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エルミヤ余話 宰相さまの帰還 後篇


クレアさんの人生新たな出発。

宰相さまが初めてのお墓参り。

州軍創設を巡る親子真剣勝負。


何だか恋愛糖度がちょっと足りないような。

まぁ、余話ということでお許しを。




何をやっているんだ、あの連中は。仲良しになったとは到底思えない。

一体どうやったのか、父さまがイオとシイをこき使っている。

私に内緒でこそこそと。うがぁああ。いらっ。


「サヤさま?」

「ああ、ごめんなさい。何でもないです、クレアさん」

慌てて、エルミヤ女伯としての威厳を取り繕う。

クレアは「もう女官長ではないので呼び捨てにして下さい」と言ったが、

とんでもない。官を辞したとて王都の貴婦人であることには変わりない。

しかし、未亡人であるので、名家の姓では呼ばれたくない…とのことなので、

結局の所、前述の如くに落ち着いた。

サヤとしては、どんな風に付き合ったら良いのか、未だ決めかねていたけれど。


二人はエルミヤ府内にある会議室の一つにいた。

アガイルを追いかけるように王都から荷物が後から後から届き、急遽役所の一室を

臨時倉庫に宛てることにしたのだ。自分の荷物であろうに、アガイルはアイオンを

伴って何処かへ雲隠れしてしまった。

膨大な荷物を一人で捌いているクレアを見かねて、手伝いの者を出すと共に、

サヤ自身もお昼休みを利用して様子を見に来たのだった。


「父さまったら本当に長期滞在する気なんだ」

単純計算すると1年の内、8ヵ月はエルミヤに滞在するらしい。

痛い出費だが、公邸を本気で増築する必要がありそうだ。

あの狭い家で毎日顔を合わせるかと思うと…鬱屈(ストレス)がたまる。

「ええと、クレアさん。

 失礼ですけど、他のお二人が追っつけ来るなんてことは、ありませんか?」

丁度、手伝いの者が席を外したのを見計らって、サヤは遠慮がちに…

でも聞かずにはいられなかったことを口にした。

「他の二人?」

「…王女様付だった侍女長と財務大臣夫人です」

「ああ、リイナとカトレのことですね」

何やら皆さま、お親しそうで。

貴女がた3人はウチの父さまとどれだけ爛れた関係なんですか。


「心配しなくとも、2人は王都から出ないわよ」

ちょっと安心するサヤである。

エルミヤでまで、父と3人の貴婦人がウハウハし始めたら、我慢できない。

相手の身分がどうであれ、問答無用で叩き出すところであった。

「リイナはそのまま新女王に付いて侍女を続けるそうです。

 いずれは女官長になるでしょう」

どうやら王女さまは古参の侍女に愛想を尽かされなくて済んだらしい。

「カトレは…もう“大臣夫人は飽きた”とかで、この際、すぱっと離婚して、

 エルミヤに別荘を建てて自由気儘に暮らそうかと申しておりました」

な ん で す と。

貧乏エルミヤに大金を落としてくれるのは有り難いが、あの血気盛んな奥方に

来られるのは…また破れたドレスを繕わされそうで嫌だ。

サヤの表情を見て、クレアが小さく笑った。

「2人とも王都から出ないと申したでしょう?

