第十四章 穴の空いた器
身体を内側から引き裂かれるような痛みで、目が覚めた。
喉の奥から漏れた声が、自分のものだと分かるまでに、少し時間がかかった。
胸の内側を、鋭い何かで掻き回されている。
脇腹も、背中も、腕の内側も、見えない刃で裂かれているようだった。
「ペルナ!」
誰かが呼んでいる。
リアムだ、と分かるまでに一拍遅れた。
視界は滲み、音だけが遠い。
まるで水の底から、誰かの声を聞いているみたいだった。
私は浅く息を吸い、横を向いた。
ミーナは眠っていた。
寝台の端で、小さな笛を胸に抱くようにしている。
白い頬も、閉じた瞼も、ひどく静かだった。
起こしていない。
そのことに、ぼんやり安堵した。
いや、違う。
アダマンタイトに囲まれたこの部屋だから、叫びが外へ響きにくいだけだ。
そんな当たり前のことに救われている自分が、少し可笑しかった。
「おい、聞こえるか」
リアムの顔が近い。
肩を支えられているのに、その感覚すら、最初は薄かった。
やがて感覚が戻る。
痛みも、一緒に戻ってくる。
「……っ」
喉の奥で声が潰れた。
息が詰まる。
身体の奥に、黒い鉤爪でも突っ込まれているみたいだった。
痛みだけではない。
何かがごそりと抜けていくような、空っぽになっていくような恐怖があった。
気づけば、泣いていた。
どうして泣いているのか、自分でも分からない。
ただ、あの日以来、私はこれを繰り返している。
そして、たぶん、悪くなっている。
「水、飲めるか」
リアムが言う。
私は答えず、ただ目を閉じた。
頷く余力もなかった。
*
食事は、またほとんど喉を通らなかった。
一口飲み込んで、吐き気を堪える。
二口目で諦める。
そんなことを何度も繰り返したあと、私は器を膝の上で持て余していた。
きっと、ひどい顔色をしているんだろう。
鏡があっても見たくないと思えるくらいには、自分でも分かっていた。
扉が開く。
ネローランだった。
今日も白と青の法衣を着た術師を二人連れている。
まずミーナを見て、それから私の前で足を止めた。
しゃがみ込む。
近くで見ると、やはりあの目は冷たい。
誰かを気遣う目じゃない。
壊れかけた道具を点検するみたいな目だ。
顔色。
首筋。
手の震え。
何も言わず、一つずつ確かめるように見られる。
「……何」
声を出すだけで疲れる。
ネローランは、少しも悪びれなかった。
一通り観察を終えてから、ようやく口を開く。
「穴の空いた器だな」
一瞬、意味が分からなかった。
「は?」
「そのままの意味だ」
冷淡だった。
説明する気もない。
理解させる気もない。
ただ、見たものを言葉にしただけ、という顔で立ち上がる。
穴の空いた器。
何それ。
意味は分からない。
けれど、その言葉だけが妙に残った。
私の中にあるものを、私より先に見つけられてしまったようだった。
それが、ひどく気分悪かった。
*
ミーナは時々、心配そうにこちらを見ていた。
私はそのたびに笑ってみせる。
大丈夫。
平気。
何でもない。
そんな顔を作る。
でも、たぶん見抜かれている。
あの子はほとんど喋らないくせに、人の顔だけはよく見ている。
怖い。
その感情が浮かぶたび、私は自分で自分が嫌になる。
ミーナは悪くない。
悪いはずがない。
ここへ攫われて、閉じ込められているのは、あの子の方だ。
それなのに、どうしても脳裏を掠める。
あの精神世界で見た、底なしの憎悪。
泉の底に沈んでいた、言葉にもならない黒い何か。
もう一度、あの子の精神へ入って確かめたい気持ちはあった。
だが、踏み切れない。
たぶん次は、戻ってこられない。
そんな確信に似た恐怖が、どうしても消えなかった。
*
スマニア島で捕らえた魔族を収容している王都外れの施設が、魔族の襲撃を受けた。
