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イーシスの胚  作者: ozoo39
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第四章 カルミナ 

カルミナは、遠くから見た時点ですでに王都とは違っていた。


 道の先に海が開ける。


 陽を返す水面は明るいはずなのに、その手前に並ぶ船と倉と人影のせいで、景色全体がどこか濁って見えた。


 岸には大小さまざまな船が寄せられている。帆の色も、船腹の形も、積んでいる荷も揃っていない。商船らしいものもあれば、まともな仕事だけではついたと思えない傷を持つ船もある。岸壁では怒鳴り声が飛び、荷を担ぐ男たちが行き交い、網が風に鳴っていた。


 港町。


 その言葉から思い浮かべていたものとは少し違った。


 もっと開けていて、もっと陽気な場所を想像していたのかもしれない。


 実際に目の前にあったのは、笑い声より怒鳴り声のほうが似合う町だった。


 石畳には泥がこびりつき、荷車の轍には濁った水が溜まっている。岸近くの建物はどれも風と塩に削られ、壁も扉も少しずつ歪んで見えた。人の数は多いのに、整っている感じがしない。町全体が継ぎはぎのまま立っているようだった。


 カルミナを押さえる。


 船を出す。


 スマニア島へ渡る。


 その先に、シェルカエンがある。


 俺は、ここへ来るまでずっとそう考えていた。


 カルミナは足場だ。


 聖泉軍が前へ進むための港。

 魔族へ近づくための場所。

 リノを奪ったものへ、俺の剣を近づけるための場所。


 だから、この町がどんな顔をしているかなど、本当はあまり考えていなかった。


「でかいな」


 ガレットが小さく口笛を吹いた。


 感心したような声だったが、長くは続かなかった。

 通りへ入った途端、町の人間たちの視線がまとわりついてきたからだ。


 王国軍の帯も装備も隠していない。

 見れば分かる。


 だからこそ、向けられる目も遠慮がない。


 露骨な敵意ばかりではない。


 むしろ、面倒ごとが増えたとでも言いたげな目のほうが多かった。そこへ値踏みと、諦めと、少しの警戒が混じる。


 同じ人間の町なのに、王都とはまるで違う。


 王都なら、人が多くてもどこかに線が見える。

 兵が通れば道が割れ、商人は頭を下げ、子どもは物珍しそうに見上げる。


 ここにはそういう分かりやすさがない。


 視線は逸れず、道も半端にしか空かず、誰も歓迎していないのに、露骨に逆らってくるわけでもない。


 ルシア副官は馬を降りると、周囲を一度見渡しただけで前へ歩き出した。


「離れないで」


 俺とガレットは顔を見合わせてから、その後についた。後続の兵も続く。


 通りを進むほど、表に見える賑わいの下に別のものが沈んでいる気がしてくる。荷を運ぶふりをしながらこちらを窺う男、建物の陰からすぐに引っ込む視線、騒がしいのに妙に耳へ残る沈黙。


