第五章 君も、こちらへ
その日の夜。
エミリーは、寝室のベッドで横になっているロイドを見つめていた。
部屋の明かりは消してある。
窓の外から差し込む街灯の光が、彼の横顔をぼんやりと照らしていた。
「ロイド、眠った?」
返事はなかった。
規則正しい呼吸が聞こえる。
どうやら眠っているらしい。
エミリーはそっとベッドから抜け出した。
床を鳴らさないように気をつけながら寝室を出ると、廊下で立ち止まり、背後を振り返った。
ドアの向こうは静かだった。
彼女はリビングへ向かった。
ソファに腰を下ろし、両手でスマートフォンを握りしめる。
誰かに相談したかった。
けれど、誰に話せばいいのか分からなかった。
夫の様子がおかしい。
帰ってきてから、ずっと元気がない。
何もする気が起きないようで、食事もあまり取らず、以前のように笑わなくなった。
それだけなら、宇宙から帰還したばかりなのだから、疲労や精神的な負担が原因なのかもしれない。
しかし、エミリーには、もう一つ気がかりなことがあった。
今朝、ロイドが一人でリビングにいたときのことだ。
彼女が声をかけると、ロイドはひどく驚いたように顔を上げた。
まるで、自分がどこにいるのか分からなくなっていたかのように。
そして、ほんの一瞬だけ。
彼の表情が、見たこともないほど空虚になった。
エミリーがもう一度呼びかけると、彼はいつもの顔に戻った。
「何でもないよ」
そう言って笑った。
その笑顔を見て、エミリーはそれ以上、何も聞けなかった。
けれど、忘れられなかった。
彼は本当に、いつものロイドなのだろうか。
エミリーはスマートフォンの連絡先を開いた。
マック・ハドソン。
ロイドの同僚であり、長年の友人でもある男だった。
宇宙での仕事についても、ロイドの性格についても、彼女より詳しいことがある。
何より、帰還後の検査にも関わっている。
彼なら、何か分かるかもしれない。
しばらく迷ったあと、エミリーは発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
やがて、電話がつながった。
『……エミリー?』
少し驚いたようなマックの声が聞こえた。
『どうしたんだ、こんな時間に』
「マック……」
声が震えた。
自分でも、こんなに緊張しているとは思わなかった。
『何かあったのか?』
「ロイドが……」
言葉が詰まった。
何から話せばいいのだろう。
元気がないこと。
何もする気が起きないこと。
時々、まるで別人のように見えること。
それとも、もっと根本的な違和感について話すべきなのだろうか。
彼が、彼ではなくなっていくような感覚。
「ロイドが、帰ってきてからずっと変なの」
エミリーはようやく言った。
『変、というと?』
「元気がないの。何をするのも面倒そうで、食事もあまり食べないし……。何か悩んでいるのか聞いても、本人にもよく分からないみたいで」
マックは黙って聞いていた。
「最初は、疲れているだけだと思ったの。でも、何か違う気がするのよ」
『違う?』
「うまく説明できない。ロイドなのに……時々、ロイドじゃないみたいに感じるの」
口にした途端、エミリーは自分の言葉がひどく馬鹿げて聞こえた。
夫の様子がおかしい。
それを説明したかっただけなのに、まるで怪談のような話になってしまった。
「ごめんなさい。変なことを言ってるわよね」
『いや』
マックの声が少し低くなった。
『もう少し詳しく聞かせてくれないか』
エミリーは顔を上げた。
「……本当に?」
『ああ』
マックは、少し間を置いて続けた。
『実は、僕もロイドのことで気になっていることがある』
「何?」
『まだ確かなことは何もない。ただ、帰還後の検査結果だけでは説明できない部分があるんだ』
エミリーの胸がざわついた。
「どういうこと?」
『今はまだ話せない。憶測で不安にさせたくないからね。でも、もしロイドの様子に何か変化があったなら、すぐに教えてほしい』
「分かった……」
エミリーはスマートフォンを握り直した。
「マック、お願い。ロイドを助けてあげて」
『もちろんだ。僕にできることがあれば、何でもする』
その言葉に、エミリーは少しだけ安堵した。
少なくとも、自分の気のせいだけではないのかもしれない。
そう思った。
そのときだった。
「誰と話しているの?」
背後から声がした。
エミリーの身体が硬直した。
聞き慣れた声だった。
振り返らなくても、誰なのか分かった。
ゆっくりと顔を向ける。
リビングの入り口に、ロイドが立っていた。
寝室で眠っていたはずの夫が。