カトレが離婚を切り出したところ、財務大臣が人目も憚らず泣き喚いて、

カトレの脚に取り縋ったのです。私も、その場に居りましたから」

何でも、「肥満親爺(デブオヤジ)は真っ平御免なのよ!」と叫んだ妻に追い詰められた夫は

減量(ダイエット)する!絶対君好みの苦味走った良い男になる!」と宣言したらしい。

それから何と!自宅豪邸の温泉浴場を室内水泳場に改装し、デブデブの財務大臣は

人生初の減量へ飽くなき挑戦を開始したとか。

「それはつまり、ご主人とヨリを戻したということなんですか?」

「もともと大臣はカトレのことを神様からの授かりもののように大事にして

 いましたし。さすがにカトレの方も目の前でオンオン鳴いている大型犬を

 捨てるには忍びなかったのでしょう。

 今では時折、夫の水中歩行訓練にカトレも付き合っているそうですよ」

更に、その水泳場(プール)は日中一般開放されることになり、財務大臣夫妻の人気は

王都で急上昇中とか。


「そっか」

良かったと思った。

先の女王が催した音楽会ではサヤを派手に苛めた女性だった。

宰相と関係しては、サヤに繕い物をさせるような女性だった。

けれど、エルミヤ辺境伯に叙された時、偽りでない祝辞をくれた女性で、

王都出発の折には豪華列車を仕立ててくれた女性でもあった。

彼女のお陰で…思い出すだけで顔が火照りそうな、熱くて幸せな時間をイオと

過ごすことができた。


恋人だった男は先王から賜った毒杯で命を落としたと聞いている。

それから財務大臣夫人が何を思い、20も年の離れた金満家に嫁いだのか

サヤには分からない。ただ幸せになってくれれば良いと思う。

…できれば自分と遠い所で。


「クレアさんは…?」

「女王が女王でなくなった時点で私の役目は終わりました。

 ただの“カナ”に仕えることはできない。

 ただの…副宰相家の居候に過ぎない女性に用はないもの」

待ち受ける困難に立ち向かう決心をしたソメイ王女にリイナは付いて行った。

その一方で、全てから逃げ出したカナイ女王に、クレアは背を向けた。

どんな形であれ、夫が命をかけて守った“女王”であったからこそ、

クレアも忠節を尽くして来た。けれどもう…それも終わったのだ。


先の女王は長期病気療養に入ったと公式発表されたが、離宮はもぬけの殻で、

代わりに“カナ”という女性が副宰相家に引き取られた。

本人はカリウドの個人秘書を務めるつもりだが、ものの役に立たず、

ほとんど居候の身の上となっているらしい。

「お仕えしながらも、心の中ではずっと夫の命を奪った女を憎んでいました。

 女王さまが叶わぬ恋に身を焦がし、心を壊してゆくのを、どこかで良い気味

 だと嘲笑っている自分がいた。でもあの方があんな風になって

 …何だか自分の中の何もかもが終わってしまったようで」

生きる目的も張り合いもなくなってしまったのだという。

「そんな時に宰相閣下に誘われましたの。子どもの世話をしてみないかって」

「父さまと…再婚するの?」

ようやく“あの男”を“(とう)さま”と呼べるようになったところに、新しい義母(はは)が来る。

素直に喜べないが、父にとっては望ましいことと、思い返す。

母が残した最後の手紙が灰になった時、泣き崩れた父を見てしまった。

これから未来(さき)を一緒に生きてくれる人がいてくれた方が…父にとっては

その方がずっと良い。


「違います。宰相の奥方は生涯カヤ様だけ。

 あの方が再婚することはないでしょう。そして、私の夫も、生涯ただ一人だけ」

再婚はありえない、と言う。

「でも…それじゃあ?」

誰の子ども?どこの子ども?

首を傾げたサヤにクレアは少し困った表情をした。

「早く来すぎてしまいましたかしら…宰相閣下にはサヤ様の育児を手伝うよう

 頼まれたのですけれど」

(父さまっ!)

