真鶴さんとも関係ない5
午後四時過ぎに、一号ママ先生こと小百合がやって来た時には生憎と誠一郎は不在であった。カウベルを鳴らして来訪し、事務所内にいるなつるへとにっこりと微笑みつつも、そわそわと背後をうかがうような姿になつるは噴き出してしまいそうになる。
自分より年上である筈だが、どうにも小百合という人は可愛らしい。
「社長、外回りです」
「え、あ――そうですか。すみません、あの、仔猫達の面倒事務員さんが見ててくれたんですね。すみません。ありがとうございます」
「いっぱい楽しませてもらいました。
確か三か月、四か月? このくらいの仔猫達って本当にびっくりするくらい暴れるけど、電池が切れるみたいにぱったり寝ちゃったりして」
ふふっと自然と口元がほころんでしまった。
「いっぱい写真とらせてもらっちゃいました。
データいります?」
「あ、要ります。ありがとうございます」
お互い猫好きだ。
小百合となつるはほんわかとした雰囲気に落ち着きそうになったが、小百合は慌てて背筋を伸ばした。
「じゃ、連れて行きますね」
「五号ちゃんも里子に出すんですか?」
ソファの上で寝ている仔猫をそっとだきあげてキャリーケースにいれようとする小百合に問いかければ、小百合は小さくうなずいた。
「相手は違いますけど……あの、五号ちゃん、もう少し見ていて頂いていいですか?」
里子に出すことは確定しているようだが、これから会う相手とは違うのだろう。なつるは上機嫌で小百合の言葉に快諾し、その背を「いってらっしゃい」と見送った。
相変わらず真鶴さんは窓辺でひんやりとした眼差しで仔猫を見ているが――事務所のマスコットの地位を奪われるのではないかと心配でもしているのか。
なつるはそっと近づき、真鶴さんの頭を撫でた。
「今日だけ、我慢我慢」
なんといっても、この仔猫達は真鶴さんの姪っ子やら甥っ子やらだ。
姉妹猫の一号の子供なのだから。
いやそうな顔をしていても威嚇しないのだから、もしかして真鶴さんもわかっているのかもしれない。
「真鶴さんはいい子だね」
滅多に言わないほめ言葉を言い、もう一度ぽふっと頭を軽く叩く。それに重ねるように、来客を知らせるカウベルが音をさせた。
なつるは小百合が忘れ物でもしたのかと自然と眼差しを硝子扉へと走らせた。
「どうした……の?」
のの音がやたら重く落ちて、それ以降の言葉は喉の奥で凍り付いた。
二週間顔を合せなかった浅宮が、どこか引きつれたような唇を引き結び透明な眼差しでそこにいたから。
どくんと心音が激しく脈打ち、わずかに血の気が引くような感覚にとらわれる。我知らず一歩退いてしまいそうになったが、そもそもなつるが立っていたのは真鶴さんのいる窓辺であった。
壁が足に当たり、慌てたように口が動く。
「あの、いらっしゃいま、せ」
来客に言うべき言葉は何であったろう。咄嗟のことで何を言うべきか判らなくなり、語尾があやふやになってしまう。その場の雰囲気の胡乱さに触発されたのか、真鶴さんが「なーん」と一声鳴いて、とんっと出窓からおりてしまった。とたとたとそのまま自分用の小さな出入り口が設置されている台所と事務所とを隔てる扉へと走っていってしまうが、追いかける訳にもいかずに――なつるは困惑した。
「あの、今日は、何か?」
仕事かと思ってはみたが、もともと浅宮がこの事務所に顔を出してするような仕事はない。浅宮とのやりとりは基本的に電話かメール――あとはFAX程度のことで、いちいちこちらに顔を出してのやり取りなど……
おろおろと視線が泳ぐなつるをじっと見つめ返し、浅宮はやがて調子を取り戻したかのように一度息をついて口元にわずかに笑みを浮かべた。
「社長は?」
「社長は……今日は六時頃になると思います」
「じゃあ、待たせてもらいますね」
さらりと言い、まるで以前と同じように持参した土産の入ったと思わしき袋を軽く持ち上げてみせる。
中身は言われずとも判っている。真鶴さんの為のおやつパウチだとか、豪華な猫缶なのだろう。差し向けられるものに近づいて手を伸ばせば、意図的にか軽く身を屈めた浅宮が、まるでなつるの耳元に注ぎ込むように低い声で囁いた。
「よかった。いつも通りの対応をされたらどうしようかと思いました」
ぴくりと伸ばした指先がとまる。
いつも通りの対応のつもりであったのに、いつも通りの対応ではないとはどういうことか。
戸惑いが更に深まるなつるは飛びのくように一歩退き、そんななつるとは逆に、浅宮こそいつも通りの対応でまなじりを下げた。
「なっちゃん、珈琲ください」
――さよならって、言ったじゃない!
