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イーシスの胚  作者: ozoo39
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第三章 生き残る剣

騎士団演習地の朝は、修道院よりも乾いていた。


 風を遮る石壁も、祈祷堂へ続く回廊もない。

 王都の外れに広がるその土地では、土の匂いも、鉄の匂いも、汗の匂いも、隠れる場所を持たなかった。


 空が広い。


 それだけで、自分の未熟さまで晒されているような気がした。


「遅い」


 木剣の先が、俺の肩口で止まった。


 痛みはない。

 だが、斬られたのと同じだった。


「もう一度」


 ルシア副官の声は、怒鳴らない。

 怒鳴らないのに、逃げ道がない。


 俺は息を整え、構え直した。


 黒地に赤の帯は、腰にある。


 礼拝堂でその帯を締められた夜から、俺は王国の剣になったつもりでいた。

 魔族へ近づく列に入ったのだと、疑っていなかった。


 だが、ルシア副官の前では、俺はまだ木剣一本まともに届かせられない。


「来て」


 短い声。


 俺は踏み込んだ。


 前へ出る。

 それだけならできる。


 俺には、それしかなかった。

 あの朝、何もできなかった身体を、前へ出すことだけで罰してきた。

 リノの手が離れた場所へ、いつか戻るために。

 魔族の喉へ、いつか刃を届かせるために。


 だから前へ出た。


 けれど、木剣は届かなかった。


 ぶつかると思った瞬間、俺の刃は外へ流されていた。

 ルシア副官の木剣が下から入り、俺の喉元で止まる。


「終わり」


 まただ。


 俺は木剣を下ろした。


「敵しか見てない」


 ルシア副官は俺の顔ではなく、足を見ていた。


「敵を斬る場所だけ見てる。だから、横が空く。後ろが消える。自分の戻る場所もなくなる」


「……はい」


「前へ出るのは悪くない」


 そこで、初めてこちらを見る。


「でも、戻れない前進は突撃じゃない。ただの落下」


 言い返せなかった。


 ルシア副官に喉元を取られるたび、俺は思った。


 この程度で魔族に届くはずがない。

 リノを奪ったものに、俺の刃が届くはずがない。


 悔しさは、いつもそこへ戻った。


「次」


 俺が下がると、ガレットが槍を持って前へ出た。


 あいつは槍を持つと少し変わる。

 口は減らない。

 だが、足の置き方が細くなり、肩の力が抜ける。

 剣より槍のほうが、ずっと似合っていた。


「始め」


 ガレットは半歩引いて、穂先を低く置いた。


 探る。

 払う。

 寄せつけない。


 そこまではいい。


 だが、ルシア副官が一歩入った瞬間、ガレットの槍は止める槍になった。

 刺すためではなく、守るための槍。

 悪く言えば、決め切らない槍だった。


 二手。


 それだけで、ルシア副官は槍の内側へ入った。


 木剣が柄を打つ。

 支点がずれる。

 次の瞬間、ガレットの胸元に切っ先が止まった。


「遅い」


「……でしょうね」


 ガレットは苦く笑った。


「助けるつもりで槍を出してる」


「悪いことですか」


「悪い」


 間がなかった。


「助ける槍と殺す槍を分けてる。だから遅れる」


 ガレットの口元から軽さが消えた。


「救う時くらい、優しくてもよくないですか」


「優しい槍は救えない」


 それだけだった。


 ガレットは返さなかった。

 ふざけて流すには、刺さりすぎたのだと思う。


 俺は木剣を握り直した。


 遠い。


 ルシア副官は遠い。


 第二期でも第三期でも、数えきれないほどの者が前線へ向かい、戻らなかった。

 その中で、この人は生きて戻っている。

 魔族を斬って、仲間を連れて帰っている。


 俺は前へ出ることしか知らない。

 ガレットは俺を拾おうとする。

 だが、それだけでは足りない。


 ルシア副官は、敵も、味方も、退路も、死ぬ場所も、生き残る場所も、同じ一息の中で見ている。


 どうすれば、あそこへ届くのか。


「おい」


 ガレットが戻ってきた。


「何だ」


「さっきから顔が怖い」


「お前に言われたくない」


「俺のはいつものだ。お前のは、何かを噛み砕けずに飲み込もうとしてる顔」


「分かるのか」


「分かる。長い付き合いだからな」


「まだ長くない」


「濃いんだよ。お前といると」


 ガレットは槍の石突を地面に当てた。


「行くんだろ」


「どこへ」


「副官に教えを乞いに」


 俺は黙った。


 言われるまで、自分がそのつもりでいたことを認めたくなかった。


「怖いな」


 俺は言った。


「怖いだけで済めばいいけどな。俺は一言目で心を斬られると思う」


「でも来るんだろ」


「来るよ。お前一人で行かせたら、前のめりに死にそうだからな」


 その時、演習地の空気がふいに締まった。


 誰かが号令を出したわけではない。


 ただ、皆の視線が自然に同じ方向へ流れる。


 マルコム将軍が歩いてきていた。


 鎧姿のまま、ただ演習地の端を進んでいるだけだ。

 それなのに、木剣の音が少し減り、話し声が落ちる。


 ルシア副官も、わずかにそちらを見た。


 将軍は中央までは来なかった。

 半ばで足を止め、訓練場を見渡す。


「続けろ」


 それだけだった。


 だが、その一言で場の芯が通った。


 緩んでいた背が伸びる。

 散っていた意識が前へ戻る。

 誰も命じられていないのに、全員が自分の立ち位置を思い出す。


 将軍は、新米の列へ視線を向けた。


「馴れは鈍る」


 低い声だった。


「慣れるなとは言わん。だが、慣れた顔で剣を振るな」


 少しだけ間が空く。


「戦いはいつも、気を抜いた側から欠ける」