サヤは天を仰いだ。気が早すぎる。

子どもも生まれていないのに。そもそも妊娠もしてないのに。

早くも乳母を斡旋するとは。それも幾ら気心が知れているとはいえ、

名家の未亡人で女王付女官長だった人に、一地方領主へ仕えるよう言うなんて。

眩暈がする。

「クレアさん。もの凄く父が失礼なことを…」

「なぜ?私は宰相閣下の提案が嬉しかった。

 まだ誰かの役に立てることがあるなら…もちろん決めるのはサヤ様です。

 けれども、マルモア宮廷に詳しい者がいて損にはならないと思いますよ」

確かに。

父との関係は別として、辺境女伯としては、クレアのような人材は有り難い。


結局のところ、クレアは…元女官長様は、サヤの元に再就職に来たということなのだ。

「エルミヤはド田舎で、しかもドド貧乏ですよ?」

「都と違うことは覚悟しています。

 まずは試用期間を決めて、使ってみていただけませんか?」

そうは言っても、サヤが子どもを産むのは未だ先のことだ。

しかし何やら並々ならぬ決心があることが感じられて、追い返すこともできない。

「当面、王都に行く予定のあるエルミヤ子女の速修課程を見てもらえますか?」

少しずつではあるが、エルミヤから王都に留学したり、勤めに出たりする女性も

増えてはきている。彼女たちが“田舎者”と馬鹿にされないように何か手を

打てないかと考えていた矢先だ。

「では学習計画(カリキュラム)案をまとめますので、宜しい時に教育長とお引き合わせください」

クレアの瞳にはやる気が漲っていた。

たぶん彼女には生きがいとなるべきものが必要なのだ。

そうであれば、こちらも“敬意を表して”きっちり働いてもらおう。

現金な辺境女伯は優秀な人材を得て、にんまりとほくそ笑んだ。


しかし、これには一つ落とし穴があった。

「…何ですか、それ?」

クレアが荷物の中から何やら古めかしい巻子本を取り出してきた。

「恐れ多くもサヴァイラ法王猊下の御直筆でございます。

王都を立つ時、お預かりいたしました」

第二枢機卿であった彼女は、現在、マルモア史上初の女法王に就任している。

「げ、猊下は何て…?」

嫌な予感しかしない。

「猊下におかれましては、サヤ様の礼法教育が頓挫していることに大変御心を痛めて

 おいでです。私がエルミヤに留まる場合、サヤ様のお手伝いもするようにと」

巻子本の中身はサヴァイラ渾身の一作『辺境女伯爵の心得』実習項目であった。


げげっと呻くサヤであった。

万事如才ない秘書官(シイ)がいるため、宮廷作法については必要最低限しか勉強して

来なかった訳だが…ここへ来て逃げ切れなくなってしまった。

「近い将来、お子さま“方”の前で恥をかくことないように、

 お母さまも精進しなければなりませんものね」

そう言って微笑むクレアは、さすがあの“優しい女王様”に仕えた御方であった。

近い将来、子どもが生まれるのが大前提、しかもさり気なく複数になっていること

など追求できず、ヨロヨロとサヤは執務室に戻った。


*** *** *** *** ***


宰相閣下がふらりと帰ってきて数日が経過した。

サヤの生活はだいぶ日常を取り戻しつつあった。

宰相がその豊富な経験と明晰な頭脳を生かして女伯の仕事を手伝ってくれる

…訳はなく、日中どこで何をやっているのかサッパリ謎であった。

公邸で起居しているものの、誰に何を告げるでなく、ふらりと消えては

ふらりと現れるを繰り返し…娘としては、ちょっぴりくらい心配になった。


何しろ、宰相が北方総司令官をしていた時の極悪非道っぷり(村一つ焼き討ちに

して丸ごと消滅させるとか、反乱軍をみじん切りにして獣の餌にばら撒くとか)は

一定年齢以上のエルミヤ民の魂に刻まれてしまっている。

現在でさえ、名前を聞けば耳を塞ぎ、姿を見ようものなら雲の子を散らしたように

逃げ惑うくらいなのだ。

とはいえ、年は取ってきているし、片足が不自由になって杖を付いている。

意趣返しするなら今が好機(チャンス)と命知らずな真似をする輩がいないとも限らない。


その一方で、何で“あんな男”の心配をせねばならないんだ~!と苛立ちの方が勝る。

遠巻きにも護衛兼監視を付けようと考えたものの、直ぐに巻かれて訳に立たない。

…基本、サヤは父のことを放っておくことに決めた。

父のことはともかく、この日は一つ良いことがあり、サヤの機嫌は上向きだった。

ようやく医者の承諾をもらい、足の固定(ギプス)が取れたのだ。

これで行動範囲がグンと広がる。

あれもこれもと計画を立てて始めたサヤに、「欲張りすぎ。却下」とシイが早速に

ダメ出しする。一足先に腕の三角巾を外していたイオは、愛しい妻の耳元で、

「これで気兼ねなく夜を楽しめるな」と囁く。

ちなみに人外聴力を持つシイに聞こえるのが分かっていての意地の悪さだ。

(アガイル)婿(イオ)に狭量だが、婿(イオ)(サヤ)に近付く男には随分と狭量であった…秘書官(シイ)には特に。


バチバチっとイオとシイが火花散らす中、時機(タイミング)が良いのか悪いのか、

万事に自分中心(マイペース)の宰相閣下が戻ってきた。挨拶も何もすっ飛ばし、開口一番。

「おい、カヤはどこにいる?」

と聞いてきた。

サヤはここで、恐ろしい予感を抱いてしまった。

(もしや父さま…呆けている?)

伴侶が亡くなり、失意のあまり痴呆が進行する高齢者を何人も見て来た

(高齢者の生活保護もエルミヤ府重点政策の一つだ)。

宰相が認知症になるとは想定もしていなかったが、その「ウチの父に限って」には

何の根拠もない。このところフラフラ出歩いていたが、あれももしかしたら認知症に

由来する徘徊の一種だったのかもしれない。

「おい、何とか言ったらどうだ?」

「父さま、母さまはもう亡くなったのよ。五年以上前に」

「それはもう聞いた。俺が言いたいのは…」

娘から、かつてない同情に満ちた眼差しを向けられ、勘の冴えたアガイルは

自分が“呆け老人”として認定されかかっていることを悟る。

内心憤慨しつつ、望む答えを得るために別の言い方を試みた。

「あれの(ひつぎ)は何処にあるのだ?」

(よ、良かった~父さま、呆けてなかった)

安堵したサヤはしかし、その後うっかり明かした真実により、父親から大目玉を

くらうことになる。

「柩?ないよ?」

「…ないわけないだろ。エルミヤで最も高貴な女人が儚くなったのだ。

 亡骸を香油で清め、然るべき防腐処置をした後、雪花大理石(アラバスター)の柩に納め、

 霊廟に安置するのが定石だろうが」

それマルモア王室のやり方だから、と思いつつ。サヤは何となく父が亡き母と

対面するのを延ばし延ばしにしていたか分かった気がした。

両の瞳を閉ざし、物言わぬ姿となった亡骸(なきがら)を見たくなかったのだ…杞憂だったのに。

「柩はありません。母の遺言により、火葬にしましたから」

「何だと、この罰当たり娘!