ネローランがそう告げた時、一瞬、息が止まるかと思った。
スマニア島。
あの島の空気。
血の匂い。
炎。
折れた武器。
倒れた仲間。
頭の奥に押し込めたはずの光景が、嫌になるほど鮮明に蘇る。
「同志ビクターが死に、同志ウルヴァースより救援要請が入った。その後、通信は途絶えている」
「両者とも私と同じ赤紫の法衣を持つ者だ。相手は相当の手練れと見ていい」
ネローランの声は淡々としていた。
淡々としすぎていて、逆に現実味が薄い。
リアムが一歩前へ出る。
「つまり俺たちに、行けって?」
「ああ」
短い返答。
「待て」
リアムの声が少し低くなる。
「俺たちが出たら、ミーナが一人になる」
「信用できない」
まっすぐだった。
あいつは最近、もう隠そうとしない。
ミーナを守る気があることも、この場所そのものを信じていないことも。
「私が行く」
ルシアだった。
迷いのない声だった。
「リアムは残って」
「それと、ペルナ。あなたはまだ駄目」
私は小さく顔をしかめたが、言い返せなかった。
自分でも分かっている。
今の私が行ったところで、足手まといだ。
ルシアの視線がガレットへ向く。
「お供させていただきます!」
ほとんど反射みたいに、ガレットが応じる。
声が大きい。
けれど、それが少しだけ救いだった。
まだみんな、前へ出られる。
私だけが、ここに残る。
その事実が、じわじわ効いてくる。
「……ごめん」
気づけば、小さくそう言っていた。
自分でも情けなかった。
仲間が命を懸けて行くのに、そんなことしか言えない。
ルシアもガレットも、何も言わなかった。
ただ、その背中が大きく見えた。
二人を見送ったあと、リアムが明るい声を作って言う。
「あの二人は強い。大丈夫だ」
気を遣ってくれているのは分かった。
でもその優しさを受け止める余裕がなくて、私はただ小さく頷くことしかできなかった。
*
しばらくして、シドが来た。
あの日以来、ほとんど姿を見せなかったのに。
扉が開いた瞬間、私は反射で身を強張らせる。
ミーナを見るでもなく、シドはまっすぐこちらへ歩いてきた。
その時点で、嫌な予感しかしなかった。
「具合が悪そうですね」
「……心配してくれてるの?」
喉の奥がひりつく。
「何の用よ」
「いえ。見たままを述べただけです」
いつも通り、感情のない声だった。
それが余計に腹立たしい。
「今日はお願いがあって来ました」
そう言って、シドは掌ほどの魔動器を差し出してきた。
丸みのある金属器具だった。
見た目には、特別変わったところはない。
「これに、少し魔力を込めてください」
「……それだけ?」
「ええ。それだけです」
怪しすぎる。
でも、ここで拒んだところで、別の手を使うだけだろうとも思った。
シドはそういう男だ。
私は魔動器を受け取った。
冷たい。
指先が少し震えていることに気づいて、気づかないふりをした。
「普通の魔力なら、内部の結晶が淡く光るだけです」
シドが言った。
「安心してください。壊れるようなものではありません」
安心できるはずがなかった。
私は息を整える。
こんな状態でも、魔力だけは妙にすんなり集まった。
むしろ最近は、身体の弱り方とは関係なく、どこか変な流れ方をする時がある。
それが、かえって気味悪かった。
ごく薄く、魔力を流す。
次の瞬間だった。
魔動器の表面が、じわりと黒ずんだ。
「……え」
見間違いじゃなかった。
黒は一瞬で全体へ広がり、金属が内側から腐るみたいに脆く崩れ始める。
表面が泡立つように裂け、ぽろぽろと欠け落ちた。
「な、何これっ!?」
思わず取り落としかけて、慌てて床へ放る。
黒く変色した破片が、乾いた音を立てて散った。
