第二章 第四期聖泉軍
第三期聖泉軍の撤退が伝えられた冬のあと、修道院の空気は少しずつ変わった。
鐘の音は同じだった。
朝の祈りも、昼の勉学も、夕方の訓練も、表向きは何ひとつ変わらない。
祈祷堂の床に刻まれた線も、食堂に出る薄い粥も、寝台の下に置かれた木剣も、そのままだった。
けれど、大人たちの声が低くなった。
エルノー神父は回廊の隅で修道騎士と話すことが増えた。
訓練場には、王都から来た騎士団の者たちが立つようになった。
彼らは教えるために来たのではない。
見ていた。
誰の足が速いか。
誰が転んでも立つか。
誰が命令を聞くか。
誰が怒りで前へ出るか。
そういう目で、俺たちを見ていた。
食後に残される年長組が増えた。
名前を呼ばれて別室へ通される者もいた。
訓練のあと、修道騎士が帳面に何かを書き込む回数も増えた。
誰もはっきりとは言わない。
だが、全員が分かっていた。
次の列が作られる。
第四期聖泉軍。
その言葉は、まだ正式には告げられていなかった。
けれど、俺の中ではもう何度も鳴っていた。
呼ばれたい。
その思いは、日に日に強くなった。
怖くないわけではない。
第三期で戻らなかった者たちの名前は、祈祷堂の壁に刻まれた。
空いた寝台もあった。
食堂で前より静かになった席もあった。
それでも、俺は呼ばれたかった。
魔族のいる場所へ近づける。
リノを奪ったものと同じ側にいる連中へ、いつか剣が届く。
そのための列に、自分も加われる。
そう思うだけで、胸の奥に残っていた火種が強くなる。
朝が来るたび、俺は木剣を握った。
鐘が鳴る前に目が覚めることも増えた。
手の皮が裂れても、腕が上がらなくなっても、止める理由にはならなかった。
振る。
前へ出る。
倒れるなら、倒れた場所から立つ。
それだけを繰り返した。
◆
「次の第四期、ついにくるぞ」
ある朝の訓練のあと、ガレットが木剣を肩に担いだまま言った。
訓練場の土は霜で少し硬くなっていた。
息を吐くと白くなる。
それでも、俺の手のひらは熱を持っていた。
「誰が言ってた」
「台所の手伝いをしてた奴が、騎士団の荷役から聞いたらしい」
「それ、途中で話が大きくなるやつだろ」
「今回は小さくなってるかもな」
ガレットは珍しく笑っていなかった。
「昨日、騎士団の連中が来てただろ。物資の確認だけじゃない。あいつら、俺たちの訓練を見てた」
「いつも見てる」
「昨日のは違う。木剣の振り方じゃなくて、誰を持っていくか見てた顔だ」
俺は木剣の柄を握り直した。
持っていく。
その言い方は好きではなかった。
けれど、間違っているとも思わなかった。
修道院に拾われた時から、俺たちはどこかへ送られるために育てられていた。
祈りも、読み書きも、訓練も、そのためにあった。
なら、ようやくその日が来るだけだ。
「お前、今ちょっといい顔したぞ」
ガレットが言った。
「どんな顔だよ」
「呼ばれたくて仕方ない顔」
図星だったので、返す言葉が少し遅れた。
「……行けるなら、行きたい」
「だろうな」
「お前は違うのか」
「行くさ」
ガレットは木剣の先で地面を軽く叩いた。
「ここまで育てられて、今さら村へ帰って畑を耕しますって顔はできない」
「村はないだろ」
「俺にはな。お前にもない」
その言い方に、少しだけ喉の奥が詰まった。
ガレットは気づいたのか、すぐに肩をすくめた。
「まあ、俺はもっと現実的だよ」
「現実的?」
「飯が増える。寝床が少しはましになる。うまくすれば従士騎士から上へ行ける。誰かに頭を下げられる側になれるかもしれない」
「それでいいのか」
「十分だろ」
ガレットは俺を見た。
「お前みたいに、聖地だの正義だの、そこまで真っ直ぐには考えてない」
「綺麗事だって言いたいのか」
「違う。強いって言ってるんだよ」
意外な言い方だった。
「ちゃんと意味があるって信じてる奴は強い。迷ってる奴より前へ出られる」
「でも、そういう奴は折れる時も派手だ」
「縁起でもないこと言うな」