 カヤは世が世ならマルモアの女王になっていた貴人なのだぞ。

 そうでなくとも自分の母親をそこらの庶民のように、火葬にするとは。

 馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿娘とは思わなかったぞ!」

激高するアガイルに、サヤの方は逆に冷静になった。

父さまが母さまのことで娘に腹を立てる…それは不思議な感動すらもたらした。

とはいえ、きっちり弁明はさせてもらう。

「エルミヤでは(かみ)(しも)も関係なく、火葬が普通です。

 それに世が世ならって、母さまがマルモア女王の座を望んだことは一度もないわ。

 し・か・も、火葬は母さまの遺言です。娘の私が逆らえるはずないでしょう」

「ふんっ。ではどうした?月下白磁に納め、きちんと祀ったんだろうな…おいっ!」

口を噤んだ娘に父親は声を荒げた。

横で聞いていたシイが代わって説明しようとするのをサヤは慌てて制す。

辛くとも、これは娘である彼女が告げねばならぬことだ。

「遺骨は全て砕いて灰にして、春一番を待ってリエルの丘から撒きました。

 母さまの心がこのエルミヤ全土に降り注ぐように」

リエルの丘は王府の南に位置する低山で、そこから吹き下ろす南風は中心地を巡り、

そこか幾つも小さな旋風に分れて四方へと広がり春を告げると言われている。

「…それもカヤの遺言か」

長椅子に身を沈めた父に向かって娘は頷く。

「どこにもそれらしき霊廟がないと思ったら…そう言う事か。

 まさか墓も造っていないのか?」

「母さまは最初墓も要らないと言ったけど、さすがにそれは遺される側が辛くて。

 髪を一房、小さな慰霊堂を建てて納めました」

「そこへ案内しろ」

「今からですか?」

王府から徒歩で行ける距離であったが、そろそろ黄昏の時刻であった。

しかし明日を待てない父の様子にサヤは出かけることに決めた。

後をナナツとシイに任せ、杖を付く父の歩調に合わせてゆっくりと進む。

何も言わずともアイオンが少し距離を置いて付いて来るのが分かった。

自ら護衛を買って出て、しかし親子の語らいを邪魔すまいという気遣いであろう。


「随分、小さな慰霊堂だな。常夜灯もないのか」

案の定、アガイルは到着するなり文句を垂れ流し始めた。

「華美なものは慎むようにと、母さまから厳命されているので」

そんなお金があったら農地改良に回すようにと念押しされたサヤである。

しかし、慰霊堂の周辺は少しずつ環境整備が進められていて、

鬱蒼とした鎮守の杜ではなく、明るい庭園に生まれ変わりつつあった。

持って来た鍵で錠を開けると、二人はそっと堂内に足を踏み入れた。

丸い天窓から黄昏の光が差し込む。ほどなく暗くなることは分かっていたので、

サヤは周囲に配置された燭台に火を入れて行った。


「何だこの粗末な…!」

遺髪を納めた木彫りの小箱を指差して、またも怒鳴り散らそうとしたアガイルの

動きが途中で止まる。黄昏と燭台の光で炎の色を帯びた小箱を信じられない

という風に見つめていた。

「その箱に見覚えがおありで?」

サヤに言わせれば、どこの幼児が彫ったんだという不出来な木彫り細工であった。

貧乏といえど、そこはエルミヤ辺境女伯だ。

もっと良いものを持つことは可能であったろうに、何故だか生前の母はこの箱を

とても大事にしていた…今なら、その理由が分かる。

「俺が彫ってカヤに贈ったものだ」

(父さま…不器用だったのね)

その正直すぎる感想をサヤは胸中に留めた。

軍事や政事に長けていても、手先は不器用だったらしい。

おまけに愛情表現もとんでもなく不器用で、サヤはごく最近まで自分が娘として

大切に思われていたことにサッパリ気づけなかった。

その辺り、亡き母は偉大である。

夫としても父としても問題だらけの男の、それでも確かに存在する愛情を

微塵も疑っていなかった…今なら、母が心残りはあったであろうが、

決して不幸のまま逝ったのではないことが分かる。


「父さま、その指輪…」

アガイルが帰還して直ぐに気づいたものの、聞くに聞けなかった疑問を口にする。

“優しい女王様”の恋人であった頃の宰相が指輪を、それも結婚指輪の(たぐい)を身に

着けたところなどサヤは見たことがなかった。それが今や、左の薬指と小指に

銀の指輪を一つずつ、二つがピタリと寄り添うように嵌めている。

小指に嵌められた指輪は、王都の宰相邸でサヤが腹立ちまぎれに庭へ放り投げた

ものに酷似していた。

(雨の中、杖を付いて探し回ったのだろうか)

後悔で胸が痛くなる。

「これは俺が実の親と(おぼ)しき者から唯一受け取った銀の粒を二つに分けて

 作った指輪だ。古代神聖文字で互いの名を彫ってある。

 まぁ、二束三文の中古品に間違えられても仕方ない出来栄えだがな」

「ごめんなさい」

よくよく聞けば、アガイルとカヤが工芸師の技を見よう見まねして、鋳造から

彫金まで二人で手掛けたものらしい。

どこにそんな時間があったんだと不思議だが、夫婦にとって思い出の品である

ことは確かで…そのまま結婚指輪となったらしい。

(…そう言えば母さまも手先が器用な方じゃなかったな)