 それだけ言って、将軍は歩き去った。


 煽らない。

 長く語らない。

 ただ、必要な言葉だけを置いていく。


 ガレットが小さく息を吐いた。


「ずるいよな」


「何が」


「二言三言で、場ごと持っていく」


 俺も同じことを思っていた。


 ルシア副官が剣なら、マルコム将軍は別の強さだ。

 剣に意味を与える側の人間。

 あの背に従えば、自分の剣も正しい場所へ向かうような気がする。


「今なら行けるかもな」


 ガレットが言った。


「何が」


「副官のところ。今なら、腹を括ったふりくらいできる」


「ふりか」


「最初はふりで十分だろ。歩き出したら、あとは足が勝手に責任を取る」


 むちゃくちゃな理屈だった。


 けれど、少し分かった。


 俺は木剣を握り直した。


「行く」


「まじか」


「お前も来るんだろ」


「言ったけどな。もう少し悩む時間をくれると思ってた」


「今じゃないと、たぶん行けない」


 ガレットはしばらく俺を見ていたが、やがて槍を肩へ担ぎ直した。


「分かったよ」


 その声は、半分あきらめていて、半分だけ腹を括っていた。


「ただし先に言っとく」


「何だ」


「俺はお前より一歩後ろに立つ」


「ずるいな」


「槍使いだからな。間合いの管理だ」


 そう言いながら、ガレットは結局、俺と並んで歩き出した。


   ◆


 演習地の端で、ルシア副官は木剣についた土を布で払っていた。


 近づくほど、喉が乾く。


 怖くないわけがない。

 あの人に見られると、自分の中の形の悪いものまで全部測られる気がする。


 それでも、止まるほうが嫌だった。


「ルシア副官」


 黒髪が少し揺れた。


 あの目がこちらを向く。


「教えてください」


 ルシア副官はすぐには答えなかった。


 木剣を拭く手を止め、俺とガレットを一度だけ見た。

 見るというより、重さを量られた気がした。


「何を」


 短い。


 教えろと言ったなら、何を教わりたいのか自分で言え。

 そう言われているのと同じだった。


 俺は息を吸った。


「前へ出ても、死なない形を知りたいです」


 ルシア副官の視線が、俺の肩、腰、足へ落ちる。


「何のために前へ出る?」


 すぐには答えられなかった。


 魔族を斬るため。


 最初に浮かんだのはそれだった。

 けれど、それをそのまま言えば、今朝と同じ場所へ戻る気がした。


 俺が黙ると、横からガレットが言った。


「こいつ、前へ出ることだけは得意なんです」

「戻ってくるのが下手で」


 余計なことを、と思った。

 だが否定できない。


 ルシア副官はガレットを見る。


「お前は」


「槍です」


「知ってる」


「助けに入る時、遅れます。止めるのと刺すのを分けてるからだと思います」


 ルシア副官は木剣を置いた。


「言葉で直るなら、昨日までに直ってる」


 返す言葉がなかった。


「構えて」


 頷きもされない。

 だが、追い返されてもいない。


 俺とガレットは顔を見合わせ、すぐに位置を取った。


「同時に来て」


 ガレットが小さく呻いた。


「まじか」


「聞こえてる」


「なら、一人ずつのほうが」


「戦場で順番は来ない」


 それで終わりだった。


 行くしかない。


 俺は正面から踏み込み、ガレットは半歩遅らせて左へ回った。

 俺が前を引き受け、ガレットが外を刺す。

 そのつもりだった。


 だが、最初の一手で崩れた。


 俺の木剣は受けられていない。

 受ける前に、ずれていた。


 ルシア副官は半身を引いただけで俺の線から外れ、返しざまの木剣で俺の手元を打つ。

 痺れが走る。


 そこへガレットの槍が入るはずだった。

 だが、入る前に穂先が逸らされていた。


 いつ見たのかも分からない。


 槍の線が死に、俺は体勢を立て直せない。

 気づけば、木剣の切っ先が喉元に止まっていた。


 終わりだ。


 その認識より半歩遅れて、ガレットの呻き声が聞こえた。

 見ると、あいつの槍は地面へ落ちかけていて、ルシア副官の足が石突を踏んでいた。


「近い」


 ルシア副官が言う。


「二人で来てるのに、見てる場所が狭い」


 俺は木剣を下ろした。

 ガレットが槍を拾う。


「ダインは前に出る時、敵しか見てない」

「ガレットは助ける時、ダインしか見てない」


 事実だけが並ぶ。

 言い返しようがない。


「それだと、二人で来てる意味がない」


「……もう一度」


 俺は言った。


 ルシア副官は頷かない。

 けれど、否定もしない。


「来て」


 二度目。


 今度は正面だけを見ないようにした。

 ルシア副官の足。

 ガレットの位置。

 自分の戻る場所。


 見ようとする。

 見ようとしすぎる。


 踏み込みが鈍った。


「遅い」


 木剣の腹で肩を打たれる。

 痛みで半歩ぶれたところへ、ガレットの槍が入った。


 今度は悪くない。


 だが、悪くないだけでは足りなかった。


 ルシア副官は槍の内へ一歩入り、そのまま俺たち二人の間を抜けた。


 背後を取られる。


 終わりだ。


「今のは、少しまし」


 意外な言葉だった。


 俺もガレットも、少しだけ顔を上げる。


「でも、まだ遅い」


 ルシア副官は木剣の先を俺へ向けた。


「ダイン。前へ出る前に全部見ようとしすぎ」

「ガレット。助ける時、正解の角度を探してる」


 木剣の先が下がる。


「探してる時間はない」


「じゃあ、どうすればいいんですか」


 ガレットが珍しくすぐに聞いた。


「形を決めて」


「形?」


「ダインは、前に出て止める場所を一つ決める。全部止めようとしない」


 次に、ガレットを見る。


「ガレットは、その外を切る。助けるんじゃなく、逃がさない線を作る」