「言っとくけど、俺は先に言ったからな。あとで折れても、忠告料は取る」
「何だよ、忠告料って」
「干し肉一枚」
「高いな」
「命の話をしてるんだぞ。安いくらいだろ」
俺は少しだけ息を吐いた。
ガレットはいつも、そうやって大事なことを薄く言う。
薄くしているのに、消えるわけではない。
むしろ、あとから残る。
「お前は」
ガレットがふいに言った。
「魔族を斬りに行きたいんだろ」
俺は黙った。
「否定しないのか」
「しない」
「分かりやすいな」
「悪いか」
「悪いとは言ってない」
ガレットは、少しだけ目を伏せた。
「ただ、前しか見えなくなりそうで怖いってだけだ」
「怖い?」
「お前がな」
意味が分からなかった。
魔族のほうが怖いに決まっている。
村を焼いた連中。
リノを奪った連中。
聖泉軍の人たちを名だけにした連中。
そいつらに比べれば、自分の何が怖いというのか。
そう言おうとした時、訓練場の反対側で鐘が鳴った。
いつもの終わりの鐘とは違った。
短く、乾いた音。
周りの連中もすぐにざわつく。
ガレットが低く呟いた。
「来たな」
修道騎士の一人が中央へ出てきた。
手には帳面がある。
その時点で、訓練場の空気が変わった。
修道騎士は、年長組の名前を読み上げ始めた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
そして四つ目に、俺の名前が呼ばれた。
「ダイン」
胸が鳴った。
怖さより先に、ようやく来たと思った。
続いて、ガレットの名も呼ばれる。
「ガレット」
ガレットは小さく舌打ちした。
「当たりか」
「嬉しくないのか」
「嬉しいよ。たぶん」
「ただ、腹の中が変な感じだ」
「粥のせいだろ」
「お前、こういう時だけ冗談が下手だな」
名前を呼ばれた者は十人ほどだった。
どいつも修道院ではそれなりに剣を振れる連中ばかりで、年も俺と同じか少し上くらい。
年少の子どもたちが遠巻きにこちらを見ている。
その視線には羨望があった。
少し前までの俺なら、きっと同じ目で見ていた。
今は違う。
見られる側に立っている。
列の前へ出る側に立っている。
「行け」
修道騎士が言った。
「南棟の講堂へ。遅れるな」
説明はそれだけだった。
だが、十分だった。
呼ばれた全員が、その意味をほとんど理解していたからだ。
第四期聖泉軍。
まだ正式にそう告げられたわけじゃない。
けれど、あの鐘と呼び出しの時点で、もう違う名前は考えにくかった。
◆
南棟へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。
壁にかかった聖人画。
磨かれた石床。
窓から差し込む冬の薄い光。
見慣れたはずのものが、今日は妙に遠い。
足音だけがやけに大きく聞こえる。
「なあ、ダイン」
隣を歩くガレットが、前を向いたまま声を落とした。
「何だ」
「もし本当に第四期だったら、俺、変な顔するかもしれない」
「今もしてる」
「違う。もっとひどいやつだ」
ガレットは口の端だけで笑おうとして、失敗したような顔をした。
「嬉しいのか、怖いのか、自分でも分からなくなる顔」
俺は少しだけ返事が遅れた。
「……笑うかと思った」
「笑うかもな。俺、怖い時ほど余計なこと言うから」
「知ってる」
「そこは否定しろよ」
「無理だ」
ガレットは小さく息を吐いた。
「お前はいいよな。こういう時でも、ちゃんと前を見てる」
「そんなことない」
「いや、見てる。見えてるかどうかは知らないけどな」
その言い方に、少しだけ胸が詰まった。
俺が見ているものは、本当に前なのか。
それとも、ずっとあの朝を見ているだけなのか。
燃える家。
リノの手。
何もできなかった自分。
答えは出ないまま、講堂の扉が近づいてきた。
扉の前には、見たことのない騎士が二人立っていた。
修道院付きの人間じゃない。
鎧の意匠も、佩いている剣も、普段ここで見るものより一段上だ。
騎士団本隊から来た連中だとすぐ分かった。
片方が扉を開ける。
