第十七章 残された光
私たちは、同じ闇の中に立っていた。
ヘルザ。
ヘルド。
ミーナ。
ペルナ。
シド。
ネローラン。
そして、私。
別の時から来た、もう一人のミーナ。
そこは、ただ暗いだけの場所ではなかった。
水面のようでもあり、夜空のようでもあり、誰かの心の底のようでもあった。
私は知っている。
これは、私の中にあったものだ。
私が見てきた未来。
私が失ったもの。
私が変えようとして、変えられなかったもの。
そして、たった一本の亀裂から現れた、知らない光。
それは誰かへ向けた告白であり、同時に、私自身への弔いでもあった。
そのすべてを、ここにいる者たちは聞いた。
私が語り終えても、誰もすぐには動かなかった。
言葉を見つけられなかったのだと思う。
シドでさえ、わずかに目を伏せていた。
その沈黙を破ったのは、ヘルザだった。
「……あなたは」
声が震えていた。
けれど、それは恐怖ではなかった。
「あなたは、ミーナ様なのですか」
私はヘルザを見た。
懐かしい顔だった。
私を叱った人。
私を抱きしめてくれた人。
私の中にあるものを恐れながらも、それでも最後まで私から目を逸らさなかった人。
その人が、いま生きて、私の前にいる。
それだけで、胸の奥に沈んでいた黒が、少しだけほどける気がした。
「そう」
私は答えた。
「でも、あなたの知っているミーナではないわ」
その言葉を口にした時、闇の奥で何かが揺れた。
憎悪。
私から取り出された力によって、シェルカエンは滅び、かつてそこに祖国があったことさえ、歴史の中から削られていった。
シドを見れば疼く。
ネローランを見れば、血が沸く。
私からすべてを奪った者たちが、目の前にいる。
殺せる。
いまなら、殺せる。
この場所なら、肉体も、軍も、城壁も関係ない。
望めば、二人の精神を引き裂ける。
ヘルザも、祖国も、今度こそ失わずに済む。
そう思った瞬間、ペルナがわずかに身を強張らせた。
私の黒に気づいたのだ。
ペルナは何も言わなかった。
けれど、その目が言っていた。
それを選ぶのか、と。
私は、シドを見た。
白い髪。
乾いた目。
人を見ているようで、人を見ていない目。
この男は、私を壊した。
「シド」
名を呼ぶと、男は顔を上げた。
恐れてはいなかった。
やはり、と思う。
この男は、自分の死さえ現象として見ている。
「あなたを殺したいと思っていた」
「でしょうね」
平然と返された。
ヘルザの眉が怒りに歪む。
シドは、しばらく黙っていた。
闇の中でさえ、その目だけは変わらない。
恐怖でも、悔恨でもない。
ただ、理解しようとする目。
未知を測る目。
やがて、彼は静かに言った。
「この力は、単なる魔力ではない」
「時間への干渉を含む。意識の保存、分岐した可能性への接続、そして過去への干渉」
「抽出しても、完全に制御できるとは限らない」
その声に、ペルナが顔を歪めた。
「今それを聞いて、まだ研究の話をするの?」
「私は研究者です」
シドは当然のように答える。
「ですが、結論は出ました」
ネローランがわずかに眉を動かした。
「シド殿」
「漆黒魂の抽出は断念します」
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
ヘルザが息を呑む。
ペルナが目を見開く。
幼いミーナは意味を理解しきれていないように、ただ私を見ていた。
ネローランだけが、シドを見ていた。
「よろしいのですか」
「ええ」
シドは淡々と頷いた。
「ヘルザを殺せば、時間軸の異なるミーナが完全に表層化する」
「その時点で、私は殺されるでしょう」
「仮に抽出に成功したとしても、彼女は再び過去へ干渉する」
「結果を固定できない」
「兵器としては、不安定すぎます」
腹立たしいほど冷静な結論だった。
救いではない。
慈悲ではない。
後悔でもない。
ただ、使えないと判断しただけ。
「研究対象としては興味深い」
「ですが、兵器としては失敗です」
その言い方が、あまりにもシドらしかった。