「副官、迷わないな」


 ガレットが小声で言った。


「迷う理由がないんだろ」


「俺はもう、二回くらい今どこ歩いてるか分からなくなってる」


「お前の方向感覚が弱いだけだ」


「海を見ると脳が浮かれるんだよ」


「さっきまで怖いって言ってただろ」


「怖いのと浮かれるのは両立する」


 こいつらしい返事だった。


 実際、俺も少し似たようなものだった。

 落ち着かない。

 だが、見たことのない町を前にして、神経だけが妙に冴えている。


 通りを折れたところで、不意に前から笑い声がした。


 三人いた。


 船乗りか、荷運びか、その両方みたいな男たちだった。日に焼けた腕をむき出しにし、道の真ん中へだらしなく広がっている。


「おいおい」


 真ん中の男が言った。


「今日はずいぶん立派なのが来たな」


 声は軽い。

 だが、目は笑っていない。


 俺たちは自然に足を止めた。


「どいて」


 ルシア副官が言う。


 男は鼻で笑った。


「怖えな。王都の兵隊さまは挨拶も短い」


 左右の男も薄く笑う。


「何しに来た。港の魚でも数えに来たか」

「それとも守ってやるって顔して、どうせ何か持っていくんだろ」


 その言葉に、胸の奥が少し引っかかった。


 ただの酔っ払いの絡みには聞こえなかったからだ。


 俺たちは魔族を倒しに来た。

 この港を押さえ、船を出し、聖泉軍を前へ進めるために来た。


 なのに、その男の目には、俺たちも海賊も魔族も、同じ“何かを持っていく連中”に見えているようだった。


 ガレットが小さく息を吐く。


「副官、これどうします」


「そのまま」


 ルシア副官は一歩だけ前へ出た。


 たった一歩で、空気が変わる。


 男たちもそれを感じたのか、笑いの端が少しだけ引きつった。武器は抜いていない。なのに、抜くより先の距離まで来られたと分かった顔だった。


「もう一度言う」


 ルシア副官の声は低い。


「どいて」


 真ん中の男が何か言い返しかけた、その瞬間だった。


 ルシア副官の手が動く。


 打ったわけでも、斬ったわけでもない。

 ただ男の手首を押さえ、身体の向きを半歩だけ崩した。


 それだけで、男は息を詰まらせたみたいに黙った。


「次は折る」


 怒ってもいない。

 それなのに、冗談には聞こえない。


 男たちは数秒だけ黙り、それから道を開けた。


「……ちっ」


 吐き捨てるように言ったが、それ以上は来なかった。


 すれ違いざま、端の男が小さく呟く。


「兵隊が増えて、町がましになった試しなんざねえよ」


 その声は、喧嘩よりずっと嫌に残った。


 俺は振り返りそうになるのをこらえた。

 言い返すべきなのか、一瞬だけ迷ったからだ。


 けれどルシア副官は振り向きもしない。


 最初から相手に答えを返す気などないみたいに、前だけを見て歩いていく。


 倉庫が並ぶ一角へ差しかかったところで、ルシア副官が足を止めた。


 前方には低い石造りの建物がいくつも並び、その向こうに波止場が見える。荷を担いだ男たちが行き交い、吊り上げられた網が風に揺れ、海鳥の声が頭上でうるさく鳴いていた。


 だが、その賑わいの下に別のものが沈んでいる気がした。


 見えているのに、見えていないふりをしているもの。


 人が多いぶんだけ隠しやすいもの。


 この町には、そういう場所がいくつもあるのだろうと思わせる空気だった。


 ルシア副官は近くにいた下士官を呼び、短く指示を飛ばした。


「表はそのまま見せて」

「裏路地は二つ塞ぐ」

「港の出入りを見て」


 どれも無駄がない。


 下士官が離れると、今度は俺たちへ向き直る。


「行く」


「どこへですか」


 思わず聞くと、ルシア副官は通りの先を見た。


「海賊の巣」


 ガレットが目を瞬いた。


「初手から、そこですか」


「先に話をつける」


 それだけ言って歩き出す。


 俺とガレットは顔を見合わせてから、その後を追った。


   ◆


 表通りからさらに外れ、倉の影が濃くなるほうへ入っていく。


 石段を下り、狭い路地を二度折れ、人気の薄い木造家屋の並びを抜ける。海は近いはずなのに、ここまで来ると波の音より足音のほうが大きく聞こえた。


「副官」


 ガレットが声を落として呼ぶ。


「何」


「本当にここ、海賊のアジトなんですか」


「そう」


「根拠は」


「もうある」


 事前に何も知らずに来たわけではないのだと分かる声だった。


 木の扉の前で、ルシア副官が止まる。


 見た目はただの倉だった。

 だが、戸口の横に立つ男の目だけが違う。


 荷運びのふりをしているが、手の位置がいつでも刃物へ行ける場所にある。


「開けて」


 男は少しだけ眉を動かした。


「誰に向かって――」


 最後まで言わせなかった。


 ルシア副官が一歩入る。


 男の喉元へ、いつ抜いたのかも見えない刃が止まっていた。


「開けて」


 男は数秒だけ固まり、それから舌打ちして扉を叩いた。


 内側から閂の音がして、倉の口がゆっくり開く。


 中は暗かった。


 乾いた木箱と酒樽が積まれ、その奥に灯りがある。

 さらに奥、人の気配。

 視線。

 息を潜めてこちらを窺う複数の気配。


 海賊の巣。


 その言葉は、思っていたよりずっとそのままの形でそこにあった。


 奥の椅子に座っていた男が、こちらを見上げた。


 年は四十前後だろうか。


 髭は整っていない。

 だが、汚らしいだけではない。片目の上に古い傷があり、指にはいくつか安物の指輪が嵌っている。座り方に妙な余裕があった。


 最初、男は王国軍の人数と装備を見た。


 次に、その先頭へ立つルシア副官を見た。


 そこで、顔つきが少し変わった。


 若い。

 しかも女。


 この場所には、どう見ても場違いな出立ちだ。

 普通なら、真っ先に侮る。


 だが男はそうしなかった。


 視線が一瞬だけ、刃物みたいに細くなる。


 見た目の違和感より先に、近づいたら死ぬ種類の人間だと悟った顔だった。


「王国軍が、ずいぶん踏み込んでくるじゃねえか」


 男が言った。


「誰に断ってここへ入った」


 ルシア副官は答えた。


「ラモーン?」


 男は口の端を少しだけ上げた。


