第十三章 ドーンヘルムの騎士
魔族の姫、ミーナと出会ってから、数日が経った。
……数日、のはずだ。
この地下に入ってからは、外の様子が分からない。
朝も夕方もなく、灯りの明るさと眠気だけで時間を測っている。
だから本当は何日経ったのか、自信はなかった。
ただ一つだけ確かなのは、あの子がここで過ごしてきた時間の長さだ。
二か月以上。
敵国の姫だろうが何だろうが、そんなものは言い訳にならない。
少女を攫い、地下の部屋に閉じ込めておく理由なんて、どこにもない。
俺は槍を膝に立てかけたまま、ぼんやりと穂先を見ていた。
部屋の奥では、リアムが今日もミーナに話しかけている。
「それでさ、俺は思ったんだよ。あの投影石、やっぱお前の方が使い方うまいって」
ミーナは返事をしない。
寝台の端に座ったまま、小さな笛を握っている。
銀の髪が肩から流れて、青白い頬に影を落としていた。
けれど、何も聞いていないわけじゃない。
時々、ほんの少しだけ視線が動く。
ひどく小さいが、頷くこともある。
最初に会った時のリアムは、もっと刺々しかった気がする。
生意気で、冷たくて、口を開けば人を食ったようなことばかり言う奴だと思っていた。
なのに今は、何かが違う。
あれで気を遣っているつもりなのか。
それとも本当に変わったのか。
正直、よく分からない。
けれど少なくとも、ミーナを怯えさせないようにしているのだけは、見ていて分かった。
部屋の反対側では、ペルナが壁にもたれていた。
あの日以来、どう見ても本調子じゃない。
ミーナの前では明るく振る舞おうとしているし、皮肉も言う。
けれど顔色はまだ青い。
時々、何もないところを見ていることがある。
あの時、突然倒れて、息まで止まっていたのだ。
よく助かったと思う。
ミーナの中に巣食う何か。
ペルナはそんなことを言っていたが、俺には皆目見当もつかなかった。
ただ、あの時のペルナの顔を思い出すと、軽く考えていい話じゃないことだけは分かる。
そして、ルシア副官は今日も静かだった。
ミーナを見ている。
何も言わない。
何も言わなすぎる。
あの人は、強い。
すごく強い。
戦場に立っていれば、そこにいるだけで背筋が伸びる。
片腕を失っても、そんなことが最初から関係なかったみたいに前へ出る。
でも、だからこそ時々、怖くなる。
強いから大丈夫なんじゃない。
強い顔で立っている時ほど、何を抱えているのか分からなくなる。
俺は、ルシア副官のことを分かっているつもりで、たぶん何も分かっていない。
でも、分かる時もある。
この人が何も言わない時ほど、何かを深く抱えている。
それだけは、何となく分かるようになっていた。
部屋には、まともな寝台が一つしかない。
当然、ミーナのものだ。
俺たちは床に野営用の寝具を敷いて寝るしかなかった。
リアムとルシア副官と俺で、具合の悪いペルナの分だけ厚めに重ねる。
俺たちは壁にもたれて寝る。
兵士なら珍しくもない。
そういうことには慣れている。
でも、この床も壁も、ただの石じゃない。
覇鉱石。
元は、あれだ。
命懸けで掘りにいった石が、いまは少女を閉じ込める部屋の一部になっているかもしれない。
そう思うと、やりきれなかった。
夜の浅い時間、ペルナがうなされた。
肩が震える。
苦しそうに息を詰めて、何かを振り払うみたいに指先が動く。
すぐにリアムが駆け寄った。
「ペルナ」
呼びかける声が、思ったより低かった。
乱暴な奴なのに、こういう時だけ変に慎重だ。
ペルナはすぐには起きない。
眉を寄せたまま、小さく息を吐く。
ミーナが、その様子をじっと見ていた。
リアムはミーナをここから連れ出そうと考えている。
それは分かる。
けれど、無理だとも思う。
出口は一本。
警備は厳重。
しかも、あの女がいる。
ここへ来る時、すれ違った赤紫の法衣の女。