などと、故人に失礼なことをサヤは思い出していた。


ともあれ“政略結婚”と偽る必要がなくなったアガイルは、二つの指輪を隠すのを

止めた。

「これらは俺が生きている限り、この身に着けることにする」

死んだらお前にやる…と言おうとして宰相は口を噤んだ。

何のかんのと言って情に厚い娘のことだ。

不出来な細工物でも事情を知ってからは大事にするだろう。

しかし当分死ぬ予定のない彼は遺言めいたことを残すのは時期尚早と判断した。

何しろ彼には人生最大の夢…妻似の可愛い孫を存分に甘やかす、という大望を

未だ果たしていないのだ。


「久しぶりにカヤと二人で語り合いたいから、お前は外せ」

「でも…」

「心配しなくとも、正気を失ったり、後を追ったりなぞせん」

一瞬痴呆を疑ったものの、悲しみでどうこうなるような父ではないのだ。

「それでは父さま、これを。母の遺言をもう一度文字に起こしてみました」

カヤの直筆は先の女王によって香炉にくべられ、灰となってしまった。

しかし母を看取った娘は一字一句を記憶していて、父のために遺言を再現した。

父がエルミヤに帰還した時、母の最期を伝えると約束していたのだ。


「サヤ」

手紙の写しを渡して静かに退がろうとした娘をアガイルは呼び止めた。

その同じ色の瞳の中に葛藤が見て取れる。

「カヤは外見だけは小柄で華奢な印象を与えていたが、中身はお前同様、

 冬山で一人、猪狩りができる奴だった」

「うん…」

山男に負けない胆力の持ち主だった。娘のサヤには普段とても優しいのに、

本気で怒った時は、ナナツよりも恐ろしい母であった。

「俺よりも絶対長生きすると思っていた。

 だからこそ、カヤの突然すぎる死がどうしても信じられなかった」

「うん…」

それはサヤも同じ気持ちだった。目の前で倒れ、患い、そして逝くのを

確かに見ていたはずなのに、ずっと悪い夢の中に居るようであった。

「最近になって考える。

 もしかしたらカヤは俺を生かすために、自分の寿命を削ったのではないかと」

「え…?」

父の言葉は思ってもみなかった内容であった。

「俺が王都で死にかけたことは話しただろう?

 元軍人として、自分の怪我の状況くらい把握できる。

 即死は免れたものの、正直、かなりヤバい状態だった。

 時折、意識が混濁して、自分がどこにいるのか分からなくなった。

 だからなのか、直ぐ近くにカヤの気配をずっと感じていた。

 俺が闇に喰われそうになった時、“こちら側”へと引き留めるカヤの強い力を

 確かに感じた。それが…結果的に、カヤの命を縮めたのではないだろうか」

「そんな…私たちには“異種族”の力はないわ。

 母さまの強い思いが父さまをこの世に留めることはあるとしても、

 そのせいで寿命が尽きるなんてこと考えられないわ」

しかし、アガイルはゆっくりと首を振った。

「マルモア王家はこの百年余り血統主義を重視して固く口を閉ざしたが、

 遡れば“異種族”の、それも純血種と何度か婚姻を結んでいる。

 王家の血を引くカヤにも当然それは受け継がれている。

 そして俺の方だが…曾祖父に当たる者が純血種であったと聞いている」

「え、父さまって親戚いたの?」

現実逃避に、つい本筋ではないところを追及してしまった。

今の今まで父方の縁者に一人として会ったことがないのだ。

「…碌に育ててもらってないだけで、孤児だった訳ではない」

それにしたって自分が父母双方から“異種族”の血を受け継いでいたというのは

驚きで。

「もはや薄まった血脈ゆえ“ディヴァン”の関係とは異なるかもしれない。

 しかし、カヤがもしも無意識の内にも死力を振り絞っていたのなら…」

「父さま、真実はもう誰にも分からない」

カヤが死んでしまった以上、もう誰にも検証できないことだ。

「それに、例え、父さまの考えた通りだとしても、母さまは後悔なんかしない」

「そうだな…」

尽きぬ後悔があるとすれば、それはアガイルの側にあった。

もっと一緒に居たかった。

もっと優しくしたかった。

もっと愛したかった…こんなにも早く別れると知っていたならば。

王国(マルモア)辺境(エルミヤ)も本当のところ、彼にとってどうでも良かった。

ただ妻と娘と幸せに暮らしたかったのに。


「もう行け」

短く命じられ、サヤは今度こそ慰霊堂を後にした。

最後に見たのは、震える手を木彫りの小箱に伸ばす宰相の姿だった。


俯いて涙を隠したサヤをアイオンは優しく受け止めた。

小さな子どもの手を引くように、妻を“家”へと連れ帰る。

それから、鼻を鳴らす彼女をあやし、いやしながら彼は穏やかな眠りの中に誘う。

マルモア主神を映したような褐色の逞しい腕がサヤを包み込む。

“神の使者”と呼ばれた男は、この夜、サヤを見つめ、サヤだけを守った。


*** *** *** *** ***


翌朝。

イオと共に朝食の席に着いたサヤは、お玉を持ったシイに「宰相は?」と

開口一番尋ねられ、黙って首を振った。

門衛から、宰相が日付の代わる頃、公邸に戻った旨、報告を受けている。

ならばと起き抜けに様子を見に行ったものの、宰相が起居している客間は

もぬけの殻で寝台も使った形跡がなかった。


(一体どこに…?)