 止める場所を一つ決める。

 外を切る。

 助けるんじゃなく、逃がさない線を作る。


 言葉は短い。

 けれど、その中に道があった。


「もう一度」


 三度目。


 今度は、最初から全部を追わなかった。


 ルシア副官の右肩。

 踏み込みの線。

 自分が塞ぐ場所。


 それだけを見る。


 前へ出る。

 止める。

 当てにいかない。


 ガレットの槍が、その外を回る。


 ほんの一瞬だけ、噛み合った。


 ルシア副官が半歩遅れた――ように見えたのは、たぶん初めてだった。


 もちろん、次の瞬間には俺の木剣は払われ、ガレットの槍も外されていた。

 勝てるわけがない。


 だが、最初の二度とは違った。


「それ」


 ルシア副官が言った。


「今の形は、残していい」


 胸の奥が熱くなった。


 褒められたわけじゃない。

 だが、残していい、はルシア副官の中ではかなり重いはずだった。


「明日も来るんですか」


 ガレットが聞いた。


「来るなら見る」


「来なかったら」


「来ないなら終わり」


 あまりにもそのままだったので、少しだけ笑いそうになった。


「来ます」


 俺はすぐに言った。


 ガレットが横目でこちらを見る。

 それから、諦めたように肩をすくめた。


「……俺も行きます」


 ルシア副官は頷かなかった。


 ただ、木剣を拾い直しながら一言だけ言った。


「なら、次は今日より遅く死んで」


 それが締めだった。


 ひどい言い方だ。

 ひどいのに、追い返された感じはしなかった。


   ◆


 それからの数年を、俺は日付では覚えていない。


 覚えているのは、土の感触だ。


 乾いた土。

 雨を吸った土。

 血を吸って黒くなった土。

 倒れた時に口へ入った土。


 ルシア副官の声は、どの季節でも短かった。


「遅い」

「近い」

「見えてない」

「迷ってる」


 そのたびに俺は立ち上がり、ガレットは槍を拾った。


 俺が前へ出る。

 ガレットが外を切る。

 失敗する。

 またやる。


 それだけを、何度も繰り返した。


 ガレットの軽口も、季節と一緒に少しずつ変わった。


 最初は、俺を止めるための言葉だった。

 次第に、場を戻すための言葉になった。

 誰かが硬くなりすぎた時、あいつはわざとくだらないことを言う。

 その一言で、息を思い出す者がいた。


 俺も、その一人だったのだと思う。


 ある朝、ガレットがルシア副官の背を見ながら言った。


「やっぱり顔いいな」


「懲りないな」


「懲りたら終わりだろ」


「何が始まってるんだよ」


「俺の中の何かが」


 その直後、ガレットは訓練開始から一分で地面に転がされた。


「遅い」

「軽い」

「見えてない」


 ルシア副官の木剣が槍の中程を叩き、返す手で肩口を打ち、最後に穂先を地面へ落とす。


 ガレットは土の上で半歩よろけた。


「副官。今の、ちょっと厳しくないですか」


「甘くした覚えはない」


「そこを何とか」


「何とかならない」


 間髪入れずに返されていた。


 その日の帰り道、ガレットはやけに静かだった。


「心を斬られたか」


「斬られた」


 即答だった。


「でも、ちょっとよかった」


「どこが」


「“甘くした覚えはない”ってことは、前から俺に甘かったわけじゃないってことだろ」


「……すごいな、その解釈」


「前向きと言ってくれ」


 呆れたが、少しだけ笑ってしまった。


 そういうやり取りが増えていった。


 前の俺なら、訓練のたびに歯を食いしばるだけで精一杯だったと思う。

 今も楽ではない。

 まだ勝てない。

 まだ遠い。


 けれど、その遠さの中に足場ができていた。


 最初に形になったのは、オーク討伐の時だった。


 森の縁で遭遇したオークは、ゴブリンよりよほど重かった。


 腕。

 息。

 振り下ろしてくる棍棒。


 全部が鈍く見えるのに、重い。


 最初の一体を受けた時、剣越しに肩まで痺れた。

 足が半歩沈む。


 その沈んだ半歩を見ていたように、二体目が横から回った。


 俺が前へ出る。


 昔なら、そこで正面しか見えていなかった。

 今は、かろうじて違う。


 止める位置を決める。

 その外を、ガレットの槍が切る。


 穂先は深く入らない。

 だが十分だった。


 オークの足が一瞬止まり、その間に俺は剣を返す。

 膝を崩し、肩を落とし、体勢を切る。


 倒しきった時には、息が上がっていた。


 ルシア副官は最後までほとんど動かなかった。


 討伐が終わったあと、俺は剣についた血を払っていた。

 背中の汗が冷えて気持ち悪い。

 だが、前みたいな、助かっただけの感じではない。


 少し離れた場所から、ルシア副官が一言だけ言った。


「前よりまし」


 振り向くと、もうこちらは見ていない。


 それでも、その一言で十分だった。


 帰り道、ガレットが槍を担ぎながら言う。


「聞いたか」


「聞いた」


「“前よりまし”だぞ」


「だから何だ」


「副官の“まし”は、ほぼ勲章だろ」


 その日は、俺も少しだけ同意した。


 その後も、討伐は続いた。


 牙狼の群れでは、追うなとガレットに止められた。

 あの時、俺は初めて、自分が斬りたい相手だけを追う癖を、まだ捨てきれていないことを知った。


 湿地の魔物を相手にした時は、踏み込みより先に足場を見ろと叩き込まれた。

 古道の野盗崩れを追った時は、相手より先に逃げ道を塞げと言われた。


 そのたびに、俺は少しずつ覚えていった。


 敵を見る。

 味方を見る。

 地面を見る。

 戻る場所を見る。


 それでも、前へ出たい気持ちは消えなかった。


 魔族へ届くために。

 あの朝を奪ったものへ届くために。


 その熱だけは、どれだけ打たれても残っていた。