「入れ」
講堂の中は、妙に静かだった。
正面には長机が置かれ、その後ろに数人の騎士が立っている。
修道院の神父たちもいたが、今日は彼らのほうがむしろ脇へ退いて見えた。
そして、その中央より少し右に、ひときわ目を引く女が立っていた。
背が高い。
男の騎士たちに混じっていても埋もれない。
黒髪は長く、真っ直ぐ背に流れている。
顔立ちは綺麗だった。
けれど、その綺麗さをやわらかく見せるものが何ひとつない。
目だ。
あの目のせいだと思った。
冷たいというより、先に斬ることを迷わない目をしている。
しかも腰には剣が二本あった。
講堂の空気が静かなのは、この女がいるせいなんじゃないかと、一瞬本気で思った。
「……あれか」
俺が小さく呟くと、ガレットが隣で喉を鳴らした。
「たぶん、黒髪の二刀だな」
「噂の副官か」
「睨まれたら飯の味がしなくなるってやつ」
「それは大げさだろ」
「今のところ、大げさに見えない」
そう言われて、何も返せなかった。
少し前に年長組が話していた。
第四期の編成に、若いのに異様な実力を持つ副官がいる。
マルコム将軍の右腕。
黒髪の二刀。
戦場であの女の後ろに立てば死なないが、前に立てば死ぬ。
半分は大げさだと思っていた話だ。
だが目の前の女を見た瞬間、半分では済まないかもしれないと思った。
あの人は、魔族を斬ってきた人間だ。
そう思った。
修道院の大人たちは、俺の怒りに祈りを与えた。
神父たちは、俺の憎しみに教義を与えた。
けれど、この女は違う。
祈りの匂いがしない。
剣の匂いだけがする。
この人の後ろへ行けば、俺もいつか魔族に届く。
そう思った瞬間、胸の奥の火が少し強くなった。
やがて、正面の騎士が一歩前へ出た。
「呼ばれた理由は分かっているな」
誰も答えない。
というより、答えられない。
分かっているつもりでも、口に出した瞬間、それが現実になる気がした。
「よろしい」
騎士は続けた。
「王国騎士団は、第四期聖泉軍の再編に着手する。お前たちはその候補としてここに立っている」
胸の奥が熱くなった。
やっぱりそうだった。
講堂の空気がさらに張り詰める。
隣でガレットが、ほんの少しだけ息を吸ったのが分かった。
「名誉だと思え」
騎士の声は硬い。
「同時に、責務だとも知れ。聖泉軍は志願の名を取るが、一度ここへ組み込まれれば、個人の都合で外れることはない」
その言葉に、背筋を伸ばす者もいれば、わずかに肩を強張らせる者もいた。
俺は、ただ前を見ていた。
外れることはない。
それは脅しではなく、確認だった。
でも、その時の俺にとっては、嫌な言葉には聞こえなかった。
むしろ、道がひとつに定まったような気がした。
「これより選別を行う。体格、技量、持久、規律、忠誠。すべてを見る」
そこで初めて、黒髪の女が口を開いた。
「覚悟は見ない」
声は高くなかった。
静かなのに、講堂の奥までまっすぐ届く声だった。
「前線で残るのは、覚悟がある者じゃない。死なない者」
言葉が短い。
飾りも、励ましも、熱もない。
「褒美でも名誉でもない。ただの選別」
そこで女の視線が、ひとりひとりの顔をなぞるように動いた。
自分の番が来た気がして、背中がぞくりとした。
「使えるか、使えないか。それだけ」
講堂の空気が、さらに一段冷えた気がした。
この人は、本気でそう思っている。
言葉だけじゃない。
目を見れば分かった。
ルシア。
俺はその名を、胸の奥に刻むみたいに覚えた。
◆
講堂から訓練場へ移されるまで、誰もほとんど口をきかなかった。
さっきまで隣で軽口を叩いていたガレットでさえ、今は黙って前だけを見ている。
無理もない。
第四期聖泉軍の候補だなんて、半日前までは噂でしかなかった。
なのに今はもう、俺たちは本隊の騎士たちに囲まれて歩いている。
現実になるのが、早すぎた。
冬の空気は冷たかったが、訓練場へ出た頃にはその冷たさが逆にありがたかった。
頭が妙に熱を持っていたからだ。
修道院の訓練場より、ひと回り広い。
