↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/6

第四章 幸福

帰還から六日目の朝。


ロイド・ハリスは、目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。


カーテンの隙間から、薄い朝日が差し込んでいる。


隣ではエミリーが眠っていた。


彼女の寝息を聞きながら、ロイドはしばらく天井を見つめていた。


眠れなかったわけではない。


むしろ、昨夜は久しぶりによく眠れた気がする。


それなのに、身体が重かった。


腕や脚が動かないほどではない。頭痛もない。熱っぽさもなければ、どこかが痛むわけでもない。


ただ、ベッドから起き上がるという、ごく簡単な行為がひどく億劫だった。


起きなければ。


そう思った。


朝食を食べる。顔を洗う。着替える。


いつもどおりの一日を始める。


どれも難しいことではない。


それなのに、頭の中で一つずつ手順を並べていくと、それだけで疲れてしまった。


ロイドは目を閉じた。


あと五分。


そう思ってから、どれくらい経ったのだろう。


隣でエミリーが身じろぎした。


「……ロイド?」


「うん?」


「起きてるの?」


「ああ」


「もう七時よ」


「分かってる」


返事をしてから、ロイドは自分の声が思った以上に冷たかったことに気づいた。


エミリーは何も言わなかった。


少し間を置いて、優しく尋ねた。


「まだ疲れてる?」


「……たぶんね」


ロイドは目を開けた。


「ごめん。ちょっと、気分がよくなくて」


「具合が悪いの?」


「いや、そういう感じじゃないんだ」


どう説明すればいいのか、自分でも分からなかった。


気分が悪いというより、何もする気が起きない。


悲しいことがあったわけではない。


何かに失敗したわけでも、誰かと喧嘩したわけでもない。


生活に困るような問題もない。


愛する妻がいる。


仕事もある。


無事に宇宙から帰ってくることができた。


自分は恵まれている。


そのことは、十分に理解していた。


だからこそ、こんな気分になる理由が分からなかった。


何も不幸なことがないのに、どうして自分は、こんなにも空っぽなのだろう。


「今日は、ゆっくりしていたら?」


エミリーが言った。


「帰ってきてから、まだ本調子じゃないんでしょう?」


「……そうかもしれない」


ロイドは身体を起こした。


頭が少しふらついた気がしたが、すぐに収まった。


ベッドの端に座ったまま、彼は床を見つめた。


立ち上がらなければ。


分かっている。


けれど、身体が動かなかった。


正確には、動かせないわけではなかった。


ただ、立ち上がるための理由が、どこにも見つからなかった。


朝食を食べるために起きる。


仕事に行くために着替える。


妻を心配させないために、いつもどおり振る舞う。


どれも正しい。


どれも必要なことだ。


それなのに、一つ一つが、ひどく遠い場所にあるように感じられた。


まるで自分が、誰かの人生を外側から眺めているようだった。


「ロイド?」


エミリーが彼の背中に触れた。


「本当に大丈夫?」


その手の温もりに、ロイドはわずかに肩を震わせた。


「大丈夫だよ」


彼は振り返って微笑んだ。


「心配しないで」


自分でも驚くほど、自然な笑顔だった。


エミリーは少し安心したように微笑み返した。


けれど、ロイドの胸には何も生まれなかった。


安心させられたことへの安堵も、彼女を心配させてしまった申し訳なさも、以前なら当たり前に感じていたはずのものが、薄い膜の向こう側にある。


感情が消えたわけではない。


そう思いたかった。


ただ、うまく感じ取れないだけなのだと。


ロイドはゆっくり立ち上がった。


朝食の席で、エミリーはいつもより多く話しかけてきた。


「帰還後の検査って、もう全部終わったの?」


「いや、まだ確認事項が少し残ってる」


「そっか。何もなければいいけど」


「うん」


ロイドはコーヒーを口に運んだ。


苦味がした。


パンをかじると、焼きたての香ばしさも感じた。


味覚は正常だ。


身体の機能に異常があるようには思えない。


それなのに、食べ物を口に運ぶことさえ、どこか作業のようだった。


以前は、朝食の時間が好きだった。


エミリーと向かい合い、仕事の話をしたり、休日の予定を相談したりする。


特別なことがなくても、それだけで十分だった。


だが今は、彼女が笑いながら話していても、その笑顔が自分とは関係のないものに見える瞬間があった。


「ねえ、ロイド」


「何?」


「帰ってきてから、少し変よ」


その言葉に、彼の手が止まった。


エミリーは不安そうに彼を見ていた。


「ずっと疲れているみたいだし、ぼんやりしていることも多いし……。昨日も、テレビを見ているとき、何か考え込んでいたでしょう?」


「そうだったかな」


「何かあったの?」


ロイドは答えられなかった。


何かあったのか。


船外活動中に、説明のつかない眩しさを感じた。


それだけだ。


それ以外には、何もない。


少なくとも、そう説明することしかできない。


「宇宙にいたときのことを、少し考えていただけだよ」


ようやく、それらしい答えが出てきた。


