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第六章 正常な人間

翌朝、マック・ハドソンはほとんど眠れないまま出勤した。


昨夜の電話が、頭から離れなかった。


ロイドの声は、いつもと変わらなかった。


落ち着いていて、穏やかで、時折冗談を交える。長年の付き合いがあるマックには、彼がどんな気分のときに、どんな話し方をするのか、おおよそ分かっていた。


だからこそ、気になった。


ロイドは確かに笑っていた。


電話越しでも分かるほど、楽しそうだった。


しかし、その言葉には妙なものがあった。


「君も、こっちに来るといい」


まるで、何かの勧誘のようだった。


それも、相手が何を考え、何を望んでいるのかなど、少しも気にしていないような勧誘。


マックは自席に座り、コンピューターを起動した。


まずは、ロイドの帰還後の記録を確認することにした。


医療検査の結果。


船外活動の映像。


宇宙服の各種センサーの記録。


帰還時の聞き取り調査。


すでに何度も確認した資料だった。


異常はない。


少なくとも、記録上は。


ロイドが強烈な眩しさを感じたと報告した時間帯にも、カメラには何も映っていなかった。


光量の変化もない。


宇宙服のセンサーにも異常はない。


ロイド本人の身体にも、目立った異常は見つからなかった。


それなのに、彼は確かに何かを見たと主張している。


マックは椅子の背もたれに身体を預けた。


「……いったい、何だったんだ」


独り言が、静かな部屋に落ちた。


最初は、単なる目の錯覚だと思っていた。


過酷な環境での作業。


長時間の緊張。


疲労。


人間の感覚が一時的に異常をきたすこと自体は、決して珍しくない。


だが、昨夜の電話を聞いてから、その説明だけでは納得できなくなっていた。


ロイドは、何かを隠しているのだろうか。


それとも、本人にも分からない何かが起きているのだろうか。


マックはもう一度、帰還後の医療記録を開いた。


視力、正常。


瞳孔反応、正常。


神経学的検査、異常なし。


精神状態についても、当初の聞き取りでは顕著な問題は報告されていない。


記録の上では、ロイド・ハリスは健康だった。


しかし、マックは昨夜の声を思い出した。


『僕は元気だよ。とてもね』


その言葉を、ロイドはあまりにも迷いなく口にしていた。


本当に元気な人間なら、わざわざあんな言い方をするだろうか。


いや。


元気であること自体が問題なのではない。


問題なのは、彼が以前と違う何かを、当然のように受け入れているように感じられたことだった。


マックは記録を閉じた。


これ以上、画面を眺めていても何も分からない。


直接会って話すしかなかった。


午前十時。


マックはロイドの自宅に電話をかけた。


数回の呼び出し音のあと、エミリーが応答した。


『もしもし』


「エミリー、マックだ」


『マック……』


彼女の声には、疲労がにじんでいた。


「昨夜は大丈夫だったか?」


『ええ。でも……』


言葉が途切れる。


マックは静かに待った。


『ロイド、今朝は普通なの』


「普通?」


『朝食も食べたし、私にも優しくしてくれる。いつもどおり笑っているし、昨日の夜のことも、何も気にしていないみたい』


「それなら、いいことじゃないか」


口にしてから、マックは自分の言葉に違和感を覚えた。


エミリーはすぐには答えなかった。


『……そうね。普通なら、そうなのよね』


「何かあったのか?」


『今朝、私が昨夜のことを聞いたの』


マックは姿勢を正した。


『誰と電話していたか覚えているか、どうして起きてきたのか、マックに何を話したのかって』


「それで?」


『覚えているって言ったわ。全部、覚えているって』


「なら……」


『でも、何もおかしいと思っていないの』


エミリーの声が、わずかに震えた。


『あなたに、こっちに来るといいって言ったでしょう? あれを聞いて、私は怖かった。ロイドが何を考えているのか分からなくて』