「そう呼ばれてる」


 やはり海賊の頭だった。


 俺は倉の中へ視線を走らせた。


 壁際に立つ男たち。

 短剣。

 斧。

 縄。

 酒。

 荷箱。


 人の数は多くないが、誰もまともな仕事だけで食っている顔ではない。


 ラモーンは俺たちを順に見て、それから肩をすくめた。


「話がある顔だな」


「ある」


「この町の裏を押さえてるのは誰」


 ラモーンは一瞬だけ黙った。


 その沈黙の長さだけで、図星なのだと分かる。


 やがて、男は笑った。


「王都の連中は鼻が利くな」


「答えて」


「答えるさ」


 ラモーンは椅子の背へ身体を預けた。


「この町は、いま魔族が仕切ってる」


 倉の中の空気が少しだけ変わった。


 その言葉を、海賊たちも嫌がっているのが分かった。

 笑っていた顔が少しだけ硬くなる。


「海賊だろうが商人だろうが、あいつらの機嫌ひとつだ。荷も、人も、流すか沈めるか勝手に決める」


「海賊のあんたらでも?」


 ガレットが言った。


 ラモーンは鼻で笑った。


「俺たちは海に強い。だが、陸で魔族三人に睨まれりゃ話は別だ」


「三人?」


 俺が聞き返すと、ラモーンは指を三本立てた。


「鞭のラット」

「斧のオキシー」

「それから、頭のヴァニアン」


 ヴァニアン。


 その名だけ、言い方が少し違った。


「そいつが一番上か」


「ああ。魔法を使う」


 その一言で、倉の中が妙に静かになった。


 俺には分からない。

 だが、海賊たちの顔を見れば、ただ武器を振るう相手ではないことだけは分かった。


 ラモーンは続ける。


「ラットは鞭で人を縛る。オキシーは斧で門ごと割る。だが、その二人を黙らせてるのはヴァニアンだ」

「あいつが何をするのか、最後まで見たやつは少ない」

「見たやつは、たいていそのあと喋らねえ」


 背筋に、冷たいものが走った。


 カルミナの濁りの底にあったものが、ようやく言葉になった気がしたからだ。


 ルシア副官は表情を変えない。


「場所」


 ラモーンはそこで笑みを深くした。


「教えてやってもいい」


「条件は」


「奴らを始末しろ」


 俺は思わず息を詰めた。


「その上で、今後も俺たちの商いを見逃すなら、この港は開ける」


 その言葉を、俺はすぐには飲み込めなかった。


 見逃す。


 つまり海賊行為を、だ。


「副官、それは――」


 思わず口を挟む。


 ルシア副官は俺を見なかった。


「わかった」


 あまりにも早い。


 俺だけじゃない。

 ガレットもわずかに目を見開いた。


 ラモーンのほうが、一瞬だけ黙ったほどだ。


「……ずいぶん話が早いな」


「マルコム将軍の許可はある」


 その一言で、背筋の温度が変わる。


 つまりこれは、現場で勝手に飲んだ条件じゃない。

 最初から、そういう交渉も含めて来ている。


 魔族を倒すために、海賊を見逃す。


 その理屈は分かる。


 分かるのに、胸の奥が落ち着かなかった。


 修道院で教わった正しさは、こんな形をしていなかった。


 ラモーンは数秒だけこちらを見ていたが、やがて低く笑った。


「なるほどな」

「王都の兵隊さまも、思ったより話が分かる」


 俺には、分かりたくない話だった。


 だが、ルシア副官はもう次へ進んでいる。


「場所」


「旧倉庫街の外れだ」


 ラモーンは顎で奥を示した。


「港の北寄り、崩れた石壁の向こう。昼は隠れてるが、夜は動く」

「案内はしねえ。そこまで義理はねえからな」


 だが、続けて床へ粗い地図を放る。


「道は教える」


 ルシア副官はそれを拾い上げ、一度だけ見た。


「十分」


 短く言って踵を返す。


 交渉は終わったらしい。


   ◆


 倉を出たところで、夜気が少しだけ冷たく感じた。


 中の空気が重かったせいかもしれない。

 だが、胸の奥に残っているのは温度より別のものだった。


 海賊と取引した。

 しかも、ルシア副官は迷わなかった。


「副官」


 気づけば、声が出ていた。


 ルシア副官は振り返らない。


「何」


「さっきの条件、本当に飲むんですか」


「飲んだ」


「でも、あいつらは――」


「知ってる」


 言い返したかった。


 海賊行為を見逃すのか。

 奴らだって人を食い物にしてきた側じゃないのか。


 そう思うのに、言葉にすると妙に薄っぺらくなりそうで、喉の奥に引っかかった。


 横でガレットが、いつになく軽口を挟まなかった。


 たぶん、あいつも同じだけ飲み込みきれていない。


 ルシア副官は歩きながら、ラモーンから受け取った粗い地図を一度だけ開いた。


「北へ回る」


 それだけ言って畳む。


 倉庫街の裏は、表通りよりずっと静かだった。


 人の気配が消えたわけじゃない。

 むしろ、見えないところにいる感じが強い。


 崩れた壁。

 積まれた木箱。

 打ち捨てられた桶。

 切れかけた縄。


 身を隠せるものばかりが目につく。


 前を行くルシア副官の足取りに迷いはなかった。

 ラモーンの地図を見たのは一度きりなのに、まるで元から知っていた道をなぞるみたいに進んでいく。


「副官」


 今度はガレットが呼んだ。


「何」


「さっきの、マルコム将軍の許可って」


「その前提で来てる」


「最初から海賊と取引するつもりで来たってことですか」


「必要なら」


 王都を出る時、俺はもっと単純な任務を想像していた。


 港を押さえる。

 悪い連中を片づける。

 船を確保する。


 そういう、分かりやすい順番を。


 けれどカルミナは違った。


 ここでは、正しい順番より先に、動かせるものを動かすらしい。


 それが王国のやり方なのか、マルコム将軍のやり方なのか、俺にはまだ分からない。ただ、ルシア副官がそれを当然のものとして受けたという事実だけが残っている。


 路地を二つ折れたあたりで、後続の兵のひとりが低く言った。


「副官、灯り」


 先に、かすかな明かりがあった。


 崩れた石壁の向こう。


 倉庫街の外れと呼ぶには、もう町の輪郭から半歩外れた場所だった。使われなくなった古い建物が寄り集まっている。壁は欠け、屋根は歪み、月明かりだけでも崩れそうに見える。