地面は固く均され、柵の外には騎士団の兵が何人も立っていた。
見物というより監視に近い。
候補生を眺める目じゃない。
値踏みする目だ。
「二列に分かれろ」
命じられて、俺たちは左右へ分かれた。
長机の前に立っていた騎士が一歩出る。
「これから基礎の確認を行う。構え、踏み込み、持久、反応。順に見る」
そこで言葉が切れた。
代わりに、ルシアが前へ出た。
歩幅は大きくないのに、やけに早く見える。
腰の二本の剣はまだ抜かれていない。
それでも、彼女が訓練場の中央へ立った瞬間、空気の張り方が変わったのが分かった。
「まず見るのは癖」
平坦な声だった。
「剣が上手いかどうかは、そのあと」
俺の隣で、誰かが小さく唾をのむ音がした。
「名前を呼ばれた者から前へ」
最初に出たのは、俺たちの中でも体格のいい年長者だった。
十六か十七くらい。
木剣の扱いもそこそこ上手く、修道院では強いほうに入る。
そいつが構えるのを、ルシアは少し離れた位置から見ていた。
「踏み込んで」
男が踏み込む。
悪くない。
少なくとも俺にはそう見えた。
「もう一度」
二度目。
三度目。
ルシアは一歩も動かず、ただ見ている。
「終わり」
男が木剣を下ろす。
「遅い。肩が先に出る。目線で次が読める。三手で死ぬ」
訓練場がしんとした。
言い方があまりにも淡々としていて、逆に言葉の重さだけが残った。
「次」
次の候補生が出る。
また見られる。
また切られる。
「握りが深い」
「足が浮く」
「迷いが一拍ある」
「前へ出たいのに、死ぬことは嫌がっている」
言葉はどれも短い。
短いのに、逃げ道がない。
褒められる者はほとんどいなかった。
いや、褒めるという行為そのものが、この場に存在していなかった。
「次。ダイン」
名を呼ばれて、身体が先に動いた。
中央へ出る。
木剣を握る手は、思っていたより落ち着いていた。
緊張していないわけじゃない。
ただ、ここで引くほうがもっと嫌だった。
「構えて」
俺は正眼に構えた。
ルシアの視線が刺さる。
冷たいというより、重さのない刃で皮膚だけ薄くなぞられている感じがした。
「踏み込んで」
一歩、出る。
「もう一度」
二度目。
三度目。
「止まって」
俺は木剣を下ろした。
ルシアは少しだけ俺を見たまま黙っていた。
ほんの一息。
けれど、その沈黙のほうが、さっきまでの誰への言葉より長く感じた。
「目は逃げない」
それが最初の一言だった。
胸の奥が、わずかに熱くなる。
「でも、殺しに急ぐ」
その熱が、すぐに冷えた。
「踏み込みは悪くない。前へ出る足もある」
ルシアは俺の足元を見た。
「でも、三手目から雑。残ることより、当てることを先に選ぶ」
俺は何も言えなかった。
リノの顔が、一瞬だけ浮かんだ。
魔族の刃も。
あの時、何もできなかった自分も。
「焦る?」
不意に聞かれて、言葉に詰まる。
「……はい」
「正直でいい」
褒められたとは思わなかった。
ただ、嘘をつかなかったことは切られなかったらしい。
「怒りは前へ出る力になる」
ルシアの声は変わらない。
「でも、怒りだけで前へ出る者は、最初に死ぬ」
胸の奥を、まっすぐ突かれた気がした。
「次」
それで終わりだった。
戻る途中、ガレットがごく小さく囁いた。
「生きて戻ったな」
「褒められてない」
「でも、三手で死ぬとは言われなかった」
「……それで喜べって?」
「あの人相手なら十分だろ」
その軽口に少しだけ息が抜けたが、視線はまだ訓練場の中央へ向いていた。
次はガレットだった。
「ガレット」
「はい」
ガレットは木剣を持つと、いつもの軽さを少しだけ消した。
肩の力が抜け、足の置き方が細くなる。
普段は口ばかり動いているように見えるが、こういう時のガレットは違う。
「構えて」
ルシアの声。
ガレットが構える。
「踏み込んで」
踏み込みは、俺より軽い。
けれど、不思議と遅く見えない。
「もう一度」
二度目。
三度目。
ルシアはしばらく黙っていた。
「逃げ足はいい」