もうそれってずっとって意味ではなかったの?
もう二度と会わないという意味ではなかったの?
咄嗟に怒鳴りたい衝動をぐっとこらえて、なつるは苛立ちのままに浅宮の手から紙袋をひったくり「缶コーヒーでいいですね」と言いおいてさっさと台所へと逃げ込んだ。
どう対応してよいのか判らない。
ごめんと謝罪を口にするべきか。相手の心に踏み込みすぎたと頭を下げるべきなのか。本当にどうして良いのか判らない。
いらいらしている足に、真鶴さんがすりっとその身を摺り寄せた。
浅宮の持参する袋が彼女にとって素晴らしいお宝であることを、彼女はきちんと理解しているのだ。
むっとしながらなつるは唇を尖らせて袋を覗き見た。
まるで二週間という時間を埋めあわせるように、真鶴さんの大好きなちょっとお高い缶詰と、猫用のおやつパウチが数種類。それと一緒にリボンのつけられた可愛らしいケーキボックス。
じっとそれを見つめていると、眉間にじわじわと皴がより始めた。
つまんで引っ張り出し、リボンをほどいて中身を確認しても出てくるのは可愛らしい円形のカップケーキが一つ。
ケーキと真鶴さんを交互に見て、なつるは小首をかしげた。
「猫に生クリームは駄目でしょ?」
それとも犬猫用の特別製?
困惑を深めつつ、扱いに困ってとりあえず箱を閉めて冷蔵庫に入れた。
あとで誠一郎が処理してくれることだろう。
たとえ猫用であったとしても、人間が食べたって問題ない筈だ。
猫用の餌だとて製造元では人間が味見をしながら作っているというし――眉間の皴をかるくもみほぐして、ふっとなつるは笑みをこぼした。
――どう見ても一般人とは違う雰囲気をかもしているボクサー犬が似合う男がこのケーキをどんな顔をして購入したのかと思うと、なんだか怒っているのが馬鹿らしくなってしまった。
なつるは缶コーヒーと言ったのは忘れることにして、きちんとレギュラーコーヒーを二つのカップに注いで事務所へと戻った。
事務所のソファでは、まるきり先日のことなど忘れたようにスーツの男は黒猫の五号をその手に抱いて撫でていたが、その場にはいつの間に戻ったのか浅宮のみならず小百合がいた。
明らかに落胆のようなものが飛来し、なつるは慌ててそれを打ち消した。
「おかえりなさい、一号ママ先生。先生もコーヒーでいいですか?」
自分用にとトレーに乗せてあったコーヒーカップを目で示せば、キャリーケースを床に置く小百合が淡く微笑む。
「ありがとうございます」
小百合に浅宮の隣の席を勧め、テーブルに珈琲を置きながら「この配置は正解か」と胸の内でもやもやと考える。二人とも平然と見えるが、確か以前二人が顔を合わせた時、二人の間の空気は決して友好的なものではなかった。
四号を里子に出した時の経緯を、浅宮が痛烈に批判していた筈だ。それとも二人ともそんなことは忘れてしまったのだろうか。
まるで以前からの知り合いだとでもいうように、浅宮は自分の手の中の仔猫を小百合へと手渡し、小百合は微笑んでそれを受け取った。
「里親さん、どんな人なんですか?」
話題を求めてなつるはそう問いかけた。
もうすでにバスケットに仔猫はいない。いるのは留守番をしていた五号だけだ。小百合はそっと手の中の五号を撫でながらゆっくりとした口調で応えた。
「――秋川君。もともと……この子をほしいと言ったあの子の家に戻ったの。
でも、今度はちゃんと家族の皆さんの了承も得ているのよ」
その言葉に、浅宮の顔がわずかにゆがむ。
また地雷を踏みぬいたと思ったなつるは、慌てて声のトーンを上げていた。
「あの子のところに戻したんですか?」
「軽率な」
浅宮の言葉には辛辣が混じる。
すわ、あの時の再来かと思ったが――小百合は穏やかな口調で続けた。
「軽率かもしれない。でも、一度の過ちで切り捨てることはできないの。私は、教師だから」
そういいながら、小百合はその眼差しを浅宮へと向けた。まるで彼こそが生徒とでもいうように、柔らかに囁きかける。
「このまま、君のした行為はいけないことだと切り捨てることは簡単なことだけれど、そこで終わってしまったら彼の心にはずっと傷が残ってしまう」
