む。
ペルナの頬にも、いつの間にか細い汗の筋があった。
「長くは無理!」
「十分!」
ルシア副官が返す。
ヤリスが煙幕筒を二つ続けて投げる。
白い霧が竜の脚元へ広がり、視界が一瞬死ぬ。
「右は任せろ!」
ヤリスの声と同時に、爆薬が一体の竜の足場を吹き飛ばした。
地面を抉られ、体勢を崩す。そこへペルナの氷矢が飛ぶ。翼膜を裂き、竜が吠える。
まだ、いける。
俺は竜殺しを握り直し、もう一体へ踏み込んだ。
ガレットが側面へ回り、槍で視線を散らす。ルシア副官がその死角を縫って首元近くへ入る。
首の付け根。
鱗の合わせ目。
そこへ竜殺しを叩き込む。
通る。
竜が大きくのけぞった。
熱風と唾液が飛ぶ。
だが、刃は確かに食い込んでいる。
「あのレッドを押してる……!」
ガレットの声が、興奮で少し裏返った。
ヤリスが笑った。
「だから言ったろ。道具が通れば、竜はただでかい獣だ!」
その言葉の直後だった。
ルークが、はっきり怒った。
怒鳴ったわけじゃない。
だが、場の温度が変わった。
レッドドラゴン三体が一斉に退く。
そしてルーク自身が一歩前へ出る。
外套が落ちる。
その下の身体は、人間に似ているのに人間ではなかった。
痩せて見えた輪郭の内側で、何かがうごめいている。骨と肉の位置そのものが変わっていくような、見ているだけで目がおかしくなりそうな変化だった。
ペルナの声が硬くなる。
「召喚融合魔法……違う、あれは術者自身を媒介にしてる……!」
人間が扱う召喚術とは根本から違うものを見てしまった。
そんな声だった。
ルークの口元がわずかに歪む。
「よく知ってるじゃねえか」
両腕が軋む。
肩が裂け、背から黒いものが伸びる。翼だ。だがレッドドラゴンのそれとは違う。色が違う。赤ではない。青黒い。
炎の色も同じだった。
喉の奥から漏れた火が、夜の残りみたいな青黒さを帯びている。
空気が重くなる。
ルークはもう人の形を保っていなかった。
竜だ。
だが、ただの竜じゃない。
召喚と融合の歪さが、そのまま輪郭に出ている。長い首、異様に硬そうな胸、そして青黒い炎。
見た瞬間に分かった。
今までと違う。
違いすぎる。
ヤリスが叫ぶ。
「離れろ!」
爆薬を投げる。
早い。
だが、ルークのほうが速かった。
青黒い炎が一閃した。
避けるとか、防ぐとか、そういう間じゃない。空気ごと焼いたように見えた。
爆薬ごと、ヤリスが炎に呑まれる。
声にならない。
次の瞬間には、ヤリスは崩れていた。
叫びも、断末魔もない。
燃えたというより、消し飛ばされたみたいだった。
その現実を理解する前に、ルークがもう来る。
「ダイン!」
ルシア副官の声。
俺は反射で横へ飛ぶ。
さっきまでいた場所を爪が裂いた。石が四本の線で削れる。あんなものが人の身体へ入れば、それで終わる。
ガレットが槍で突く。
届かない。
届く前に、ルークの尾が薙いだ。槍が弾かれ、ガレットの身体ごと吹き飛ぶ。
ペルナが両手を上げる。
冷気が集まる。氷矢ではない。壁だ。透明な防壁が一瞬だけ俺たちの前へ立つ。
次の炎がそれにぶつかる。
止まりきらない。
だが、逸れる。
「ルシア!」
ペルナが叫ぶ。
ルシア副官はもう動いていた。
炎の切れ目を縫うみたいに、真正面からではなく斜めへ入る。
速い。だが、今までの速さでさえ足りないと分かる相手だった。
「竜の急所は首の付け根!」
副官の声が飛ぶ。
「ペルナ、防げ! 私が囮になる!」
「ダイン、その剣で打て!」
返事をするより先に、身体が動いていた。
ペルナの防御がもう一度展開する。
薄い、ぎりぎりの膜。炎を押し返すのではなく、直撃の角度だけをずらしている。額の汗が増えていた。長くは持たない。
ルシア副官が飛び込む。
左の刃が鱗を滑り、右が目を狙う。
傷は浅い。
だが、十分だった。
ルークの視線がそちらへ寄る。