 だが、その一角だけは人の気配がある。


 火がある。

 見張りの動きがある。

 そして何より、空気が違う。


 足が勝手に重くなるような、妙な圧があった。


 ルシア副官が片手を上げる。


 全員が止まる。


「ここから声を落として」


 俺は呼吸を抑えた。

 剣の柄に触れる手が、少しだけ汗ばんでいるのが分かる。


 崩れた石壁の隙間から、奥を覗く。


 古い倉が三つ。


 その中央に小さな空き地があり、焚火が一つ。

 人影が動いている。


 いや、人影と呼ぶには、どこか輪郭が違う。


 人に似ている。

 似ているのに、人と同じ場所へ収まっていない感じがする。


 そこに立っているだけで、空気の中心がずれる。


 胸の奥が、嫌な具合にざわついた。


 魔族。


 その姿を知らないわけではない。


 俺の村を焼いたもの。

 リノを奪ったもの。

 父さんと母さんを動かなくしたもの。


 あの朝、俺は確かに魔族を見ている。


 けれど、あの時の俺はただ見ていただけだった。

 逃げることも、助けることも、斬ることもできず、地面に転がっていた。


 今は違う。


 腰には剣がある。

 隣にはガレットがいる。

 前にはルシア副官がいる。


 俺は初めて、魔族を“斬るべき敵”として見ていた。


 それなのに、胸の奥が嫌な具合にざわついた。


 人に似ている。

 似ているのに、人と同じ場所へ収まっていない感じがする。


 立ち方も、肩の置き方も、こちらを見る目も違う。


 あの朝の匂いが、ほんの一瞬だけ戻りかけた。


 焼けた木。

 濡れた土。

 リノの手の温度。


 俺はそれを奥へ押し込めた。


 今は、怯えるためにここへ来たんじゃない。


 斬るために来た。


 焚火のそばで、細い影が鞭を垂らしている。


 その奥に、斧を担いだ大柄な影。


 そして、焚火から少し離れた壊れた柱のそばに、ひとりだけ静かに立っている影があった。


 あれがヴァニアンだと、名乗られる前に分かった。


 他の二人より大きいわけではない。

 武器を構えているわけでもない。


 だが、周囲の空気がそいつを避けているように見えた。


 火の明かりが当たっているのに、顔の奥だけがよく見えない。


 魔力、という言葉が頭に浮かんだ。


 ただ力が強いとか、熱があるとか、そういうものじゃない。

 目に見えない湿り気のようなものが、あの男の周りだけにまとわりついている。


 重い。


 けれど重さの正体が分からない。


 魔法使い。


 ラモーンの言葉が、今さら喉の奥へ落ちてきた。


「副官」


 俺は声を潜める。


「……います」


「見れば分かる」


 その返しだけで、少しだけ息が戻る。


 こういう時でも、あの人は変わらない。


 ルシア副官は石壁に背を寄せたまま、指示を飛ばした。


「最初に火を散らす」

「ダインは中央」

「ガレットは右」

「鞭は追わない」

「斧は受けない」

「魔法使いから目を離さないで」


 最後だけ、少し重かった。


 ガレットが小さく息を吐く。


「見た感じ、全然嬉しくない相手ですね」


「浮かれてる場合か」


「浮かれてない。これは怖がってるほうだ」


 魔物相手とは違う。


 イエロードラゴンとも違う。


 強い弱いの前に、何をしてくるか分からない相手が、こちらを見て考えていること自体が怖かった。


 焚火の向こうで、ヴァニアンがゆっくり顔を上げた。


 気づかれた。


 そう思った瞬間には、もう遅かった。


「来たか」


 静かな声だった。


 その声を合図にしたように、焚火が大きく跳ねた。


 こちらが火を散らす前に、向こうが動いたのだと気づく。


 ラットの鞭が、火の明かりを裂くように走った。


 空気が鳴る。


 俺は反射で身を引いた。

 目の前の石壁が叩かれ、砕けた小石が頬を打つ。


 鞭だ。


 ただの鞭じゃない。


 速い。

 長い。

 しかも、刃物みたいに正確だった。


「出る!」


 ガレットが槍を構える。

 俺も前へ出ようとした。


 だが、踏み出せない。


 鞭の間合いが分からない。

 剣が届く距離に入る前に、どこからでも裂かれる気がした。


 ラットが笑った。


「若い兵はいいな」

「最初に手足が止まる」


 鞭が地面を舐める。

 石畳に細い傷が走った。


 その音だけで、肩に力が入る。


 ガレットの槍先も、わずかに迷っていた。


 どう入る。

 どこから詰める。

 どの線が安全か。


 考えた瞬間、また鞭が来る。


 俺たちは同時に下がった。


「下がるほど怖くなるぞ」


 ラットが笑う。


 その時だった。


 ルシア副官が前へ出た。


 何も変わらない足取りだった。


 早足でも、駆け足でもない。

 ただ、歩いた。


 ラットの笑みがほんの少し止まる。


「おいおい」


 鞭が跳ねた。


 見えた時には遅い。

 俺ならそうだった。


 だが、ルシア副官は少しだけ肩を落とした。


 それだけで鞭の線が外れる。


 次が来る。

 斜め下から、手首を狙う線。


 ルシア副官は踏み込んでいた。


 避けるのではなく、鞭が伸び切る前の空白へ入った。


 ラットの顔色が変わる。


 右の剣が手首を裂いた。


 鞭が落ちる。


 左が喉元へ入る。


 一拍。


 それで終わった。


 ラットは、何かを言おうとした顔のまま崩れた。


 さっきまで俺たちを止めていた鞭が、床にだらりと伸びている。


 誰もすぐには声を出せなかった。


 俺も、ガレットも、後続の兵たちも。

 たぶん、オキシーでさえ。


「……嘘だろ」


 ガレットが小さく言った。


 俺は返せなかった。


 ルシア副官はラットの死体を一度だけ見下ろし、刃についた血を軽く振った。


「次」


 それだけだった。


   ◆


 オキシーが、斧を肩から下ろした。


 さっきまでの顔ではない。

 あの一瞬で理解したのだろう。


 目の前の黒髪の女は、見た目通りの兵ではない。


 最初に潰すべき相手でもない。


 不用意に近づけば、こっちが先に死ぬ。


「なるほどな」


 オキシーの声が低くなる。


「ラットをあれで殺すか」

「なら、お前は後にする」


 その視線が、俺とガレットへ向いた。


 背筋が冷える。


 狙いが変わった。


 ルシア副官ではなく、俺たちを先に潰す気だ。


「弱いところから砕く」

「戦場の基本だ」


 オキシーが踏み込んだ。


 重い。


 近づいてくるだけで地面が鳴る。


 斧は大きい。

 あれを正面から受ければ、剣ごと身体を割られる。


「受けるな!」


 ガレットが叫ぶ。


「分かってる!」


 俺は半歩外す。


 斧が落ち、石畳が砕けた。


 破片が飛ぶ。