この男は、最後まで誰かの痛みを理由にはしない。
誰かの涙で手を止めることもない。
ただ、計算が合わなくなったからやめる。
それでも、今はそれでよかった。
「シェルカエンへの侵攻準備も停止します」
シドは続けた。
「漆黒魂なしに、現時点でシェルカエンを落とすのは不可能です」
「兵力、技術、補給。どれを取っても割に合わない」
「王にも、そう進言します」
ネローランは目を伏せた。
「承知しました」
そのやり取りは、ひどく乾いていた。
けれど、その乾いた言葉の向こうで、確かに何かが変わっていくのを私は感じた。
ペルナが、シドを睨んだまま言う。
「それで終わり?」
「あなたがしたことは、終わりになるの?」
「終わりにはなりません」
シドは答えた。
「ですが、続ける理由もなくなりました」
「最低ね」
「よく言われます」
ペルナは拳を握った。
殴りかかるかと思った。
けれど、彼女はそうしなかった。
きっと、殴れば少しは気が晴れる。
けれど、それで何かが救われるわけではない。
彼女はそれを分かっていた。
ヘルザの手が、小さなミーナの肩を抱く。
幼いミーナは、何も言えずに私を見ていた。
怖がっている。
混乱している。
それでも、目を逸らしてはいなかった。
私は、その子に微笑もうとした。
うまくできたかは分からない。
けれど幼いミーナは、笛を胸に抱いたまま、小さく微笑み返した。
私は、もう一度シドを見る。
「約束して」
「約束という言葉に、研究上の拘束力はありません」
「なら、誓って」
「それも似たようなものです」
ヘルザの目が怒りに細くなる。
けれど、シドは続けた。
「ですから、結果で示します」
「漆黒魂の抽出手順は破棄します」
「対象、ミーナ王妹は解放」
「関連研究は凍結」
「スマニア島からの撤退も進言します」
胸の奥で、何かが静かに崩れていくのを感じた。
怒りではない。
黒でもない。
長い間、私を支えていたものが、役目を失っていく感覚だった。
私は、幼いミーナを見た。
この子は、まだ何も知らない。
けれど、もうすべてを失う未来からは外れた。
それでいい。
いいのだと、思いたかった。
その時、闇の奥から、かすかな笑い声がした。
「ようやく、決めたんだね」
ヘルドだった。
彼女はヘルザの隣に、いつの間にか立っていた。
黒い髪。
気だるげな目。
どこか私に似ていて、どこかヘルザにも似ている。
ヘルザが、驚いたように彼女を見る。
「あなたは……」
「さあね」
ヘルドは肩をすくめた。
「面倒な居候だった、ってことでいいんじゃない?」
私はヘルドを見る。
私が過去へ落とした小さな違和感。
ヘルザの中に沈めた、もう一つの私。
けれど長い時間をヘルザとともに過ごすうちに、たぶん彼女は私だけではなくなっていた。
「ありがとう」
私が言うと、ヘルドは嫌そうに顔をしかめた。
「そういうの、似合わないよ」
「でも、言わせて」
「勝手にすれば」
ヘルドはそっぽを向く。
その横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
闇が薄れ始めた。
水音が遠くなる。
精神世界が閉じようとしている。
幼いミーナが、私を見上げた。
「あなたは……消えるの?」
小さな声だった。
私は膝を折り、その子と目を合わせた。
リアムがそうしたように。
「まだ、少しだけ残るわ」
「少しだけ?」
「ええ」
私は微笑んだ。
「でも、もうあなたを縛らない」
「あなたは、あなたの未来を生きて」
幼いミーナは、分かったような、分からないような顔で私を見る。
その顔が、あまりにも幼くて。
あまりにも生きていて。
私は、泣きそうになった。
「ヘルザもいる」
「にいさまもいる」
「あなたに手を伸ばしてくれる人たちもいる」
だから。
「大丈夫」
そう言った瞬間、闇の中に細い光が差した。
亀裂のような光だった。
かつて私が過去へ入れた、小さな傷。
けれど今、その亀裂はただの傷ではなかった。
そこから、未来が差し込んでいた。
世界が白くほどけていく。
私たちは、現実へ引き戻された。
