第十五章 漆黒魂
姫は城の地下にいる。
あの青年が残した言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
ダインの戦友だった人間。
人間は信じられない。
そう思う気持ちは、今も消えていない。
けれど、あの時の彼は、たしかに私を見ていた。
ただ敵を見る目ではなかった。
ミーナ様と私の関係を理解したうえで、あの言葉を置いていったのだとしか思えなかった。
理由は分からない。
けれど、あの青年は私を見て、ミーナ様を知る者を見る目をした。
それに、あの時の彼の目は、どこかダインに似ていた。
信じてもいい。
そう思った。
何より、ミーナ様が生きている。
その可能性を得られたことが、張り詰めていた心をほんの少しだけ緩めた。
夜明け前の森は暗く、足元も悪かった。
湿った土は柔らかく沈み、地表に浮き出た根が足を取る。
枝葉の隙間から差すかすかな光だけを頼りに、私たちは歩いていた。
「ダイン、お体の方は?」
振り返って問うと、ダインは少しだけ眉を寄せた。
「俺は大丈夫だ。それよりフーリエを」
「あら、気を遣ってくれているのね、ダイン」
フーリエ様が笑う。
声は軽いが、顔色はあまりよくなかった。
肩の傷は塞がっていても、魔力の揺らぎは隠しきれていない。
「私なら大丈夫よ。……でも、もう少し長引いていたら危なかったかも」
そう言って笑う横顔を見て、胸の奥が冷えた。
フーリエ様ほどの方を、ここまで追い詰める相手が、人間側にいる。
「フーリエ」
前を歩いていたガーランド様が低く問う。
「あの赤紫の法衣の女の魔力は、中央大陸のものか」
「ええ」
フーリエ様は少しだけ目を細めた。
「あれは中央大陸で磨かれた術よ。昔、ラーズル地方に、人間なのに十代前半で極焔の段位を持つ子がいるって噂を聞いたことがあるけど……まさかね」
「それに、隻腕の女の太刀筋も、人間とは思えない動きだった」
ガーランド様の声には、警戒と、わずかな高揚が混じっていた。
「ふふ、こんな時に武人の血が騒ぐの?」
フーリエ様がからかうように笑う。
「槍の男も褒めてやってくれ、ガーランド」
ダインが言う。
ガーランド様は一瞬黙ってから、低く唸った。
「ふむ。だが、自分の脚を槍で突くとは、人間とは不思議な種類だ」
「いや、そんなことをするのはあいつだけだ」
ダインは苦笑した。
その顔が、少しだけ嬉しそうに見えた。
いつの間にか、彼はこの場に溶け込んでいた。
最初からここにいたかのように、ガーランド様とフーリエ様の間で自然に言葉を交わしている。
この人はもう、人間側へ帰る場所なんてない。
ミーナ様を無事に連れ帰れたら、ダインにも居場所を作ってあげたい。
シェルカエンなら、きっと――
『あまいね。あんたは。いつものことだけど』
頭の奥で、声がした。
ヘルドだった。
面倒くさそうに笑う顔が、見えもしないのに浮かぶ。
私は小さく息を呑む。
『あれ? 無視かい。あの時、誰が助けてやったと思ってる?』
収容所の夜が脳裏を掠めた。
倒れていた衛兵たち。
あれは、私の力ではなかった。
「ヘルザ殿、どうされた」
ガーランド様の声に、我に返る。
「……いえ」
慌てて首を振ると、フーリエ様が肩をすくめた。
「潜入で疲れているのよ。何もなかったんだから、それで十分」
「ええ。ダインがいてくれましたから」
咄嗟に出た言葉だった。
ダインの方を見る。
彼は一瞬だけこちらを見て、それから何も言わず、すぐに目を逸らした。
「ダイン。改めて言う。大義だった」
ガーランド様が割って入る。
「おう。ありがとう」
「空気の読めない武人ね」
フーリエ様がつまらなそうに呟いた。
*
二日ほど歩くと、ミルヴァード王都が見えてきた。
まだ距離はあるのに、その城壁は遠目にも分かった。
灰色の石で高く積み上げられた外壁。
幾つもの塔。
中央に向かうほど建物の密度が増していく。
南大陸の王都らしく、重く乾いた威圧感があった。
「ここにミーナ様が……」
胸の奥で鼓動が早まるのが分かった。
「どこまで効くか分からないけど」
フーリエ様がそう言って、私たちに魔法をかける。
肌の表面を冷たいものが撫でた。
魔族の気配を薄くする幻術。
普通の人間なら誤魔化せる。
けれど、上位の術者までは騙せない。
「過信はしないでね」