その隙だ。
俺は走った。
竜殺しを両手で握り、首の付け根だけを見る。
他は見ない。見たら足が止まる。
ルークが副官を焼こうとする。
ペルナの防御がきしむように揺れる。
間に合え。
届く。
竜殺しを、全力で押し込む。
硬い。
だが、通る。
鱗の合わせ目に噛み込み、肉の奥へめり込んだ感触があった。
ルークが悶える。
咆哮。耳の奥まで揺れる。
「やったか――」
誰の声だったか分からない。
だが、その瞬間、何かがおかしいと気づいた。
ルシア副官が、片膝をついている。
呼吸が荒い。
右手の刃はまだ握っている。
左は――
ない。
肩口から先が、なかった。
あまりにも一瞬で、目が理解に遅れた。
ルークはまだ生きていた。
いや、生きているどころか、怒りの濃さが増している。
魔族の姿へ、半ば崩れるように戻りながら、右の爪に血が滴っていた。
副官の血だ。
ペルナが声を失う。
「うそ……」
その一拍で、ルークがもう一度動く。
狙いは明らかだった。
ルシア副官を殺すつもりだ。
副官は立とうとする。
だが遅い。片腕を失った直後だ。さすがに間に合わない。
「副官!」
ガレットが飛び込んだ。
本当に飛び込んだ。
考えるより先に身体が動いたみたいに。
ルークの爪が振り下ろされる。
ガレットが盾になる。
鈍い音がした。
鎧が裂ける。
血が噴き、ガレットの身体がルシア副官の前へ崩れた。
「ガレット!」
叫んだのは俺だった。
ペルナがそこでようやく動く。
震える指を無理やり持ち上げ、頭上へ氷の魔法陣を描く。小さい。だが濃い。次の瞬間、無数の氷矢が雨みたいに降った。
ルークの肩、首、背へ突き刺さる。
浅い。決定打ではない。
だが動きが止まる。
ルシア副官が、血に濡れながら立ち上がった。
右腕一本だけで刃を構える。
立つだけでも異常だと思った。
だが、あの人は立った。
「……まだ」
声は掠れている。
それでも折れていない。
ルークが唸る。
呼吸は荒い。竜殺しが効いているのは確かだ。ペルナの氷も通っている。だが、倒れない。
俺は息を吸った。
肺が痛い。腕も重い。足元にはヤリスがいて、横には血まみれのガレットがいて、前には片腕を失ったルシア副官がいる。
それでも、まだ立っているのは俺たちだ。
終わらせる。
そう思った時には、もう踏み込んでいた。
ルークも来る。
速い。
だがさっきより、わずかに鈍い。
竜殺しが効いている。
なら、もう一度通す。
爪が来る。
剣で受けるんじゃない。
外す。
滑らせる。
肩を裂く風圧だけが横を抜ける。
ルシア副官が右から入る。
片腕なのに、まだ速い。速いが、もう以前の余裕はない。それでも一瞬だけ、ルークの顔がそちらへ向く。
ペルナの最後の氷矢が、目の前で弾けた。
視界を奪うための、近すぎる爆ぜ方。
その白さの中へ、俺は全身で押し込んだ。
首の付け根。
さっき開いた傷。
そのさらに奥。
竜殺しを、両手で、最後まで。
骨に当たる。
それでも押す。
ルークの口が開いた。
咆哮か、悲鳴か分からない声が漏れる。
そのまま体重を預ける。
剣が、深く沈む。
ルークの膝が落ちた。
まだ、動く。
だが、もう遅い。
俺は剣を抜かず、そのままさらに押し込んだ。
ルークは何か言いかけた顔のまま、前へ崩れた。
地面が揺れる。
終わった。
そう理解するまで、一拍かかった。
息を吐こうとして、喉が焼けつく。
視界の端で、レッドドラゴンたちが散るように空へ退いていくのが見えた。
膝が勝手に折れそうになる。
「……ダイン」
ペルナの声だった。
振り向く。
ペルナは顔色を失っていた。
その足元で、ガレットが倒れている。まだ息はある。あるが、浅い。
少し向こうで、ルシア副官が座り込んでいた。
肩口から流れる血は止まっていない。
ペルナがそちらへ駆けようとする。