*
最初に戻ってきたのは、冷たい床の感触だった。
膝が床に触れている。
アダマンタイトの部屋。
鈍い灰色の壁。
寝台。
散らばった魔封石。
すべてが元の場所にあった。
けれど、空気だけが違っていた。
さっきまで部屋の中を満たしていた圧が消えている。
ミーナの内側から溢れていた、あの巨大すぎる魔力の揺れも、肌を刺すような黒い気配も、いまは静かだった。
完全に消えたわけではない。
ただ、沈んだのだ。
暴れ狂う水が、深い湖の底へ帰ったように。
「……ミーナ様」
ヘルザが震える声で呼ぶ。
ミーナは、ヘルザの腕の中にいた。
笛を胸に抱きしめ、目を閉じている。
気を失っているのではない。眠っているだけだと、ヘルザにはすぐ分かった。呼吸は浅いが、乱れてはいない。
その頬に、涙の跡が残っていた。
「ヘルザ……」
ミーナが小さく呟いた。
「ここにおります」
ヘルザは、ミーナを強く抱きしめた。
強く。
けれど、痛くしないように。
「もう、大丈夫です」
「もう、お一人にはしません」
その声は、医師の声ではなかった。
王宮に仕える者の声でもない。
ただ、失いかけた子どもを抱く者の声だった。
ペルナはその光景を、少し離れた場所から見ていた。
身体の震えが止まらない。
さっきまで自分の内側を這っていた黒いものが、急に遠くなった気がする。
青黒い痣はまだ残っている。痛みもある。
けれど、それまでずっと身体の内側を削っていた感覚だけは薄くなっていた。
まるで、誰かが穴を塞いでくれたみたいだった。
「……私」
ペルナは自分の手を見る。
右手。
ネローランの義手を断ったはずの手。
恐ろしい力だった。
自分のものではないと分かるほど、冷たく、深く、黒い力。
でも、その力はリアムを救った。
ミーナを守った。
そう思うと、怖いだけでは済まなくなった。
「ペルナ・モーラン」
声がした。
振り向くと、ネローランが立っていた。
修復された右腕は、まだどこか動きが硬い。
彼女はペルナを一瞥した。
「家名を理由にお前を選ばなかった元老院どもは、見る目がなかったな」
ペルナは疲れた顔で笑う。
「ええ。そうしていれば、あなたの腕も飛ばずに済んだわね」
「減らず口は健在か」
「ダインたちに向かわせた部隊を引かせる」
ネローランはそれだけ言って、歩き去った。
残されたペルナは、小さく息を吐いた。
「……ほんと、嫌な女」
でも、その声に以前ほどの棘はなかった。
シドはすでにこちらを見ていなかった。
机の上の紙片へ、何かを書きつけている。
この男は、きっと悔いてはいない。
自分が何をしたのかを、罪として数えることもないだろう。
それでもよかった。
今は。
少なくともこの時代では、シェルカエンは滅びない。
ミーナは漆黒魂を奪われない。
ヘルザは、目の前で殺されない。
それだけで、十分だった。
*
城の地下から地上へ出るまで、シドは同行しなかった。
代わりに白い法衣の術師が二人、無言で道を開けた。
来た時とは違う道だった。
長い廊下。
階段。
また扉。
そのどれもが、さっきまでとは違って見えた。
閉じ込めるための道ではなく、外へ出るための道になっている。
それだけで、ヘルザの胸は何度も詰まりそうになった。
ミーナは歩けた。
けれど、ヘルザは手を離さなかった。
ミーナもまた、離そうとはしなかった。
ペルナは、少し後ろを歩いている。
顔色は悪い。足取りも不安定だ。
けれど、背筋だけは曲げていなかった。
地上へ近づくにつれ、空気が変わる。
冷たい石の匂いが薄れ、外の風が混じる。
灯りの色も、少しずつ明るくなる。
最後の扉を抜けた時、空が見えた。
夕暮れだった。
赤く染まった雲が、城壁の上をゆっくり流れている。
ミーナは立ち止まった。
長い銀髪が、風に揺れる。
彼女は、何も言わない。
ただ、空を見ていた。
ヘルザは、その横顔を見つめた。
この子は生きている。
それだけが、今はすべてだった。
「ミーナ様」
呼ぶと、ミーナはゆっくりヘルザを見上げた。
「かえれるの?」
細い声だった。