ネローラン。
名前だけは聞いた。
赤紫の中でも、頂点に近い格らしい。
長い茶髪で、顔の半分近くが隠れている。
背はルシア副官と同じくらいあった。
法衣の下に鎧を着ていて、手袋を外さない。
魔術師というより、軍人に見えた。
目も印象的だった。
あれは、誰かを見ている目じゃない。
任務の成否だけを見ている目だ。
定期的に、白や青の法衣を纏った術師を二、三人引き連れてやって来る。
食事を運ぶためだ。
もちろんミーナのためだが、俺たちの分も一応ある。
一度、軽口のつもりで言ったことがある。
「毒でも入ってるのか?」
ネローランは表情も変えず、こう返した。
「そんなことをしなくても殺せる」
冗談の通じない相手というより、そもそも冗談という発想がないのだろう。
俺たちは、幽閉された敵国の姫を見張ることしかできなかった。
見張る、というのも変な話だ。
あの子を見張っているのか。
シドや王都の連中が、あの子に何をするか見張っているのか。
自分でも分からない。
槍の穂先へ落ちる灯りを見ながら、ふと思う。
ダイン。
お前なら、どうする。
その時だった。
扉が開いた。
入ってきたのはネローランだった。
ただ、いつもと違った。
今日は取り巻きがいない。
代わりに、カーティス大佐がいる。
空気が、一瞬で変わる。
ネローランは部屋へ入るなり、前置きもなく言った。
「スマニア島で捕らえた魔族を収容している王都外れの施設が、魔族襲撃を受けた」
全員の視線が集まる。
「同志ビクターが死に、同志ウルヴァースより応援要請が入った。その後、通信は途絶えている」
「両者とも、私と同じ赤紫の法衣を持つ者だ」
「相手は相当の手練れと見ていい」
情報が多すぎて、頭が追いつかない。
スマニア島。
捕虜。
魔族襲撃。
この女と同格の術者が死んだ。
最初に口を開いたのはリアムだった。
「つまり俺たちに、討伐してこいって?」
「ああ」
ネローランは短く答えた。
「本隊は後から来る。だが、それを待てば逃げられる」
「私たちは先行する」
「待て」
リアムが一歩前へ出る。
「俺たちが出たら、ミーナが一人になる」
「信用できない」
まっすぐだった。
あいつはあいつで、もうはっきり隠さなくなっている。
「私が行く」
ルシア副官だった。
声は静かだったが、迷いがない。
「リアムは残って」
「それと、ペルナ。あなたはまだ駄目」
ペルナが小さく顔をしかめた。
言い返さない。
自分でも、まだ本調子じゃないと分かっているのだろう。
ルシア副官の視線が、次に俺へ向く。
ほんの一瞬。
それだけで、胸の奥が勝手に熱くなる。
「お供させていただきます!」
気づけば、声が出ていた。
我ながら少し大きすぎた。
ネローランはルシア副官の前まで来て、ひと目だけじっと見た。
そのあと、俺の方も見る。
「いいだろう」
「ついて来い」
それだけ言うと、さっさと背を向ける。
「ガレット、勝手に死ぬなよ」
リアムが後ろから言った。
「……ごめん」
ペルナが小さく言う。
「任せとけ」
そう返した声は、自分で思っていたより明るく出た。
俺は頷いて、ルシア副官のあとを追った。
*
何日かぶりの地上だった。
馬車はすでに用意され、出発の支度も整っていた。
乗り込んだのは、ネローラン、ルシア副官、そして俺の三人だけ。
広さはあるはずなのに、車内は妙に窮屈だった。
揺れるたび、車輪の軋む音だけがやけに大きく聞こえる。
しばらく誰も喋らなかった。
耐えきれなくなったのは俺の方だった。
「スマニア島の捕虜って、どのくらいいるんだ?」
ネローランは窓の外を見たまま答えた。
「兵士、島民合わせて百ほどだ」
百。
思っていたより多い。
「島民まで連れて来る必要はあるのか?」
ネローランはそこで初めて、ゆっくりこちらを向いた。
「前線のスマニア島に置いておけば、救出のため敵軍が来る」
