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イーシスの胚  作者: ozoo39
13/19

第十二章 越境


 ここにも、ミーナの姿はなかった。


 あるのは、雑に積まれた書物と鉱石、魔道具ばかりだ。


 壁際には大きな檻まである。

 中は空だった。

 だが、空であることが、かえって気味が悪い。


 何が入れられていたのか。

 考えたくもなかった。


「……これで四つ目か」


 思わず吐き出した声が、自分でも驚くほど荒れていた。


 シドの施設を当たるのは、これで四つ目だった。


 二か月近い。


 あの日から、もう二か月近く経っている。


 シドの施設を一つ潰しても、次がある。

 次を当たっても、また次がある。


 足跡を追っているつもりなのに、追うたびに、あの男の手が大陸中へ伸びていることだけが分かっていく。


「クソ……!」


 拳を握る。


 焦りが、遅れて熱になった。


「ダイン。焦らないでください」


 背後から、静かな声がした。


 振り返ると、ヘルザがそこにいた。


 深くフードを被ったまま、崩れた棚の横に立っている。

 表情は見えにくい。


 それでも、その声音だけで、少し息が整うのが分かった。


「すまない」


 反射みたいに言ってしまってから、また嫌になる。


 最近の俺は、謝ってばかりだ。


 ヘルザは小さく首を振った。


「シドの研究所は大陸中にあります」

「表向きは鉱石研究所、魔道具工房、軍の補給施設。形を変えて、いくつも」

「ここまで多いとは、私も思っていませんでした」

「ガーランド様とフーリエ様が、別の場所で何か手がかりを見つけてくださることを願いましょう」


 南大陸へ渡ったあと、俺たちは二手に分かれていた。


 フーリエの幻影魔法で魔族を人間に見せかけ、あるいは人間に紛れ込ませ、目ぼしい施設を片端から当たっている。


 俺とヘルザ。

 ガーランドとフーリエ。


 フーリエは、男女の組み合わせの方が怪しまれにくいと言った。

 現実的で、腹立たしいほど正しい判断だった。


 俺が、かつてシェルカエンでやっていたことを、今度は人間側でやっている。


 皮肉にも程がある。


「とりあえず、待ち合わせの宿へ向かいましょう」


 ヘルザはそれ以上、空振りの施設へ未練を見せなかった。


 切り替えが早い。

 そうでなければ、医師なんてやっていられないのかもしれない。


 馬へまたがるその横顔を見ながら、ふと思う。


 シドに裏切られた。

 傷も負った。

 最愛のミーナを攫われた。


 それなのに、俺みたいな人間と二人で行動している。

 恐れも、嫌悪も、表には出さない。


 強い人だ。


 素直にそう思った。


 ルシア副官とは違う。

 フーリエとも違う。


 ヘルザの強さは、刃でも権謀でもなく、折れずに立ち続ける種類の強さだった。


 だが、夜になると違う顔が見える。


 野営の時、ヘルザはときどきうなされていた。

 小さく息を詰め、時には誰かの名をうわごとのように呼ぶ。


 ヘルド。


 その名だけを、何度か聞いた。


 人の名のようで、人の名ではないような響きだった。


 そのたびに、胸の奥が重くなる。


 この人も平気なわけじゃない。

 平気な顔で立っているだけだ。


 峠道を下りながら、気づけば口を開いていた。


「……俺を信用してくれて、ありがとう。ヘルザ」


 ヘルザは馬を進めたまま、少しだけこちらを見る。


「人間は信用しません」


 一瞬、息が止まりそうになる。


 だが、彼女はそのまま続けた。


「でも、貴方は信用しますわ。ダイン」


 どう返せばいいのか、分からなかった。


「そうか……」


 出てきたのは、それだけだった。


 複雑だった。


 嬉しいなんて言葉で片づけられない。

 だが、少なくともその瞬間、少しだけ救われたのも本当だった。


          *


 待ち合わせの宿がある街は、王都からは離れていたが、思ったより賑わっていた。


 近くに鉱山があるせいだろう。


 街道を行く荷馬車は多く、粗末な酒場の前には日焼けした鉱夫や商人たちがたむろしている。

 訛りも服装もばらばらで、大陸中からいろんな人間が流れてきているのが分かった。


 俺たちにとっては都合のいい場所だ。


 目立たない。

 誰もが余所者だから、余所者が二人増えても怪しまれにくい。


「まだのようですね」


 宿の二階。

 通りを見下ろせる窓際に立って、ヘルザが言った。


 ガーランドとフーリエの姿は、まだない。