ヘルザは、すぐには答えられなかった。
帰れる。
そう言いたかった。
けれど、その言葉の重さが、喉で詰まった。
それでも、答えなければならない。
「はい」
ヘルザは頷いた。
「帰りましょう」
「シェルカエンへ」
ミーナの目に、また涙が浮かんだ。
今度は、叫びではなかった。
静かな涙だった。
その時、遠くで金属音がした。
ヘルザが身構えるより早く、誰かがこちらへ走ってくる。
「ペルナ!」
リアムだった。
髪は乱れ、服にも血と埃がついている。
それでも、自分の怪我など気にも留めていないように、一直線に駆けてきた。
ペルナが顔を上げる。
「リアム……」
リアムはペルナの前で急に足を止めた。
抱きしめるつもりだったのかもしれない。
でも、彼女の顔色を見て、途中で手が止まった。
「お前、ひどい顔してる」
「第一声がそれ?」
「だって本当だろ」
「あなたも大概よ」
そう言って、ペルナは少しだけ笑った。
リアムは、そこでようやく息を吐いた。
「生きてるな」
「見れば分かるでしょ」
「分かるけど、確認したかった」
その言葉に、ペルナは黙った。
リアムも、それ以上は茶化さなかった。
ただ、そっとペルナの肩へ手を添えた。
その仕草があまりにも不器用で、ヘルザは少しだけ目を伏せた。
若い。
危うい。
けれど、そこには確かに光があった。
少し遅れて、別の足音が来る。
「ヘルザ!」
ダインだった。
胸や腕に包帯を巻き、まだ歩くたびに痛むはずなのに、彼はほとんど駆けるように近づいてきた。
その後ろには、ガーランドとフーリエがいる。
さらに少し遅れて、ガレットとルシアも姿を現した。
ガレットは脚を引きずりながら笑い、
ルシアは何も言わず、ただミーナとヘルザの無事を確かめるように見つめていた。
フーリエの肩には新しい包帯。
ガーランドの鎧にも傷が増えていた。
ガレットも脚をかばっている。
けれど、皆、生きていた。
「ミーナ様……」
ガーランドが膝をつく。
フーリエもまた、深く頭を下げた。
ミーナは、ヘルザの手を握ったまま、少し戸惑ったように二人を見ていた。
「ガーランド」
「フーリエ」
名前を呼ぶ声に、フーリエの顔が崩れかけた。
けれど彼女はすぐに微笑を作る。
「はい、姫様」
「お迎えが遅くなりました」
ガーランドは低く言った。
「申し訳ございません」
ミーナは首を振った。
小さく。
「きてくれた」
その一言だけで、ガーランドの表情がわずかに歪んだ。
強い騎士の顔が、一瞬だけ兄のような、父のようなものに変わった。
ダインは、少し離れたところで立ち止まっていた。
近づきたいのに、近づけない。
そんな顔だった。
当然だ。
彼はミーナを攫った側にいた。
ヘルザを斬った者たちと同じ場所にいた。
いまさら、どんな顔で姫の前に立てばいいのか分からないのだろう。
ヘルザは、その迷いを見た。
そして、ミーナの手を引いて、ダインの前へ進んだ。
ダインが慌てて姿勢を正す。
「俺は……」
声が掠れていた。
「ミーナ様、俺は――」
ミーナはダインを見上げた。
じっと。
しばらく見ていた。
そして、小さな声で言った。
「ヘルザを、つれてきてくれた人?」
ダインの顔が、泣きそうに歪んだ。
「……ああ」
それ以上は言えなかった。
ミーナは笛を握りしめる。
「ありがとう」
その言葉は、赦しではなかった。
罪が消えたわけでもない。
過去が変わったわけでもない。
それでも、ダインはその一言を受け取った。
深く、深く頭を下げた。
「ありがとう……ございます」
その肩が震えていた。
*
それから、世界は少しずつ動いた。
ミルヴァード王は、シェルカエン奪還作戦の一時休止を正式に発令した。
表向きの理由はいくつも並べられた。
補給線の再編。
スマニア島統治の困難。
南大陸内部の軍備見直し。
魔族側との不要な大規模衝突を避けるため。
どれも嘘ではない。
けれど、本当の理由でもなかった。
本当の理由は、シドが侵攻に意味はないと判断したことだった。
ミルヴァードの王でさえ、シドの言葉を無視できなかった。