「それに我々は、敵を知る必要がある」
声に感情はなかった。
まるで、雨が降れば地面が濡れると言うみたいな口調だった。
「知るって……」
喉の奥が熱くなる。
「研究材料ってことかよ」
思わず声が大きくなる。
ネローランは眉一つ動かさない。
「これは戦争だ」
「魔物討伐のような、単純な代物ではない」
「だからって、女子どもまで閉じ込めていい理由にはならないだろ」
返すと、ネローランは一拍だけ黙った。
「なら聞こう」
低い声が落ちる。
「お前は何のために戦っている」
「何のために殺してきた」
息が詰まった。
何のために。
ドーンヘルムの騎士団に憧れたから。
マルコム将軍に命じられたから。
ダインが一緒だったから。
ルシア副官の横に並びたかったから。
頭には浮かぶ。
浮かぶのに、どれもそのまま口に出せる答えじゃない気がした。
「俺は……ただ……」
言葉が続かない。
ネローランは俺の詰まり方を見て、淡々と告げた。
「大義なきものが志せば、いずれ歪む」
「歪めば、周りが死ぬ」
きつい言葉だった。
けれど、何も言い返せなかった。
「ガレットがいなければ、私は死んでいた」
ルシア副官だった。
窓の外を見たまま、静かな声で言う。
ネローランがわずかに目を細める。
「ほう」
「それに、ガレットはあなたより強い」
「少なくとも、私はそう思っている」
副官、それはさすがに言いすぎです。
口に出しかけたが、出なかった。
ネローランはそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。
「面白いことを言う」
その笑みは愉快そうでもあり、試すようでもあった。
次に、その目がルシア副官の左肩の方へ落ちる。
「ところで、お前の腕」
「義手はつけないのか?」
「シド殿が開発した良い品を、斡旋してやってもいいぞ」
「私はいらない」
ルシア副官は小さく答えた。
それだけだった。
言い訳も、怒りも、未練もない。
ネローランは少しだけ口元を歪める。
「食えない奴だ」
その声には、なぜか嫌味だけじゃないものが混じっていた。
俺は黙ったまま、揺れる馬車の床を見た。
大義。
何のために戦うのか。
さっきから、その言葉だけが頭の中に残っていた。
*
馬車が現場に着いた時は、真夜中だった。
だが、夜の静けさはなかった。
妙にざわついている。
灯りがあちこちで揺れ、人の走る気配がする。
怒鳴り声も、呻き声も、途切れ途切れに風へ混じっていた。
収容所の門は開いていた。
その時点で、もう異常だった。
普通なら、襲撃を受けた後こそ門は閉ざされるはずだ。
なのに、今は逆に大口を開けている。
まるで、中の混乱がまだ収まりきっていないみたいだった。
ネローランは馬車が止まるより先に、ほとんど飛び降りるように地へ降りた。
「行くぞ」
短く言う。
ルシア副官はもう刀へ手をかけていた。
俺も慌てて槍を掴み、二人のあとを追う。
門をくぐる。
衛兵がいない。
いや、違う。
いた。
倒れていた。
石畳の上に、何人も転がっている。
生きている者もいるが、呻き声しか出せていない。
中には動かない奴もいた。
灯りに照らされた血が、黒く乾きかけている。
背筋が冷える。
魔族の襲撃。
そう聞いて来た。
だが、ここにあるのはただの襲撃の跡じゃない。
もっと、綺麗に壊された感じがした。
力任せに暴れたんじゃない。
ちゃんと目的があって、それを達した跡だ。
俺は槍を構える。
場内へ進む。
収容所の造りは、思っていた以上に入り組んでいた。
中央棟を囲むように檻が並び、その奥に独房区画が伸びている。
いくつもの牢が見える。
だが、その扉はどれも開いていた。
全部、空だ。
衛兵だけが倒れている。
その光景が、逆に不気味だった。
ここまで綺麗に逃がすものか。