「……ああ」


『でも、本人は本当に不思議そうにしているのよ。どうして私が怖がるのか、どうしてあなたが心配するのか、分からないみたいに』


マックは目を閉じた。


『ねえ、マック』


「何だ?」


『あの人、病気なのかしら』


答えられなかった。


病気なら、まだよかったのかもしれない。


原因が分かれば、治療の方法も見つかるかもしれない。


だが、現時点では何も分かっていない。


「まだ何とも言えない。でも、僕が直接話してみるよ」


『お願い』


「今日、そちらに行ってもいいか?」


『ええ。ロイドも、あなたに会うのを楽しみにしていると思う』


電話を切ったあと、マックはしばらく受話器を見つめていた。


楽しみにしている。


昨夜も、ロイドは同じことを言った。


その言葉自体に問題はない。


だが、エミリーの声からは、安堵よりも不安のほうが強く感じられた。


マックは上着を手に取り、立ち上がった。


正午過ぎ。


マックがハリス家を訪ねると、玄関のドアはすぐに開いた。


「やあ、マック」


ロイドが笑顔で迎えた。


「来てくれてありがとう」


「久しぶりだな、ロイド」


マックは彼の顔をじっと見た。


肌の色も、目の動きも、歩き方も、特に変わったところはない。


声も自然だ。


むしろ、以前より表情が明るいようにさえ見える。


「元気そうだな」


「うん。おかげさまで」


ロイドは楽しそうに答えた。


「君も元気そうでよかった」


「まあな」


マックは靴を脱いで家に上がった。


リビングにはコーヒーが用意されていた。


エミリーが少し離れた場所に立っている。


彼女はマックと目が合うと、ほんのわずかに頷いた。


それだけで、彼女が何を伝えたいのか分かった気がした。


気をつけて。


そんな言葉が聞こえたような気がした。


「座ってよ」


ロイドがソファを勧めた。


「コーヒーを淹れたんだ。君は昔から、砂糖を入れないんだったよね?」


「ああ。よく覚えているな」


「もちろん。君のことはよく知っているからね」


ロイドは微笑んだ。


「長い付き合いだろう?」


その言葉に、マックは一瞬だけ返事に迷った。


確かに、長い付き合いだった。


二人で訓練を受け、何度も仕事をこなし、危険な状況を乗り越えてきた。


ロイドが何を好み、何を嫌い、どんな冗談で笑うのか。


マックはよく知っていた。


目の前にいる男も、その記憶をすべて持っている。


だからこそ、判断が難しかった。


「……そうだな」


マックはコーヒーを受け取った。


「ところで、体調はどうなんだ?」


「体調?」


「帰ってきてから、少し疲れているように見えたからな」


ロイドは考えるように首を傾げた。


「そうだったかな」


「エミリーから聞いたんだ。気分が落ち込んでいたり、何もする気が起きなかったりしたらしいな」


その瞬間、エミリーの指先がわずかに動いた。


ロイドは彼女を見た。


責めるような視線ではなかった。


ただ、少し不思議そうな顔だった。


「心配してくれたんだね」


「そりゃあな。友人だからな」


「ありがとう」


ロイドは穏やかに答えた。


「でも、もう大丈夫だよ」


「いつから?」


「今朝からかな」


「何か、きっかけがあったのか?」


ロイドはしばらく考えた。


「さあ。よく分からないんだ」


そして、軽く笑った。


「でも、今は気分がいいんだ。昨日までのことが嘘みたいにね」


マックは彼の目を見た。


「昨日まで、どんな気分だった?」


ロイドの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。


「……何をしても、意味がないような気がしていた」


「意味がない?」


「仕事も、食事も、会話もね。頭では必要だと分かっているのに、何もしたくなかった。何かを楽しもうとしても、うまく楽しめないんだ」


マックは黙って聞いていた。