「猫といえども命に対して軽率なことをしたというのに?」
「悪気はないのよ」
「悪気はなくとも結果はっ」
「私は、あの子を信じます。
だから四号をもう一度託したの。四号と一緒に暮らすことで、命の大事さを学んで優しさと温かさに触れて、そうして時々反省して大人になって欲しい。
それが、私の答えです」
それでも、暫くの間葛藤があったのだけれどと告白した小百合は――浅宮の言葉を封じ込めた。
なつるだとて、どうすれば正解かは判らない。
嘘をついて猫を里子として受け取り、あげく公園で飼おうとして見失った子供にほいほいと猫を渡すという行為は複雑だ。だが、ここできっぱりと「あなたは間違った。だからいくら求めても仔猫を預けることはもう許されない」と子供に突き付けて背を向けることは、教師としての小百合にはどうしてもできなかったのだ。
「また同じようなことをしでかす」
浅宮は頑なにぼそりと吐き捨てた。
「ああいった子供は――」
「はい、どうぞ」
ぽんっと、小百合は浅宮に仔猫を突き付けた。
「五号ちゃん。難産で、ちょっと成長が遅くて心配な子です。
でも今のところ病気もしていないし、ご飯もちゃんと食べてくれる。時々下痢をしてしまうのは心配だけど、それでも元気な子です」
「……」
「トライアル、したいんですよね?」
その言葉に、なつるは心から驚愕した。
頑なに猫を飼うことを拒んでいた浅宮が、どういった心境の変化でか猫を飼おうと動いたのだ。
それを驚きと共に喜んだが、だが――本当にそれは彼の望んだことなのだろうか。まさか先日の件がもとで無理やりそういう行動に出てみたとか。
とたんに心配になったなつるに、浅宮は半眼を伏せた。
「お預かりしますが……正直、無理かもしれません」
「無理かどうかを探るのがトライアルです。一週間、この子と付き合ってこのまま里親として生活していけるのかどうか見極めて下さい。そういう、約束でしたよね」
いつの間にこの二人はそんな約束を交わしていたのだろうか。
なつるの眉間に皴が寄った。
自分の知る限り、浅宮となつるが積極的にかかわったのは一度きりのことだ。幾度か事務所で遭遇したことはあったかもしれないが、まさにニアミス程度であった筈だというのに。
怒涛の一日であった。いや、半日か。
色々なことがあって、久しぶりに浅宮と遭遇して……何か良い方向に向かうのかもしれないという小さな火がともったような気持になれた日。
だが、浅宮はその三日後には苦笑と共に五号を伴って事務所を訪れた。
丁度事務所にいた誠一郎が、浅宮の表情に苦笑して仔猫の入ったキャリーケースを受け取る。
「出戻りだなー五号」
「すみません……」
「なに、謝るこっちゃない。先生にも連絡してあるんだろ? まぁ、しゃあないしょ」
二人のやり取りに、なつるはいたたまれない気持に視線を反らした。
無理強いしたという気持ちが強く自分の中に広がっていく。自分の勝手な思い付き、なつるが何も言わなければ、踏み込まなければ、浅宮は仔猫を引き取ろうなどとは思わなかっただろうに。
浅宮の心にあった傷を更に大きく広げてしまったのかもしれない。
つっと足先を台所に向けようとしたなつるだが、背後から誠一郎の笑い声がその足を押しとどめた。
「それにしても、お前さんも随分と繊細だな」
「――」
「仔猫が心配で仕事が手につかないから引き取るのは断念って、どこの乙女だ」
「仕方ないでしょう。目を離すと何をするか判らなくて。なにかあったらと思うとおちおち仕事もしていられない」
浅宮は怒ったように言いながら鼻を鳴らした。
「仔猫は無理ですが、真鶴さんなら寝てばかりだから引き取れますよ」
「なんでうちの子をあげなきゃいけないのさ。お前さんみたいのは、どっかの里親団体から成猫でももらいなさいよ」
軽口の応酬に、浅宮は苦笑するように応えた。
「まぁ……まだ、いろいろと無理そうですが……そうですね、また、機会がありましたら」
穏やかなその言葉に、なつるは留めた足をはねるように動かして台所へと続く扉に手をかけた。
その足元を、真鶴さんがするりと身をなすりつけるように通過した。
[真鶴さんとも関係ない・終]