ただ魔族が暴れただけなら、こうはならない。
もっと滅茶苦茶になるはずだ。
壊し方に、変な整い方がある。
足元で、かすかな呻き声がした。
倒れていた衛兵の一人が、まだ息をしていた。
俺はすぐ膝をつく。
「大丈夫か?」
肩へ手をかけると、そいつは苦しそうに顔を歪めた。
血で濡れた口元が震える。
「状況を報告せよ」
割って入ったのは、ネローランだった。
冷たい声だった。
心配より先に報告を求める。
あの女らしい。
衛兵は息を詰まらせながら、絞り出すように言った。
「捕虜の魔族が……解放され……」
「ここの者を……逃がした」
「竜のような翼のある……魔族で……」
その言葉に、胸の奥がひやりとした。
竜のような翼。
ルーク。
思わず、自分の胸元へ手がいく。
あの時、負わされた古傷がうずく気がした。
錯覚だろう。
それでも、身体は先に覚えている。
あんな怪物が野放しに。
「ウルヴァースはどうした」
ネローランが続ける。
衛兵はわずかに首を振った。
「わかりません……」
「地下へ……」
そこまで言って、咳き込む。
血が散る。
ネローランはそれ以上を諦めたらしい。
踵を返す。
「行くぞ」
あっさりしていた。
見込みがないと判断したのだろう。
合理的で、腹が立つほど早い。
俺とルシア副官もあとを追う。
中央棟の奥、さらに地下へ続く通路へ入る。
石壁は湿っていて、灯りも少ない。
足音だけがやけに響く。
嫌な予感が濃くなる。
階段を下りる。
再び独房が並んでいた。
狭い通路の両側に鉄扉が続き、その前に衛兵が四人ほどうなだれていた。
死んではいない。
だが、意識はないらしい。
倒れ方が変だった。
まるで、一瞬で糸が切れたみたいに崩れている。
「状況は」
ネローランが一人の衛兵を揺する。
男はうめきながら目を開けた。
焦点の合わない目で、しばらく空を見ていたが、やがて怯えたように喋り出す。
「ミルヴァードの兵が捕らえた……魔族の女に……やられました」
「突然……赤髪が黒髪に変わって……」
「気がついた時には、みんな倒れていて……」
俺には意味が分からなかった。
だがネローランは、その報告が気に食わないらしく低く舌打ちした。
「まんまと侵入されおって」
そのままさらに奥へ進む。
通路の先、ひとつだけ扉が半開きになっている部屋があった。
血の匂いが、そこから濃く流れてくる。
嫌な感じがした。
ルシア副官が先に一歩出る。
刀を構えたまま、わずかに身体を低くする。
俺も槍を握り直した。
扉を押し開ける。
そこは広い部屋だった。
床には、衛兵が三人倒れている。
どれも動かない。
奥の方には、赤紫の法衣を纏った男が仰向けに転がっていた。
ウルヴァース。
名前は聞いていた。
ネローランと同格の幹部。
ネローランは迷いなくその死体へ近づくと、足先でひっくり返した。
胴が大きく裂けていた。
鋭利な何かで、一撃を入れられたみたいだった。
赤紫の法衣は血で黒ずみ、その下の身体にも傷が見える。
「……ルーク」
ルシア副官が小さく呟く。
その声で、俺は思わず副官の左腕があった方を見てしまった。
あの時のことが、頭をよぎる。
ルークの爪。
炎。
失われた腕。
血。
副官は何も言わない。
目を伏せもしない。
ただ死体を見ている。
「ウルヴァース。御苦労であった」
ネローランはそう言った。
冷淡だった。
同格の死体を前にしても、悲しむでも怒鳴るでもない。
ただ、任務の一区切りみたいに告げる。
その態度にぞっとする。
でも、いまはそれを口に出している場合じゃなかった。
部屋の中を見回す。
争った跡ははっきり残っている。
壁の削れ方。
血の散り方。
倒れた衛兵の位置。
だが、妙だった。
ルークが暴れただけ、という感じじゃない。
壊れ方のわりに、逃げた跡が変に整っている。
何があったのかは分からない。