「エミリーに申し訳ないとも思った。彼女は何も悪くないのに、僕は何もしてあげられない。自分が何を望んでいるのかも分からない」


ロイドはコーヒーカップを見つめた。


「……自分が、自分じゃないみたいだった」


エミリーは息を呑んだ。


マックは身を乗り出した。


「今は違うのか?」


「うん」


ロイドは顔を上げた。


「今は、すべてが分かる気がする」


「何が分かった?」


「難しく考えすぎていたんだよ」


その声は、驚くほど穏やかだった。


「人間は、いろいろなことを複雑に考えるだろう? 何が正しいのか、何を選ぶべきなのか、どうすれば失敗しないのか。いつも何かを心配して、何かを恐れている」


「それは……人間だからだろう」


「そうだね」


ロイドは頷いた。


「でも、苦しむ必要はないんだ」


マックの胸に、冷たいものが走った。


「どういう意味だ?」


「そのままの意味だよ。僕たちは、もっと楽しく生きられる。もっと幸せになれる。なのに、わざわざ悩み続けているんだ」


「悩むことが、必ずしも悪いわけじゃない」


「どうして?」


ロイドは、本当に不思議そうに尋ねた。


「悩んでいる間、幸せになれるわけでもないのに?」


マックは答えられなかった。


ロイドは続けた。


「もちろん、何かを考えること自体は悪くないよ。でも、苦しみ続ける必要はない。もっと単純に、幸せを感じればいいんだ」


「……お前は、それで幸せなのか?」


「うん」


即答だった。


「とても幸せだよ」


マックは彼の表情を観察した。


作り笑いではない。


少なくとも、そう見せようとしている様子はなかった。


ロイドは心から幸せそうだった。


以前、宇宙飛行士として大きな任務を終えたときに見せた笑顔とも違う。


もっと無邪気で、もっと純粋で、そして――何かが欠けていた。


喜びの理由を説明する必要などないとでもいうように。


「ロイド」


マックは慎重に言葉を選んだ。


「船外活動中に、何かほかにも起きなかったか?」


ロイドの動きが止まった。


「ほかに?」


「あの眩しさのことだ。光を見たとき、何か聞こえたり、何かを感じたりしなかったか?」


「いいや」


ロイドは答えた。


「あのときは、ただ眩しかっただけだよ。何も聞こえなかったし、何も見えなかった。目の前が真っ白になった。それだけだ」


「そのあと、頭痛や吐き気は?」


「ないよ」


「意識が途切れた感じは?」


「……どうして、そんなことを聞くんだい?」


ロイドは微笑んだまま尋ねた。


その声には怒りも警戒もなかった。


純粋な疑問だった。


マックは一瞬、言葉に詰まった。


「いや、念のためだ」


「そっか」


ロイドは納得したように頷いた。


「君は心配性だね」


その言い方は、あまりにも自然だった。


マックは、それ以上追及できなかった。


会話は続いた。


昔の任務の話。


訓練中に起きた失敗。


二人にしか分からない冗談。


ロイドはすべて覚えていた。


笑うべきところで笑い、適切なタイミングで相槌を打ち、マックの話に興味を示した。


以前よりも、むしろ人当たりがよくなったように感じられた。


一緒にいて、不快ではない。


むしろ、心地よい。


それなのに、マックは会話を続けるほど、奇妙な不安を覚えていた。


ロイドには、ためらいがなかった。


何を尋ねても、穏やかに答える。


何を話しても、笑顔を返す。


まるで、相手を不快にさせる可能性など、初めから考慮していないかのように。


「……ロイド」


マックはカップをテーブルに置いた。


「明日、医療スタッフにもう一度相談してみないか?」


ロイドは首を傾げた。


「どうして?」


「念のためだ。気分の変化についても、専門家に話しておいたほうがいい」


「でも、もう治ったよ」


「それでもだ」


「マック」


ロイドは、友人の手にそっと触れた。


「ありがとう。君が僕を心配してくれていることは分かっているよ」


その目は優しかった。