だが、その前にルシア副官が声を絞り出した。
「……先に、ガレット」
ペルナが止まる。
「でも、あなたも――」
「いいから、先」
息が途切れそうな声だった。
さっきまでの戦いの目は、もうなかった。
命令ではなく、願いに近かった。
「はやく」
ペルナの喉がわずかに詰まる。
それでも、頷いた。
「……分かった」
ペルナはガレットのそばへ膝をつく。
震える指で傷口を押さえ、回復魔法を流し込む。淡い光が血の上で揺れた。
少し向こうでは、魔族の姿へ崩れ戻ったルークが、地に伏したまま動かない。
ヤリスは、もう動かない。
勝った。
勝ったのに、胸の内には何も晴れるものがなかった。
勝つとは、もっとまっすぐなものだと思っていた。
魔族を斬れば、道が開く。
道が開けば、人が救われる。
聖泉軍が進めば、失われたものへ近づける。
ずっと、そう信じてきた。
だが今、目の前にあるのは、ヤリスの焼け跡と、片腕を失ったルシア副官と、血の中で息をしているガレットだった。
道は開いた。
そのために、落ちたものがあった。
それが必要だったのだと、頭では分かる。
けれど、分かることと、呑み込めることは違った。
*
ルークの身体が土を抉ったまま動かなくなっても、戦はすぐには終わらなかった。
島の奥ではまだ火の手が上がっている。
北と南へ回った本隊がぶつかっているのだろう。遠くで角笛が鳴り、怒号が重なり、時折、魔法か爆薬か分からない鈍い破裂音が空気を震わせる。
だが、俺たちの周りだけは、奇妙なくらい静かだった。
レッドドラゴンたちはもういない。
残ったのは、焦げた土と崩れた見張り台、ヤリスの焼け跡、血に濡れたルシア副官とガレット、そして倒れたルークだけだった。
「ダイン」
ペルナが呼ぶ。
声は冷静に聞こえたが、そう聞こえるように無理やり整えているだけだと分かった。
「そっち見てないで、周囲」
「まだ何か来るかもしれない」
「……ああ」
返事をして、剣を握り直す。
腕が重い。
肩も熱い。
けれど、いま膝をつくわけにはいかなかった。
周囲へ目を走らせる。
崩れた見張り台の陰、小屋の残骸、柵の向こう。動く影はない。狼も、魔族兵も、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに途絶えている。
少しして、南の斜面から兵たちが上がってきた。
ミルヴァード兵とドーンヘルム兵が混じっている。先頭にいたのはクックだった。
後ろにはロットン、さらにその奥に、返り血を浴びたカーティス大佐の姿も見える。
クックは一目で状況を把握したらしい。
視線が、ヤリス、ルシア副官、ガレット、ルークへ順に落ちる。
その動きが一拍だけ止まったのは、ヤリスのところだった。
「……そうか」
短い。
それ以上は言わない。
ロットンが、息を吐くように悪態を漏らした。
「派手にやれとは言ったが、ここまでやれとは言ってない」
軽口みたいな口調なのに、声の底が乾いていた。
カーティス大佐はルークのそばまで歩み寄り、その傷口を見る。
それから俺の持つ竜殺しへ目を向け、さらにルシア副官とガレットを見る。
「ルークは生きているか」
ペルナが答える。
「瀕死だけど、息はある」
「ガレットもまだつながってる」
「ルシアは……」
そこで一瞬だけ声が詰まる。
ルシア副官本人が続けた。
「死んでない」
その言い方に、カーティス大佐の表情から余計なものが消えた。
「そうか」
それだけだった。
だが、その一言に余計な憐れみがなかったのは、むしろありがたかった。
カーティス大佐は振り返る。
「担架」
「負傷者を優先しろ」
「ルークも生かして運ぶ」
後ろの兵たちがすぐ動く。
ロットンがヤリスのそばへしゃがんだ。
何か言うかと思ったが、結局なにも言わなかった。ただ、焼け焦げた地面の端に落ちていた工具袋だけを拾い上げる。