「分かっています」
私たちは王都の中央を避け、外れへ回った。
このあたりは労働者の多い区画らしく、石畳はひび割れ、家々も王城に近い区画ほど整ってはいない。
煙を吐く工房。
泥の残る路地。
安い酒場。
朝から働く人々のざわめき。
それでも、完全な貧民街というわけではなかった。
皆、それぞれの生活を抱えているのが分かった。
宿を取ったあと、私は買い出しに出た。
ダインの傷の手当てが必要だったし、ガーランド様とフーリエ様ほど目立たないのは私だった。
市場は思った以上に賑やかだった。
野菜を積んだ荷車。
焼きたての薄パンの匂い。
値切る声。
子どもの泣き声。
果物をねだる少女と、それをたしなめる母親。
シェルカエンと変わらない景色だった。
人間が憎い。
ミーナ様を奪った人間が憎い。
そのはずなのに、こういう光景を前にすると、胸の奥に別の感情が生まれるのも確かだった。
いや。
私の目的はミーナ様の救出だ。
それだけだ。
そのためなら、何だってする。
また、頭の奥でヘルドが笑った気がした。
*
ダインが動けるようになるまでの間、私たちは交代で王都を探った。
城へ正面から入るのは難しい。
門兵の目は厳しく、武装した者の出入りは当然細かく見られる。
だが見張りを続けるうちに、ひとつ分かったことがあった。
法衣を着ている人間は、門兵の検閲をほとんど受けない。
色にも違いがある。
白。
青。
そして赤紫。
この国では、法衣の色そのものが序列なのだろう。
あの待ち合わせの谷でフーリエ様を追い詰めた女も、赤紫の法衣を纏っていた。
「奪うことはできるかもしれない」
そう言ったのは私だった。
フーリエ様は首を振る。
「できるわ。でも、潜伏が露見する可能性も高い」
私も分かっていた。
方法はある。
だが、ひとつ踏み違えれば終わる。
その時だった。
「俺に任せてくれ」
寝台から起き上がったダインが言った。
「戦わなくてもいい方法がある」
「その身体で何を言っているの」
私は反射的に言い返した。
「危険です。まだ傷も完全ではありません」
「分かってる。でも、じっとしている時間が惜しい」
ダインの目は妙に静かだった。
止めきれなかった。
彼はその日のうちに、一人で出ていった。
*
一日。
二日。
三日。
ダインは戻らなかった。
その間に、フーリエ様が外から戻ってきて言った。
「王都に魔族が潜入しているって噂が流れてる」
胸の奥が冷える。
まさか。
そう思ってしまった。
その夜もダインは戻らなかった。
そして、ガーランド様が最初に異変に気づいた。
「来る」
低い声だった。
「フーリエ、ヘルザ、立て」
次の瞬間には、宿の外に気配が増えていた。
こんな短期間で、どうして潜伏先が割れる。
答えは、ひとつしか浮かばなかった。
信じていたのに。
また、人間に裏切られた。
その思いが、喉元までせり上がった。
*
窓から飛び出し、路地へ降りる。
夜の路地は狭く、湿っていた。
足音が壁に跳ね返る。
背後に追っ手の気配。
「フーリエ、ヘルザ、行け」
ガーランド様が剣を抜く。
その声に押されるように走った。
だが、すぐに別の気配が前方に現れる。
強い魔力。
そして斧。
一瞬、人間かと疑った。
魔力の質が、あまりにも濃かったからだ。
「これは、ちょっと厄介ね」
フーリエ様が私を見た。
「ヘルザ。あなただけでも逃げなさい」
「ですが――」
「行きなさい」
突き放すように言われ、私は歯を食いしばって走った。
どうしてこんなことに。
ダイン、どうして。
ミーナ様――。
思考がぐるぐると回る。
その時、不意に腕を掴まれた。
息が止まる。
振り向く。
そこにいたのは、あの時の青年だった。
ガレット。
ダインの戦友。
彼は悲しそうな顔をしていた。
責めるでもなく、怒るでもなく、ただ苦いものを呑み込んでいるような顔だった。
ガレットは何も言わず、白い法衣と一枚の紙を私に押しつけた。
「ダインからだ」
それだけ言って、すぐに離れる。
私はその場で紙を開いた。
雑な地図。
城の地下へ至る道筋。
そして、その下に一行だけ。
ヘルザ 俺を救ってくれてありがとう
喉の奥が熱くなる。
疑った。
私は、あの人を疑った。
ガレットがあんな顔をした理由も、もう分かった気がした。
*
白い法衣を羽織り、私は一人で城へ向かった。