 腕を庇う暇もない。


 オキシーは止まらない。


 斧を引き戻す動きが、見た目よりずっと速い。

 重さに振り回されているんじゃない。

 重さを使っている。


 俺は前へ出る。


 真正面じゃない。

 斧が戻る線の外側。


 剣を当てる。


 崩す。

 止める場所を一つに絞る。


 だが、浅い。


 オキシーの身体はびくともしなかった。


「軽い」


 低い声と一緒に、柄の返しが飛んでくる。


 剣で受けた瞬間、腕が痺れた。


「ダイン!」


 ガレットの槍が外から入る。


 膝裏を狙ったいい線だった。


 だが、オキシーはそちらを見ていた。


 足を引くのではなく、逆に踏み込む。

 槍の線が死ぬ。


 まずい。


 次の斧がガレットへ向かう。


 俺は考える前に身体を入れた。


 受けない。

 受けたら終わる。


 斧の軌道を横から叩き、ほんの少しだけずらす。


 それでも風圧が胸を打った。


 ガレットが歯を食いしばる。


「助かった」


「まだだ!」


 オキシーは笑った。


 余裕ではない。

 獣じみた喜びだった。


「いいな」

「弱いくせに、よく噛む」


 再び斧が上がる。


 このままでは潰される。


 俺たち二人だけでは、押し切られる。


 だが、ルシア副官はすぐには入らなかった。


 見ている。

 待っている。


 俺たちが何を作れるかを。


「ガレット」


「言え」


「膝を取る」


「その前に俺が死ぬ」


「死ぬな」


「無茶言うな」


 短いやり取りのあいだにも、斧が来る。


 俺は中央を止める。


 今度は斬りにいかない。

 相手の視線を取るだけでいい。


 オキシーの目が俺へ向く。


 そこへ、ガレットが踏み込んだ。


 槍は膝ではなく、足首の外へ入る。


 深く刺さない。


 引っかける。

 逃がさない線を作る。


 オキシーの身体が、ほんの一瞬だけ流れた。


「今!」


 叫ぶより早く、ルシア副官がいた。


 右の剣が斧の柄を弾く。

 左が脇腹へ深く入る。


 オキシーが唸る。


 それでも倒れない。


 斧を捨てて、腕でルシア副官を掴もうとする。


 俺は前へ出た。


 その腕の線を剣で止める。


 止まらない。

 だが遅れる。


 ガレットの槍が反対側から入り、巨体の逃げ道を塞ぐ。


 ルシア副官の二刀が交差した。


 鎖骨の下。


 深く。


 オキシーの動きが止まった。


 大柄な身体が、ゆっくりと膝を折る。

 斧が石畳に落ち、鈍い音を立てた。


 息が荒い。


 俺も、ガレットも。


 たった一人相手に、ここまで削られた。


 残ったのは、ヴァニアンだけだった。


 魔法使いは、ラットとオキシーの死体を一度だけ見た。


 怒鳴らない。

 悲しまない。


 ただ、状況が変わったことを確認するように、静かに顔を動かした。


「ラットは間合いに溺れた」

「オキシーは重さを信じすぎた」

「どちらも、死ぬ理由としては分かりやすい」


 ヴァニアンの周りの空気が、少し沈んだ気がした。


 音はしない。

 光もない。


 だが、焚火の揺れ方が変わった。


 火が風に揺れたのではない。

 火のほうが、あの男から逃げるように歪んだ。


「なら、私は分かりにくくやろう」


 その言葉の意味が、すぐには分からなかった。


 ヴァニアンは構えない。


 剣士なら、肩が動く。

 槍使いなら、穂先が向く。

 斧使いなら、踏み込みの前に重心が落ちる。


 だが、ヴァニアンにはそれがない。


 ただ立っている。


 指先が少し動く。

 視線がこちらを撫でる。

 外套の裾が夜気に揺れる。


 それだけだ。


 それだけなのに、身体が動けない。


 何をされるのか分からない。


 そう思っていた。


 だが、ヴァニアンが一歩前へ出た瞬間、その考えは少し違うのだと分かった。


 あれは、何かを始めたわけではない。


 まだ何もしていない。


 それなのに、空気の底だけが、音もなく沈んでいた。


 魔力。


 そう呼ぶしかないものが、あの男の周囲にある。


 イエロードラゴンの熱とも、トロルの力任せの圧とも違う。


 見えない水の中へ、首まで沈められているようだった。


 息はできる。

 だが、少しでも間違えれば、そのまま沈む。


「ダイン」


 ルシア副官の声がした。


「目だけで追わないで」


「……はい」


「魔法使いは、剣士と同じようには始めない」


 その瞬間、足元の石が白くひび割れた。


 光ったのではない。


 まず、石が鳴った。


 乾いた小さな音。

 次に、足裏が痺れた。


 反射で跳ぶ。


 直後、さっきまで立っていた石畳が弾けた。


 雷だ。


 そう理解したのは、爆ぜたあとだった。


 空からではない。

 前からでもない。


 足元から雷が噴いたように見えた。


「っ……!」


 着地する前に、次が来る。


 右。


 いや、右だと思った時には、左の壁が青白く脈打っていた。


 爆ぜる。


 石片が飛ぶ。


 顔を庇ったせいで、視界が切れる。


 その切れた一瞬へ、また雷が置かれる。


 読めない。


 間合いがない。


 剣の届く距離、槍の届く距離、そういうものが意味を持たない。


 遠いから安全ではない。

 近いから有利でもない。


 ヴァニアンは、こちらの足を見ている。

 呼吸を見ている。

 避ける先を見ている。


 そして、そこへ雷を置いてくる。


「ガレット!」


 俺が叫ぶより早く、ガレットは横へ動いていた。

 だが、槍が届く距離ではない。


「どう入るんだよ、これ!」


 ガレットの声に焦りが混じる。


 それは俺も同じだった。


 斬る相手が目の前にいる。

 なのに、そこへ行くための道が見えない。


 ヴァニアンが静かに言う。


「人間は分かりやすい」

「剣を握る者は、斬れる距離へ来たがる」

「槍を持つ者は、届く線を作りたがる」

「だから、その前を潰せばいい」


 今度は俺の足ではなかった。


 ガレットの槍の先が、青く湿ったように光った。


「捨てて!」


 ルシア副官の声。


 ガレットは一瞬遅れた。


 だが、捨てた。


 槍の穂先が青白く弾け、地面で跳ねる。


 あのまま握っていれば、腕ごと持っていかれていたかもしれない。


「武器にまで……!」


 ガレットが歯を食いしばる。


 魔法使い。


 その言葉の意味を、俺は初めて理解した気がした。


 ただ火や雷を撃つ相手じゃない。


 戦場の理屈そのものを変えてくる相手だ。


 距離。

 角度。

 武器。

 足場。

 逃げ道。


 全部を、自分の間合いにしてくる。


 ルシア副官が前へ出た。


「ダイン」


「はい!」