彼は宮廷魔術師の中でも黒金の法衣を許された、最上級の知性だった。
魔力を持たない代わりに、あらゆる魔法を外側から理解し、王国の技術と軍事を支えてきた男。
そのシドが、漆黒魂を諦めた。
ならば、侵攻計画は支柱を失う。
スマニア島からも、人類側の軍は撤退した。
ドーンヘルムも、結果として兵を引かざるを得なかった。
もっとも、ドーンヘルムの中からシェルカエン奪還の思想が消えたわけではない。
聖地。
奪われた土地。
取り戻すべき場所。
そう信じる者たちは、まだ多くいた。
けれど、すぐに軍を動かす力はなくなった。
マルコム将軍はドーンヘルムへ帰国した。
そして、将軍の座を退いた。
表向きには、心身の不調。
戦場での疲労。
極秘任務の責任。
いろいろな理由が語られた。
けれど、本当のところは分からない。
ただ一つ確かなのは、彼がもう前線に立たなくなったことだった。
*
リアムは、ミルヴァードに残ることを選んだ。
王家の血を引く者として。
それまで忌み子と呼ばれ、逆腹と蔑まれ、都合のいい危険な任務へ投げ込まれてきた少年は、今度は自分の意思でその血を使うことにした。
「俺がここに残らないと、また誰かが勝手に始めるだろ」
彼はそう言った。
乱暴な言い方だった。
けれど、その言葉の底にある覚悟を、ペルナは分かっていた。
「一人で格好つけないでよ」
ペルナは言った。
「あなた、放っておいたらすぐ無茶するんだから」
「じゃあ、見張っててくれよ」
「言われなくても、そうするわよ」
そうしてペルナも、リアムのそばに残った。
彼女の奥に沈んでいた闇は、静かに眠りについた。
そして、身体に浮かんでいた青黒い痣も、時間とともに消えていった。
完全に元通りではない。
記憶も、痛みも、残る。
けれど、彼女は生きていた。
生きて、リアムの横で、嫌味を言いながら彼を支え続けた。
*
ダインは、ガーランドの誘いを受けなかった。
ガーランドは一度だけ言った。
「お前の剣は、シェルカエンでも役に立つ」
「望むなら、私の部隊に来い」
ダインは迷った。
シェルカエンには、ヘルザがいた。
ミーナもいた。
罪を償うなら、そこに留まるべきなのかもしれない。
けれど、彼は最後には首を振った。
「俺は、西へ戻る」
「ドーンヘルムの村々を守りたい」
「奪還だの聖地だの、そういう言葉でまた誰かが踏みにじられないように」
ガーランドはしばらく黙っていた。
やがて、短く頷いた。
「ならば、そうしろ」
それだけだった。
ルシアとガレットも騎士団を抜けた。
ダインとともに西へ戻り、ドーンヘルムの辺境で自警団のようなものを始めた。
村を守る。
徴発を止める。
魔族への憎悪を煽る者がいれば、睨みを利かせる。
時には剣を抜く。
騎士団ではない。
けれど、騎士よりも騎士らしい働きだったと、後に聞いた。
ガレットは相変わらず騒がしく、ルシアは相変わらず静かだった。
ダインはその間に挟まれて、以前より少しだけ穏やかな顔をするようになったらしい。
ヘルザは、ときどき西の方角を見ていた。
寂しそうに。
けれど、引き止めなかった。
ダインが選んだことを、彼女は受け入れた。
それもまた、強さなのだと思った。
*
年月は流れた。
シェルカエンは、滅びなかった。
けれど、何もかもが美しく解決したわけではない。
人間と魔族の間には、なお深い溝があった。
奪われたと思い込む者。
奪われたことを忘れられない者。
憎むことで自分を保つ者。
許すことを、裏切りだと思う者。
和平は、絵物語のようには進まない。
それでも、少しずつ道は作られた。
リアムはミルヴァードで奮闘した。
王家の血を理由に利用されてきた少年は、その血を逆に利用し、人間と魔族の対話の場を作ろうとした。
ペルナは、そんな彼を支えた。
時に怒り、時に呆れ、時に誰よりも厳しい言葉を投げつけながら。
ルシア、ガレット、ダインは西で村々を守った。
彼らは時折、中央大陸へ手紙を送った。
字は不格好で、内容も簡潔だった。
それでも、ヘルザはその手紙を読むたび、少しだけ長く窓辺に立っていた。