 俺は黙って街路を見た。


 ガーランド。


 王に忠誠を誓う高潔な剣。

 彼から見れば、俺なんかは卑しい、弱い人間にしか映っていないのだろう。


 正直、どう接すればいいのか、今でもよく分からない。


 元はと言えば、全部俺が始まりだった。


 俺がミーナ誘拐に加わらなければ、こんなことにはならなかった。


 それなのに、いまさら“気まずい”だの“どう接するか”だの、何を弱気になっている。


 そんな自分に腹が立つ。


「……そうだな」


 結局、口から出たのはひどく陳腐な答えだった。


「いい知らせだと、いいんだが」


 自分で言って、情けなくなる。


 ヘルザは何も言わなかった。

 責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ窓の外を見ていた。


 その沈黙がありがたかった。


 数時間後、街路の向こうに見慣れた二人の姿が現れた時、最初に異変へ気づいたのはヘルザだった。


「……ダイン」


 短い声。


 窓へ寄る。


 ガーランドが、傷を負っていた。


 歩けないほどではない。

 だが、身じろぎ一つで隠しきれないほど、肩口から脇腹にかけて血が滲んでいる。


 フーリエの顔色も良くない。


 あの女がここまで露骨に緊張を残しているのを、初めて見た。


 宿へ入ってくるなり、フーリエが声を上げる。


「ヘルザ殿、傷の手当てを!」


「すぐに」


 ヘルザは一瞬で空気を切り替えた。


 医療鞄を引き寄せ、椅子を空けさせ、迷いなくガーランドの傷へ手を伸ばす。


「こんなのはかすり傷だ。必要ない」


 ガーランドは低く言ったが、ヘルザは気にも留めない。


「そうもいきません」

「大人しく座っていてください、ガーランド様」


 こういう時のヘルザは強い。


 序列も遠慮もない。

 やるべきことだけを見ている。


 ガーランドは一瞬だけ何か言いかけて、結局黙って椅子に腰を下ろした。


「……何があった」


 俺が問うと、フーリエが答えた。


「スマニア島で捕らえられた魔族たちの収容施設を見つけたわ」


 胸の奥が、鈍く痛んだ。


 スマニア島。


 俺たち人類が侵攻した島。

 戦功の名の下に、どれだけ踏みにじったのか、いまさら数えたくもない場所。


「そこに赤紫の法衣を纏った魔術師が二人いた」

「私の幻影を見破るほどの実力者だったわ」

「一人は仕留めた。でも、その後すぐ増援に囲まれて、撤退せざるを得なかった」


 赤紫。


 俺も詳しく知っているわけじゃない。

 だが王都中枢で、高い地位の魔術師にだけ許される色だということくらいは聞いたことがある。


「人間で、そこまでの実力者が……」


 思わず漏れる。


 フーリエが薄く息を吐いた。


「ええ。正直、見誤っていたわ」

「王都の中枢は、思っていた以上に厄介よ」


 手当てを受けながら、ガーランドが口を開く。


「侵入が露見した以上、今後はさらに動きづらくなる」


 短い言葉だった。

 だが、その一言に、状況の悪さが全部入っていた。


「だが」


 そこで、彼の声がわずかに低くなる。


「あの場を見た以上、同胞を見捨てるわけにはいかない」


 同胞。


 その言葉に、もう迷いはなかった。


 ヘルザの手が一瞬だけ止まる。

 すぐにまた動き出す。


「ガーランド様」

「ですが、今の状況ではあまりに危険です」


「危険でも行く」


 ガーランドは即答した。


「見つかった今、施設側も警戒を強めるでしょう」

「次に入る時は、今日よりずっと難しい」


 フーリエが現実的に言う。


 部屋の空気が重くなる。


 その重さに耐えきれなくなって、俺は口を開いた。


「俺が行く」


 三人の視線が一気に集まる。


 もう言ってしまったあとだった。


「こんなことを言う資格が俺にあるのか、自分でも分からない」

「でも、やらせてくれ」


 喉が熱くなる。


「元はと言えば、俺のせいだ」

「ここで見てるだけなんて、できない」


 ガーランドが俺を見る。


 その目に、試すような鋭さがあった。


「人間のお前なら、潜り込みやすい」


 フーリエが冷静に言う。

 肯定とも、否定ともつかない声音だった。


「私も行きます」


 そう言ったのは、ヘルザだった。


 反射的に顔を上げる。


「貴方は戦闘員ではないわ」


 フーリエが言う。


「分かっています」

「でも、フーリエ様もガーランド様も、すでに姿を見られている」

「いま警戒が緩いのは、ダインと私の方です」


 筋は通っていた。


 でも、納得はできない。