一瞬、部屋の空気が止まる。
リアムも、少し離れた場所にいたミーナも、こちらを見ていた。
シドだけが驚かなかった。
しゃがみ込み、破片を一つずつ拾い上げる。
丁寧に。
まるで、こうなると最初から知っていたみたいに。
そして欠片を光にかざし、じっと見たあと、小さく頷いた。
「……やはり」
その声音に、背中が冷たくなる。
「何なのよ、それ」
立ち上がろうとして、少しよろけた。
でも止まれなかった。
「何を確かめたの?」
「これ、何よ」
「何で私の魔力で、こんな――」
シドは欠片を懐へしまい込み、ようやくこちらを見た。
「知りたいなら、あなたの魔法で私を見ればいいではないですか」
そう言って、わざとらしく両手を広げる。
「さあ?」
腹が立つ。
できないと分かって言っている。
いや、違う。
できない“はず”だと分かった上で、なお煽っている。
人の心を覗くのは嫌だ。
だから使わないと決めた。
でも今は、嫌だからじゃない。
怖いのだ。
もし今この男の中へ踏み込んだら、見たくないものだけでは済まない気がする。
見る側でいられなくなる気がする。
そんな自分が、何より腹立たしかった。
「……おや、やらないのですね」
シドは少しだけ首を傾けた。
「残念です」
「ふざけないで」
思ったより大きい声が出た。
一連を見ていたリアムが眉をひそめる。
ミーナも、びくりと肩を揺らした。
「あなたの狙いは何?」
「何をしようとしてるの?」
「いつまであの子を――ミーナを、ここに閉じ込めておく気?」
無駄だと思いながらも、止まらなかった。
シドは一拍だけ黙った。
その沈黙が、逆に不気味だった。
「全ては、積み重なる偶然の組み合わせですよ」
「じゃあ、あなた自身も分かってないってこと?」
「そうですね」
あっさり肯定する。
「ですが、あなたのおかげで、一つ偶然がはまりました」
その言葉に、背筋が凍った。
「……何よ、それ」
シドは答えなかった。
もう用は済んだと言わんばかりに踵を返し、そのまま部屋を出ていく。
残されたのは、黒く崩れた魔動器の欠片と、喉の奥に残る嫌な感覚だけだった。
私の変化が関係している。
そう考えるしかなかった。
でも、何がどう変わっているのかは、まだ分からない。
分からないまま、私はただ、自分の手を見つめることしかできなかった。
*
その夜も、私はまた自分の叫びで目を覚ました。
喉が裂ける。
胸の奥を爪で引っかかれるみたいに痛い。
息を吸うたび、肋の内側を何かが擦っていく。
「ペルナ!」
リアムが駆け寄ってくる。
前より少し近く、前より少し焦った声だった。
何度目か分からない発作に、あいつも慣れたくなどなかったのだろう。
私は反射的に横を向く。
ミーナも起きていた。
寝台の上で身体を起こし、笛を握ったまま、じっとこちらを見ている。
眠たげな目ではない。
はっきりと心配している顔だった。
その視線が、痛かった。
あの子は悪くない。
悪くないのに、私はどうしても、あの底なしの黒を思い出してしまう。
思わず視線を逸らした。
ミーナが少しだけ息を呑んだのが分かる。
傷つけた。
そう分かったのに、今さら顔を上げることもできなかった。
「……あの子は悪くないのに」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
リアムは何も返さなかった。
ただ、水差しを寄せてきて、私が落ち着くまでそばにいた。
*
ネローランが戻ってきたのは、その翌日のことだった。
扉が開いた瞬間、空気が変わる。
彼女は戦闘からそのまま来たらしかった。
法衣はあちこちが裂け、裾には乾きかけた血がついている。
白や青の法衣の術師たちもいない。
代わりに、後ろに立っていたのはシドだった。