訓練場の空気が一瞬だけ変な形で揺れた。
ガレットが何か言いたそうな顔をしたが、言わなかった。
「間合いを見る目もある。自分が死ぬ場所を避ける勘もある」
ガレットの顔が、ほんの少しだけ明るくなる。
「でも、助ける時に甘い」
すぐに消えた。
「自分は生き残る。味方も拾おうとする。でも、相手を殺す線になっていない」
「それでは、いつか一緒に死ぬ」
ガレットは唇を結んだ。
「……はい」
「次」
それで終わりだった。
戻ってきたガレットは、少しだけ肩を落としていた。
「逃げ足はいいって言われた」
「褒められたんじゃないのか」
「褒められてる気がしない」
「俺もだ」
「俺たち、仲良く斬られたな」
ガレットはそう言って、苦く笑った。
次々に候補生が呼ばれ、削られていく。
木剣を一度振るだけで、何が足りないか言い当てられる。
剣の技術だけじゃない。
性格まで見透かされているようで、見ているこっちまで落ち着かなかった。
◆
訓練の後半、騎士の一人が木剣を二本持って前へ出た。
「ルシア」
短く呼ぶ。
ルシアは無言で片方を受け取った。
いや、受け取ったと思った次の瞬間には、もう両手に木剣があった。
「候補生には、見たほうが早い」
そう言って、さっきまで説明役だった騎士が構える。
訓練場の空気が変わった。
見物していた兵たちがわずかに位置をずらす。
候補生の誰も、もう口をきかない。
「始め」
声と同時だった。
騎士が踏み込む。
速い。
修道院の訓練相手とはまるで違う。
木剣の先が真っ直ぐルシアの喉元を狙う。
――のに。
次の瞬間には、その剣は外れていた。
いや、外されたんじゃない。
そう見えた時には、もうルシアの右手の木剣が騎士の手首を打ち、左手が首元へ止まっていた。
終わりだった。
あまりにも早くて、最初の一手がどこで切れたのか分からない。
騎士が一歩下がる。
今度は横へ回るように踏み込む。
また速い。
でも、やっぱり遅い。
ルシアは大きく動かない。
必要なぶんしか動かない。
なのに相手だけが勝手に遅れていくみたいだった。
右が弾く。
左が止める。
右が打つ。
その全部が、ひどく静かだ。
派手じゃない。
綺麗ですらないかもしれない。
でも、強い。
生き残るためだけに削っていって、最後に残った剣、という感じがした。
三合目で、騎士の木剣が地面に落ちた。
甲高い音が鳴る。
ルシアは木剣を下ろした。
「今のが基準」
息も乱れていない声だった。
「遅いなら届かない。重いなら間に合わない。迷うなら死ぬ」
誰も何も言えない。
「以上」
それだけで、見せるべきものは全部見せ終えたみたいに、ルシアは後ろへ下がった。
俺はしばらく呼吸を忘れていた。
あれが魔族を斬る剣なのだ。
そう思った。
あそこまで行けば、自分は奪われる側ではなくなる。
あそこまで行けば、あの朝に動けなかった手も、何かを返せるかもしれない。
強い、なんて言葉じゃ足りない。
あの人は、戦う前からもう勝つ側に立っている。
そんな感じがした。
◆
その日の夕方、名前を呼ばれたのは六人だった。
最初に講堂へ入った時は十人いた。
そこから半日で四人が落とされたことになる。
落とされた連中は、泣きもしなかったし騒ぎもしなかった。
ただ、顔だけが妙に白かった。
悔しそうな者もいた。
けれど、どこかで息を吐いた者もいた。
選ばれずに済んだ。
そんな顔に見えた。
俺には、それが分からなかった。
外れずに済んだことに、なぜ安堵するのか。
せっかく前へ出る列が近づいたのに、どうして息を吐けるのか。
俺とガレットは残った。
それだけで、頭の中がまだ少し熱かった。
「残ったな」
ガレットが言った。
「ああ」
「お前、嬉しそうだな」
「嬉しくないのか」
「嬉しいさ」
ガレットは腰に手を当てて、落とされた者たちの背中を見た。
「でも、あっちの顔を見ると、ちょっとだけ分からなくなる」
「何が」
「どっちが運がいいのか」
俺は答えなかった。
そんなことを考えたくなかった。