「危険すぎる」


 思わず口を挟む。


「バレたら終わりだ。俺だけで行く」


「一人では無理です」


 珍しく、ヘルザがすぐに返した。


「捕虜を探す人間と、捕虜として中に入る者。その両方が必要です」

「それに」

「ダインだけで“捕えた魔族”を連れてくるのは不自然です」


 そこでフーリエが目を細めた。


「……作戦があるのね」


 ヘルザは頷く。


「ダインが、潜入した魔族の一味を捕えたことにする」

「その体で堂々と収容施設へ入る」

「私は捕虜として中へ入る」

「隙を見て収容者を解放する」

「その間に、ガーランド様とフーリエ様には脱出経路を確保していただきたい」


 部屋が静まり返った。


 危険すぎる。


 でも、通る。


 通ってしまうから、余計に嫌だった。


「ヘルザ殿でなくても、私やフーリエでいいだろう」


 ガーランドが言う。


 だが、ヘルザは首を振った。


「お二人がダインに捕えられるのは、どう考えても不自然です」

「それに、相手が相当の手練れなら、見た目の説得力も必要です」


 少しだけ、こちらを見る。


 言外に、ダインではガーランドもフーリエも捕まえられないと言っている。


 その通りだから、何も言えない。


「……そうだな」


 ようやく認めると、ヘルザはわずかに眉を下げた。

 少しだけ申し訳なさそうに。


 その顔を見て、逆に変な笑いが出そうになった。


 こんな時にまで気を遣わせて、何をやってるんだ俺は。


「約束する」


 気づけば、ヘルザをまっすぐ見ていた。


「俺が、貴方を守る」


 ヘルザは少しだけ目を見開いたあと、ゆっくり頷いた。


「ええ」

「そうしていただけると」


 その返事が、妙に静かで、重かった。


 ガーランドが立ち上がる気配を見せる。


「ヘルザ殿に何かあれば、お前の首を斬る」


 強い口調だった。


 だが、以前よりわずかに違う。


「……頼んだぞ、ダイン」


 その一言に、初めて少しだけ信頼の色が混じっていた。


「ああ」


 答える。


「必ず成功させる」


 フーリエが小袋を差し出してきた。


「これを持っていって」


 受け取る。

 中には、さらさらした緑の粉が入っていた。


「魔封石ほどじゃないけど、一時的に相手の魔力を鈍らせるわ」

「高位術者相手には、ないよりまし程度。でもゼロよりはずっといい」


 赤紫クラスとやり合う可能性があるなら、喉から手が出るほどありがたい。


「ありがとう、フーリエ。行ってくる」


「ご武運を」


 フーリエが言った。


 その声は、意外なほど真っ直ぐだった。


          *


 収容施設へ向かう道中、しばらく会話はなかった。


 荒れた道を馬が進む音だけが続く。

 風は乾いていて、土の匂いが鼻につく。


 遠くの地平は白くかすみ、そこに施設の影が沈んでいるのが見える。


「……ヘルザ」


 耐えきれなくなって、口を開いた。


「本当にいいのか」

「ミーナを助ける前に、死ぬかもしれないんだぞ」


 ヘルザは前を向いたまま答える。


「私は医師です」

「たとえ医療でなくても、救える手段があるなら救うのが務めです」


 大真面目だった。


 それがこの人らしい。


 少し間を置いてから、彼女は続けた。


「それに、私は王家の血を引いているにもかかわらず、魔力が弱く、お役に立てることの少ない立場でした」

「あの時も、私がフーリエ様のように巧みで、ガーランド様のように強ければ、ミーナ様はあんなことにならなかったのに、と……何度も考えました」


 胸が痛む。


 本当にすまない、という言葉が喉元まで出る。

 でも、それはもう何度も言った。


 それでも、言わずにいられなかった。


「……本当に、すまない」


 ヘルザは小さく首を振る。


「貴方が謝る必要はありません」

「これは、私の力のなさの話です」


 それから、少しだけこちらを見た。


「それに貴方は、こうして罪と向き合っています」

「これは、魔族だってなかなか出来ることではありませんよ」


 まっすぐな目だった。


 逃げ場がないと思った。


 こんなふうに言われたら、もう逃げられない。


「貴方は、弱くない」


 言葉が先に出た。


「強いよ」


 間が空く。


 ヘルザは目を逸らした。


「あれです」


 指さす。


 話を切ったのだと分かった。

 たぶん、それ以上はお互いに危なかった。


 視線の先には、収容施設があった。


 荒れた荒野の真ん中に建つ、灰色の要塞。


 高い壁。

 見張り台。

 厚い門。