布の内側で、指先が冷えていた。
法衣は、たしかに人間たちの身分を示すものだ。
だが、それを着ているだけで本当に通れる保証はない。
声をかけられれば終わる。
近づかれれば、フーリエ様の幻術も見破られるかもしれない。
それでも、行くしかなかった。
ミーナ様がこの先にいる。
その一点だけが、震えそうになる身体を前へ進ませた。
城門の前に立つ兵が、こちらを見る。
一瞬、息が止まった。
兵の視線が、私の顔へ、法衣へ、そして手元へ流れる。
私は目を伏せすぎないようにしながら、歩調を変えずに進んだ。
「ご苦労様です」
門兵が姿勢を正し、道を開けた。
通れた。
そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになる。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
私は何も知らない法衣の者のように、ただ前だけを見て城内へ入った。
城内は、外から見たよりも静かだった。
磨かれた床。
規則正しく並ぶ灯り。
遠くで響く足音。
人の気配はあるのに、誰もこちらへ近づいてこない。
その整いすぎた静けさが、かえって不気味だった。
地図に従い、私は人通りの少ない回廊へ入る。
紙に描かれた線は雑だった。
それでも、分かるように書かれていた。
曲がる場所には小さな印があり、通ってはいけない廊下には乱暴な斜線が引かれている。
ダインが、これを見つけてくれた。
そう思うたび、胸の奥が痛んだ。
疑った自分を責めている時間はない。
今は進むしかない。
やがて、鉄で補強された扉が見えた。
その両脇に兵が立っている。
心臓が嫌な音を立てる。
けれど、兵たちは私の法衣を見ると、短く敬礼しただけで扉を開けた。
その先は、下り階段だった。
長い。
深い。
城の地下へ降りるというより、城そのものの腹の中へ沈んでいくようだった。
足音が石壁に反響する。
一段降りるごとに、空気が冷たくなる。
上の階にあった人の気配や灯りの温度が、少しずつ遠ざかっていく。
階段を降りきると、廊下の空気が変わった。
冷たい。
乾いている。
人が暮らす場所の匂いがない。
壁の上部には、赤い鉱石が等間隔に埋め込まれていた。
魔感石。
強い魔力を感知すれば共鳴する石だ。
ここで魔力を使えば、すぐに気づかれる。
私は息を殺した。
ここでは、ヘルドの力にも頼れない。
頼った瞬間、すべてが終わる。
『やれやれ。あたしは便利道具じゃないんだけどね』
頭の奥で、ヘルドが小さく笑った。
それでも声は低かった。
いつものような軽さの奥に、わずかな警戒がある。
『ここ、嫌な場所だよ。あんたも分かってるだろ』
分かっている。
だからこそ、足を止められなかった。
廊下の途中には、いくつも扉があった。
どれも重く、番号だけが刻まれている。
中から声はしない。
人の気配も薄い。
ただ、何かを閉じ込めている場所の匂いがした。
医務室でも、書庫でも、兵舎でもない。
ここは、人を生かす場所ではない。
調べる場所だ。
試す場所だ。
切り分ける場所だ。
奥へ進むほど、兵の数が増えた。
だが、誰も私を止めない。
白い法衣を見る。
敬礼する。
扉を開く。
それだけだった。
通されるたびに、違和感が増していく。
なぜ、こんなに簡単に通れる。
なぜ、この場所では疑われない。
この法衣を着た者たちは、どれほど当たり前にここへ出入りしているのか。
考えたくなかった。
廊下の奥に、さらに重い扉があった。
ただの研究室の扉ではない。
兵の数も、鍵の数も、そこだけ違っていた。
私は紙に描かれた道筋をもう一度確認する。
間違いない。
この先だ。
扉を押し開けた瞬間、薬草とも油ともつかない匂いが鼻を刺した。
広い研究室だった。
机の上には本と紙片が散らばっている。
奇妙な器具。
青白く点る装置。
瓶に詰められた薬液。
乾いた薬草。
そこに置かれたものはどれも、人を癒すためではなく、何かを調べ、試し、切り分けるためのものに見えた。
医師として、その違いは分かる。
癒すための器具には、どこか人に向いた温度がある。
ここにあるものには、それがない。
ただ、対象を見るための道具。
切るための道具。
測るための道具。
ここにミーナ様がいたのだと思った瞬間、胸の奥が焼けた。