首を傾げた矢先にもう一人の客が現れた。

いつもは時間に正確で、遅れて来るのは珍しい。

挨拶がてらクレアを迎えると、昨日に比べて(おも)やつれしていた。

「お疲れが出ましたか、クレアさん」

元女王付女官長はここへ来て随分精力的に働いていた。

王都から送られてきた膨大な物資をてきぱきと捌くや、今度は辺境女伯の

提案した子女教育に着手した。宮廷で生き残って来た手腕もさることながら、

名家出身を鼻にかけることなく、また中央の仕来たりを一方的に押し付ける

のではなく、エルミヤの実情や慣習に真摯に耳を傾ける姿勢に好感が持てた。

とはいえ、頑張り過ぎなのでは、と心配になってきた頃合いでもあった。

「いえ、別段仕事がきつかった訳ではないのです。ただ昨晩は宰相閣下が…」

妙に歯切れの悪いクレアの物言いに、サヤは忽ち渋面になった。

(あんの腐れ男、心配して損した!)

クレアを責めるのは間違いだと己を戒めつつ、未だ姿を現さぬ父親に

沸々と怒りが沸く。

(亡き妻と語り合った後、その足で愛人(クレア)の所に行くって、

 一体どんな神経しているのよ!)

しかも、よくよく観察すれば、クレアの目下には薄っすら隈が出来ている。

睡眠不足なのは明白だ。


「あのような閣下は初めて見ました。あれほど激しく…」

(激しく…?ナニしてやがった、あの色ぼけ(じじい)っ)

隣に座るイオが取り上げる間もなく、サヤの握りしめる(スプーン)が直角に折れ曲がった。

別にイオは匙一本どうでも良いのだが、貧乏性の妻が後で嘆くのは確実なので

死守しようとしたのだが…間に合わなかった。

「あれほど激しく…宰相閣下が嘆き悲しむのを初めて見ましたわ」

ぎゃぁあクレアさん、父との情事を実況中継してくれなくて良いから!と

耳を塞ごうとしたサヤに、予想外の内容が飛び込んで来た。

「父が泣いた…?」

「はい。血を吐くような慟哭でしたわ。

 どうも素面ではお辛いようで、強いお酒を浴びるように召し上がりながら、

 でも全然お酔いになれない様子で、ずっと泣いてらっしゃいました。

 明け方になって漸く眠られたようです」

「それはもう…父がとんだご迷惑を」

どうせクレアが何を言っても大して耳に入っていなかったに違いない。

だったら自分の部屋で泣けよ…と娘としては、ぼやきたい。

そう言えば、同じく大酒飲みながら大泣きしていた男がいた。

カレント少将、今はカレント副宰相か。

宰相の腹心の部下であったと聞いているが、そんな所まで元直属上司(アガイル)

似なくて良かったのに。


「いいえ、これはお互いさまなのですわ。

 私も6年前に夫を喪った時、半狂乱になってしまい、閣下に救われました」

神はいないのかと、いたとして何と不公平なのか。

主神殿に放火しようかと本気で考えました

…などと元枢機卿(アイオン)をちらりと見やりながらクレアは語った。


「父さまはどうして…」

私を頼ってくれないのだろう、そう言いかけてサヤは愕然とした。

頼ってもらえるような娘ではなかったではないか、今まで一度だって。

クレアは青ざめた若い女伯に暖かな眼差しを注いだ。

「閣下は王宮でサヤ様に親として情けない姿を見せたと恥じておいでです」

「そんなこと」

灰となった手紙を握りしめ、崩れ落ちた父を見て、初めてサヤは父の母への

深い思いを知った。あの時の父を情けないなんて思わない。

「サヤ様の前では泣けないのです。誰に憎悪されても軽蔑されても、

 お嬢様にだけは“強くて、賢くて、格好良い父さま”でいたいのですわ」

父さま、もうそれ根本的に間違っているから。

強くて…そりゃ強いだろマルモア最強だ。

今でもエルミヤの民はアガイルの名を聞いただけで逃げ出す。

賢くて…そりゃ悪知恵の権化だ。

先王亡き後のマルモア宮廷を牛耳って来たのだから。

格好良い、うん、もてるよね、父さまは。

母は結局、父一筋だった訳だし、女王も精神を病むほど本気だった。

その他、サヤが知るだけで“関係のある”女性が3人

…って、格好良いの意味が全然違う!