「見えないものを見ようとしないで」

「撃たせる場所を作って」


 撃たせる場所。


 それなら、剣でもできる。


 相手が撃ちたいと思う場所へ、自分を置く。


 俺は息を吸った。


 怖い。


 雷がどこから来るのか分からない。


 だが、それでも前へ出る。


 半歩。


 ヴァニアンの視線が動く。


 足元。


 そこへ来る。


 俺は、石が鳴る前に足を抜いた。


 青白い筋が石畳を割る。


 熱と痺れが足首を掠めた。


 だが、止まらない。


 さらに前へ出る。


 今度は右の壁。

 次は左の地面。


 完全には読めない。


 けれど、ヴァニアンが何を嫌がっているかは少しずつ分かる。


 俺が前へ出ること。

 ガレットが槍を拾い直すこと。

 ルシア副官が距離を詰めること。


 なら、やることは一つだ。


 俺はさらに踏み込んだ。


「しつこいな」


 初めて、ヴァニアンの声にわずかな棘が混じった。


 雷が来る。


 俺ではない。


 ルシア副官の前だ。


「ガレット!」


「分かってる!」


 ガレットは、拾い直した槍を投げるように突き出した。


 狙いはヴァニアンの身体ではない。


 指先。


 雷を置く、その手元。


 ヴァニアンがわずかに身を引く。


 青い光が乱れた。


 その一瞬で、ルシア副官が入った。


 右の剣が手首を裂く。


 ヴァニアンが後ろへ下がる。


 まだ速い。


 だが、下がる先を俺が塞いだ。


 剣を振る。


 当てるためではない。

 戻る線を潰すために。


 ヴァニアンの足が止まる。


 ガレットが反対側へ回る。


 槍が逃げ道を塞ぐ。


 ヴァニアンの指先に、最後の青い火花が集まる。


 だが、遅い。


 ルシア副官の左の剣が、喉元へ入った。


 青い光が、空中でほどけるように消えた。


 ヴァニアンは、何かを言おうとした。

 けれど声にはならなかった。


 その身体が石畳へ崩れる。


 魔法使いが倒れても、俺はしばらく動けなかった。


 雷の音が、まだ耳の奥に残っている。


 それ以上に、あの沈むような魔力の感触が、皮膚の下に残っていた。


 剣で測れない相手。

 間合いを持たない相手。

 戦場そのものを変える相手。


 俺は、その怖さを初めて知った。


「終わり」


 ルシア副官が言った。


 その一言で、ようやく本当に終わったのだと分かった。


 ガレットが槍に少しだけ体重を預ける。


「……今の。二度と初戦にしたくない」


 俺は息を吐いた。


「同感だ」


「魔物のほうがまだ話が早い」


「話してきたのは向こうだろ」


「だから嫌なんだよ」


 少しだけ笑いそうになったが、長くは続かなかった。


「ダイン」


「……はい」


「怪我」


「大丈夫です」


「ガレット」


「一応、生きてます」


「そうじゃなくて、動けるか聞いてる」


「動けます」


 ルシア副官はそれ以上言わなかった。


「港へ戻る」


 俺とガレットは顔を見合わせて、そのあとを追った。


   ◆


 港へ戻る道は、来た時より短く感じた。


 短く感じたのは、慣れたからじゃない。


 気を張ったまま歩いているせいで、余計なものが全部削がれていたからだ。


 石壁の向こうで魔族を斬ってきた。


 なのに、カルミナの夜は何ひとつ変わっていないように見える。


 酒場の灯り。

 荷車の軋み。

 怒鳴り声。

 遠くの笑い声。


 魔族が死んだのに、町が止まらない。


 その鈍さが、この港の底にあるものをそのまま表している気がした。


 魔族を倒した。


 これで港は救われる。


 そう思いたかった。


 けれど、戻ってきたカルミナは清らかになっていなかった。


 ただ、誰の命令で動くかが変わっただけだった。


 波止場へ近づくにつれて、人の気配がまた増えていく。


 だが、さっきまでとは違った。


 王国軍を見て目を逸らしていた連中が、今は逸らしきれずにこちらを見ている。視線の中に、ただの警戒ではない別のものが混じっていた。


 もう噂が走っているのだ。


 裏を押さえていた魔族がやられた。

 王国軍が動いた。


 その事実だけで、港の空気の均衡が少し傾いている。


 ルシア副官は波止場の手前で足を止めると、後続の兵へ視線を向けた。


「持ち場を分ける」


 その一声で、全員の姿勢が揃った。


「荷揚げ場、倉庫前、船着き場」

「見せる場所から押さえて」


 下士官が即座に動き、兵が散る。


 鎧の音は大きくない。

 だが、人が配置されていくにつれて、港の輪郭そのものが変わっていくのが分かった。


 実際に全員を斬る必要なんてない。


 立つ場所を決め、見せる場所を押さえれば、それだけで町の側が勝手に意味を読み始める。


 ガレットが小さく息を吐いた。


「なんか、副官が立たせると港まで別の場所に見えるな」


「お前が言うと軽い」


「軽く言ってるけど、本当にそうだろ」


 否定はできなかった。


 さっきまで、ここは雑多なだけの港だった。


 今は違う。


 まだ海賊も商人も船乗りもいる。

 荷も動いている。


 けれど、その全部が王国軍の視線の中へ入ったように見える。


 支配、というのはこういうことなのかもしれないと思った。


「副官」


 下士官の一人が戻ってくる。


「西の倉庫前、騒ぎが広がり始めています」


「広げて」


「はい」


「止めなくていいんですか」


 俺が思わず聞くと、ルシア副官は一度だけこっちを見た。


「止める必要がない」


「でも、混乱したら――」


「混乱してるほうが分かりやすい」


 それだけだった。


 その理屈が、すぐには飲み込めない。


 だが実際、港ではもう人の流れが変わり始めていた。倉庫の前で足を止める者、船へ戻る者、様子を窺う者。誰もが誰かより先に状況を読みたがっている。


 そういう時、いちばん効くのは“もう何かが決まった”ように見せることなのだろう。


 波止場の先、係留された船の陰から数人の男が出てきた。


 海賊だ。


 見れば分かる。


 荷運びにしては武器が近く、船乗りにしては目が荒い。だが、向こうもこちらを見た瞬間に、下手な威勢を張るのをやめた。


 そのまま中央を割るように、ラモーンが歩いてくる。


 倉で見た時と同じ顔。

 だが、今はもう少しだけ港の主らしく見えた。背後に二人つけ、肩を怒らせもせず、妙に静かに歩いてくる。


「ずいぶん手際がいいな」


 ラモーンは波止場を見回しながら言った。


「仕事が早いのは好きだ」


 ルシア副官は答えない。


 その沈黙のまま、二人の距離が止まる。


 俺は無意識に剣の位置を確かめた。


 ラモーンがここで何を言うかで、この先の港の形が変わる気がしたからだ。