けれど、ミーナ様はいない。
奥に、さらに扉があった。
見たことのない金属でできている。
鈍い灰色。
触れる前から硬さが伝わってくる。
普通の鉄ではない。
石でもない。
魔力を拒むような、冷たい沈黙がその扉にはあった。
この先だ。
鼓動が、もう抑えられなかった。
私は扉を押し開けた。
そこに、ミーナ様がいた。
寝台のそばに座り、小さな笛を握っている。
ミーナ様――そう呼んだつもりだった。
けれど、声はうまく出なかった。
ミーナ様が顔を上げる。
「ヘルザ!」
その声だけで、膝が抜けそうになった。
ミーナ様は駆け寄ってきた。
細い腕が、私の服を掴む。
やつれている。
頬も少しこけている。
手首には、拘束の跡が薄く残っていた。
見た瞬間、喉の奥が焼けた。
それでも、その声は間違いなくいつものミーナ様だった。
「ミーナ様……お体は。お怪我はありませんか」
「ううん。だいじょうぶ。この人たちが守ってくれたの」
ミーナ様の指す方を見る。
そこには人間の女がいた。
小柄で、顔色が悪い。
妙に気まずそうな顔をしている。
よく見れば、身体のあちこちに青黒い痣のようなものが浮いていた。
胸の奥がざわつく。
普通の打撲なら、色は外から沈む。
けれど、ペルナの痣は違った。
内側から、黒いものが滲み出しているように見えた。
毒とも違う。
魔力焼けとも違う。
何か、もっと別のものだと、医師としての勘が告げていた。
「この人はペルナ」
ミーナ様が言う。
「あと、斧が手から出る人と、片腕の髪の長い人と、槍を持ってる人」
あの襲撃は、このためだった。
ダインが動いたのも、全部。
私は改めて、自分が彼を疑ったことを悔いた。
ペルナの方を見る。
「あなたも、ダインの仲間だったのね。ありがとう」
ペルナの表情が、そこで変わった。
「ダイン……?」
彼女は目を見開く。
「彼、生きてるの?」
その反応で、彼女が何も知らなかったことが分かった。
「ええ」
私は答える。
「傷は負いましたが、生きています。ミーナ様の居場所を掴んで、ここまで辿り着けたのも、もとはあの人のおかげです」
ペルナはしばらく何も言わなかった。
嬉しそうにも見えたし、戸惑っているようにも見えた。
喜んでいいのか分からない顔、とでも言えば近い。
私はミーナ様を抱いたまま、ここまでの経緯を簡単に話した。
収容場。
ダイン。
ガレット。
法衣。
城への侵入。
ペルナもまた、ここで何があったのかをぽつぽつと話した。
閉じ込められていたこと。
リアムたちのこと。
ミーナ様を守ろうとしていたこと。
シドの研究室で見たもの。
話を聞きながら、私は何度もペルナを見た。
痣。
顔色。
息遣い。
そして、肌の下にうっすらと滲む、あの感覚。
ミーナ様の奥に沈んでいるものと、よく似ている。
けれど、同じではない。
ミーナ様のそれが深い底に沈んでいるものなら、ペルナのそれは、肌の下から滲み出している。
ヘルドが囁く。
『気づいているだろ。あの女の中にも、同じ闇がある』
『ただ、ミーナとは違う』
『あの女、ペルナ。ミーナに何かしたのか、されたのか』
私はペルナの方を見た。
その時だった。
「ごめんね、ヘルド」
ペルナが、ぽつりと言った。
私は息を呑む。
当のペルナが、いちばん訳が分からないという顔をしていた。
「……え?」
小さく漏れたその声のあと、部屋は妙に静かだった。
その時、扉の方で気配がした。
振り向く。
シドだった。
その隣には、赤紫の法衣の女。
フーリエ様をあの待ち合わせの谷で追い詰めた、あの女がいる。
「研究は偶然の組み合わせで結果を生みます」
シドが言う。
「ですが、貴方がこちらへ来ることは必然でした」
まるで昨日の続きを話すみたいな口調だった。
それが何よりも腹立たしかった。
「シド……なぜミーナ様をこんな目に」
「私は、貴方に頼まれた通り形にしただけですよ」
静かに言う。
形にした。
その言葉が、胸の奥で腐ったように響いた。
私が願ったのは、救いだった。
この男が形にしたのは、檻と、痛みと、あの子を壊す方法だった。
「お久しぶりですね、ヘルザ。こちらは、すでにご承知かと思いますが、宮廷魔術師ネローラン」
「貴方に相談したこと自体が、私の罪だったわ」
「そうでもありませんよ」
シドは首を振る。
「貴方が、あの子の力を取り戻す鍵ですから」