「……ロイド?」
彼は微笑んでいた。
いつもと変わらない、穏やかな笑顔。
けれど、エミリーはすぐに気づいた。
彼の目は、まったく笑っていなかった。
瞳の奥に、感情らしいものが見当たらない。
ただ、こちらを見つめている。
「誰と話しているの?」
ロイドはもう一度尋ねた。
声は優しかった。
責めているわけでも、怒っているわけでもない。
まるで、妻が誰かと電話をしていることに、純粋な興味を抱いているだけのようだった。
「マ、マックよ……」
エミリーは答えた。
『エミリー? どうした?』
電話の向こうから、マックの声が聞こえた。
ロイドの視線が、スマートフォンに移った。
「マック?」
彼は、少し嬉しそうに呟いた。
「久しぶりだね」
エミリーは息を呑んだ。
「ロイド、あなた……」
「代わってくれる?」
彼は手を差し出した。
穏やかな仕草だった。
断る理由など、どこにもない。
それなのに、エミリーはスマートフォンを渡せなかった。
目の前にいる男は、自分の夫だ。
何年も一緒に暮らしてきた。
彼の笑い方も、歩き方も、声の調子も知っている。
なのに今、目の前にいるロイドには、どうしても説明できない違和感があった。
「エミリー?」
彼が首を傾げた。
「どうしたの?」
その口調は、彼女を心配しているように聞こえた。
エミリーは震える手でスマートフォンを差し出した。
ロイドは受け取ると、耳に当てた。
「マック、聞こえる?」
『……ロイド?』
「うん。僕だよ」
ロイドは笑った。
「久しぶりだね。元気にしていた?」
『ああ。お前は……』
マックの声が途切れた。
何かを考えているようだった。
ロイドは、その沈黙を気にする様子もなく話し続けた。
「僕は元気だよ。とてもね」
『エミリーから、お前の様子がおかしいと聞いたんだが』
「ああ、そのことか」
ロイドは、まるで面白い冗談を聞いたかのように小さく笑った。
「エミリーは心配性だからね」
『具体的に何があった?』
「何もないよ」
ロイドは答えた。
「本当に、何もないんだ」
その声には、少しの迷いもなかった。
「ただ、最近になって、ようやく分かってきたんだ」
『何がだ?』
「どうして人間は、あんなに苦しむんだろうね」
マックは黙った。
ロイドは窓の外を眺めていた。
夜の街には、無数の明かりが灯っている。
一つ一つの光の下に、誰かの暮らしがある。
悩みを抱えた人。
誰かを憎んでいる人。
明日を不安に思う人。
自分の人生に絶望している人。
ロイドは、彼らのことを考えた。
以前なら、そうした人々に思いを馳せれば、何かしらの感情が生まれたはずだった。
同情。
怒り。
悲しみ。
あるいは、自分にできることはないかという思い。
だが今は、違う。
なぜ、そんなに難しく考えるのだろう。
なぜ、苦しみを抱えたまま生きようとするのだろう。
もっと簡単な方法があるのに。
『ロイド、聞いているのか?』
「ああ、聞いているよ」
ロイドは答えた。
「ねえ、マック」
『何だ?』
「君も、こっちに来るといい」
マックは息を止めた。
『……どういう意味だ?』
「こっちに来れば分かるよ」
ロイドは優しく言った。
「何も心配することはない。難しいことを考える必要もないんだ」
『ロイド、お前は今、何を言っている?』
「君にも、幸せになってほしいんだよ」
その言葉を口にしたロイドの表情は、心からの善意に満ちていた。
友人を大切に思っている。
彼にも幸せになってほしい。
その気持ちに、嘘はなかった。
だからこそ、エミリーは恐怖を感じた。
ロイドは、誰かを脅しているのではない。
誰かを騙そうとしているのでもない。
本気で言っているのだ。
彼は、本当に自分が幸せなのだと信じている。
そして、その幸福を他人にも与えたいと願っている。
ただ、その幸福のために何が失われるのかを、まるで考えていない。
「ロイド……」
エミリーが小さく呼んだ。
彼は振り返らなかった。
『……ロイド』
電話の向こうで、マックが慎重に尋ねた。
『お前、本当に大丈夫なのか?』
ロイドは微笑んだ。
「もちろん」
『なら、明日、少し話をしよう。直接会って話したい』
「明日?」
『ああ。二人でな』
ロイドはしばらく黙っていた。
その沈黙の間、彼の表情から笑顔が消えた。
顔から感情が抜け落ちたように、何の表情もなくなった。
エミリーは、声を出すことができなかった。
数秒後。
ロイドは再び微笑んだ。
「いいよ。楽しみにしている」
そして、通話を終えた。
スマートフォンをエミリーに返す。
「マックも心配してくれていたよ」