「でも、本当に大丈夫なんだ。心配する必要はない」


「……ロイド」


「それより」


彼は、さらに柔らかい笑顔を浮かべた。


「君は、幸せかい?」


マックは眉をひそめた。


「何だって?」


「今の生活に満足している? 仕事は楽しい? 毎日、幸せだと感じている?」


「そりゃあ、いろいろあるさ。楽しいこともあれば、面倒なこともある」


「そうだね」


ロイドは頷いた。


「でも、面倒なことはなくせるんだよ」


「何を言っている?」


「君だって、もっと幸せになれる」


ロイドは、まっすぐにマックを見つめた。


「僕と同じようにね」


その瞬間、マックは理解した。


昨夜、電話で聞いた言葉。


――君も、こっちに来るといい。


あれは、単なる言い回しではなかったのかもしれない。


ロイドは本気で、自分を誘っている。


何かへ。


何か、自分にはまだ理解できないものへ。


「……悪いが、そろそろ帰るよ」


マックは立ち上がった。


ロイドは残念そうな顔をした。


「もう帰るのかい?」


「ああ。仕事が残っているんだ」


「そうか」


ロイドは立ち上がり、玄関まで見送った。


「また来てくれよ」


「……ああ」


「次は、もっとゆっくり話そう」


ロイドは微笑んだ。


「君も、きっと分かるから」


マックは返事をせず、家を出た。


ドアが閉まる直前まで、ロイドは笑顔で彼を見送っていた。


車に乗り込んだマックは、すぐにはエンジンをかけなかった。


両手をハンドルに置き、フロントガラスの向こうを見つめる。


ロイドは、正常に見えた。


会話も成立する。


記憶にも問題はない。


判断力も、表面的には保たれている。


そして何より、本人は自分の状態に満足していた。


あの様子を、どう説明すればいいのだろう。


精神的な問題なのか。


帰還後のストレスによる変化なのか。


あるいは、まだ発見されていない何らかの神経学的な異常なのか。


どれも可能性としては考えられる。


だが、マックには、どうしても引っかかることがあった。


ロイドは、昨日まで苦しんでいた。


何もする気が起きず、人生に意味を感じられず、自分自身を見失いかけていた。


それが、一晩で変わった。


しかも、その変化を本人は何の問題とも思っていない。


まるで、何かが切り替わったかのように。


マックはスマートフォンを取り出した。


帰還後の記録を、もう一度確認する必要がある。


あの眩しさが発生した瞬間。


ロイドの動きが一時的に止まっていた、あの数秒間。


映像には何も映っていない。


センサーにも何も記録されていない。


それでも、何かが起きた可能性はある。


マックはエンジンをかけた。


調べなければならない。


ロイドのためにも。


そして、もし自分の知らない何かが宇宙から持ち込まれていたのなら、その影響がロイドだけにとどまるとは限らない。


車が走り出す。


バックミラーの中で、ハリス家が少しずつ遠ざかっていった。


マックはまだ知らなかった。


ロイドの変化が、単なる回復ではないことを。


彼の中にある何かは、ロイドを壊そうとしているわけではなかった。


むしろ、その反対だった。


苦しみを取り除こうとしていた。


不安を消し、迷いを消し、悲しみを消す。


そして、彼が幸福を感じられるようにしようとしていた。


それは、侵略者の行動ではなかった。


少なくとも、それ自身にとっては。


仲間を増やしたい。


仲間にも幸福であってほしい。


その願いに、悪意はなかった。


ただ、その何かはまだ知らなかった。


人間が、自分の苦しみさえも自分の一部として生きていることを。


そして、誰かを幸福にすることと、誰かから選択する自由を奪うことが、まったく別の行為であるということを。


その違いを理解するには、まだ時間が必要だった。


だが、その時間が残されているとは限らなかった。

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