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イーシスの胚  作者: ozoo39
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エピローグ 朝の続き


 西大陸の朝は、まだ少し冷たかった。


 草の先に残った露が、靴に触れるたびに小さく散る。遠くでは鶏が鳴き、どこかの家から薄い粥の匂いが流れていた。


 その匂いを嗅ぐたびに、俺は今でも少しだけ立ち止まりそうになる。


 あの朝を思い出すからだ。


 父さんが畑に立っていた朝。

 母さんが家の奥で火を起こしていた朝。

 リノが井戸のそばで、騎士団長になるのだと胸を張っていた朝。


 そして、すべてを奪われた朝。


 あれから、十数年が過ぎた。


 村は一度、地図から消えた。

 けれど、今はまた人が住んでいる。


 昔と同じではない。


 家の並びも違う。

 畑の形も違う。

 井戸の柵も新しくなっている。

 バルトさんの鍛冶場も、メリアさんの花壇も、俺の家も、もうない。


 それでも、朝になると人が起きる。

 水を汲み、火を起こし、畑へ向かう。

 子どもが叱られ、犬が吠え、誰かが文句を言いながら桶を運ぶ。


 村は、続いていた。


 俺は村外れの丘へ向かった。


 そこには、小さな墓跡が並んでいる。


 本物の墓ではない。

 ただ、名前だけが刻まれている。


 父さん。

 母さん。

 バルトさん。

 メリアさん。

 シハル兄さん。


 そして、リノ。


 俺はその前に膝をついた。


 土は冷たかった。

 けれど、昔ほど胸の奥が焼ける感じはなかった。


 消えたわけじゃない。

 痛みは、まだある。

 ただ、形が変わったのだと思う。


 懐から、折りたたんだ手紙を取り出した。


 中央大陸から届いたものだ。

 何度も読んだせいで、角は少し柔らかくなっている。


 ヘルザの字は、相変わらず整っていた。


 ミーナ様は、近頃また新しい楽譜に夢中です。

 庭園で笛を吹かれる時間が増えました。

 音は以前より澄んでいて、聞いていると、不思議と胸の奥が静かになります。


 ガーランド様は相変わらず過保護で、フーリエ様にはよく笑われています。

 エリス様はミーナ様とよく口論されていますが、あれはきっと仲が良いのでしょう。


 西は、まだ寒い頃でしょうか。

 無理をなさらないでください。

 あなたが選んだ道を、私は止めません。

 けれど、どうか生きていてください。


 いつかまた、あなたの話を聞かせてください。


 ヘルザ


 手紙を畳み直し、懐へ戻す。


 西には、まだ憎しみが残っている。


 聖地を取り戻せと叫ぶ者もいれば、魔族と聞くだけで剣を取ろうとする者もいる。

 だから俺たちはここにいる。


 騎士団ではなく、自警団として。

 誰かの大義ではなく、目の前の村を守るために。


 償いと言えば、聞こえはいい。

 けれど今の俺は、もう命令された正義だけで剣を振りたくなかった。


 俺が正しいと思ったことをする。


 あの時、自分でそう決めたのだから。


 あの日、井戸のそばでリノが言った言葉。


 俺はずっと忘れられなかった。


 忘れたつもりでいた時期もある。

 憎しみで塗り潰した時期もある。

 敵を斬れば、あの言葉の痛みも消えると思っていた時期もある。


 けれど、消えなかった。


 消えなかったから、今の俺がいる。


「お前が言ったこと、ようやく少し分かった気がする」


 石に向かって話す自分は、たぶん変な男だ。


 でも、今さら気にすることでもなかった。


「強くなれば、全部守れると思ってた」

「敵を倒せば、失ったものの分だけ取り戻せると思ってた」


 違った。


 そんなことは、ずっと後になって分かった。


 剣で守れるものはある。

 剣で止められるものもある。


 でも、剣だけでは人は戻らない。

 燃えた朝は、元には戻らない。


 それでも。


「今は、剣を抜く前にできることがあるって、少しは分かるようになった」


 そう言ってから、苦く笑う。


「まあ、ガレットにはまだ怒られるけどな。お前はすぐ顔が怖くなるって」


 ガレットは今でも騒がしい。


 俺が少し無茶をしようとすれば、すぐ横から文句を言う。

 そのくせ、誰よりも先に馬へ飛び乗る。


 ルシアは相変わらず静かだ。


 何も言わずに必要な場所へ立つ。

 あの人がいるだけで、俺たちの背筋は伸びる。


 二人がいなければ、俺はきっと、またどこかで道を間違えていた。


 俺は膝を折り、石に刻まれたリノの名を指でなぞった。

 今の自分を、まず彼女に聞いてほしかった。


「リノ、俺……泣いてる人とか、逃げられない人とか、誰にも聞いてもらえない人とか。そういう人を助ける団長になったよ」


 口にしてから、少しだけ息を吐いた。


「まあ、騎士団長じゃないけどな」


 リノなら、そこで何か言っただろう。


 偉くないの、とか。

 じゃあまだまだだね、とか。

 私ならもっと早く団長になってた、とか。


 そんな声が聞こえた気がして、俺は寂しく笑った。


「なんなら、お前を剣持ちくらいにはしてやってもいいぞ」

「馬の世話役でもいいけどな」


 風が吹いた。


 丘の下で、誰かが俺を呼ぶ声がした。


「ダイン団長!」


 振り返ると、新入りのナッシュが息を切らして駆けてきていた。

 まだ十六になったばかりの少年だ。まっすぐで、真面目で、少し危なっかしい。


「どうした」


「東部の村落近くに山賊が出たそうです。ルシア副長とガレット副長が、先に向かうと」


「分かった。すぐ行く」


 立ち上がろうとしたところで、ナッシュがさらに背筋を伸ばした。


「それと」


「まだあるのか」


「ガレット副長から、団長がしんみりしていたら引きずってこい、と」


「あいつ、余計なことまで言いやがって」


「団長、引きずりますね」


「やめろ。お前の腰がやられる」


「はい!」


 真顔で返されて、少しだけ笑ってしまった。


 丘の下では、仲間たちが動き始めている。

 馬を引く者。

 荷をまとめる者。

 剣を確かめる者。

 その先頭に、ガレットの大きな声が聞こえた。

 少し離れた場所では、ルシアが黙って馬の手綱を整えているのが見える。


 相変わらず騒がしい男と、相変わらず静かな女だ。


 俺はもう一度だけ、リノの名前が刻まれた石を見た。


「リノ、行ってくる」


 言ってから、少し間を置く。


「また、話を聞かせてやるから」


 俺は丘を駆け下りた。


 朝の光が、村の屋根を照らしている。


 かつて奪われた朝の続きを、俺はまだ生きている。


 今度は、誰かの朝を奪わせないために。

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