 海賊の頭は、波止場に立つ兵たちを順に見たあと、最後にルシア副官へ目を戻した。


「魔族は?」


「終わった」


 ラモーンは短く鼻で笑った。


「なら約束通りだ」


 その声は大きくなかった。


 けれど、すぐ後ろにいる海賊たちにも、近くの荷運びにも聞こえる程度の大きさはあった。


「今夜から、この港で王国軍の出入りを妨げるな」

「荷揚げも船出も通す」

「うちの連中にも触れを回す」


 それは命令に近かった。


 少なくとも、あの男たちにとってはそうなのだろう。


 背後の海賊が一瞬だけ顔をしかめたが、誰も口を挟まない。


 ルシア副官が言う。


「条件は変わらない」


「分かってる」


 ラモーンは肩をすくめた。


「俺たちの商いには手を出さない」

「港を止める気もない」

「今はそれでいい」


 今は。


 その言い方に、胸の奥がまた引っかかった。


 ガレットも同じことを感じたのか、隣でほんの少しだけ眉を寄せていた。


 俺は堪えきれずに口を開く。


「それでいい、って……」

「あなたたちは人を売ってたんじゃないのか」


 ラモーンの目が、ゆっくりこっちへ向いた。


 倉の中で見た時より、少しだけ冷たく見えた。


「売ってたさ」


 否定しない。


「盗んだこともある。沈めたこともある」

「だが、この港は綺麗な手だけじゃ回らねえ」


 聖騎士、という言葉が妙に耳に残る。


 今この場でそれを言われると、飾りみたいに軽く聞こえた。


「……気に入るわけがない」


 俺が言うと、ラモーンは薄く笑った。


「そうだろうな」

「だが、気に入らなくても港は動く」

「おまえらが魔族を斬ったから、次は船を出す番だ」


 反論しかけたところで、ルシア副官が言った。


「ダイン」


 名前を呼ばれただけで、言葉が止まる。


「いま必要なのは、好悪じゃない」


 それだけだった。


 厳しくもない。

 諭す声でもない。


 ただ、順番を間違えるなと言われた気がした。


 ラモーンはそのやり取りを見て、少しだけ口の端を上げる。


「怖い上官だ」


 ルシア副官は答えない。


「船はいつ出せる」


 話がすぐ先へ進む。


 ラモーンもそこは迷わなかった。


「潮が変わる前に三隻」

「夜明けまでには五隻まで増やせる」

「ただし人足がいる。荷も足りない」


「人は出す」


「荷は?」


「集まる」


 その言い方に、今度は別の冷たさを感じた。


 集まる。


 まだ集まっていないものを、もう集まると言い切る声だった。


 俺は思わずそちらを見る。


 ルシア副官は波止場の先を見たまま続けた。


「倉は開ける」

「泊まってる船も使う」

「朝までに渡りの形を作る」


 ラモーンはそこで初めて、本当に面白そうに笑った。


「なるほど」

「おまえ、若いのに古いやり方を知ってるな」


「必要なだけ」


「それで十分だ」


 背後で、海賊たちが低く動き始める。


 命令を待っていたのだろう。


 船の縄を解く者。

 荷の確認へ走る者。

 港の奥へ消える者。


 まだ完全に従っているようには見えない。


 だが少なくとも、いまこの場でルシア副官に刃を向ける気はない。


 それで足りるのだ。


 完全な服従なんてなくても、港が動けばいい。


 その現実が、また少しだけ重かった。


 ガレットが小声で言う。


「副官、ほんとにこのままやるんですね」


「やるからここにいる」


「ですよね」


 軽く返していたが、あいつの声も少し硬い。


 海賊と手を組む。

 港を押さえる。

 船を出す。


 そこまでは分かる。


 だが、その先に積まれる荷や、連れて行かれる人足や、その全部がどこからどう集まるのかを考え始めると、胸の内側がざらついた。


 ラモーンが踵を返しかけ、ふと思い出したように止まる。


「一つだけ言っておく」


 振り向かないまま言う。


「魔族が消えても、この町が急に綺麗になるわけじゃねえ」

「港は港のままだ」

「おまえらが欲しいのは正しさじゃなく、渡れる形だろう」


 その言葉は、妙に真っ直ぐ刺さった。


 俺が言い返すより早く、ルシア副官が答える。


「そう」


 ただ、それだけだった。


 ラモーンは小さく笑うと、そのまま部下を連れて去っていった。


 あとに残ったのは、まだ完全には静まりきらない波止場と、王国軍の兵と、動き出した港の気配だった。


 俺はしばらく、その場から目を離せなかった。


 さっきまで魔族に押さえられていた港が、今は王国軍と海賊の取り決めで動いている。


 状況だけ見れば、前に進んでいる。


 だが、その進み方は綺麗じゃない。


 修道院で教わった正しさは、もっとまっすぐだったはずだ。


 悪を討ち、弱きを守る。

 そのために剣を取る。


 その理屈自体は、今も間違っていないと思う。


 だがカルミナでは、その間にいくつもの濁りが挟まる。


 海賊を使い、港を動かし、気に入らない相手とも手を結ぶ。


 そのどこまでが必要で、どこからがただの言い訳なのか、俺にはまだ分からなかった。


「ダイン」


 呼ばれて顔を上げる。


「はい」


「立ってるだけなら邪魔」


 それでようやく我に返った。


「……すみません」


「西の倉庫前へ行って」

「荷の動きを見て」


 俺は頷いた。


 歩き出しかけたところで、ガレットが横へ並ぶ。


「お前も倉庫か」


「たぶんな」


「顔が難しい」


「お前に言われたくない」


「俺はいつも通りだ」


「嘘つけ」


 ガレットは小さく笑った。


「まあな」

「でも、考え込んでも船は出ない」


 それは、あいつにしては少しまともすぎる言葉だった。


「誰の受け売りだ」


「副官、たぶんそう思ってるだろ」


 否定できなかった。


 波止場の向こうでは、もう縄が解かれ始めている。


 さっきまで海賊の船だったものが、今は王国軍の目の前で“使える船”として扱われている。


 その変わり身の早さに、この町の本性が見える気がした。


   ◆


 俺たちは西の倉庫前へ向かった。


 そこにはすでに兵が立ち、荷の出入りを見張っていた。


 木箱。

 樽。

 麻袋。

 縄束。


 夜明け前だというのに、荷は次々と運び出されていく。


「これ全部、船へ?」


 思わず呟くと、近くの兵が肩をすくめた。


「間に合わせるらしい」

「上はそのつもりだ」


 上。


 つまりルシア副官であり、その向こうのマルコム将軍だ。


 しばらくして、村から来た荷車が倉の前へ入ってきた。


 一台ではなかった。


 西村。

 南村。

 東村。

 北の外れ。


 帳面の上では、ただの村の名にすぎない。

 だが、荷車が増えるたびに分かる。


 これは一つの村の負担ではない。

