第十八話:上条の信条〜こんなこともあろうかと〜
そんなに大きくない(実際小さいw)音響会社を営むPAエンジニアおじさんの、ほぼ実話を元にした小説です。フェスや様々なイベントに出かけられることがあると思いますが、そのフェスやイベントの運営には、実際に数多くの人たちが関わっています。その中で、ステージなどで必ず必要とされる音響という仕事に関する小説です。
12時45分、上条の車が日野電気工業の敷地内に入った。駐車場に車を停めると、すぐにDASエイジェンシーの田渕の車と、映像を担当する菅谷映像の車が到着した。菅谷映像は大型スクリーンを含め、プロジェクターを20台とプロジェクターの台を持ち込むため、ワンボックス6台体制で乗り込んでいた。さらにしばらくすると、DASエイジェンシーの関連会社から、パイプ椅子150脚を積んだトラックも到着した。
パイプ椅子や映像機材の搬入はそれぞれ数往復を要したものの、音響機材の搬入はというと、上条と清水がそれぞれ台車を一回運んだだけで完了した。モニタースピーカーは車に残し、必要があれば持ってくることにした。
「今回の搬入は楽勝ですね」「前回のフェスの時は2Tトラックに機材が満載だったからな」
この時間帯は一般社員が勤務中であるため、音出しが許可されるのは17時から。それまでは大会議室内での設営と、会議室内での音出しのみとなった。
時間に追われて作業をするのも大変だが、時間の余裕がありすぎるのもまた辛い。大休憩となってしまうのも考えものだ。
上条は演台のマイクとして、ワイヤードスイッチ付きのSM58Sを用意しようとしたが、クライアントの担当者である水上からの要望でワイヤレスマイクに変更となった。
「社長が会場を歩きながら話すかもしれないんですよ。以前はマイクケーブルが引っかかっちゃって大変なことになったので」
そう言って水上は苦笑した。
「了解しました。念のため、ワイヤードのマイクは演台の下に隠しておきますね」
「助かります!ありがとうございます!実は以前、一度だけワイヤレスマイクが混線したことがあるんですよ」
「それ、一番怖いんですよね」
上条と水上は今日初めて会ったのだが、お互いに相手をリスペクトできる人間だったからか、すぐに打ち解けて必要なことは互いに注文できる関係性を築いたようだ。
音響エンジニアの中には自分のやり方に固執する者もいるが、DASの田渕によれば、上条はPAエンジニアとしての技術だけでなく、現場の空気を和ませる能力にも長けている。こうしたバランス感覚を持つ音響エンジニアはとても稀有な存在らしい。
演台には清水が「重すぎる」と苦労しながら運んだ卓上マイクスタンドがセットされた。ずっしりとした台座なので、SM58SやワイヤレスマイクのM40を乗せてもビクともしない。大量に運んだ重い台座だったが、実際にこのスタンドを使ったのは演台の一つだけだった。
水上は、Zoomを立ち上げるメインPCの前に座りながら司会をするため、こちらにはSM58Sをセット。卓上マイクスタンドも普通のものが用意された。
Zoomの設定やWebカメラのセッティングも水上が行った。これまでPCの前に全員が座ってのZoom会議は何度も経験があったが、今回のように拠点ごとに社員を集めて行うのは初の試みとのことだった。
上条が担当するZoom配信の仕事の場合、通常は会場のマイクやBGM、Zoomに入ってくる音など、ありとあらゆる音を全てPA側で集約し、バランスを整えた上で会場のスピーカーや配信するPC側に音を送るのが常である。しかし、今回は大会議室内のマイクをPAでまとめ、その音を社内放送設備に入力し、本社内の会議室や工場内のスピーカーから流すという仕様だった。Zoomで遠隔参加者に配信する音は、演台に置かれたバウンダリーマイクで拾うとのこと。
では、Zoomで遠隔参加している方からの質問があった場合にはどうするのかと尋ねたら、遠隔参加者からの質問はないので問題ないとのこと。
上条は(本当にそれで大丈夫なのか?)と気になったものの、クライアントの希望……というか、これが今回の仕様なので仕方がない。
会場内からの質問に対しては、水上の部下の女性社員がワイヤレスマイクを持って会場内を動く手筈だ。清水は、彼女にワイヤレスマイクの使い方を丁寧に説明していた。
日野電気工業の放送設備が入ったラック類は、会議室の前方・上手の角、つまり演台の横にあった。そこにパーティションを立て、その中に上条が持ち込んだ機材をセットし、本番中はその場に籠ることになる。
万が一に備え、Zoomが立ち上がっているPCのイヤホンジャックから音を受け取る用意と、ミキサー卓からPC側に音を送る用意をしつつ、会場の設営にあたった。
水上の部下がLANケーブルや電源ケーブルなどを敷設するが、ケーブルの巻き方が悪いせいで、あちこちでトグロを巻いたり波打ったりしていてとても見た目が悪い。
すでに設営を終えていた上条と清水は流石にその状況を見かね、水上に確認を取ったのち、全てのケーブルを抜いて一旦八の字に巻き直し、改めてケーブルを敷設。ついでに隣の倉庫にあったケーブルプロテクターを拝借し、綺麗にケーブル類をまとめるのであった。
水上以下、日野電気工業の社員たちからは思わず拍手が沸き起こった。
ここまで終えた時点で16時。1時間ほどの休憩となった。
会議室にいてもやることはないので、一旦車に戻って待機することに。
「パイプ椅子って、もっと軽いと思ってたんですけど、運んでみると結構ずっしりしてるんですね」