 だが、形になったと思ったものは、トロルの前で一度砕けた。


   ◆


 トロルを見た日、俺は初めて本気で逃げ道を探した。


 でかい、という言葉で済まない大きさだった。


 樹の幹みたいな腕が二本。

 泥と苔を塗り固めたような肌。

 鈍そうに見えて、近づくと速い。


 最初の一撃で、俺は地面を転がった。


 避けたつもりだった。

 だが避けきれなかった。


 肩口をかすめただけで身体が半回転し、息が詰まる。

 視界がぶれる。


 立つより先に、次が来ると思った。


 その瞬間、俺は勝つことを考えていなかった。

 斬ることも、止めることも、魔族へ届くことも考えていなかった。


 ただ、逃げ道を探していた。


 後ろ。

 右。

 倒れた木の陰。

 岩の隙間。


 どこなら潰されずに済むか。

 どこへ転がれば、次の一撃から外れられるか。


 身体が勝手にそれを探していた。


 そのことに気づいた瞬間、胸の奥が冷えた。


 俺は前へ出るために剣を握ってきたはずだった。

 リノを奪ったものへ届くために、倒れるまで木剣を振ってきたはずだった。


 なのに、あの一瞬、俺は後ろを見た。


 それが許せなかった。


 怖かったことより、逃げようとした自分のほうが許せなかった。


 トロルの腕がもう一度上がる。


 動けない。


 その手前に、ガレットの槍が入った。


 深くはない。

 だが膝裏をかすめた穂先が、巨体の動きを一瞬だけ鈍らせる。


「立て!」


 ガレットが叫んだ。


「逃げ道を見たなら、次は立つ場所を決めろ!」


 その声で、俺は息を取り戻した。


 立つ。

 剣を握る。

 前へ出る。


 でも、今度は真正面ではない。


 止める場所を一つ決める。

 外を切る。

 戻る場所を残す。


 俺はトロルの肩口へ入った。

 ガレットが脚を崩す。


 トロルがこちらへ向き直る、その半歩前でルシア副官が入った。


 そこで初めて、この討伐でルシア副官は剣を深く使った。


 右が浅く裂く。

 左が止める。


 俺には何をしたのか、最後まで分からなかった。

 ただ、次の瞬間にはトロルの巨体が膝を折り、その首筋へ剣が落ちていた。


 討伐が終わったあとも、俺はしばらく立てなかった。


 身体が痛いからではない。


 自分が逃げ道を探したことが、胸の奥に残っていた。


 ルシア副官は倒れたトロルを見下ろしたあと、俺を見た。


「遅い」


 やっぱりそう来るかと思った。


 けれど、続いた言葉は違った。


「でも、逃げ道を見た」


 俺は顔を上げた。


「……それは、悪いことですか」


「悪くない」


 ルシア副官は短く言った。


「逃げる道を知らない人間は、前へ出る道も間違える」


 俺はすぐには返せなかった。


「前へ出るだけなら、獣でもできる」

「戻る場所を残して前へ出て。そうしないと、誰も守れない」


 その言葉は、木剣で打たれるより痛かった。


 俺はずっと、前へ出ることだけを強さだと思っていた。

 後ろを見ることは弱さだと思っていた。

 逃げ道を探すことは、リノを見捨てることに似ていると思っていた。


 けれど違うのかもしれない。


 戻る場所を見ているから、前へ出られる。

 生き残るつもりがあるから、次も剣を握れる。


 そういう強さもあるのだと、その時初めて少しだけ分かった。


 ガレットは少し離れたところで槍を拭っていた。


「なあ」


「何だ」


「さっき、俺が逃げ道を見たの、分かったのか」


「分かった」


「何でだ」


「俺も探してたからな」


 ガレットは軽く言った。


「逃げ道を探すのは悪いことじゃないだろ」

「死なない道を探してるだけだ」


「……お前は昔からそうだったな」


「そうだよ。俺は昔から賢い」


「自分で言うな」


「誰も言ってくれないからな」


 少しだけ笑えた。


 笑えたことが、自分でも意外だった。


 その日の帰り道、ルシア副官はそれ以上何も言わなかった。


 けれど、俺の中では何かが残った。


 前へ出る。

 ただし、戻る場所を残して。


 その言葉は、次の戦いまでずっと消えなかった。


   ◆


 西へ出たのは、まだ夜が明けきる前だった。


 王都の外れを出る頃には空は濃い藍のままで、馬の吐く息だけが白く見えた。


 街道を離れてからは、人の気配も薄くなった。

 草の匂いより、土の匂いが強い。


 東や北の道と違って、西へ向かう土地はどこか乾いていた。

 森はある。

 だが深く繁るというより、低い木々と岩地がまだらに続く。


 隠れる場所がない代わりに、見通しがいいわけでもない。

 妙に目が疲れる景色だった。


 ルシア副官は行き先を詳しく言わなかった。


 いつものことだ。

 言う必要があることしか言わない。


 だから、俺たちは西へ向かいながら勝手に考えていた。


 少し強い魔物の討伐かもしれない。

 演習地の延長で片づく程度の任務かもしれない。

 あるいは、ルシア副官が“少し遠く”と言う時点で、そんな甘い話ではないのかもしれない。


 ガレットは馬上で槍を背に預けたまま、小さく欠伸を噛み殺した。


「なあ」


「何だ」


「副官、ほんとに説明しないな」


「今さらだろ」


「いや、ここまで来ても何も言わないのは逆に不安になる」


「お前は説明されても不安になるだろ」


「それはそう」


 即答だった。


「でも、心構えってあるじゃないか」


「怖いなら怖いって言え」


「怖いよ」


 妙にあっさり認めるので、少し笑いそうになった。


「お前は怖くないのか」


「怖い」


「お前もか」


「当たり前だろ」


 怖くないわけがない。


 オークの重さも、牙狼の速さも、トロルの一撃も、もう知らない相手ではない。