ただ、見たまま荒らして出ていった、という光景には見えなかった。
ネローランはしばらく無言で部屋の中を見ていたが、やがて踵を返した。
「出るぞ」
短い命令だった。
俺たちは部屋を出た。
ウルヴァースの部屋に入ったネローランは、そのまましばらく姿を消した。
数分ほど経って戻ってきた時には、何かを掴んだ顔をしていた。
「魔族は、虜囚を装って潜入した」
「ルークを解放後、捕虜とともに去ったと推測する」
「時間からして三時間前」
「相手には女子供も含まれている」
「今からでも追えば間に合う」
ネローランは迷いなく言った。
魔族の襲撃。
ルークの解放。
赤髪が黒髪に変わる魔族の女。
ウルヴァースの死。
頭の中で情報が渦巻く。
冷静でいろと言われても無理だった。
それを見かねたのか、ルシア副官が不意に刀の柄で俺の頭をこついた。
「いてっ」
「子守りなら、置いて行く」
そう言って、腰まである黒い髪をなびかせて先へ進む。
あの人は、俺の扱い方をよく分かっている。
少しだけ頭が冷えた。
ここまで来たら、驚いてばかりもいられない。
ネローランが馬へ跨がる。
「追うぞ」
俺たちも続いた。
*
百人余りが歩いた痕跡を追うのは難しくなかった。
女子どもも混じっている。
荷もある。
しかも急いではいるが、ただ散って逃げた足跡ではない。
まとまって動いた跡だった。
先頭を走るネローランの馬が、不意に足を止めた。
「ここからは足で行く」
短い命令だった。
俺たちは馬を降りる。
辺りは、岩場と低木に囲まれた細い谷地だった。
左右を斜面に挟まれ、前だけが少し開けている。
百人近い人数を止めるには、ちょうどいい広さに見えた。
風も通りにくく、灯りを絞れば外からは見つかりにくそうだった。
嫌な場所だ、と思った。
隠れるにも、待つにも向いている。
ネローランが小さく片手を上げる。
前方に、人影が見えた。
四人ほど。
だが距離がある。
暗闇も深い。
誰が誰かまでは分からない。
魔族か。
そう思って槍を構えた時だった。
ふっと、人影が消えた。
「……っ!」
「幻影魔法か」
ネローランの声が鋭くなる。
「気づかれたか!」
次の瞬間だった。
背後から、殺気が落ちてきた。
振り向くより早く、ルシア副官が刀を上げる。
俺も反射で槍を返した。
激しい衝撃。
重い。
その一撃だけで、二人そろって吹き飛ばされた。
地面を転がって、肺の空気が全部抜ける。
俺はともかく、ルシア副官まで背後を取られて気づかなかった。
そこがまず異常だった。
起き上がる。
そこに立っていたのは、二人の魔族だった。
まず目を引いたのは、剣士の方だ。
灰色の短髪。
感情を削ぎ落としたような鋭い目。
鎧の上からでも分かる分厚い体格。
大剣を握るその姿には、荒々しさよりも統制の強さがあった。
立っているだけで、空気の重さが変わる。
もう一人は、女。
波打つ髪。
細身。
だが、ただ綺麗なだけではない。
笑っているわけでもないのに、どこか妖艶で、そして油断のならない気配があった。
ネローランが二人の前へ出る。
相手は魔族の剣士。
どう見ても、正面でぶつかる相手じゃない。
魔術師が前に出て通用するような気配ではない。
だがネローランは一歩も引かなかった。
剣士が、何の前触れもなく斬りかかる。
ガガン――。
耳慣れない金属音が響いた。
ネローランは、右腕でその一撃を受け止めていた。
法衣の袖が裂け、月明かりの下に鈍い金属光が覗く。
剣士の顔が、初めてわずかに歪んだ。
「生憎と、右手が丈夫なもので」
ネローランが笑う。
「ついでに左脚もな」
そう言って、今度は左脚で剣士の顔面を蹴り上げた。
剣士の巨体がよろめく。
そこへ追い打ちのように、ネローランが左手を前へ出す。
空間が歪んだ。
剣士の周囲の空気だけが、目に見えない重りで押し潰されるみたいに沈む。
膝が落ちる。