名前を呼ばれた六人は、修道騎士に連れられて礼拝堂へ向かった。
夕方の礼拝はすでに終わっている時間だったが、扉の向こうには灯りが残っていた。
石造りの堂内は昼より冷える。
長椅子の並ぶ先、祭壇の奥には聖印が掲げられていた。
黒い幕の上に、銀で縁取られた印が浮かんでいる。
球体。
その上を、斜めに輪が巡っていた。
オーブが国を表し、輪が泉を表す。
王国は泉を守る。
王国は泉を抱く。
王国は泉を失わない。
教え方によって、少しずつ意味が変わる印だった。
「膝を」
六人そろって、石床に膝をつく。
冷たい。
布越しでもはっきり分かる冷たさだった。
正面の司祭が、手にした書を開く。
「汝らは本日、王国騎士団附属施設の庇護下にある孤児にあらず」
声は低く、よく通った。
「汝らは本日より、王国の剣である」
その言葉に、胸の奥が少しだけ縮む。
庇護下にある孤児にあらず。
言い方は厳しい。
だが同時に、それは“子どもではなくなった”という宣告にも聞こえた。
「汝らは誓うか。王国に剣を捧げることを」
「誓います」
「汝らは誓うか。聖印の下に命を置くことを」
「誓います」
「汝らは誓うか。命を惜しまず、命令に背かず、聖泉軍の列を乱さぬことを」
そこで、ほんの一瞬だけ喉が詰まった。
命令に背かず。
それは当然のことのはずだった。
なのに、その一文だけが、他より重く聞こえた。
「……誓います」
それでも、声には出した。
後ろの従者たちが、細長い箱を六つ運んでくる。
箱の蓋が開かれた。
中に納められていたのは、帯だった。
黒地に赤。
深い黒の布地に、縁を這うように赤が走っている。
派手な色ではない。
けれど、礼拝堂の灯りの下では妙に目を引いた。
黒が闇みたいに沈み、その上の赤だけが血のように浮いて見える。
帯の留め具には、聖印が刻まれていた。
球体を、斜めの輪が巡る。
国と泉を、ひとつの印に閉じ込めたかたち。
「ダイン」
呼ばれて、立ち上がる。
祭壇の前へ進む。
司祭ではなく、エルノー神父が帯を手に取った。
「ダイン」
「はい」
「お前がここへ来た日のことを、私は覚えています」
胸がどくりと鳴る。
「泣き声も出せず、ただ歯を食いしばっていた」
神父の声は静かだった。
「その歯を、今日は別のために食いしばれ」
そう言って、帯が差し出された。
両手で受け取る。
見た目より重い。
布の重さじゃない。
もっと別のものが乗っている感じがした。
「お前の中にある火を、剣の中へ置きなさい」
神父は俺だけに聞こえる声で言った。
「身体の中で燃やし続ければ、お前が先に焼けます」
俺は帯を握った。
「……はい」
「汝は王国の剣なり」
「汝は泉を守る列の一つなり」
そして、俺の腰へ帯を回した。
黒地に赤の帯が、衣の上から締められる。
留め具がはまる、小さな金属音がした。
たったそれだけなのに、何かが決定的に変わった気がした。
もう孤児院の子どもじゃない。
王国に拾われただけの者でもない。
王国の剣。
その言葉が、胸の中で何度も鳴った。
リノを助けられなかった手が、ようやく剣を持つことを許された。
父さんと母さんを奪ったものへ、いつか届く列に入った。
守る者になったのだとは、まだ思わなかった。
ただ、斬り返すことを許されたのだと思った。
列へ戻る時、ガレットと目が合った。
あいつはまだ呼ばれていないのに、すでに少し笑っていた。
五人目で名前が呼ばれる。
「ガレット」
「はい」
あいつは俺よりずっと軽い足取りで前へ出た。
緊張していないわけじゃないだろうに、そう見せないのが上手い。
帯を受け取る時だけ、少しだけ顔が締まる。
戻ってきた時のガレットは、軽口の延長にはいなかった。
「……重いな」
ぽつりと言う。
「帯か」
「帯も。たぶん、それ以外も」
六人すべてに授与が終わると、司祭が最後の祈りを捧げた。
王国のために。
泉のために。
列のために。
そして、まだ名もない死者たちのために。
祈りの言葉はきれいだった。
きれいすぎるくらいに。