 演習地で削られ続けた時間も、ただ痛かっただけじゃない。


 それでも、分からない場所へ向かう怖さまでは消えない。


 道が細くなってきた頃、前を行くルシア副官が初めて口を開いた。


「ここから先は散らないで」


 それだけだった。


 だが、その一言で十分だった。


 今までの討伐でも似た指示はあった。

 けれど今日は、言葉の重さが違う。


 俺とガレットは自然に馬を寄せた。

 後ろを行く二人の騎士も間合いを詰める。


 今回の同行者は少ない。


 ルシア副官。

 俺とガレット。

 前線経験のある騎士が二人。


 たったそれだけだ。


 西の地形は、近づくほどに色が薄くなっていった。


 灰色の岩。

 乾いた草。

 ところどころに低い木立。


 そのあいだを風が抜けるたび、砂っぽい匂いがした。


 昼が高くなる頃、最初の魔物が出た。


 オークだった。


 それも前に見た個体よりひと回り大きい。

 だが、もう初見ではない。


 先頭の騎士が受け、俺が右へ回る。

 ガレットは少し遅らせて、外から線を作る。


 止める位置を決める。

 戻る場所を残す。


 トロル戦で覚えた言葉を、俺は何度も頭の中でなぞった。


 オークが俺へ向き直る。

 その半歩前で、ガレットの槍が脇腹へ浅く入る。


 止まる。


 そこへ俺の剣を返す。


 完全な一撃ではない。

 だが十分だった。


 膝が崩れ、体勢が落ちたところを、前の騎士が叩き切る。


「次」


 ルシア副官の声が飛ぶ。


 次の一体が岩陰から出る。


 今度は俺が正面を止め、ガレットが長く外を切る。

 穂先の置き方が前より迷わない。


 優しくなくなった、というより、躊躇が線の中に残らなくなった。


 討伐自体は長くかからなかった。


 最後の一体が倒れたあと、風だけがまた戻ってくる。


 少し離れたところで、同行していた騎士の一人がこちらを見た。


「悪くない」


 短く、それだけ言う。


 軽い口調だったが、妙に嬉しかった。


 ガレットはそれを聞くと、露骨に背筋を伸ばした。


「聞いたか」


「聞いた」


「今のは“悪くない”だったぞ」


「さっきも副官の“まし”で浮かれてただろ」


「評価は多いに越したことない」


 その時、前を向いたままルシア副官が言った。


「浮かれるのは帰ってからにして」


 俺とガレットは同時に口を閉じた。


 怒られたわけではない。

 ただ、まだ終わっていないのだと分かる声だった。


 岩場を越えた先で、牙狼の群れとも当たった。


 数は五。

 動きが速い。


 正面から来たと思った次の瞬間には、視界の外へ消えている。


 最初に一体を追いかけそうになった。


 だが、足が止まった。


 追うな。


 以前ガレットに言われた声が残っていた。


 追えば、後ろが消える。

 後ろが消えれば、戻る場所も消える。


 俺が踏みとどまった瞬間、別の一体が死角から飛び出してきた。

 そこへ、ガレットの槍が横から入る。


 危なかった。


 前なら、追っていた。

 そして、たぶん食われていた。


 俺は剣を返しながら、自分の呼吸が前より静かなことに気づいた。


 怖い。


 でも、怖さに引きずられて一本線にはなっていない。


 それは、昔の俺にはなかった感覚だった。


 討伐を終えて岩場の上で短く休息を取った時、ガレットが水袋を持ったままぼそっと言った。


「俺たち、少しはそれっぽくなってきた気がしないか」


「それっぽく、って何だ」


「副官に連れ回されても死なない兵」


「基準がおかしい」


「でも大事だろ」


 それには反論しづらかった。


 ルシア副官は少し離れた岩の上で地図を見ていた。

 風が黒髪を揺らす。


 こちらの軽口が耳に入っているのかどうかも分からない。

 だが、分かったうえで拾っていない気もする。


 ガレットがその背中を見ながら小声で言う。


「やっぱり顔いいな」


「懲りないな」


「懲りたら終わりだろ」


「何が始まってるんだよ」


「俺の中の何かが」


 呆れて水を飲みかけたところで、前方の騎士が急に顔を上げた。


「……静かすぎる」


 その一言で、場の空気が変わった。


 風は吹いている。


 だが、さっきまで聞こえていた小動物の気配がない。

 鳥も鳴いていない。

 岩場にありがちな虫の音すら、妙に遠い。


 俺も自然に立ち上がった。


 ルシア副官は、すでに地図をしまっている。


「移動する」


 短い命令だった。


 だが、その足はさっきまでより少し速かった。


 岩場を抜け、乾いた木立のあいだを進む。

 誰も口をきかない。


 風が草を擦る音だけが続く。


 地面にはところどころ、何かが抉ったような跡があった。


 最初は獣道かと思った。

 だが違う。


 幅が広い。

 深い。

 しかも、真っ直ぐすぎる。


 嫌な感じがした。


「……副官」


 ガレットが低く呼ぶ。


「何」


「あれ」


 少し先の岩肌に、黒く焦げたような痕が残っていた。


 焼け跡。


 しかも一箇所ではない。

 乾いた木の幹にも、裂けたような焦げが走っている。


 喉が、ゆっくり乾いていく。


 牙狼やオークの仕業ではない。

 トロルでもない。


 頭のどこかが、嫌でも一つの形を思い浮かべる。


 ルシア副官は立ち止まったまま、周囲を見た。


 その横顔に、初めて明確な緊張が乗ったのを見た気がした。


「下がらないで」


 いつもと同じ短さだった。

 だが、今回はその短さが逆に重かった。


 同行の騎士の一人が剣へ手をかける。


「まさか」


 もう一人が言いかけた、その時だった。


 風向きが変わった。


 熱を含んだ風だった。


 次の瞬間、木立の向こうで、何か大きなものが動く音がした。


 枝が鳴る。