ルシアでも、ガレットでもない。
その事実が見えた瞬間、胸の奥が冷えた。
「二人はどこ?」
気づけば叫んでいた。
「ルシアは? ガレットは?」
その瞬間、身体の奥で何かがざわついた。
胸の内側に溜まっていた黒いものが、喉元までせり上がるみたいだった。
ネローランは一拍だけ私を見てから、淡々と言った。
「勘違いするな。二人は無事だ」
呼吸が止まりかけたまま、その続きを待つ。
「ガレットが脚を負傷して手当てを受けている」
「お陰で撤退を余儀なくされた。大した怪我でもないのに大袈裟な奴だ」
「……ほんと、なのね」
自分でも情けないくらい、疑う声だった。
「ああ、本当だ」
ネローランはあっさりと答える。
「あの間抜けのお陰で、魔族を取り逃がした」
言葉は刺々しいのに、妙に落ち着いていた。
怒っているはずなのに、どこか出来すぎている顔にも見える。
そこで初めて、私は彼女の右腕を見た。
法衣の裂け目から覗く、金属。
肩から先ではない。
肘より先が、明らかに人工物だった。
左脚の方にも、同じ鈍い光が走っている。
私の目線に気づいたのか、ネローランが言う。
「アダマンタイト製の腕は珍しいか?」
「……いえ、失礼しました」
アダマンタイト。
あれだけの実力者が、それほどのものを使っている。
それだけの傷を負った過去があるということだ。
そして、そこまでの相手と戦ったということでもある。
「目的は、あの姫様だろうな」
ネローランは金属の指で、ミーナを指した。
「報告によれば、他のシド殿の施設にも侵入の跡があった」
「ここを狙って来ると見ていい」
「狙う、じゃないだろ」
リアムが口を開く。
「お前たちが攫ったんだろうが」
「お前たち、ではない。私たちだ」
ネローランは静かに返した。
「なぜお前は、自分の立ち位置がこちらではないと思う」
「本当にそう思うなら、今すぐ私たちを殺し、その小娘を連れて出て行けばいい」
言い方が、あまりにも冷たかった。
正論でも、挑発でもない。
ただ事実だけを並べて、逃げ道を塞ぐ声音だった。
リアムの喉が動く。
言い返せない。
違うと叫べば叫ぶほど、今の自分が何者なのか分からなくなるのだろう。
「……じゃあ、そうさせてもらうぜ」
次の瞬間、リアムの両手の前に斧が具現化されていた。
以前よりも、ずっと形が安定している。
粗くはない。
ちゃんと刃としてまとまっている。
あの短い間に、あいつがどれだけ必死に自分を磨いたのか、それだけで分かった。
一歩で間合いを詰め、ネローランへ振り下ろす。
速い。
鋭い。
以前のリアムなら、力に振り回されていただけだ。
今の一撃には、ちゃんと殺意と技術があった。
「なかなかの太刀筋だ」
ネローランは紙一重で避けた。
次の瞬間には、その金属の右腕がリアムの首を掴んでいた。
床から、リアムの足が浮く。
まずい。
本気だ。
ネローランの目には、もう迷いがなかった。
首をへし折ることに、何の躊躇もいらない目だった。
その瞬間、私の身体の奥で何かが裂けた。
「――っ!」
息が詰まる。
胸の底から黒い熱が噴き上がる。
脇腹の内側、首筋、腕の裏。
青黒い痣のある場所が、一斉に焼けた。
視界が揺れる。
右手の指先が、勝手に震える。
刃はなかった。
斬撃も、光も、音もなかった。
ただ、ネローランの右腕だけが、肘の少し上から落ちた。
鈍い金属音。
床に転がった義手が、乾いた音を立てる。
リアムの身体も、そのまま崩れ落ちた。
部屋が、しんと静まり返る。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
寝台の上では、ミーナが笛を握ったまま泣いていた。
小さな肩を震わせて、声もなく涙をこぼしている。