総じて、宰相としてはともかく、父親としては尊敬すべき点を見いだせない

サヤであった。


「おい、俺にも飯をくれ」

頭を掻きながら、ようやく何様・俺様・名誉宰相様が現れた。

「相変わらずの粗食だな。肉と糖分が足りん」

食卓の上をざっと見回して早速不平を言う。

それからシイの給仕を断り、アガイル自ら鍋の底を突っついた。

なんだ鳥団子かとぼやきつつ、それでも野菜を避けて、器に肉ばかりよそっていく。

なんだザラメ糖かとぼやきつつ、それでも紅茶に匙・山盛り3杯を放り込んでいく。


涙の跡も深酒の痛みも綺麗に隠して、もりもりと朝食を平らげる父親は確かに、

どこまでも…果てしなく…見栄っ張りに違いなかった。


*** *** *** *** ***


「おいっ、エルミヤ州軍を創るぞ」

両手に山ほどの書類やら図面やらを抱え、執務室の扉を蹴破るようにして

入って来たのは“名誉宰相”閣下であった。

如何に貧相であろうとも…エルミヤ地方を統べる辺境女伯の執務室である。

そこに乱暴に突入するような、そして、突入できるような男は彼しかいない。


「父さま、扉壊さないで。ただでさえ建て付けが悪くなっているんだから」

ちょうどサヤは、イオ、シイ、ナナツの4人で“夏場における食品の保存方法と

衛生管理“につき、通達案を最終確認している所だった。

まだ早いと思っていたら、ナナツの部下が貯蔵食料の残りを片付けようとして

腹をやられたのだ。冬が長く厳しいエルミヤも、夏は夏で気温が上がる。

集団食中毒なぞ出さぬよう公共施設を中心に周知徹底せねば、と重要案件の

検討中であった。

それにも関わらず、こちらの事情をまるっと無視してアガイル登場。


「…お話しを伺いましょう」

ああこれで今日の予定が台無しだ、と内心で嘆きつつ、サヤは父に着席を促した。

相手は“名誉”が付こうが付くまいが宰相閣下だ。

たわ言で“エルミヤ州軍”など持ち出した訳ではないだろう。

机に投げ出した紙束からして、実現可能性を十二分に見込んでいるはずだ。


それに。

(これか…)

愛する夫と信頼する秘書が何やらコソコソ、宰相と共謀しているかと思えば。

公邸の増築がどうたらこうたらと言い訳していたが、誤魔化されるものか。

ちらっとシイを見れば、

「僕は山に詳しい連中を数名紹介しただけだからね」

と慌てて弁解してくる。山岳地帯に強い特殊部隊を作る気があるのだろう。

反対側にいるイオを見れば、

「私は神殿支配地で将来“譲って”くれそうな土地の候補を挙げただけだよ」

と何でもない態度を取る。しかし、言っていることは剣呑だ。

神殿支配地の一部をエルミヤ州軍のために割譲せよと迫る気なのだ。

未だ“神の使者”の復帰を画策する連中がいるようで、イオは段々と神殿嫌いを

募られていた。

それにしても、シイもイオもエルミヤが独自の軍を持つという点では父に

合意しているということだ。辺境を統べる者として「軍など不要。話せば分かる」

などと理想論をぶつつもりはない。

大規模な異民族の侵入も領民の反乱も一昔前の話だが

…将来、絶対ないとは言い切れない。

現に地元民には煙たがられながらもマルモア国軍駐屯はここまで続いていた。


「州軍の想定する“敵”とは誰です?」

「その答えは女伯であるお前がよく知っているだろう」

娘の問いに父は敢えて答えをくれない。


“敵”は国境の定まらぬ北方高山地帯から侵入する異民族…であればまだ良い。

辺境警備の名目も立つ。

しかし、飢饉で暴動を起こしたエルミヤの民を鎮圧するためであったり、王都が

混乱し、難民となって流れてきた者たちを追い払うためであったりするならば。

自分が作った軍隊が同じエルミヤの民を殺し、同じマルモアの民を傷つけると

いうならば…そんなものは要らない。


「お前の意向はどうあれ、3年後にはマルモア国軍が完全撤退する。

 丸腰のままではいられないぞ。志願者を募り、隊を編成し、基礎訓練を施した後、

 来春には軍務を開始させてゆかねば間に合わん」

アガイルの頭には具体的な実行計画が出来ているらしい。

軍事面において、悔しいがサヤは父親の足元にも及ばない。

「誰が司令官になるの?」

形式的な最高司令官には辺境女伯たるサヤが就くとしても、いざ(いくさ)になったたら

大軍を指揮する(すべ)を知らない。

アガイルは実力的には文句なしでも人望的には地の底を這っているので、

顧問にはなれても司令官にはなれない。

イオも神殿兵を掌握できるくらいだから軍才はあるのだろうが、元枢機卿を

軍人にするのは最後の手段だ。

シイも少数精鋭部隊ならともかく、大軍の指揮には不向きだ。

そうなると…?