 岩が擦れる。

 地面の下まで響くような、低い震え。


 俺は剣の柄を握ったまま、息を止めた。


 見えたのは最初、尾だった。


 長い。


 鱗に覆われた尾が、乾いた木立の向こうをゆっくりと薙ぐ。

 その色が、陽に照らされて鈍く返る。


 黄だった。


 土でも、砂でもない。

 もっと硬く、もっと生き物じみた黄。


 同行していた騎士の一人が、ごく低く呟いた。


「……イエロードラゴン」


 西大陸でも珍しいと聞く名だった。


 だが、珍しいかどうかなんて、その時の俺にはどうでもよかった。


 ただ分かったのは、ここまで相手にしてきたものとは、まるで違うということだけだ。


 木立の向こうで、巨大な頭がゆっくりとこちらへ向いた。


 縦に裂けた瞳。

 乾いた黄の鱗。

 口の端から漏れる、熱を帯びた息。


 その視線がこちらへ落ちた瞬間、背筋が冷えるのに、肌の表面だけが熱くなった。


 逃げろ、と本能のどこかが言った。


 けれど足は動かない。


 トロルの時の恐怖が、腹の底でよみがえる。

 逃げ道を探せ。

 戻る場所を残せ。

 前へ出るなら、生き残る場所を見失うな。


 その一瞬の静止を破ったのは、ルシア副官だった。


「隊形を取る」


 短い声が飛ぶ。


「ダイン、前に出すぎない。止める位置を一つに絞って」


「……はい!」


「ガレット、外を切る。目を逸らさないで」


「はい!」


「二人とも、私より先に死なないで」


 冗談には聞こえなかった。


 けれど、その一言で呼吸が戻った。


 俺とガレットは、ほとんど同時に構えを取る。


 目の前には、黄の巨体。


 修道院で振った木剣も、演習地で浴びた土も、ルシア副官に何度も殺された朝も、トロルの前で逃げ道を探したあの一瞬も、全部がここへ繋がっていた。


 そう思った。


   ◆


 イエロードラゴンは、すぐには動かなかった。


 木立の向こうで巨体を半ば伏せたまま、こちらを見ている。


 来ようと思えば、一息で踏み潰せる距離にいるはずなのに、先に飛びかかってはこない。

 その静けさが、余計に怖かった。


 巨大だった。


 トロルの巨体は、まだでかい魔物で済んだ。


 目の前のそれは違う。


 岩場そのものが首をもたげているみたいだった。


 黄の鱗は乾いた土の色にも似ているのに、陽が当たるたび金属みたいに鈍く返る。

 翼はたたまれている。

 それでも、広げたら木立ごと空を塞ぐのだろうと分かる大きさだった。


 喉が鳴る。


 熱い。


 距離があるのに、口の端から漏れる息だけで空気が変わる。


「来る」


 ルシア副官の声が飛んだ。


 次の瞬間、ドラゴンの前脚が地面を抉った。


 跳ぶ、というより滑るみたいだった。


 あの大きさのくせに速い。


 木立を薙ぎ払い、黄の巨体が一気に間合いを詰めてくる。

 枝が裂け、岩が弾ける音が一度に重なった。


 俺は叫ぶより先に動いていた。


 正面で受けるな。

 止める位置を一つに絞れ。


 頭の奥で、何年ぶんもの声が鳴る。


 真正面ではなく、わずかに右前へ踏み込む。


 勝つためじゃない。

 進路を少しだけ曲げるためだ。


 前脚が振り下ろされる。


 剣で受けるな。

 死ぬ。


 横へ跳ぶ。

 だが完全には逃げない。


 爪の軌道から半歩だけ外れた位置で、剣を振り上げる。

 狙うのは斬るための場所じゃない。


 視線を引く線だ。


 鱗へ当たった瞬間、嫌な手応えが腕を抜けた。


 浅い。


 だが、ドラゴンの目がこっちへ落ちる。


 その一瞬で十分だった。


 外側からガレットの槍が入る。


 今まで見たどの討伐より、あいつの槍が長く見えた。


 狙ったのは脇腹ではない。

 翼の付け根、その少し前。


 深くは入らない。


 だが、刺すより先に線を作る。


 ドラゴンの身体がわずかに開き、重心がずれる。


「下がるな!」


 俺は半ば反射で叫んでいた。


 昔なら、自分しか見えていなかった。


 今は違う。


 ガレットの位置。

 ドラゴンの首の向き。

 ルシア副官がまだ動いていないこと。

 後ろの岩場。

 逃げるならどこか。

 戻るならどこか。


 それが見えている。


 見えているから分かる。


 これはまだ決める場面じゃない。

 位置を作る場面だ。


 ドラゴンが首を振る。


 尾が来る。


「伏せろ!」


 同行の騎士の一人が叫ぶより早く、尾が岩を薙いだ。


 砕けた石が飛び、俺は腕で顔を庇いながら地面へ転がる。

 破片が肩を打つ。

 肺の空気が抜ける。


 頭を上げた瞬間、熱が見えた。


 口の奥。

 黄の歯列の向こうで、赤い光が脈打っている。


「散って!」


 ルシア副官の声が飛ぶ。


 俺は反射で横へ転がった。


 次の瞬間、さっきまでいた地面が爆ぜる。


 火炎というより、熱そのものを叩きつけられたみたいだった。

 乾いた草が一瞬で黒く縮れ、岩肌まで焦げる。


 喉が焼ける。

 熱風だけで息が詰まる。


 これを真正面から受ければ終わりだ。


 ドラゴンは火を吐き終えたあと、わずかに首を上げた。


 その隙へ、初めてルシア副官が入る。


 速い、というより、そこにいるのが当然みたいな動きだった。


 右の剣が浅く走る。

 左が返る。


 狙ったのは目でも喉でもない。


 前脚の関節。

 その内側。


 鱗と鱗の噛み合いがわずかに緩い場所へ、二度、三度、刃が入る。


 ドラゴンが吠えた。


 吠えた、と思った時には、ルシア副官はもう外へいる。


 近づきすぎない。

 深追いもしない。

 削って、離れる。


 相手がゴブリンでも、トロルでも、ドラゴンでも変わらない。

 ルシア副官の剣は、いつも必要な分だけ動く。


「ダイン!」


 呼ばれて、身体が動く。