 思っていた以上に、造りが頑丈だ。


 あそこに、スマニア島の捕虜がいる。


 俺たちが傷つけた魔族たちが。


 馬を降りる。


 ヘルザの手首と胴へ縄を回した。


 作戦だと分かっていても、指が少しだけ止まる。


「すまない」


 また言ってしまった。


 ヘルザが苦笑する。


「貴方は、本当に謝ってばかりですね」

「これは作戦の一環です」


 その言い方に、少しだけ救われる。


 彼女は深くフードを被り、俯いた。

 それでいて、怯えているようには見えなかった。


 強い。


 だからこそ、絶対に失敗できない。


 門の前へ立つ。


 衛兵が槍を向けてきた。


「止まれ。何者だ」


 息を整える。


 こういう報告口調は、新兵の頃に嫌というほど叩き込まれた。

 身体はまだ覚えている。


「ミルヴァード第201軍、カーティス大佐の命により、大陸へ潜入した魔族の一味と思しき者を拘束しました」

「収監と上官への報告を求めます」


 ヘルザは俯いたまま何も言わない。

 縄の向こうで、呼吸さえほとんど揺れていない。


 衛兵のひとりが目を細める。


「……まことか?」


「詰問の結果、仲間の存在を示唆しました」

「緊急性が高いと判断しています」


 緊張で喉が乾く。


 やがて衛兵はもう一人へ命じた。


「ウルヴァース殿に伝えろ」


 走っていく足音。


 あとは待つしかない。


 数刻が、やけに長かった。


 やがて衛兵が戻ってくる。


「ウルヴァース殿が、連れてこいとのことだ」


 胸の奥で、ひとつだけ鼓動が強く鳴った。


 ひとまず、潜入は成功した。


          *


 門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 外の風は乾いていたのに、中は妙に湿っている。


 石と鉄と、古い血の匂いが混じっていた。

 人が多く閉じ込められている場所の匂いだ。


 慣れたくもないのに、戦場の後方で何度も嗅いだことがある。


 視線を動かす。


 壁は高い。

 見張り台は四つ。

 衛兵の数も多い。


 しかも、ただ数が多いだけじゃない。

 動きに無駄がない。


 俺みたいな末端の兵が寄せ集めで並べられた施設ではないのが、一目で分かった。


 ここは“逃がさないための場所”だ。


 通路の向こうでは、檻越しに押し込まれた魔族たちの姿が見えた。


 女子どももいる。


 やせ細った者。

 虚ろな目で壁を見つめる者。

 逆に、まだ憎しみだけは失っていないような目でこちらを睨む者。


 衛兵が、暴れた若い魔族を棍棒で殴りつけた。


 鈍い音。

 小さな悲鳴。

 隣の檻の子どもが身を竦める。


 胸の奥が、鈍く軋んだ。


 何を守っていたんだ、俺は。


 そんな問いが、一瞬だけ浮かぶ。


 だが今それに足を取られれば終わる。


 前を向け。

 役を崩すな。


 本部らしき建物へ通される。


 中へ入った瞬間、ひと目で分かった。


 いる。


 部屋の中央に立つ男は、年の頃なら五十前後だろう。


 細い。

 背も高くない。


 だが、ただ立っているだけなのに、部屋の空気がその男を中心に張り詰めている。


 赤紫の法衣。


 幹部だ。


「我が同志ビクターを亡き者にした魔族の一味とは、これか」


 冷たい声だった。


 男――ウルヴァースは、杖の先でヘルザのフードを持ち上げた。


 心臓が一度、大きく跳ねる。


 ヘルザは俯いたまま、何も言わない。


 緊張で背中に汗が滲む。


 ウルヴァースは少しだけ眉を寄せた。


「……にしては、魔力が弱い」

「なぜ一味だと判断した?」


 一拍。


 ここで詰まるな。


「拘束後に詰問しました」

「仲間の特徴として、長身の騎士と妖艶な女を挙げました」


 自分でも、よくこんな嘘が咄嗟に出たと思う。


 ガーランドとフーリエ。

 ついさっきまで一緒にいた二人の特徴を、何でもないことみたいに口にする。


 ウルヴァースは無表情のまま、こちらを見ていた。


 その沈黙が長い。


 見抜かれたか、と思った時だった。


「王都の軍へ応援を要請したが、こんなに早いとはな」


 低い声で言う。


「軍も侮れぬか」


 通った。


 だが、安心するには早すぎる。


「ダイン殿だったな」


 俺の名を口にした。


「大義であった。下がってよい」


「ウルヴァース殿」


 すぐに続ける。


「軍より、しばらくこちらへ留まり、護衛任務に回れと命じられています」


 ウルヴァースの目がわずかに細くなる。