その横顔に、初めて年相応の沈みが見えた気がした。
見張り台から少し離れた場所で、また角笛が鳴った。
今度は長い。勝鬨に近い音だ。
制圧が進んでいるのだと分かる。
勝ったのだ。
そう理解はできる。
理解はできるのに、その言葉が胸の内へまっすぐ落ちてこない。
担架へ乗せられるガレットの顔は青かった。
ペルナの回復魔法で血はかろうじて止まりつつあるが、呼吸はまだ浅い。
ルシア副官は自分で立とうとした。
さすがに無理で、兵が支えに入る。
「触るな」
反射みたいに出た声だった。
兵が一瞬固まる。
だが、その横からペルナが言う。
「黙って支えられなさい」
「今のあなた、意地で立ってるだけよ」
副官はペルナを見た。
睨むというより、言い返す力を探すような目だった。
けれど、それも長くは続かなかった。
副官は小さく息を吐き、支える兵の腕を拒まなかった。
その光景を見た時、胸の奥に変な痛みが走った。
あのルシア副官が、人に支えられている。
勝ったはずなのに、見ているものはどれも勝利の形に見えなかった。
*
島の中央へ近づくほど、戦の痕は濃くなった。
焼けた小屋。
崩れた柵。
押し倒された荷車。
縛られて座らされている魔族たち。
兵士らしい者もいれば、そう見えない者もいる。
年寄り。
女。
痩せた子ども。
その中には、武器を握ったことがあるようには見えない者もいた。
魔族。
その言葉でひとまとめにすれば、簡単だった。
俺の村を焼いたもの。
父さんと母さんを動かなくしたもの。
リノを奪ったもの。
その側にいる者たち。
そう思えば、憎むことはできる。
だが、縄をかけられて座っている子どもの目は、カルミナの倉庫前にいた子どもの目と、どこか似ていた。
そして、ほんの一瞬だけ、井戸のそばの声が戻りかけた。
弱い人を助けるの。
リノは、そう言っていた。
俺はすぐに、その声を押し込めた。
違う。
こいつらは魔族だ。
俺たちが奪われた側で、こいつらは奪った側だ。
そう思わなければ、立っていられなかった。
その姿を見て、足がわずかに止まりそうになる。
そこへ、騎乗の影が近づいてきた。
マルコム将軍だった。
馬を下りる動作に無駄がない。
その姿を見つけた兵たちの空気が、一気に整うのが分かった。
将軍はまずルークを見た。
次に、担架の上のガレット、血に濡れたルシア副官、そして俺の手の中の竜殺しを見る。
「見事だ」
低い声だった。
「スマニア島は落ちた」
その一言で、周囲の兵の顔つきが変わる。
疲労も混乱もあるはずなのに、“勝った”という形だけはそこで確定する。
マルコム将軍の視線がルシア副官へ向く。
「よくやった、ルシア」
「見張り台を落とし、竜を引きつけ、なお生きた」
「これ以上ない戦功だ」
次に、ガレットへ。
「その身で副官を庇ったか」
「大した男だ、ガレット」
そして俺へ。
「ダイン」
「……はい」
「竜使いを落とした功は大きい」
「今日の勝ちは、お前たちの働きで開いた」
褒められている。
そうだと分かる。
分かるのに、胸の中でうまく受け止めきれない。
カルミナでもそうだった。
船は出た。
港は動いた。
俺たちは前へ進んだ。
それは勝利だった。
だが、その勝利の端には、置いてきた顔があった。
今日も同じだ。
ヤリスは死んだ。
ルシア副官は左腕を失った。
ガレットは生きるかどうかもまだ分からない。
その現実の上へ、勝利という言葉だけが先に積まれていく。
マルコム将軍は構わず兵たちを見渡した。
「聞け」
声は大きくない。
それでもよく通る。
「スマニア島は我ら人類が押さえた」
「港も見張り台も、竜使いも落ちた」
「ここから先、敵は退き、我らが進む」
兵たちの間から、低い歓声が上がる。
勝鬨は、上がるべきなのだろう。
実際に、多くの者にとってはそうだ。