外から見れば、あの子の力に見える。
実際、私もそう思いかけた。
でも、おかしかった。
どうして、あの瞬間、私の身体まであんなふうに裂けるように痛んだのか。
どうして今も、右手が細かく震えたままなのか。
ネローランは怒りもしなかった。
落ちた義手を見下ろし、ゆっくりとしゃがみ込む。
左手で拾い上げ、切断面をじっと見つめる。
その仕草は、怒った兵士というより、壊れた魔道具を観察する技師に近かった。
そして一瞬だけ、こちらを見る。
私を。
ぞっとする。
その目は、ミーナではなく、私の中の何かを測っているみたいだった。
でも彼女は何も言わず、そのまま踵を返した。
扉が閉まる。
重い音だけが残った。
リアムは床に片膝をついたまま、首を押さえていた。
立ち上がろうとして、立ち上がれない。
その姿が、傷よりもずっと痛々しかった。
私は声をかけようと思った。
でも何も浮かばなかった。
慰めにもならない。
励ましにもならない。
何を言っても薄っぺらくなる気がして、結局、黙るしかなかった。
ミーナの方を見る。
まだ泣いていた。
あの力は、リアムを助けた。
それだけは事実だ。
恐ろしいのに、救った。
救ったのに、恐ろしい。
どちらか一方だけだと思えたなら、どれだけ楽だっただろう。
私は震える右手を握りしめた。
あの瞬間の痛みだけが、どうしても引かなかった。
*
次の日、シドは私たちの外出を許した。
とはいえ、城内のごく一部だけだ。
好きに歩いていいわけでもないし、当然、監視もつく。
自由と呼ぶには、あまりに狭い。
けれど、それでも地下から出られること自体が異様だった。
なぜ今になって。
その疑問が、最初に浮かんだ。
魔族が王都に近づいているかもしれない。
そんな状況で、どうしてミーナを地上へ出すのか。
理解ができない。
理解できないことを、シドがわざわざするのが余計に気味悪かった。
久しぶりの日の光だった。
研究室の外へ出た瞬間、目の奥が痛んだ。
明るすぎるのだ。
空の色が、こんなに広くて高かったことを、一瞬忘れていた気がした。
ミーナにとっては、二か月以上ぶりになる。
そう思うと胸が詰まった。
この子は、こんな当たり前の光さえ奪われていたのだ。
ミーナは何も言わなかった。
けれど、立ち止まって空を見上げたまま、しばらく動かなかった。
笛を持つ手が少しだけ強くなる。
風が銀の髪を揺らす。
その横顔を見ていると、どうしようもなく痛々しかった。
「ほら、外だぞ」
リアムがわざと軽い声を出す。
「お姫様はこういうの好きだろ」
ミーナはそちらを見た。
返事はない。
けれど、ほんの少しだけ目が動く。
それだけで、リアムは満足したように肩をすくめる。
あいつはあいつなりに、必死なのだと思った。
ふざけて見せて、軽口を叩いて、ミーナの沈黙ごと受け止めようとしている。
昨夜のことを引きずっていないはずがないのに、それでもそう振る舞っていた。
そのくせ時々、ふっと城壁の方へ目をやる。
私はそれに気づいていた。
脱出経路を探しているのだ。
隠しているつもりなのだろうが、隠しきれていない。
それでも私は何も言わなかった。
言えなかった、の方が正しいかもしれない。
外へ出て気づいたことが、もう一つある。
少しだけ、身体が楽だった。
地下にいる時のような、ずっと身体の内側を削られている感じが薄い。
発作が消えたわけじゃない。
痛みがなくなったわけでもない。
けれど、呼吸が少し深くできる。
立っていることが、昨日ほど苦しくない。
その代わり、青黒い痣は増えていた。
手首の裏。
脇腹の下。
鎖骨の近く。
鏡はなくても、指で触れれば分かる。
昨夜までなかった場所に、冷たい痕が残っている。