「そのような話は聞いておらんが」


 喉が乾く。


「緊急措置です」

「敵勢力の侵入が確認された以上、現場判断が優先されました」


 押し切れるか。


 ウルヴァースは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、わずかに鼻で笑うような息を漏らす。


「短期間で魔族を捕えたのだ」

「見た目によらず、優秀らしい」

「よきに計らえ」


 助かった。


 だが次の一言で、背筋が冷える。


「その魔族は別の独房へ入れておけ」


 ヘルザがどこへ連れていかれるのか、ここでは分からない。


 今すぐ追えば怪しまれる。

 追わなければ見失う。


 最悪だ。


 それでも表には出せない。


「承知しました」


 頭を下げる。


 ヘルザは衛兵に連れられていった。


 俯いたまま、一度もこちらを見ない。

 そういう打ち合わせではあったが、それでも喉の奥が焼けるようだった。


          *


 護衛の名目で施設内を見回ることは許された。


 だが自由に動けるわけじゃない。


 どこへ行っても、誰かの目がある。

 見張り台、巡回、通路の角、扉の影。


 ここは檻だけじゃなく、視線の数で出来た施設だ。


 歩きながら、できるだけ多くを覚える。


 東側に大檻。

 西側に個室群。

 中央に本部棟。

 地下への搬入口らしきものが一つ。


 収容者は百名ほどはいるだろうか。


 スマニア島の捕虜。

 女子どもも混じる。


 痩せている。

 水も食事も足りていないのが分かる。


 病気の匂いもする。


 俺は医者じゃない。

 それでもここが“生かすための施設”ではなく、“死なない程度に持たせるための施設”だということくらいは分かった。


 そして、時折、暴れる魔族兵を衛兵が取り押さえている。


 殴る。

 蹴る。

 押さえ込む。


 慣れた手つきだ。


 その光景を見ていると、自分がどちら側に立っているのか分からなくなる。


 いや。


 分かっている。


 もう、分からないふりはできないだけだ。


 だが、ヘルザがどこへ入れられたのかだけは、どうしても掴めなかった。


 探りすぎれば怪しまれる。

 いまここで尻尾を出すわけにはいかない。


 俺は夜を待つことにした。


          *


 真夜中。


 施設の音が、少しだけ変わる。


 昼のざわめきが沈み、代わりに足音と鍵の音だけが浮いて聞こえる。


 こういう時間の方が、逆に警戒は鋭い。


 それでも、昼の見回りで手薄だと感じた区画へ向かう。


 見張りの気配が、妙に薄い。


 嫌な感じがした。


 そこは、施設の外縁部に近い通路だった。


 石壁が古く、増築された区画なのか、ほかよりも少し幅が狭い。

 奥へ、地下へ続く階段がある。


 入り口に衛兵の気配はない。


 おかしい。


 留守番を置かないはずがない。

 なのに、いない。


 半信半疑のまま、階段を下りる。


 下へ行くほど、空気が冷える。

 湿っていて、それでいて埃っぽい。


 奥へ進むと、独房らしき部屋が並んでいた。

 灯りが少ない。

 暗い。


 その一つの前で、何かが立っているのが見えた。


「……ヘルザ?」


 声にした瞬間、自分でも違和感に気づいた。


 暗がりに立つその輪郭は、たしかにヘルザに似ていた。

 細身で、肩までの髪で、フードを被っていない。


 だが、姿勢が違う。


 静かすぎる。


 まるで、そこに“置かれている”みたいに立っていた。


 ぞくりとした。


 その足元に、衛兵が四人転がっていた。

 剣も無造作に落ちている。


 血は出ていない。

 死んではいないようだが、誰一人として動かない。


 俺は我に返って駆け寄った。


「ヘルザ! 無事か!」


 肩を掴む。

 その身体が小さく揺れた。


「……ダイン?」


 顔を上げる。


 いつものヘルザだった。


 だが、どこか夢から起こされたみたいに、状況が掴めていない顔をしている。


「大丈夫か」


「私は……」


 ヘルザは視線を足元へ落とす。


 倒れた衛兵たち。

 散らばった剣。


 そこで初めて、自分の置かれた状況を理解したようだった。


「ダイン、貴方が?」


「いや、俺が来た時にはもうこうなってた」


 即答すると、彼女の眉がわずかに寄る。


「……私、夜中に衛兵が来たところまでは覚えているの」

「私を、連れ出そうとして」

「そこから先が、ないわ」


 連れ出そうとした?


 拘束しておいて、さらに夜中に?