友を失っても、自分が生き、戦が前に進んだなら、それを勝利と呼ばねば立っていられない。
俺もたぶん、そのうちの一人だ。
それでも、いまはまだ、喉の奥へ引っかかっているもののほうが重かった。
ルークは縄で縛られ、別の担架へ載せられた。
意識はない。
だが、生きている。
ルシア副官はその横を見て、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……連れていく」
近くにいたクックが答える。
「生きてるうちは訊くことがある」
「死なせたほうが早い相手もいる」
副官の声は弱っていても、言っていることは変わらない。
クックは淡々と返した。
「そうかもしれない」
「だが決めるのは我々じゃない」
島を発つ頃には、日が傾き始めていた。
戦場の片づけは続いている。
港には人類側の旗が立てられ、捕虜はまとめられ、負傷兵は船へ運ばれていく。ルークに従っていた魔族兵の残党も、島にいた者たちも、一緒くたに連れていかれる。
それを見ながら、俺は何も言えなかった。
正しいかと問われても、答えは出ない。
勝ったかと問われれば、勝ったのだろう。
ただ、その二つが綺麗に重ならない。
*
ミルヴァードへ着いたのは、さらにその翌日だった。
港へ入った瞬間、ドーンヘルムともカルミナとも違う景色が広がる。
高い煙突。
石造りの建物に渡された鉄の橋。
水路を走る荷船。
歯車の音。
蒸気の白さ。
街そのものが、ずっと何かを動かし続けているみたいだった。
魔工都市。
その言葉だけは聞いていた。
だが、実際に目にすると、同じ人間の国とは思えない。
街路は広く、建物は高く、兵だけでなく技師や職工の姿が絶えない。
ドーンヘルムが剣と祈りの国なら、ここは鉄と火と知恵の国だった。
到着と同時に、ルシア副官とガレットは治療院へ運ばれた。
ペルナも一緒だった。
回復魔法だけでは足りないのだろう。薬品、器具、縫合、そういうものまで総動員で命をつなぎ止めると、クックが言っていた。
俺はその日、ほとんど眠れなかった。
数日が過ぎる。
次の作戦まで待機命令が下った。
そのあいだ、俺はミルヴァードの訓練場へ通うことになった。
命じられたからではない。
俺の方から頼んだ。
ペルナに、対魔法戦を教えてほしいと。
「嫌よ」
返事は即答だった。
訓練場の端で、ペルナは杖の手入れをしながら、こちらも見ずに言った。
「私は治療で忙しいの。あなたの面倒まで見てる暇はないわ」
「分かってる」
「分かってるなら帰りなさい」
「でも、頼む」
そこで初めて、ペルナの手が止まった。
「……しつこいわね」
「あの日、俺は遅かった」
ルシア副官の左腕。
ガレットの血。
ヤリスの焼け跡。
その全部が、まだ目の奥に残っている。
「魔法も、炎も、竜も、見てから動いてた」
「だから間に合わなかった」
ペルナは何も言わなかった。
「次に同じことがあったら、今度は間に合わせたい」
「守れる力がほしい」
口にしてから、自分で少しだけ驚いた。
魔族を斬る力。
それを求めてきたはずだった。
奪われたものへ届く力。
憎しみを、剣に変える力。
それなのに、いま口から出たのは違う言葉だった。
守れる力。
どこかで聞いた言葉の続きみたいだった。
だが、それ以上は考えなかった。
考えるより先に、強くならなければならなかった。
「……綺麗なこと言うのね」
ペルナの声は冷たかった。
けれど、その冷たさの奥に、ほんの少しだけ別のものが混じった気がした。
「綺麗なことじゃない」
俺は首を振った。
「自分が正しいと思ったことを、正しいまま終わらせる力がほしいだけだ」
ペルナが、ようやくこちらを見た。
その目に、いつもの露骨な苛立ちはなかった。
「……それ、騎士の言葉?」
「分からない」
正直に答えた。
「でも、俺の言葉だ」