ガーランドは常にミーナの近くにいた。
過保護すぎるとフーリエに笑われ、堅すぎるとエリスに呆れられ、それでも彼は少しも改めなかった。
「姫様を二度と奪わせぬ」
それが、彼の変わらぬ誓いだった。
フーリエも生きていた。
あの未来では失われたはずの彼女は、少しだけ肩に古傷を残しながら、相変わらず優雅に笑っていた。
そして、その娘エリスは、ミーナの親友になった。
エリスは勝ち気で、口が達者で、母によく似た目をしていた。
ミーナとは性格がまるで違うのに、不思議と気が合った。
「ミーナは甘すぎるのよ」
エリスはよくそう言った。
「そうかな」
「そうよ。あんた、王妹なのにすぐ人を信じるんだから」
「でも、疑ってばかりだと疲れるよ」
「疲れるくらいでちょうどいいの」
「エリスは難しいね」
「ミーナが簡単すぎるの」
そんな会話を、私は内側から聞いていた。
私はもう、表へ出ることはほとんどなかった。
ミーナが大きくなるにつれて、私の意識は薄れていった。
彼女の感情の中に溶け、記憶の奥へ沈み、声として形を取ることも少なくなった。
それでいいのだと思った。
ミーナは十八歳になった。
長い銀の髪。
穏やかな目。
そして、常軌を逸する魔力。
けれど、相変わらず魔法にはあまり興味がなかった。
彼女が好きなのは、本と音楽だった。
新しく届いた本を読む時の顔。
笛を吹く時の横顔。
庭園で風を受け、遠くの空を見上げる仕草。
そのどれもが、私の知る未来にはなかったものだった。
私のいた世界では、この年齢のミーナはもういなかった。
正確には、いたのかもしれない。
けれど、あれは別の何かだった。
記憶を失い、弓を持ち、正義を重んじる少女。
魔法ではなく武芸へ向かい、自分の中の欠落を知らずに成長していたミーナ。
その未来は、消えたわけではない。
私の中にまだある。
けれど、目の前のミーナは違う。
彼女は、ヘルザと笑っている。
兄と話している。
エリスと喧嘩している。
ガーランドに礼儀を叱られている。
フーリエにからかわれている。
そして時々、西から届くダインたちの手紙を、ヘルザと一緒に読んでいる。
私はそれを見ていた。
遠くから。
内側から。
少しずつ溶けながら。
ある日の夕暮れ。
ミーナは庭園にいた。
あの投影石で映し出した場所と同じ庭園だった。
噴水の音。
花の匂い。
夕暮れの光。
ミーナは笛を持っていた。
けれど、吹いてはいない。
ただ、両手で包むように持って、空を見ていた。
「いるの?」
ふいに、彼女が言った。
誰に向けた言葉なのか、最初は分からなかった。
私だ。
私は、もう声にならないほど薄かった。
それでも、最後の力を集める。
いるよ。
そう答えたつもりだった。
ミーナは小さく笑った。
「ありがとう」
私は何も言えなかった。
「あなたがいたから、私はここにいるんだよね」
違う。
私だけじゃない。
ヘルザがいた。
ヘルドがいた。
ダインがいた。
ガレットがいた。
ルシアがいた。
リアムがいた。
ペルナがいた。
ガーランドがいた。
フーリエがいた。
エリスがいた。
たくさんの人が、少しずつ間違えて、少しずつ選んで、ここへ辿り着いた。
私は、そのすべてを伝えたかった。
でも、声はもうほとんど出なかった。
だから、最後にひとつだけ囁いた。
次は、あなたに託す。
ミーナは、静かに目を閉じた。
夕暮れの風が、銀の髪を揺らす。
噴水の音が、遠くで鳴っていた。
私は、その音を聞きながら薄れていく。
怖くはなかった。
ヘルザは生きている。
兄も生きている。
フーリエも、エリスも、リアムも、ペルナも、ルシアも、ガレットも、ダインも。
そして、ミーナがいる。
私が取り戻したかったすべてが、完全ではないけれど、ここにある。
だから、大丈夫。
光は、亀裂から差した。
その光を、ミーナは両手で受け取った。
もう、私が抱えていなくてもいい。
笛の音が響いた。
やわらかく、細く、けれど確かに遠くまで届く音だった。
私はその音の中で、静かに消えていった。