 カルミナの周りから、少しずつ、まんべんなく削って集めているのだ。


 麦袋。

 塩。

 干し肉。

 油の小樽。

 薬草の箱。


 兵たちは乱暴ではなかった。

 怒鳴りもしない。

 奪い取るような真似もしない。


 帳面を見て、数を確かめ、黙々と荷を運ぶ。


 だからこそ、余計に分かりにくかった。


 これは援助なのか。

 徴発なのか。


 あるいは、そのどちらでもあるのか。


 荷車のそばに、小さな子どもが立っていた。


 母親らしい女の手を握り、積み上がっていく袋をじっと見ている。


 泣きもしない。

 取り返そうともしない。


 ただ、それが自分の家から出てきたものだと知っている目だった。


 腹が減っている子どもの目だ、と一瞬で分かった。


 胸の奥が、少しだけきしむ。


 その時、何かを思い出しかけた。


 井戸のそば。

 朝の光。

 誰かの声。


 けれど、それは形になる前に消えた。


 今は船を出す方が先だった。


 カルミナを押さえなければならない。

 スマニア島へ渡らなければならない。

 聖地を取り戻さなければならない。


 そう教わってきた。

 そう信じてきた。


 だから、そう信じることにした。


「……これも、必要なんですか」


 気づけば、そう口にしていた。


 ルシア副官は荷の数を見たまま答える。


「必要」


 それだけでは終わらなかった。


 少し間を置いて、続ける。


「正しいかは、別」


 その一言に、俺は返せなかった。


 兵は荷を運ぶ。

 村人は黙って見ている。


 そのあいだにあるものを、あの人は最初から見えていないわけじゃないのだと、その声だけで分かった。


「分かってるなら」


 自分でも、責めるような声になったと思った。


 ルシア副官はそこで初めて俺を見た。


 冷たい目ではなかった。

 けれど、慰める目でもない。


「分かってても止めない」


 まっすぐな声だった。


「止まるほうが、先に多く落とすから」


 波止場のほうで縄の鳴る音がする。

 どこかで樽が動き、板が軋み、人の足音が重なる。


 港は止まらない。


「ここで削る」

「削らなければ、向こうで折れる」


 言い訳するような調子はなかった。


「……じゃあ、これは仕方ないってことですか」


 ようやく絞り出した声は、自分でも少し幼く聞こえた。


 ルシア副官は頷かなかった。


「仕方ない、で済ませるなら覚えなくていい」


 俺は顔を上げた。


「でも、覚えるなら」

「仕方ないでは終われない」


 ほんのわずかに、ルシア副官の視線が村人へ向く。


「それでも進めるかを、あとで自分で決めるしかない」


 怒鳴りも説教もない。

 だが、誤魔化しもなかった。


 分かっていないから切るんじゃない。

 分かった上で切る。


 そのうえで、忘れるなと言っている。


 そのことが、かえって苦かった。


   ◆


 その時、波止場の奥でざわめきが広がった。


 人の流れが割れる。


 振り向くと、マルコム将軍が来ていた。


 鎧の音は大きくなかった。

 なのに、その姿を見つけた途端、港の空気がひとつに締まる。


 将軍は波止場の中央まで歩み出ると、積み荷と船列を一度見渡した。


「よし」


 低い声だった。


「形になった」


 その一言で、兵たちの顔つきが変わる。


 マルコム将軍の視線が、まずルシア副官へ向く。


「よく押さえた、ルシア」

「カルミナは落ちた」


 ルシア副官は短く返す。


「まだ動かしてる途中です」


「それでいい。落とすだけでは足りん。動かして初めて取ったことになる」


 次に、将軍の目がこちらへ向いた。


「ダイン、ガレット」


「はい!」


「初陣でよく噛みついた」

「ルシアの刃が届くところまで、よく場を保った」


 褒められている。


 その事実が、胸の奥へ真っ直ぐ落ちる。


 マルコム将軍は少しだけ顎を上げる。


「ここから先は速度だ。迷いは港へ置いていけ」


 大きな声じゃない。

 けれど、夜明け前の海より遠くまで届く気がした。


 迷いは港へ置いていけ。


 その言葉に、俺は救われた気がした。


 考えなくていいと言われた気がしたからだ。


 けれど本当は、置いていったのではなかった。


 胸の奥へ押し込んだだけだった。


「聖地は待っていれば戻るものじゃない。取りに行く者の手でしか戻らない」


 波止場に立つ兵の背が、目に見えて伸びる。


 ラモーンが少し離れた場所で腕を組み、薄く笑いながらも黙っているのが見えた。


 マルコム将軍の視線が、船へ、積み荷へ、兵へ、そして海へ流れる。


「船を出す」


 その一言が、号令より先に場を動かした。


 縄が解かれる。


 板が上がる。


 人足が走り、兵が押し、海賊が怒鳴り、船腹がきしむ。


 黒かった水を押して、船がひとつ、またひとつと岸を離れていく。


 三隻。

 四隻。

 そして、五隻目。


 朝の光が海の端を白く染め始めていた。


 その光の中で、カルミナの港はもう後戻りできない形になっている。


 俺は波止場の端で、それを見ていた。


 魔族を倒した。

 港を押さえた。

 船は出た。


 前に進んでいる。


 それは間違いない。


 だが、前に進むたびに、何かを後ろへ置いていく。


 ラモーンの言葉。

 ルシア副官の「正しいかは別」という声。

 村人の顔。

 子どもの目。


 それらを置いていかなければ、船には乗れない。


 俺は、自分に言い聞かせる。


 間違っていない。


 これは間違っていない。


 聖地を取り戻すためだ。

 ここで止まれば、もっと多く落ちる。

 ルシア副官も、マルコム将軍も、それを見た上で進めている。


 だから、自分も間違っていない。


 そう思わなければ、村人の顔も、子どもの目も、そこに置いていけなかった。


 ガレットが隣に並ぶ。


「出るな」


「ああ」


「ほんとに、行くんだな」


「そうだな」


 沖へ向かう船影が、朝の海の上で少しずつ小さくなる。


 その向こうにスマニア島があり、さらにその先にシェルカエンがある。


 ここで積まれたものが、あの遠い場所へ届く。


 そのために、いまカルミナで切られたものがある。


 それでも。


 それでも、自分は間違っていないのだと、もう一度だけ胸の内で繰り返した。


 聖地を取り戻すためだ。


 そう思えば、進める。


 そう思わなければ、進めなかった。


 マルコム将軍が最後に海を見た。


「進め」


 その声で、岸に残った兵たちも一斉に動き出す。


 カルミナの朝は、そうして始まった。


 俺たちはもう、戻れない場所まで来ていた。

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