しばらく、訓練場に風だけが通った。
やがてペルナは、深く息を吐いた。
「いいわ」
「本当か」
「ただし、泣き言は聞かない」
「言わない」
「嘘ね。絶対言うわ」
ペルナは杖を手に取り、訓練場の中央へ歩いていった。
「でも、立ち上がるなら続けてあげる」
その背中は小さい。
けれど、あの日、竜火の前に立った背中と同じだった。
「来なさい、ダイン」
初めて、俺の名を呼んだ。
「まずは、魔法を見る癖を潰すところからよ」
その日から、訓練は容赦がなかった。
爆薬の破裂に耳を慣らし、煙幕の中で動き、魔法の射線から外れる体の使い方を叩き込まれる。
ペルナの指導は、最初から最後まで厳しかった。
「遅い」
「見る場所が甘い」
「炎を怖がるのはいいけど、怖がり方が下手」
「魔法そのものを見るな。撃つ前を見るの」
「杖、指先、肩、呼吸。馬鹿みたいに光ばっかり追うから間に合わないのよ」
容赦がない。
だが、その指摘はいつも正確だった。
体は動く。
動くが、考える暇ができると、どうしてもあの日へ戻る。
ヤリスの炎。
ルシア副官の左肩。
ガレットの血。
見舞いにも行った。
最初のうち、ガレットは目を覚まさなかった。
胸から腹にかけて深く裂けていたと聞いた。回復魔法でつなぎ止め、さらにミルヴァードの治療で縫い合わせた。助かったのが不思議なくらいだと、医師は平然と言った。
ルシア副官は先に意識を戻した。
戻したが、口数は少ない。
少ないというより、さらに削ぎ落とされた感じだった。
左腕は、戻らない。
そこだけは、どんな治療を使っても変わらなかった。
日が経つ。
数週間が過ぎ、さらに月が進む。
訓練場の空気が少し冷たくなり、朝の蒸気が白く見えるようになった頃、ようやくガレットもまともに起きていられるようになった。
その頃には、ルシア副官も歩けるようになっていた。
片腕で。
最初にその姿を見た時、胸の奥が少し沈んだ。
強い。
それでも、前と同じではない。
どうしたって、そう見える。
ミルヴァードの技師が義手の話を持ってきたのは、その少しあとだった。
治療院の一室。
金属の関節を持つ試作品が布の上へ置かれている。機械仕掛けの義手だ。重そうだが、ただの飾りには見えない。
技師が説明する。
「完全に元通りとはいかないが、補助にはなる」
「軽作業程度なら十分だ。訓練次第では、ある程度の武器も――」
「いらない」
ルシア副官が途中で切った。
技師が言葉を止める。
「だが――」
「いらない」
静かな声だった。
それで十分だった。
技師は困ったようにペルナを見る。
ペルナは肩をすくめるだけだった。
「本人がそう言うなら、それまでね」
技師が去ったあと、部屋の中へ少しだけ気まずい沈黙が落ちた。
ルシア副官は窓の外を見ている。
横顔に迷いはない。だが、諦めがないわけでもないと分かる顔だった。
俺はその横顔を見ながら、どうしても考えてしまった。
隻腕で、前と同じように戦えるだろうか。
たぶん、無理だ。
そう思う自分がいた。
それは哀れみじゃない。
ただ、あまりにも戦場の姿を見すぎたせいで、強さをそういう物差しでしか量れなくなっているのだと、自分でも分かる。
その沈黙を破ったのは、ガレットだった。
まだ顔色は万全じゃない。
立っているだけでも本調子ではないと分かる。なのに、口だけは以前と同じ調子へ戻りつつあった。
「じゃあ」
ガレットが言う。
「俺が左腕になります」
部屋の空気が、一瞬止まった。
俺は思わずそいつを見た。
何を言ってるんだと思ったし、同時に、こいつはこういう時に本気でそういうことを言うのだとも思った。
ルシア副官がゆっくり振り向く。
ガレットは少しも笑っていなかった。
「片腕がないなら、そのぶん俺が動けばいいでしょう」
「前に出る時も、守る時も、届かないところは俺がやる」