 胸の奥で怒りが燃える。


 こいつら、何をする気だった。


「クソ……!」


 拳を握る。


「守るって言っといて、何やってんだ俺は」


「大丈夫です」


 ヘルザが言う。


 驚くほど静かな声だった。


「私は何ともありません」

「それに、貴方はここまで来てくれました」


 優しい目だった。


 その優しさが、逆にきつい。


 でも、さっき見たものは何だった。


 目の前にいるヘルザは、いつものヘルザだ。

 なのに、暗がりに立っていた“あれ”は、たしかに違った。


 ヘルザのようで、ヘルザではない。

 裏返った、もう一枚の何か。


 それを察したのか、ヘルザは小さく息を吐いた。


「……ヘルドの仕業ね」


 その名前に、心臓が一拍遅れる。


 やはり。


 野営の夜に聞いた名。

 寝言の中でだけ現れる、もう一人。


「でも今回は、礼を言わないと」


 そう言って、彼女はすぐに顔を上げた。


「追手が来る前に、皆を助けましょう」


 切り替えの速さに、少しだけ救われる。


「ああ」


 頷く。


「時間がない」


 独房を出る。


 その先にも、まだ通路が続いていた。

 昼の見回りでは気づかなかった奥区画だ。


 ここが本命かもしれない。


 進む。


 やがて、大きな扉が見えた。


 頑丈だ。

 だが、鍵は掛かっていなかった。


 その意味は、すぐに分かった。


 扉を開ける。


 思ったより広い部屋だった。


 中央に、青白く光る箱状の結界があった。


 その中に、人影がいた。


 長身。

 手足の長い細身。

 色白い肌。

 逆立つような黒髪。

 鋭い眼光。

 口元にのぞく獣じみた歯。

 指先の爪。

 背の竜翼。

 全身を走る、稲妻のような刺青。


 忘れるはずがない。


 ルーク。


 スマニア島で、生死を懸けて戦った魔族だ。


 ヤリスを焼き、ルシア副官の腕を奪った男。


 いや。


 今となっては、それすら“俺たちが一方的に始めた戦争の代償だった”としか言えない。


 ルークがこちらに気づく。


 その目だけは、衰弱していても死んでいなかった。


「……そこの人間」


 掠れていても、牙のある声だ。


「お前、あの時の兵士か」


 俺は答えられない。


「なんだ」

「俺の姿を笑いに来たのか」

「それとも、まだ殺し足りなかったのか?」


 喉が詰まる。


 何を言っても、言い訳にしかならない気がした。


 そこへ、ヘルザが一歩前へ出た。


「彼は、いまは私たちの仲間です」


 迷いのない声だった。


「ここから貴方たちを解放しに来ました」


 ルークの目が、初めてヘルザへ向く。


「……魔族?」


 わずかに眉をひそめる。


「なぜ、お前はこんな人間と」


「私はヘルザ」

「シェルカエン王宮医師であり、ザルク王の妹君、ミーナ姫にお仕えする者です」


 ルークの表情が変わる。


「姫……?」


「説明している時間はありません」

「まず、貴方を出さないと」


 ヘルザはもう結界へ近づいていた。


 ルークが青白い壁を拳で叩く。

 光が揺れるだけで、びくともしない。


「ああ、だがこの結界は俺でも破れない」


 ルークで無理なら、俺では論外だ。


「なんとかなると思います」


 ヘルザが言う。


 結界の表面へ、そっと手を当てる。


「結界にも色々あります」

「これは、魔力で押し返す類ではなく、複雑な仕組みで組み上げられている」

「結界の癖は、術者の癖と似ています」

「癒やしの結界も、封じる結界も、組み方の根は同じです」

「私は、戦う魔法は得意ではありません。でも、読むことならできます」


「そんなことができるのか?」


 思わず訊く。


 ヘルザは赤い髪を耳へかき上げた。


「勉強は、得意なんです」


 その時だった。


「ダイン殿。こんなところで如何された?」


 背後から落ちてきた声に、背筋が凍った。


 振り返る。


 赤紫の法衣。


 ウルヴァースだった。


 後ろには衛兵が三人いる。


 顔には焦りも苛立ちもない。

 むしろ、ようやく確かめが取れたと言わんばかりの、薄い余裕が浮かんでいた。


「おや」


 細い目が、俺からヘルザ、そして結界の中のルークへ流れる。


「そちらは、捕えた魔族」

「まさか、取り調べのつもりではありますまいな」


 その声音で分かった。


 この男は、最初からわかっていた。


「……はじめから、わかっていたのか」


 喉の奥が熱い。


 ウルヴァースは肩をすくめるでもなく、ただ杖先を軽く持ち上げた。


「私は魔力の類に敏い方でね」

「君のお友達を見た時に感じたよ。内側に、何か妙なものを持っていると」


 杖先が、ヘルザへ向く。


 胸の奥が焼ける。


「だから、夜に護衛を差し向けたのか」


「ああ」

「私の勘が正しいか、確かめたくてね」


 言い方が、あまりにも軽い。


 ヘルザは結界に触れたまま、振り返らない。


 その横顔だけが、かえって俺を繋ぎ止めた。


「しかし信じられない」


 ウルヴァースの目が、俺へ戻る。


「人間が魔族に寝返るとは」


 その一言が、真っ直ぐ喉に刺さった。


 寝返る。


 そうかもしれない。


 スマニア島で魔族を斬った。

 ミーナを攫う側に加わった。

 シドに使われ、マルコムに捨てられた。


 それでも今、俺は魔族を助けようとしている。


 人間側から見れば、そう見えるのだろう。


 だが、胸の奥で別の声がした。


 違う。


 いや、違わない。

 でも、それだけじゃない。


 俺は、誰かの旗のためにここにいるんじゃない。


「ダイン」


 ヘルザが言う。