そのきれいさの中へ、俺たちは今、きれいに収められたのかもしれないと、ほんの一瞬だけ思った。
だが、その考えは帯の重みが腰に馴染むより早く消えた。
ここまで来たのだ。
選ばれて、見られて、帯を受けた。
もう戻る場所はない。
いや、最初から戻るつもりなんてなかった。
◆
礼拝堂の扉が開くと、外には夜の冷たい空気があった。
黒地に赤の帯が、腰に重く残っている。
俺はもう、修道院の子どもではなかった。
王国に拾われた孤児でもなかった。
王国の剣。
その言葉を、何度も胸の中で繰り返す。
ガレットが隣で、自分の帯を軽く叩いた。
「重いな、これ」
「ああ」
「逃げられなくなった感じがする」
「逃げる気があったのか」
「少しはな」
ガレットはそう言って、笑った。
「お前は?」
俺は答えなかった。
逃げるという考えはなかった。
むしろ、ようやく進めると思っていた。
魔族のいる場所へ。
リノを奪ったものと同じ側へ。
あの朝の続きを終わらせる場所へ。
俺は黒地に赤の帯を握った。
その時、礼拝堂の前の石畳に騎士たちの足音が響いた。
俺たち六人は、自然に姿勢を正した。
月明かりの下、数人の騎士が近づいてくる。
その先頭に立つ男を見た瞬間、周囲の空気が変わった。
マルコム将軍。
噂で何度も聞いた名だ。
第三期で崩れた隊をまとめ、負傷者を連れて帰った英雄。
魔族に奪われるだけで終わらなかった人。
その人が、目の前にいた。
大柄ではない。
だが、立つだけで周囲の視線を集める男だった。
鎧は派手ではないのに、妙に目を引く。
顔には穏やかな笑みがある。
けれど、その奥にあるものまでは見えない。
マルコム将軍は、俺たちを一人ずつ見た。
「選ばれたか」
低い声だった。
「はい」
誰かが答えた。
自分の声だったのかもしれない。
将軍は小さく頷いた。
「ならば、誇れ」
胸の奥が鳴る。
「だが、誇りだけで前線に立つな。誇りは腹を満たさない。仲間も運べない。死んだ者を起こすこともできない」
その言葉に、全員が黙った。
「剣を持て。祈りを忘れるな。だが、それだけでは足りん」
「残れ」
「戻れ」
「列を次へ渡す前に、お前たち自身が列を進めろ」
マルコム将軍の視線が、俺の上で一瞬止まった気がした。
気のせいかもしれない。
それでも、息が詰まった。
「第四期聖泉軍は、まだ始まったばかりだ」
将軍は言った。
「お前たちの剣が何に届くかは、これから決まる」
それだけ言うと、マルコム将軍は踵を返した。
騎士たちの足音が遠ざかっていく。
俺はしばらく動けなかった。
あの人が戻ってきた人なのだと思った。
魔族に奪われるだけで終わらず、崩れた列を連れて帰った人。
死んだ者の名だけでなく、生きた者を戻した人。
俺は、あの背に続く列に入った。
「すごいな」
ガレットが小さく言った。
「何が」
「噂の人って、だいたい実物を見ると少し小さくなるだろ」
「ああ」
「あの人は、少し大きくなった」
珍しく、ガレットが茶化さなかった。
俺も同じことを思っていた。
マルコム将軍の背はもう見えない。
それでも、そこにまだ何かが残っている気がした。
ガレットがもう一度、自分の帯を叩いた。
「俺たち、本当に行くんだな」
「ああ」
「怖くないのか」
俺は少しだけ考えた。
怖くないわけではない。
でも、それより強いものがある。
「怖いより、近い」
「何が」
「魔族が」
ガレットは俺を見た。
何かを言いかけて、やめた。
「そうか」
それだけ言った。
俺は夜の空を見上げた。
修道院の屋根の向こうに、星が少しだけ見える。
あの向こうに王都があり、さらに向こうに戦場がある。
その先にシェルカエンがあり、永遠の泉があり、魔族の都がある。
遠い。
けれど、もう届かない場所ではない気がした。
俺は腰の帯を握った。
黒地に赤。
王国の剣の証。
その夜、俺は初めて、自分が本当に第四期聖泉軍の一人になったのだと思った。
奪われた朝は、まだ終わっていない。
けれど、その続きを歩くための列に、俺は立った。