「はい!」


「正面を切らないで。頭を上げさせて」


 一瞬だけ意味が分からなかった。


 だが、考える時間はない。


 頭を上げさせる。

 つまり、視線を上へ向けさせる。


 俺はドラゴンの正面へ出る。


 ただし、真正面ではない。

 半歩右。


 止める位置を決める。


 こっちを見ろ、と念じながら剣を振る。

 狙うのは顔ではない。

 鼻先の少し手前、視界へ入る線。


 ドラゴンの目が落ちる。


 来た。


 爪が振り下ろされる。


 さっきより速く見えた。

 だが、今度は構えていた。


 横へ逃げると同時に、空いた側からガレットの槍が伸びる。


「こっちだ!」


 ガレットが珍しく声を張る。


 穂先が顎下をかすめる。

 通らない。


 だが、それで十分だった。


 ドラゴンの首がほんのわずかに上がる。


 一瞬、俺は首へ行こうとした。


 倒すなら、あそこだ。

 斬るなら、あそこしかない。


 だが、その瞬間、ルシア副官の声が頭の奥で鳴った。


 全部を取ろうとするな。


 俺は歯を食いしばり、足をずらした。

 首ではなく、前脚の外へ。

 殺す場所ではなく、止める場所へ。


 その瞬間、ルシア副官が跳んだ。


 跳んだように見えた。


 実際にはもっと低く、もっと速い。


 岩を蹴り、空いた前脚を足場みたいに使って、一気に首の付け根へ入る。


 右が一閃。

 左が返る。


 二刀の軌道が交差した瞬間、黄の鱗のあいだから深い赤が噴いた。


 初めて、ドラゴンの巨体が大きくぶれた。


「押す!」


 同行の騎士が叫ぶ。


 俺たちも前へ出る。


 ここで退いたら戻される。


 怖い。

 怖いが、足はもう止まらない。


 俺は首の正面ではなく、傷の反対側へ回り込んだ。


 止める場所を決める。


 ドラゴンが立て直すために重心を戻す、その線上へ自分を置く。


 尾が動く。


「ガレット!」


「分かってる!」


 槍が長く伸びる。


 今度は刺さない。

 尾の根元へ打ち込み、その動きを一拍だけ遅らせる。


 その一拍のあいだに、俺は足を入れ替えて前脚の外へ出る。


 ドラゴンの体勢が崩れる。


 完全ではない。

 だが十分だ。


 ルシア副官がもう一度入る。


 今度は迷いがなかった。


 右が関節を裂く。

 左が喉下へ潜る。


 その二撃目で、とうとうドラゴンの前脚が折れたみたいに沈んだ。


 巨体が傾く。


「下がれ!」


 全員が跳ぶ。


 次の瞬間、イエロードラゴンの身体が岩場へ叩きつけられた。


 地面が揺れる。

 砂と石が顔へ飛ぶ。

 耳の奥で何かが鳴る。


 それでも終わっていない。


 ドラゴンは倒れながらも首を上げようとする。


 まだ生きている。

 まだ殺せる。


「ダイン!」


 ルシア副官の声。


「はい!」


「そこ!」


 そこ、と言われた瞬間に見えた。


 首の付け根。

 さっきルシア副官が開いた傷が、倒れた衝撃でわずかに広がっている。


 俺はもう考えなかった。


 前へ出る。

 止める。


 この瞬間だけは、そこだけでいい。


 剣を両手で握り直し、傷口へ叩き込む。


 硬い。


 だが入る。


 手首が軋み、肩が悲鳴を上げる。

 けれど引かない。


 そこへ横からガレットの槍が入る。


 押し込むんじゃない。

 逃げる線を塞ぐみたいに、傷口の外を止める。


 そして最後に、ルシア副官の二刀が落ちた。


 一撃。

 二撃。


 どちらが先だったのか、俺には分からなかった。


 ただ、次の瞬間には、イエロードラゴンの身体から力が抜けていた。


 熱い息が一度だけ漏れ、黄の瞳から光が消える。


 終わった。


 そう理解した時には、もう膝が折れていた。


 俺はその場へ崩れ、剣を地面へ突いて身体を支えた。

 腕が震える。

 喉が焼ける。

 息が荒すぎて、肺の中まで熱い。


 ガレットは少し離れた場所で膝をつき、槍に体重を預けていた。


 顔が青い。


 だが、生きている。


 俺と目が合うと、口の端だけで少し笑った。


「……今の、かなりやばくなかったか」


「今さらかよ」


「副官に恋してる場合じゃないな、あれ」


「そこはまだ残ってるのか」


「そこは残る」


 それだけ返す元気があるなら、大丈夫そうだった。


 同行の騎士たちも息を整えている。


 誰も無傷ではない。

 だが、立てない者もいない。


 それが奇跡みたいに思えた。


 ルシア副官はドラゴンの死体の前に立っていた。


 剣についた血を払い、鞘へ納める。


 いつも通りといえば、いつも通りの動きだ。


 だが、近くで見れば分かる。

 左袖が少し裂けている。

 腕にも浅く血が滲んでいた。


 あの人でも、無傷ではない。


 その事実が、逆に相手の大きさを教えてくる。


 しばらくして、ルシア副官がこちらを振り向いた。


 俺もガレットも、反射で背筋を伸ばしかけた。

 だが、座り込んだままだ。


 ルシア副官は少しだけ俺たちを見た。


 いつもの、測るみたいな視線だった。


「ダイン」


「……はい」


「前に出るだけじゃなくなった」


 胸の奥が鳴った。


「止める場所を作れてる」


 それだけで十分だった。


 次に、ルシア副官はガレットを見る。


「ガレット」


「はい」


「槍が迷わなくなった」


 ガレットは一瞬だけ言葉を失っていた。


 こいつが黙るのは珍しい。


 ルシア副官はそこで少しだけ視線を外し、最後に言った。


「次も連れていける」


 それは、今まででいちばん重い言葉だった。


 使えると言われた時より、胸の奥に沈んだ。

 前よりましと言われた時より、逃げ場がなかった。


 次も連れていける。


 それは、次の戦場で死ぬことまで含めて、俺たちを数に入れるという意味だった。