私は歩きながら、そっと袖の中を撫でた。
なぜ地下では壊れそうで、外へ出ると少し楽になるのか。
なぜ楽になるほど、痣は増えていくのか。
分からないことばかりだった。
その日から、外へ出される時間が続いた。
一日に数時間だけ。
城の一部だけ。
見張りつきで。
たったそれだけでも、ミーナの表情は少しだけ変わった気がした。
喋らないことに変わりはない。
けれど、風の音や、遠くの鳥の声や、陽の当たる石畳を、確かめるように見ている。
その様子を見ていると、救いたいと思う。
やはり思ってしまう。
同時に、怖いとも思う。
このままこの子を逃がせば、私は人間として終わるかもしれない。
逃がさなければ、この子を見捨てることになる。
答えの出ないことばかり、頭の中で回っていた。
ルシアとガレットは、こちらへ戻らなかった。
一日。
二日。
三日。
正確に数えていたわけじゃない。
けれど、戻らない時間だけが長くなっていくのは分かった。
ガレットは脚を負傷しただけだと聞いている。
ルシアも無事だと聞いている。
それでも、二人はこの部屋には戻ってこない。
戻れないのか。
戻らせてもらえないのか。
それすら分からなかった。
嫌な考えが、勝手に浮かぶ。
ダインの時みたいに、また二度と会えないんじゃないか。
そう思った瞬間、自分で自分に腹が立った。
縁起でもない。
あの二人は強い。
リアムもそう言ったじゃない。
なのに不安は消えない。
それに反して、私の体調は少しずつ戻っていた。
外へ出る時間が増えたからだと、最初は思った。
けれど、どこか違う気もしていた。
顔色も、少しはましになったらしい。
食事も、前よりは入る。
夜の発作も、回数だけなら減った気がする。
でも、それが安心にならない。
むしろ気味が悪かった。
回復しているのに、痣は増える。
楽になるのに、何かが自分の中で広がっている気がする。
ある日、ネローランが言った。
「例の魔族どもが、王都に侵入した」
短い報告だった。
胸の奥が重く沈む。
「ガレットとルシアは、すでに調査に入っている」
二人は戻っていなかったわけではない。
戻る暇もなく、次の任務に回されたのだ。
安堵と不安が、同時に来る。
それを噛みしめる暇もなく、ネローランの視線がリアムへ向いた。
「お前にも出動命令が出ている」
リアムの顔が強張る。
ミーナを見る。
それから、私を見る。
残るべきか、行くべきか。
迷ったのが顔に出ていた。
でも、もう迷っていられる状況じゃないことも、分かっているのだろう。
「……分かった」
答えた声は、思ったより低かった。
私は咄嗟に口を開く。
「リアム、無茶はしないで」
それしか言えなかった。
もっと他に言うべきことがあるはずなのに、そんなありきたりな言葉しか出てこない。
リアムは、少しだけ笑った。
「ああ」
短く答える。
「ミーナのこと、頼んだぞ。ペルナ」
私は頷いた。
頷くしかなかった。
胸の奥が重い。
頼まれた。
でも、守れるのか。
私にそんなことができるのか。
ミーナはもちろん、このままにはしておけない。
でも魔族に手を貸せば、私は人間側で生きられない。
軍を裏切ることになる。
父も母も、ただでは済まないかもしれない。
かといって、軍人としての大義を全うできるほど、私は強くもない。
軍トップクラスの魔法使いだなんて、自負していたくせに。
いざ選べと言われたら、何ひとつ決められない。
私はどうしたらいい。
ダイン。
名前だけが、胸の奥に浮かんだ。
あの人なら、たぶん選ぶ。
正しいかどうか分からなくても、目の前で誰かが傷つくなら、そちらへ手を伸ばす。
*
リアムが去ったあと、研究室には私とミーナだけが残された。
しん、と静かだった。