「まあ、仕方ないよ。会場の状況も事前には分からなかったし、田渕さんの依頼通りだったからな。それに、ちゃんとレンタル代にも含まれてるし、問題なしさ」
「運ぶの、大変だったんですよー」
「コンテナに詰めたのは俺さ。ま、足りなくて大慌てするよりはよっぽど良いだろ?」
「言われてみれば、確かにその方がいいですね」
「現場で突然『アレありませんか?』って言われる時があるんだよ」
「アレってなんですか?」
「いろいろなものだよ。たとえば、『ワイヤレスマイク、追加できませんか?』とか、『CDプレイヤーはありませんか?』とかさ。そんな時に『こんなこともあろうかと』って言いながら機材を出すのが楽しいんだよ。ククク」
あの普及の名作アニメ『宇宙戦艦ヤマト』でお馴染みの真田志郎の名台詞を口にして悦に言っていた上条であったが、そんな昔のアニメを見たことがない清水はキョトンとするしかなかった。親父ギャグは時としてすべってしまうものなのである。
そうこうしているうちに、気づけば17時が迫っていた。大会議室に戻った上条は室内のスピーカーからの出音の確認をし、全館放送のテストを開始、水上はZoomの接続テストを開始した。
上条が懸念していた「会場内の音がZoomに正しく届くか」という問題も、テストの結果、問題なくクリアされていることが確認された。バウンダリーマイクとして用意されていたものが、実はスピーカー機能を持っていて、そこから接続先のユーザーのPCマイクの音を確認できた。ただし、今回は原則として、遠隔接続者からの発言はないという前提なのであった。ひょっとすると『こんなこともあろうかと』という上条の言葉が出る場面があるかもしれない。
その後、大会議室で簡単なリハーサルが行われ、本日の業務は終了した。
帰りの車の中で、清水が呟いた。
「パイプ椅子って、もっと軽いと思ってたんですけど、運んでみると結構ずっしりしてるんですね」
「まあ、150脚もあれば、それなりに大変だよな」
「あと、ケーブルの巻き方って、あんなに違うものなんですね。プロの技を間近で見た気がしました!」
「美奈だってちゃんとできるようになったじゃないか。でも、速さと丁寧さはまだまだだな。最初にちゃんと練習しておかないと、後で苦労するからな」
「了解です、社長!」
「だから、社長って呼ぶなって何度言えばわかるんだ!」
「ところで、上条さん!」
「お、おう。どうした?」
「お腹が減りましたー!」
そんな軽口を叩きながら、上条の車は夜の街へと消えていった。
実際に筆者が体験した出来事を題材にしていますが、物語に登場する企業名やイベント名は、全て架空のものです。登場人物もモデルは全て実在の人物がいますが、あくまでもフィクションとしてお読みください。
〜登場人物紹介〜
上条一郎:58歳。大学生の息子がいるが、遠方にいるため作品には滅多に登場しない。妻とは離婚していて、現在は独身。車好きで中古のCitroen Xmのブレーク(ステーションワゴン)に乗っている。小さめのイベントにはこのステーションワゴンに音響機材を積んで現場に入り、大きめのイベントの場合にはワンボックス車や2T〜4Tのアルミパネル車をレンタルしている。
清水美奈:同じく大学の後輩。21歳。経済学部に通う大学3年生。アルバイト先の仕事で音響に携わることがあり、現場で知り合った上条が大学の先輩だと知り、押しかけアルバイトをしている。
田渕貴之:イベント運営会社・DASエイジェンシーの代表取締役社長。56歳。主なイベントでは上条に音響を発注している。普段は厳しい眼差しながら、気心がわかるとよく笑う人情厚い人。小難しいクライアントからの仕様を切り盛りする。
水上:日野電気工業の技術部の社員。社内のPC関連や設備関連を取り仕切りつつ、総務部とやりとりしつつ社内会議や社内イベントをも取り仕切っている。上条とは初対面だったが割と意気投合した模様である。
〜用語解説〜
PA:Pablic Addressの略。電気的な音響拡声装置やそれに携わる人たちのの総称。
ミキサー卓:単にミキサーというと料理器具と混同されるため、ミキサー卓と呼ぶことが多い。省略してミキ卓、あるいは卓ともいう。
八の字巻き:音響や映像業界でケーブルを収納する際に使われる巻き方のひとつで、一方方向に巻くのではなく交互に巻くことによって、ケーブルがねじれず、絡みにくいのが特徴。
モニタースピーカー:ステージ上に置かれ、出演者に対して音を伝えるスピーカー。ミキサー側で設定することにより、好みのバランスで音を聞くことができる。
Zoom:ウェビナーやミーティングをライブ配信したり、オンデマンド配信したりするシステム。他にはGoogle MeetやMicrosoft Teamsなどがある。その中でも最もポピュラーに使われているシステム。PCだけで使う場合は簡易だが、そこにPAが絡むと、ちょっとした知識がないと、ハウリングに悩まされることも多い。
SM58S:アメリカの音響機器メーカーShure社が製造販売する定番中の定番のマイクロホンSM58のスイッチ付きモデル。とてもバランスが取れたマイクで、とてもポピュラー。
M40:正式にはUTX-M40。日本が誇る音響機器および総合家電メーカーのSONYが製造販売するワイヤレスハンドヘルドマイクロホン。販売されるパッケージ名はUWP-D22となっているのがややこしい。価格の割には非常にクリアな音がする。