 結界から目を逸らさず、静かな声で。


「五分だけ、時間を稼いでください」


 ウルヴァースの眉がわずかに上がる。


「五分?」

「私の結界を五分で解くと?」


 その声に、初めて明確な不快が混じった。


「舐められたものですね」

「まあ、一分も持たないでしょうけど」


 杖が上がる。


 何かが来る。


 見えない。

 なのに、来ると分かる。


 身体が勝手に動いた。


 横へ跳ぶ。


 遅れて、右足に痛みが走る。


 鋭い。

 脛の外側が裂け、血が滲む。


 避けなければ、脚ごと持っていかれていた。


「……いまのを避けましたか」


 ウルヴァースが少しだけ感心したように言った。


「思ったより、出来るようですね」


 ペルナの顔がよぎる。


 見えない魔法を相手にするなら、目で追うな。

 来る“前”を拾え。


 そう何度も言われた。


 半分も分かっていなかった。

 でも、身体は覚えていたらしい。


「では、続けましょう」


 次の一撃が飛ぶ。


 床を蹴る。

 躱す。


 次。


 剣で弾く。

 鈍い衝撃が腕に食い込む。


 受けた刃が削れ、肩に浅い傷が増える。


 速い。


 しかも、正確だ。


 見えない刃が、呼吸の隙間を切り裂いてくる。


 避けるか、受けるか。

 その二つしかない。


 受け続ければ削られる。

 避け続けても、いずれ追いつかれる。


 ヘルザは振り返らない。


 指先だけが、わずかに動いている。

 結界のどこかを撫で、探り、組み方を読んでいるのが分かった。


 任せるしかない。


 その時、ウルヴァースの杖先が、すっと俺から外れた。


 まずい。


 狙いが変わる。


「ヘルザ!」


 叫ぶより先に、身体が動いていた。


 前に出る。


 次の瞬間、胸から胴へかけて、斜めに熱が走った。


 遅れて痛みが来る。


 鎧の下の鎖帷子がどうにか致命傷だけは逸らしてくれたが、深い。

 呼吸をするたび、傷口の中で刃が捻れるみたいだった。


「何故、人間であるお前が、魔族のために尽くす」


 ウルヴァースが問う。


 見下しているのではない。

 理解できないものを見る目だった。


 その問いに、すぐには答えられなかった。


 俺は何をしている。


 人間を裏切っているのか。

 魔族に義理立てしているのか。

 贖罪のつもりか。


 そんな綺麗な言葉で済むのか。


 違う。


 違う、とようやく思えた。


 俺は、スマニア島で正義のつもりで魔族を殺した。

 シェルカエンで任務のつもりでミーナを攫った。


 誰かが決めた“正しい側”に立ってきたつもりだった。


 その結果がこれだ。


 なら、もう決めるしかない。


 人間か魔族かじゃない。

 命令か裏切りかでもない。


 俺が、何を正しいと思うのか。


 それだけだ。


 その時、背後からヘルザの声が落ちた。


「ダイン」

「私は、貴方を信じます」


 振り返らないまま。


 その一言が、胸の奥の何かを決めた。


「ああ」


 息を整える。


「大丈夫だ」


 剣を捨てた。


 ふらつく足取りで、ウルヴァースへ近づく。


 ウルヴァースが目を細める。


「降参ですか」

「賢明ですね」


 俺はその前まで進み、ふっと笑った。


「俺は、これからは正しいと思ったことをする」


 そう言って、懐の小袋を握り潰した。


 フーリエから渡された緑の粉が、一気に空気へ広がる。

 ウルヴァースの足元を囲み、ふわりと薄い膜みたいに漂った。


 一瞬遅れて、奴の表情が変わる。


「……っ」


「魔力が、鈍るんだってさ」


 完全には止まらない。

 だが確かに遅れる。


 杖の先に集まる魔力の密度が、目に見えて薄くなる。


「やれ!」


 ウルヴァースが衛兵へ命じる。


 三人。


 一人目の剣を受け流し、そのまま手首を返して奪う。

 二人目が突いてくる。

 半歩外して喉元へ剣を走らせる。

 三人目は一瞬ためらった。

 そこを踏み込みで潰し、壁へ叩きつける。


 剣の重みが手に馴染む。


 ルシア副官に叩き込まれた間合い。

 ガレットと組んだ時の呼吸。

 ペルナの対魔法訓練。


 全部が、この身体に残っていた。


 ウルヴァースの見えない斬撃が飛ぶ。


 威力は落ちている。

 だが、手負いには十分すぎる。


 脇腹。

 左肩。

 腿。


 次々と身体が裂ける。

 視界が霞む。

 膝が笑いそうになる。


 それでも下がれない。


 俺が退けば、ヘルザが死ぬ。


 ウルヴァースが杖を握り直す。

 粉の効果が、切れ始めている。


 動け、俺の体。


 動け。


 その時だった。


 黒い稲妻みたいなものが、横から走った。


 ウルヴァースの胴を、鋭い腕が貫いていた。


 ルーク。


 結界が解けた瞬間だった。


 痩せていても、その一撃には迷いがなかった。

 背から突き出た腕の先から血が伝う。


 赤紫の法衣が濡れる。


 ウルヴァースは血を吐き、それでもなお俺を見た。


「もう遅い」


 掠れた声だった。


「お前はどちらにも戻れん」

「残るのは罪と死だけだ」


 それだけ言って、力が抜けた。


 ルークが腕を引き抜く。


 赤紫の法衣が崩れ落ちた。


 静かだった。


 あまりにも静かで、逆に息が詰まる。


 魔族を殺した。

 次は、人間を殺した。


 奴の言う通りかもしれない。


 人間側にも戻れない。

 魔族側にも立てない。

 待っているのは、罪と死だけ。


 でも、それでもいいと、どこかで思ってしまっている自分がいた。


 それでも、いま助けたいと思った命を見捨てなかった。