 俺は何を返せばいいのか分からなかった。


 ガレットも同じだったらしく、やっとのことで口を開く。


「……それ、かなり上の評価ですよね」


 ルシア副官は答えない。


 答えないまま、死んだドラゴンのほうへ歩いていく。


 だが、それで十分だった。


 ガレットが俺のほうへ顔を寄せる。


「なあ」


「何だ」


「俺、今少し泣きそうなんだけど」


「やめろ」


「副官に認められたぞ」


「声がでかい」


「でも認められた」


「……ああ」


 否定できなかった。


 俺は黄の巨体を見上げた。


 修道院で木剣だけを振っていた頃の俺なら、あの巨体を見ただけで動けなかったはずだ。


 今日だって怖かった。

 逃げたかった。

 死ぬかもしれないと思った。


 それでも、足は止まらなかった。


 ここまで来た。


 まだルシア副官には届かない。

 その背はやっぱり遠い。


 けれど、もう手を伸ばすことすらできない距離ではないのだと、初めて少しだけ思えた。


   ◆


 イエロードラゴン討伐の報は、思っていたより早く騎士団中へ広がった。


 話は少しずつ大きくなっていた。


 俺たちが一撃で仕留めただの、黄竜が空を覆っただの、聞くたびに尾ひれが増えていく。


 実際にはそんな綺麗な戦いじゃない。

 何度も死にかけた。

 ルシア副官がいなければ、最初の火で終わっていた。


 それでも、結果だけは残る。


 演習地での視線が変わった。

 木剣を合わせる相手の力の入れ方が変わった。

 雑に肩を叩いてくる先輩騎士の声色も、前より少しだけ違った。


 そして数日後、俺とガレットは正式に呼び出された。


 通されたのは、騎士団本棟の小広間だった。


 高い天井。

 壁にかかった王国紋。

 磨かれた床。


 修道院育ちの俺には、まだ少し場違いに思える場所だった。


 前には騎士団幹部が並び、その中央にマルコム将軍が立っていた。

 少し離れた位置にルシア副官もいる。


 いつも通り、余計なものを何も表に出していない顔だった。


「ダイン、ガレット」


 名を呼ばれ、俺たちは前へ出た。


「両名の戦働き、西方討伐での功を認める。本日付で、聖騎士の称号を与える」


 その言葉を、俺はすぐには飲み込めなかった。


 聖騎士。


 騎士団の中でも、ただ列にいる者ではない。

 前線に立ち、名を持って扱われる側の称号だ。


 隣で、ガレットが小さく息を呑むのが聞こえた。


 俺たちは帯の上に新しい徽章を受けた。


 手渡された瞬間、重みより先に、自分の立つ場所がまた一段変わったのだと分かった。


 修道院の石の寝台から、ずいぶん遠くまで来た。


 その実感が、今さらみたいに胸の奥へ落ちてくる。


 授与が終わっても、マルコム将軍はそのまま場を解かなかった。


「南が本腰を入れる」


 その一言で、小広間の空気が締まる。


 ミルヴァードが掲げ続けてきたシャルカエン奪還が、ようやく実際の兵と船の話になったのだと、その時分かった。


「こちらも段を進める。次はカルミナだ」


 壁際の副官が地図を広げる。


 大陸南端。

 その一点に視線が集まった。


「カルミナを押さえる。そこを渡りの足場にする」


 それだけだった。


 それだけなのに、ただの遠征ではないと分かる。


「出立は近い」


 将軍は俺たちを見た。


「聖騎士の名は、次の地で証明しろ」


 それで軍議は終わった。


 小広間を出たあと、しばらく俺もガレットも無言だった。


 廊下の石床を歩くたび、帯の上の徽章がわずかに揺れる。


 聖騎士。


 その言葉は、まだ身体に馴染まない。

 だが、重さだけはもう分かった。


 俺は足を止めた。


「動くんだな」


 ガレットがこちらを見る。


「何が」


「聖泉軍が」


 口に出した瞬間、胸の奥で何かが燃え上がった。


 第三期は戻らなかった。

 それでも次の列が作られた。

 俺たちはそこに入った。


 そして、その列が今度こそ前へ進む。


 カルミナを押さえる。

 船を出す。

 スマニア島へ渡る。

 その先に、シェルカエンがある。


 その名を思うだけで、喉の奥が熱くなった。


 魔族へ近づく。


 ようやく。


 本当にようやく、俺の剣が届く場所へ近づいていく。


「ダイン」


 ガレットの声で、ようやく我に返った。


「何だ」


「顔が怖い」


「……そうか」


「今、お前だけ先に行ってたぞ」


 俺は答えなかった。


 ガレットはそれ以上、踏み込んでこなかった。

 ただ、少しだけ声を落とした。


「一人で行くなよ」


 その一言だけだった。


 俺は徽章に触れた。


「分かってる」


 そう答えた。


 だが、その声がどれほど本気だったのか、自分でも分からなかった。


 一人で行かないことより、前へ進むことのほうが強かった。

 生き残ることより、届かせることのほうが強かった。


 ガレットは何か言いかけた。

 けれど、結局やめた。


「ならいい」


 短く、それだけ言う。


 俺たちはまた歩き出した。


 廊下の先に、海は見えない。

 カルミナも見えない。

 スマニア島も、シェルカエンも、永遠の泉も見えない。


 それでも俺には、もうシェルカエンへ続く一本の線が見えていた。


 その線の先に、魔族がいる。


 俺はそのことだけを、強く信じていた。


 井戸のそばで、リノは言っていた。


 弱い人を助けたい、と。


 その声を、俺は確かに覚えているはずだった。


 けれどこの時の俺が握りしめていたのは、その言葉ではなかった。


 リノの夢ではない。


 リノを奪われた朝だけだった。

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