地面にめり込んだように、一瞬だけ動きが鈍る。
「重いか?」
ネローランは笑っていた。
ぞっとする笑みだった。
その時、赤白い霧が俺たちを包んだ。
辺りが一気に霞む。
見えない。
霧か、幻影か。
その両方か。
幻影を操る魔族の女の術だと、直感した。
気のせいか、女の声がどこからともなく響く。
左右から。
前から。
後ろから。
耳元で囁かれているようでもあり、遠くで笑われているようでもあった。
気分が悪くなる。
距離感が狂う。
足元が揺れる。
どこが前か、一瞬分からなくなる。
「ふっ……舐めた真似を」
ネローランの声が、霧の向こうで聞こえた。
次の瞬間、短い悲鳴。
霧が晴れる。
魔族の女が肩口を押さえていた。
その前に立つネローランの右手には、青白く光る剣状の魔具があった。
「フーリエ!」
剣士の魔族が低く叫ぶ。
その名が耳に残る。
フーリエと呼ばれた女は、傷口を押さえながら、小さく息を吐いた。
「やっぱり、小細工は通じないわね」
その声と同時に、空気が変わる。
さっきまで周囲に広がっていた幻影の気配が、今度は女自身の身体へ収束していくみたいだった。
輪郭が揺らぐ。
波打つ髪が、獣のたてがみめいて広がる。
次の瞬間、そこに立っていたのは、妖狐に狼の鋭さを足したような異形だった。
狐に似ている。
だが、もっと獰猛で、もっと戦うためだけの形に見える。
しなやかな四肢。
光を撫でるような毛並み。
その目だけが、人型の時以上に冷たく美しかった。
「今度は、幻影じゃないわ」
フーリエが言う。
直後、無数の短剣が空中に現れた。
銀でも鉄でもない、魔力で編んだ刃だ。
それが一斉にネローランへ向かって飛ぶ。
ネローランは魔法障壁で受けた。
全部は防ぎきれない。
頬に浅い傷が走り、血が一筋流れる。
なのに、その女はまだ笑っていた。
「面白くなってきた」
一方、剣士の魔族は俺たちと対峙していた。
「いく」
ルシア副官が短く言った。
次の瞬間には、もう踏み込んでいる。
片腕とは思えない。
長刀が鞭みたいにしなり、間合いを読ませない。
何度見てもすごいと思う。
俺も合わせる。
副官の刃へ食らいつくみたいに槍を出す。
だが、剣士はそれを捌く。
重さで受けるんじゃない。
全部見えているみたいに、無駄なく流される。
圧倒的だった。
正面に立っているだけで、身体が勝手に守りへ入ろうとする。
二合、三合。
こちらは食らいつくだけで精一杯なのに、相手はまだ余裕を残していた。
そこで初めて、剣士がわずかに構えを戻した。
「……悪くない」
低い声だった。
灰色の目が、俺と副官を順に見る。
「私はシェルカエン騎士団長を務める」
「名はガーランド」
唐突だった。
だが、不思議と冗談には聞こえなかった。
この男にとっては、力量を認めた相手へ名を告げるのが自然なのだと、そんなふうに思わせる声音だった。
「汝等の名は」
どうしてか、黙っているわけにはいかなかった。
「俺はドーンヘルムの騎士、ガレット!」
「こっちはルシア副官だ!」
思わず大声になる。
ルシア副官は何も言わない。
だが、否定もしない。
「ガレット、ルシア」
ガーランドが低く復唱する。
「いざ」
その一言で、空気がまた変わった。
圧が増す。
さっきよりもさらに深く、こちらの足場を奪われた感じがした。
その時だった。
「ガレット」
聞いたことのある声がした。
耳が、その音だけを拾った。
うそだろ。
顔を向ける。
そこに立っていたのは、死んだはずの友だった。
ダイン。
胸へ布が巻かれている。
そこから血が滲んでいた。
傷を負っているのがひと目で分かる。
だが間違いない。
あれはダインだ。
頭が真っ白になる。
「ダイン……」
自分の声が、ひどく間抜けに聞こえた。
生きていた。
本当に。
「ダイン! 生きていたんだな!」
戦いも、敵も、全部吹き飛んだ。