「……そう」
エミリーは受け取ったスマートフォンを、胸元で握りしめた。
「ロイド、どうして起きてきたの?」
「目が覚めたんだ」
「でも、さっきまで眠っていたでしょう?」
「うん」
彼は素直に頷いた。
「でも、君がいなかったから」
「私が……?」
「そう」
ロイドは彼女の手を取った。
「君がそばにいないと、寂しいんだ」
その言葉を聞いて、エミリーの胸が痛んだ。
それは、かつて何度も聞いた言葉だった。
仕事で長く家を空けるとき。
宇宙へ旅立つ前の夜。
離れて暮らしていた頃。
ロイドはいつも、彼女にそう言っていた。
だからこそ、彼女は彼の手を振りほどけなかった。
「……私もよ」
エミリーは答えた。
「私も、あなたがそばにいてくれると嬉しい」
ロイドは満足そうに笑った。
「よかった」
彼は彼女を抱きしめた。
優しく。
大切なものを包み込むように。
エミリーの肩に顔を埋め、穏やかな声で囁いた。
「ねえ、エミリー」
「何?」
「君も、もっと幸せになろうよ」
エミリーは目を閉じた。
彼の腕の中にいる。
温もりもある。
匂いも、声も、何もかも知っている。
それなのに、どうしても安心できなかった。
「……ロイド」
「うん?」
「あなたは、本当にロイドなの?」
口にしてから、エミリーは後悔した。
あまりにもひどい質問だった。
けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。
ロイドの腕が止まった。
ほんの一瞬。
本当に、瞬きするほどの短い時間だった。
それから彼は、エミリーの顔を覗き込んだ。
「もちろん」
優しく、はっきりと答えた。
「僕は、ロイドだよ」
彼は笑った。
エミリーが知っている、あの笑顔で。
「君の夫だ」
彼女は何も言えなかった。
その言葉が嘘だとは思えなかった。
けれど、それが本当だと信じることもできなかった。
ロイドは彼女の手を握り、寝室へと歩き始めた。
「もう遅いよ。寝よう」
エミリーは頷いた。
彼の後ろを歩きながら、何度も振り返りたい衝動に駆られた。
何かが、リビングに残っているような気がしたからだ。
けれど、そこには何もなかった。
消えたテレビ。
閉じたカーテン。
ソファの上に置かれたクッション。
いつもと変わらない、自分たちの家。
何ひとつ、おかしなものはない。
それなのに。
エミリーは、もう以前と同じように、この家で眠ることができない気がした。
深夜。
ロイドは眠っていた。
隣で横になっているエミリーは、目を閉じたまま、彼の呼吸に耳を澄ませていた。
一定の間隔で繰り返される呼吸。
布団の中で動く指先。
寝返りを打つときの、小さな衣擦れの音。
どれも、いつものロイドと変わらない。
それでも彼女は、眠ることができなかった。
今日の彼の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
――君も、もっと幸せになろうよ。
優しい言葉だった。
夫が妻に向ける言葉として、何もおかしくない。
それなのに、あのときのロイドは、まるで何かを決定事項として告げているようだった。
自分が何を望んでいるのか。
自分がどう感じているのか。
そんなことは、彼にとって重要ではないかのように。
ただ、幸福になることだけが正しい。
それ以外の選択肢など、初めから存在しないかのように。
エミリーは、ゆっくりとロイドの顔を見た。
彼は穏やかな表情で眠っていた。
その顔は、愛する夫そのものだった。
「……お願い」
エミリーは声にならないほど小さく呟いた。
「戻ってきて、ロイド」
返事はなかった。
ロイドは眠り続けていた。
その頭の奥深くで、何かが静かに考えていた。
人間は、幸福を求める。
苦しみから逃れたいと願う。
孤独を恐れ、愛する者を求める。
ならば、幸福を分け与えればいい。
苦しみを取り除けばいい。
一人ではなくなればいい。
そうすれば、誰もが満たされる。
そうすれば、仲間が増える。
その何かにとって、それは疑いようのない答えだった。
ただ一つ、理解できないことがあった。
なぜ人間は、幸福を与えられることを恐れるのだろう。
なぜ、助けようとする者から逃げようとするのだろう。
なぜ、満たされることよりも、自分であることを選ぼうとするのだろう。
その何かは、まだ知らなかった。
人間にとって、幸福であることと、自分自身であることが、必ずしも同じではないということを。
そして、自分が差し出そうとしている幸福が、誰かにとっては、何よりも恐ろしいものになり得るということを。