ついさっきまでそこにあった人の気配が消えると、この部屋の広さばかりが妙に目につく。
アダマンタイトの壁も、床も、何もかもが冷たかった。
ミーナは寝台の端に座ったまま、笛を握っていた。
何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている。
その視線を受けて、私は笑おうとした。
大丈夫。
何でもない。
平気だから。
そんな顔を作ろうとして、うまくいかなかった。
怖い。
その感情が、先に浮かんでしまった。
すると、ミーナの目が小さく揺れた。
傷つけた。
すぐに分かった。
「ちがうの……」
何が違うのか、自分でも分からなかった。
怖がっているのは本当だ。
けれど、それはミーナが憎いからじゃない。
あの子を悪だと思っているからでもない。
ただ、あの底なしの黒を思い出すと、身体が勝手に強張ってしまう。
そんな言い訳を、頭の中で並べている自分が嫌だった。
ミーナはしばらく私を見ていた。
それから、寝台から降りる。
裸足の足が床に触れる音は、ほとんどしなかった。
ゆっくり、こちらへ近づいてくる。
私は立ち上がることも、後ずさることもできなかった。
逃げたいわけじゃない。
でも、待って、と心のどこかが言っていた。
ミーナは私のすぐ前で止まり、少しだけ首を傾げた。
「ペルナ、いたいの?」
その一言で、胸の奥がひしゃげた。
優しすぎる、と思った。
怖がられたばかりなのに、責めるでもなく、ただ痛いのかと聞いてくる。
私は頷けなかった。
でも、否定もできなかった。
ミーナが、そっと手を伸ばす。
細い指先が、私の手に触れた。
その瞬間だった。
視界が裏返る。
立っている感覚も、呼吸も消えた。
泉があった。
静かな水面。
空が映っている。
けれど、その下は黒かった。
底が見えない。
ただ暗いのではない。
覗き込めば、自分の方が呑まれていくと分かる黒だった。
次に見えたのは、白く覆われた山。
王冠。
石の壁。
磨かれ、何かを受け止めるためだけに形作られたもの。
その輪の周りへ、黒い滴が落ちていく。
一滴。
また一滴。
落ちるたびに、何かが脈打つ。
双子の影。
騎士を抱きかかえる女。
憎悪。
空洞。
意味は分からない。
でも、言葉にならない感覚だけが流れ込んでくる。
私はそこにいない。
見ているだけのはずだった。
なのに同時に、自分の身体の中も見えていた。
青黒い痣。
そこから染み込んでくるもの。
あるいは、そこから漏れていくもの。
私の中には、もう私だけのものではない何かがある。
そのことだけが、異様にはっきりしていた。
弾かれるように手を引く。
視界が戻る。
「はっ……」
息が上がる。
膝が折れかける。
袖の下、痣のある場所が熱を持っていた。
脈に合わせて、内側から何かが叩いているみたいに痛む。
ミーナが驚いた顔でこちらを見ている。
私は何か言おうとして、言えなかった。
今見たものが何なのか、説明する言葉を一つも持っていなかった。
その時、外で小さな音がした。
ミーナが、はっと顔を上げる。
私も振り向いた。
開きかけた扉の向こう。
揺れる灯りの奥に、赤い髪が見えた。
肩までの柔らかな波。
細い輪郭。
やさしい目元。
投影石の中で見た女が、そこにいた。
ヘルザ。
一瞬、胸の奥が熱くなった。
来てくれた。
助けが来た。
その思いは、たしかに本物だった。
隣で、ミーナが息を呑む。
笛を握る指が、小さく震えていた。
会いたかった相手が、ようやくここへ来たのだ。
それだけで分かった。
通せば、私は人間側にいられなくなる。
止めれば、ミーナをここへ置いていくことになる。
そのどちらかを、今ここで選ばなければならない。
私一人で。