気づけばそっちへ駆けていた。
ダインが剣を向ける。
「悪い、ガレット」
「ここは引いてくれ」
意味が分からなかった。
幻影の続きかと思った。
そうであってほしいと、どこかで思った。
「ダイン」
ガーランドの声が後ろから飛ぶ。
「フーリエの魔法で身を隠せと言っただろ」
「すまない」
「昔の知り合いでな、ガーランド」
頭が追いつかない。
何を言っている。
何で、そんなふうに喋る。
「何を言ってるんだ」
自分でも声が掠れているのが分かった。
「ダイン、お前……まさか、こいつらの仲間なのか?」
ダインの目が、一瞬だけ揺れた気がした。
だが、次に返ってきた声は低くて硬かった。
「ああ、そうだ」
「シェルカエンでマルコムに裏切られた」
「今は、こっち側だ」
ルシア副官は黙って見ている。
その沈黙が、余計に怖かった。
「じゃあ、収容所の襲撃も……!?」
「ああ」
「俺がやった」
「簡単に騙せて入れたよ」
ダインの声は、わざと硬くしているように聞こえた。
俺を突き放すために、そう言っているのかもしれない。
けれど、その時の俺には、そんなことを考える余裕はなかった。
死んだと思った親友が、生きていた。
それだけでも頭がおかしくなりそうなのに、今度は魔族側についたと言う。
何をどう理解すればいい。
胸の奥で何かが爆ぜた。
「ふざけるな!」
叫んでいた。
「絶対、連れて帰るからな!」
俺はダインに飛びかかった。
ダインはガーランドを手で制して、自分から前へ出る。
剣と槍がぶつかる。
重い。
重いくせに、知っている間合いだった。
打ち合った瞬間、ドーンヘルムの訓練場が頭をよぎる。
汗。
砂埃。
くだらない軽口。
横で笑うダイン。
くそ。
くそ。
何でこんなことになってる。
槍を突く。
ダインが払う。
返しを出す。
受けられる。
でも、鈍い。
手負いのせいか、明らかに動きが鈍っていた。
踏み込みも浅い。
呼吸も乱れている。
ダインの胸元から、滲んだ血が広がっていく。
思わず、槍先が止まる。
ダインが膝をついた。
そこでようやく、俺は槍を下げた。
「ダイン」
喉が焼ける。
「今なら間に合う」
「こっちに戻ってこい」
お願いだ。
「マルコム将軍のことは、俺と副官で何とかする」
「だから――」
ダインはゆっくり顔を上げた。
返ってきた言葉は、俺の欲しかったものじゃなかった。
「あそこは、俺の帰る場所じゃない」
それだけだった。
ダインはよろよろと立ち上がる。
まだそんなことを言うのか、と怒鳴りたかった。
でもその時、別の声がした。
「ダイン、これ以上はやめて」
女の声だった。
もう一人、隠れていたのか。
顔を向ける。
そこで、時が止まった気がした。
赤い髪。
肩までの柔らかな波。
細い輪郭。
やさしい目元。
ミーナが投影した女だった。
たしか、ヘルザ――。
彼女はまっすぐダインのもとへ駆け寄り、その身体を支えた。
そこで、ようやく線が繋がる。
ダインの任務。
死んだことにされたこと。
ミーナの誘拐。
捕虜の救済。
ヘルザと一緒にいること。
そして、その目的。
ネローランの言葉が頭をよぎる。
大義なきものが志せば、いずれ歪む。
歪めば、周りが死ぬ。
悔しいが、その通りだ。
でも今、目の前にいるダインは、歪んだ末にここへ来たんじゃない。
歪んだまま、それでも誰かを助けようとしてここにいる。
「……鈍すぎるな、俺」
思わず口から漏れた。
俺はそのままダインの方へ歩いた。
ヘルザが一瞬だけ身構える。
俺は小さく言った。
「姫は、城の地下」
それだけだった。
言った直後、自分でも次に何をするか、半分も考えていなかった。
ただ、このままじゃまずい、ということだけは分かっていた。
ネローランが戻れば終わる。
ここで立ち止まれば、全部潰れる。
気づけば、槍先を自分の脚へ落としていた。