「……何故、私をここに」
私の問いに、ネローランが口を開いた。
「捕虜収容場で、お前とダインという男の名が出た時、シド殿は仰った。ドーンヘルムの二人は泳がせろ、と」
ネローランは忌々しげに目を細める。
「おかげで、回りくどい芝居に付き合わされた」
言葉が、すぐには意味を結ばなかった。
私をここへ来させるために。
全部。
ダインも。
収容場も。
追跡も。
城への道も。
「ダインたちはどこ?」
「さあな」
ネローランは冷たく言う。
「今となってはどうでもいい。今頃は、私の部下と遊んでいるのではないか」
シドがそこで静かに続けた。
「私の見立てでは、ミーナの力は憎悪のみに反応する」
その言葉に、空気が変わる。
「貴方が話してくれたイタチの話。ペルナが見た、ミーナの精神世界の黒いもの。どちらも同じ結論を指していました。本人に自覚はない。だが、その力は憎悪を引き金に放出される」
シドは一度、ペルナを見る。
礼を言うような目だった。
「全ては偶然の組み合わせで、分かったんですよ」
そして、私へ視線を戻す。
「ミーナにとっての絶望は、自身の苦痛ではない」
その声は静かだった。
静かすぎて、余計に耳に残る。
「貴方の死です」
心臓が止まったような気がした。
「ようやく会えた貴方に、目の前で死なれること」
「それが、私の解です」
ネローランが一歩前へ出る。
ミーナ様が、私の前へ立った。
小さな背が震えている。
けれど、退こうとはしなかった。
次の瞬間、空気そのものが軋んだ。
ミーナ様の全身から、振り切れそうなほどの魔力が溢れ出す。
ネローランの目が細くなる。
「噂以上だ。その年で、私をはるかに上回るとは」
そう言って、彼女は鉛の箱から魔封石を取り出し、床へ放った。
鈍い音が散る。
ミーナ様の魔力が、目に見えて削がれる。
「魔力がなくても、私の右手が丈夫であることは知っているだろう」
「ミーナ様!」
私は思わず、ミーナ様に覆いかぶさった。
「待ちなさい」
声がした。
ペルナだった。
彼女がネローランの前に立っている。
ネローランは失笑した。
「お前まで。何のつもりだ。軍人ともあろう者が、情に流されたか」
ペルナは、まっすぐネローランを見た。
「私は、自分の正しいと思ったことをする」
その言葉が落ちた瞬間、どこかで聞いた響きが胸を打った。
ネローランが、わずかに目を細める。
「そうか。今の状況で、それが通せるとでも?」
彼女の視線が、床の魔封石へ落ちる。
そうだ。
この場で、ペルナに魔法は使えない。
「それでも、使えると彼女が言っている」
ペルナがそう言った瞬間だった。
空気が、沈んだ。
光が消えたのではない。
部屋の輪郭そのものが、闇に溶けていく。
足元はある。
だが現実の感触だけが遠ざかる。
水滴の落ちる音だけが、やけに鮮明に響いた。
「ヘルザ」
ミーナ様の声がする。
私は手を伸ばす。
ミーナ様が私の手を握った。
暗闇の中で、シドとネローランの姿も見えた。
さすがのシドも、ほんのわずかに目を見開いている。
だがすぐに顔を上げ、何かを測るように周囲を見回した。
「あの女……私たちの精神を繋げたか」
ネローランが吐き捨てる。
その時、ペルナが現れた。
彼女は何も言わない。
ただ、暗闇の奥を指した。
そこに、ひとりの魔族が立っていた。
黒い髪の、若い女だった。
だが、その若さは少しも儚く見えない。
失われていないのではなく、あまりにも多くを失った果てに、なお崩れず残った若さだった。
立っているだけで、空気が沈む。
深い悲しみと、それ以上に深い憎悪を、長い沈黙の底に沈めたまま立っている。
その場にいるだけで、周囲のすべてが一歩退くような気配が、その女にはあった。
女はしばらく黙っていた。
見ているのか、見下ろしているのかも分からない、深い目だった。
やがて、唇がゆっくりと動く。
「私は、闇の力」
静かな声だった。
静かなのに、その場の誰よりも遠く、誰よりも古い場所から響いてくるように聞こえた。
「イーシスの胚」
一度、言葉が切れる。
そのわずかな間にさえ、ひどく長い時間が沈んでいるようだった。
「そして、これから漆黒魂と呼ばれるもの……」
その言い方は、誇るようでも、嘆くようでもなかった。
ただ、同じものが幾つもの名で呼ばれてきたことだけを知っている声だった。