「だから、別に終わりじゃない」
大げさな口調ではなかった。
いつもの軽口の延長みたいな顔で、でも一語も冗談じゃなかった。
ルシア副官はしばらく黙っていた。
冷たく切り捨てると思った。
ガレットもたぶん、それは覚悟していた。
だが、返ってきたのは違った。
副官の口元が、ほんの少しだけ動く。
笑った。
本当に、ほんの少しだけ。
それでも、俺は息を詰めた。
あの人が、こんなふうに笑うのを、ほとんど見たことがない。
「……うるさい」
それだけだった。
けれど、その声は前みたいに刃立っていなかった。
ガレットが目を丸くする。
次の瞬間には、妙に得意げな顔になった。
「今、笑いましたよね」
「笑ってない」
「いや笑った」
「気のせい」
「気のせいじゃないだろ、ダイン」
急に振られて、言葉が詰まる。
「……いや」
俺は副官の横顔を見た。
もう表情は戻っている。いつもの、無駄のない顔だ。
それでも、確かにさっき、一瞬だけ笑ったのだ。
「たぶん」
「笑った」
ガレットが、勝ったみたいな顔をした。
ルシア副官は窓の外へ視線を戻したが、その耳がわずかに赤い気がしたのは、たぶん気のせいじゃない。
「褒めてないからね」
ペルナが横から言った。
ガレットは胸を張る。
「分かってる。でも今のは、俺の勝ちでいいだろ」
「どこがよ」
「副官が怒らなかった」
ペルナは呆れたように息を吐いた。
「……その判定基準、低すぎるわ」
その光景を見ながら、胸の奥で何かが少しだけ緩んだ。
スマニア島で失ったものは大きい。
ヤリスは死んだ。
ルシア副官の腕は戻らない。
ガレットの身体にも深い傷が残った。
何も元通りにはならない。
それでも。
それでも、全部が失われたわけじゃないのだと、その時だけは思えた。
ひょっとしたら、ガレットはいけるのかもしれない。
そんなことを考える自分に、少し驚いた。
部屋を出たあと、廊下でペルナが俺の隣に並んだ。
「今日の訓練、休む?」
「行く」
「傷、まだ痛むんでしょ」
「痛む」
「なら休みなさいよ」
「今、休みたくない」
ペルナは少しだけ黙った。
いつものようにすぐ刺してくると思ったが、そうではなかった。
「……守れる力がほしい、だっけ」
「ああ」
「今のあなた、少し焦りすぎ」
「分かってる」
「分かってない人の返事ね」
ペルナはそこで足を止めた。
「でも、悪くはないわ」
俺も足を止める。
「何が」
「そういう理由で強くなろうとするのは」
ペルナは俺を見ずに言った。
「少なくとも、名誉とか戦功とかよりは、まだ信用できる」
その言葉は、いつもの棘より少しだけ柔らかかった。
「ペルナ」
「勘違いしないで。訓練は甘くしない」
「分かってる」
「それから、私の言うことを聞かずに突っ込んだら、魔法より先に私が殴る」
「それは怖いな」
「当然よ」
ペルナはそう言って歩き出す。
小さな背中だった。
だが、もう最初に見た時のような、近づきにくいだけの背中ではなかった。
窓の外では、ミルヴァードの煙突が白い蒸気を吐いていた。
街は変わらず動き続けている。
俺はまた、次の戦へ進まなければならない。
世界はまだ重いままだ。
正しさも、勝利も、簡単には綺麗な形をしてくれない。
カルミナで見た子どもの目。
スマニア島で縄をかけられていた魔族の子ども。
ヤリスの焼け跡。
ルシア副官の失われた腕。
ガレットの血。
それらを全部、正しい戦いの途中にあったものだと言い切れるほど、俺は強くなかった。
けれど、立ち止まるほど弱くもなかった。
壊れたものの隙間からでも、人は少しずつ別のものを作るのかもしれない。
あの島でこぼれたものを、全部取り戻すことはできない。
それでも、残ったものまで失わずに済むなら。
そのために前へ進むのなら。
それはきっと、間違いじゃない。
そう思いたかった。