激痛が走る。
視界が白くなる。
「ネローラン殿!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「負傷しました! 助けてください!」
「ネローラン殿、早く!」
今のうちだ。
その思いだけを、ダインへ向ける。
ダインも、ヘルザも、ほんのわずかに頷いた。
すぐにネローランが戻ってきた。
「お前が大声で叫ぶから、あの女狐を逃した」
苛立った声だった。
フーリエの姿はもうない。
「何だ、これしきの傷で。ふざけるな」
吐き捨てるように言う。
だが、それ以上は追わなかった。
ネローランは裂けた法衣の袖を見た。
金属の右腕が、わずかに軋む音を立てている。
追えば追える。
だが、この人数で、あの剣士と女狐とルークまで相手にするのは無謀だ。
そう判断したのだと、俺にも分かった。
「で、剣士の方はどうした」
「去って行きました」
ネローランは俺を見下ろしたあと、短く息を吐く。
「……これ以上の追跡は無理だ」
「撤収する」
あまりにあっさりしていて、一瞬だけ拍子抜けしたほどだった。
ネローランは俺の脚の傷を一瞥しただけで、背を向けた。
「戻るぞ」
短く、それだけ言う。
谷地の向こうには、もう人の気配はなかった。
ガーランドも、フーリエも、ダインたちも、夜の向こうへ消えている。
俺は脚に走る痛みをこらえながら、槍を支えに立ち上がった。
血はまだ止まらない。
ずきずきと脈に合わせて痛む。
自分でやったことなのに、馬鹿みたいだと思う。
だが、後悔はなかった。
戻り道は、行きよりずっと静かだった。
ネローランは先頭を歩き、何も言わない。
追撃を諦めた理由も、いま考えていることも、口にしない女だった。
月明かりに照らされた横顔は冷え切って見えるのに、法衣の裂け目から覗く金属の義肢だけが妙に生々しい。
あの女も、傷を抱えたまま立っている。
そんな当たり前のことに、今さら気づく。
でも、だからといって好きになれるわけじゃなかった。
俺はただ、黙って歩くしかなかった。
少し遅れて、ルシア副官が俺の横に並ぶ。
何も言わないまましばらく進み、それから、ぽつりと落とすように言った。
「ガレット」
「はい」
「気づくの、遅すぎ」
短かった。
責めているようにも聞こえる。
でも、本気で怒っている声ではなかった。
思わずそちらを見る。
ルシア副官は前を向いたままだ。
黒い長髪が夜風に揺れている。
表情はよく見えない。
けれど、ほんの少しだけ口元がやわらいで見えた。
「……すみません」
そう返した声は、情けないくらい素直だった。
ルシア副官はそれ以上、何も言わない。
でも、その沈黙はさっきまでと少し違った。
責められたというより、追いつくのを待ってもらえた感じがした。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
収容所へ戻る頃には、痛みより疲労の方が強くなっていた。
衛兵たちの慌ただしい足音。
運び込まれる負傷者。
飛び交う怒鳴り声。
全部が、まだ終わっていないことを示している。
なのに俺の中では、あの谷地で起きたことだけが、ずっと残っていた。
ダインは生きていた。
それだけでも十分すぎるほど大きいのに、あいつは俺の知っている場所とは別のところに立っていた。
人間の側でも、魔族の側でもないような顔をしていた。
傷だらけで、戻れないと言って、それでも誰かを助けようとしていた。
正しかったのかどうかなんて、まだ分からない。
俺がやったことも、ダインが選んだことも、いつか別の形で俺たちを追い詰めるのかもしれない。
それがドーンヘルムの騎士として正しいのかは、まだ分からない。
でも、あの時の俺は、たしかに思っていた。
あの時の俺の行いは、俺という人間にとって正しかったのだと。