「ナナツがいるだろうが。エルミヤ極道(やくざ)の総元締めが」

「もう70過ぎの(じじい)だ。勘弁してくれ!」

まさか自分にお鉢が回ってくるとは想像もしていなかったナナツは喉に果物を

詰まらせながら、それでも憤然と抗議した。

「別に実戦に出ろとは言わん。

 エルミヤ州軍初代長官として、取りあえず形を付けろ。

 軍にはお(めえ)んとこの(わけ)(もん)をとっとと出せや。

 出し惜しみするんじゃねえ」

…どっちが極道だと言いたい。


「私は州軍創設には慎重であるべきだと思う」

そのまま話が進みそうなので、サヤは慌てて“待った”をかけた。

「のんびりしている暇はないぞ」

「のんびりするつもりはないわ。

 府内で諮って、具体案がまとまり次第、王都に持って行きます」

「具体案ならもうまとめてある。お前がわざわざ王都に行く必要もない」

父の案がいかに優れたものであっても、それはあくまで父“個人”の案だ。

エルミヤ府の総意ではない。名誉宰相と女伯の権限だけで決すべき案件ではない。


「まだ新女王さまにご挨拶していないし、新女王さまのご意見も伺いたいの」

「ひよっこ娘に何を聞く?まともな意見なぞ出やしないぞ」

そんなことはサヤだって百も承知だ。

けれども、エルミヤ州軍の創設が、マルモア中央の脅威となってはならない。

王家と辺境伯家の対立が表面化する事態だけは絶対に避けなくてはならない。

そのためなら、上京だってするし、新女王に頭だって下げてやる。


「私の希望を述べておくと、州軍ではなく“辺境自警団”。

 軍備及び軍事活動は必要最低限。

 災害時の緊急援助活動や人道復興支援を主たる任務とする。

 間違っても…人殺しを正当化した専門技能集団を養成する所にはしないわ」

バチバチっと親子の間で火花が散った。宰相の提案を一端は飲み込む振りをして、

女伯は全然言う通りにするつもりはなかった。

イオもシイも成り行きを見守っている。心情的には宰相の案に賛成する。

“辺境自衛団”など、田舎臭い名前の上に、少しも強そうな気がしない。

しかし双方ともサヤに嫌われたくないので、アガイルに全て押し付けていた。


軍事面において、宰相と女伯の姿勢(スタンス)は根本的に異なる。

宰相は“逆らう者は叩き潰す”で、女伯は“逆らう者を創らない”である。

州軍創設をめぐる親子対立は収まりそうもない。

(しかし、性格はよく似ているんだよね)(やはり、親子というものか)

サヤが聞けば炎を吐きそうな感想を、二人はこっそり共有していた。

アガイルもサヤも頑固であり、引いたり、押したり、()けたりして交渉を

続けながら、ここぞという部分は絶対に譲ったりしない。


「何が不満なんだ!軍の暗部は俺が引き受けてやる!つべこべ言うな」

遂にキレた父親が机に拳を打ちこんだ。

「辺境女伯は私よ。軍を創るなら、創った責任の全てを私が負います」

その覚悟の後に、サヤはアガイルが予想もしなかった事を口にした。

「もうこれ以上、父さまが冷酷非情な極悪人のように言われるのは嫌なの。

 もうこれ以上、誰も殺めないで、父さま」

宰相が冷酷非情な極悪人なのは間違いない。

けれど、それだけではないのだと…もうサヤは気が付いている。

妻や娘のために父親が極悪人となるのは、もうお(しま)いにして欲しかった。


「ふん、勝手にしろ!」

そう啖呵を切って、宰相は部屋を飛び出す。

二度蹴りを入れられた扉と一度拳を入れられた机は修理が必要のようであった。

首まで真っ赤になった父親の後ろ姿を見送って、サヤは椅子に身を沈めた。

怒らせてしまったと、娘は落ち込むも、シイとイオはそうではないことを

知っていた。

(あ~あ、娘に大事に思われて盛大に照れて、いや、デレているよ)

(さすがだなサヤ、あの宰相を黙らせた。いきなり情に訴えるとは)

ともあれ、アガイルのあの様子では、王国最強のエルミヤ州軍構想は、

女伯の意見を入れて緩い“辺境自警団”になりそうな流れであった。


「はぁ…疲れた」

机に突っ伏したサヤに、冷たいおしぼりと疲労回復茶を持ってくるよと言って

シイが席を立つ。すかさず、イオが背後から愛しの妻を腕に囲って癒しを与えた。

「そういえば、母さまの代から開発を進めていた青豆の品種がようやく商品化

 されたでしょ」

素敵な旦那さまに優しく抱きしめられ、何を話すかと思えば、豆の新品種である。

小粒だが、寒さに強く、味も良く、栄養価も高い、青豆が漸く完成したのである。

「“辺境自警団”の旗印は青豆の図案(デザイン)がいいなぁ…」

サヤの呟きに、イオは黙って頷いた。

もう何も言うまい。

宰相が鷹とか熊とかの図案を持ち出しても、きっと娘可愛さに押し切られるだろう。

王家は豆の図案を馬鹿にするかもしれない。王都は辺境自警団を笑うかもしれない。

けれども…そんなものに負けないエルミヤの逞しさと誇りを見せ付けてやれば良い。


エルミヤの一粒。

青豆の図案。

ちょっと、かなり、ううむ、だが、愛する妻の望みであれば、好しとしよう。

アイオンはいずれ来るべき時にサヤを助け賛成票を投ずることを心に決めた。



エルミヤの一粒。最初は金の麦穂をイメージしていたのですが、

サヤの希望により青豆になってしまいました。

グリーンピースのようなものです。


さて、一休みした後は「エルミヤ余話 さみしい王女さま」を

お送りしたいと思います。

新女王さまと新副宰相さまの恋の成り行きも気になるところ。

怪我の治った辺境女伯が再び上京して、↑二人の間に波風が。

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