 その事実だけは、嘘じゃない。


「おい!」


 ルークが怒鳴る。


 顔を上げる。


「いまは置いといてやる。行くぞ!」


 どうやら、今ここで俺を殺す気はないらしい。


 だが、足に力が入らない。

 思わず膝をついた。


 ヘルザが駆け寄ってくる。


「ダイン、大丈夫ですか」


 そう言って、自分のフードを外し、布を裂いて止血に使う。


 手つきが速い。

 揺れがない。


 いつもの医師の手だ。


「……やったな。結界」


「いえ」


 ヘルザは小さく言った。

 だが、どこか少しだけ嬉しそうだった。


 ルークが舌打ちする。


「ったく……早くしろ」

「俺との時は、そんなもんの傷じゃなかっただろ」


 言えてる。


 俺は苦く笑いながら、体を起こした。


「そうだな」


「さあ、追手が来る前に、皆を助けましょう」


 ヘルザが言う。


 その声で、ようやく頭が戻る。


 そうだ。


 まだ終わっていない。


          *


 指揮官を失った収容所の解放は、難しくなかった。


 簡単だったわけではない。


 だが、ウルヴァースが倒れたことで、衛兵たちの動きは明らかに鈍った。

 命令が消えれば、あとは寄せ集めだ。


 ルークが先頭に立つ。


 衰弱していても、やはり強い。


 檻を壊し、鍵を奪い、歩ける者を前へ出す。

 怒鳴り声ひとつで、まだ戦える魔族兵が動き始める。


 ヘルザは走り回っていた。


 傷ついた者に肩を貸し、熱のある子どもに触れ、立てる者と立てない者を一目で分ける。

 医療だけじゃない。

 生かして運ぶ順番まで見えている動きだった。


 俺も剣を振るう。


 もう迷っている暇はない。

 立ち塞がる衛兵を斬り、鍵を奪い、扉を開ける。


 身体は重い。

 血もかなり失っている。


 それでも、止まるわけにはいかなかった。


 ある檻の前で、小さな魔族の子どもが俺を見て後ずさった。


 当然だ。


 俺は人間で、剣を持っている。


「……出ろ」


 乾いた声で言う。


 その子は動かない。


 代わりに、隣の女がその肩を抱き寄せた。

 目には恐怖と憎しみがある。


 何も言えなかった。


 俺には、安心させる資格なんてない。


「ここにいたら死ぬ」

「外へ行け」


 それだけ言って、鍵を開ける。


 背後ではルークが怒鳴っていた。


「動ける奴から前へ出ろ!」

「女子どもを先に通せ!」


 百ほどの影が、夜の中へ流れ出していく。


 歩ける者。

 肩を貸される者。

 抱きかかえられる子ども。


 その列を導きながら、俺たちはあらかじめ決めていた合流地点へ向かった。


          *


 ガーランドたちは、外れの岩場で待っていた。


 暗がりの中でも、あの巨体はすぐ分かる。


 こちらの一団を見る。

 次に、先頭にいるルークを見る。

 それから、傷だらけの俺を見る。


 ガーランドは何も言わなかった。


 だが、その沈黙で十分だった。

 何が起きたのか、だいたい汲み取ったのだと分かる。


「……ずいぶん賑やかに連れてきたわね」


 先に口を開いたのはフーリエだった。


 言葉はいつも通りだが、声には少しだけ安堵が混じっていた。


「助けられるだけ、助けた」


 俺が答える。


 ガーランドの視線が、傷だらけの俺からヘルザへ移る。


「何があった」


 低い問いに、ヘルザが簡潔に答えた。


 収容所の構造。

 ウルヴァースの存在。

 捕虜の規模。

 そして、結界に囚われていた魔族を解放したこと。


 ガーランドは最後まで黙って聞いていた。

 フーリエも口を挟まない。


 ひと通り聞き終えたあと、ガーランドは今度はルークへ視線を向けた。


 ヘルザが、そちらにも向き直る。


「ルーク殿」

「私たちは、ミーナ様を捜しています」


 その名に、ルークの目つきが変わる。


「姫を?」


「はい」

「シェルカエンから攫われ、南大陸のどこかへ移された可能性が高いのです」

「まだ所在は掴めていません」

「ですが、取り戻すために私たちはここに残ります」


 ルークはしばらく何も言わなかった。


 背の翼が、わずかに揺れる。


「こいつらは俺が連れて帰る」


 捕虜たちを振り返って、短く言った。


「責任を持って、シェルカエンまで届ける」


 ガーランドがルークを見る。


 初対面のはずだ。


 だが、その沈黙には、相手の名くらいは知っている者同士の重さがあった。


 ルークもまた、ガーランドを値踏みするように見返している。


 敵意というより、どちらがどういう戦士かを測る静かな緊張だった。


「頼めるか」


 ガーランドが言う。


 たった一言。

 だが、その一言は重かった。


 ルークは鼻で笑う。


「誰に言ってる」


 それから、こちらへ向き直る。


 鋭い目が俺を射抜いた。


「ダイン」


 名前を呼ばれる。


「俺に殺されるまで死ぬなよ」


 その言い方に、少しだけ笑いそうになった。


「……そっちこそ」


 返すのが精一杯だった。


 ルークはそれ以上は言わず、捕虜たちを率いて闇の中へ去っていった。


 百近い影が、少しずつ夜へ溶けていく。


 その背を見送りながら、ようやく少しだけ息を吐いた。


 全部じゃない。


 ミーナはまだだ。


 でも、今夜、救えた命はある。


 その事実だけが、少しだけ胸を支えた。


 その時だった。


 気配がした。


 振り返る。


 岩場の向こう。


 月明かりの届く境目に、人が立っていた。

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