「帰ってきてから、急にいろいろなことが変わった気がしてね」


嘘ではなかった。


けれど、本当のことでもなかった。


エミリーは心配そうに彼を見つめた。


「話してくれたらいいのに」


「うん。ありがとう」


ロイドは彼女の手を握った。


その手を握っていることに、違和感はなかった。


愛する妻の手だ。


何度も握ってきた手だ。


離したくないと思ったことも、守りたいと思ったことも、何度だってある。


なのに今は、ただ手を握っているという事実だけがあった。


自分は本当に、エミリーを愛しているのだろうか。


そんな考えが浮かんだ瞬間、ロイドはひどい罪悪感を覚えた。


何を考えているんだ。


彼女は何も変わっていない。


自分を心配し、帰りを待ち、こうしてそばにいてくれている。


悪いのは自分だ。


疲れているだけなのに、勝手に気持ちが沈んで、彼女の愛情にすら応えられなくなっている。


申し訳ない。


そう思った。


しかし、その申し訳なさも、長くは続かなかった。


すぐに、何も感じない自分が戻ってくる。


ロイドはコーヒーを飲み干した。


「ごちそうさま」


「もういいの?」


「ああ。少し横になろうかな」


「うん。そうして」


エミリーはそれ以上、引き止めなかった。


午前十時。


ロイドはリビングのソファに横になっていた。


眠ろうとしていたわけではない。


ただ、何もせずにいたかった。


窓の外では、近所の住人が庭の手入れをしている。


遠くから車の走る音が聞こえ、どこかの家から子供の笑い声が響いた。


世界は、いつもどおり動いていた。


自分がこんな状態でも、何ひとつ変わらない。


当たり前のことだった。


それでも、ロイドは奇妙な孤独を感じていた。


宇宙にいたときとは違う。


あのときは、地球から遠く離れた場所にいた。


広大な暗闇の中で、頼れるものは宇宙服と仲間の声だけだった。


だが、今は違う。


安全な家にいる。


暖かい。


食べ物もある。


愛する人もいる。


それなのに、あの宇宙空間にいたときよりも、ずっと遠くにいるような気がした。


自分だけが、世界から取り残されている。


周りの人間は皆、当たり前のように笑い、働き、食事をし、明日の予定を考えている。


自分もその中にいるはずなのに、何もかもが薄っぺらく感じられた。


何をしても、意味がない。


いや、意味がないというのも違う。


仕事には意味がある。


生活には意味がある。


人を愛することにも、意味があるのだろう。


頭では分かっている。


けれど、その意味を心で感じられなかった。


ロイドは顔を腕で覆った。


このまま眠ってしまいたかった。


目を覚ましたら、以前の自分に戻っていてほしかった。


宇宙に行く前の自分。


エミリーと笑い合い、仕事に不満をこぼし、休日を楽しみにしていた自分。


あの頃は、何も特別なことがなくても、それなりに幸せだった。


それが、今になって初めて分かった。


失ってから気づくとは、こういうことなのだろうか。


けれど、自分は何を失ったのだろう。


記憶はある。


知識もある。


自分が誰なのかも分かっている。


エミリーとの思い出だって、昨日のことのように思い出せる。


何も失っていない。


そう言い聞かせるたびに、胸の奥が冷たくなった。


自分の中に、何かが欠けている。


それだけは、どうしても否定できなかった。


「……どうすればいいんだ」


声に出してみた。


返事はなかった。


当然だった。


ここには自分しかいない。


ロイドはゆっくりと腕を下ろし、天井を見上げた。


涙は出なかった。


悲しいのかどうかさえ、よく分からなかった。


ただ、何かを感じられるようになりたかった。


喜びでも、怒りでも、悲しみでもいい。


自分の内側から、確かな感情が湧き上がってきてほしかった。


何も感じないまま、ただ時間だけが過ぎていく。


それが、たまらなく恐ろしかった。


昼過ぎ、エミリーがリビングに入ってきた。


「ロイド、お昼はどうする?」


彼はソファから顔を上げた。


「……いらない」


「少しでも食べたほうがいいわ」


「今は、食べたくないんだ」


エミリーは立ち止まった。


責めるつもりはなかった。


ただ、彼が心配だった。


帰ってきたばかりの頃は、疲れているのだろうと思っていた。


けれど、日が経つにつれて、彼は少しずつ遠くなっていくように見えた。


話しかけても、返事が遅れる。


笑いかけても、笑顔が返ってくるまでに妙な間がある。


時折、何かをひどく悲しんでいるようにも見えるのに、本人に尋ねると「何でもない」と答える。


そして何より、彼自身が、自分の状態をどう説明すればいいのか分かっていないようだった。


「病院に相談してみない?」


エミリーが提案した。


「帰還後の検査とは別に、気分のことも相談してみたらどうかしら」


「……大げさだよ」


ロイドは目をそらした。


「身体は何ともないんだ。検査だって、問題なかった」


「身体のことだけじゃなくて」


「分かってる」


思ったより強い口調になった。


エミリーが口を閉じた。


ロイドはすぐに後悔した。


「ごめん」


彼は身体を起こした。


「君に怒っているわけじゃないんだ」


「うん」


「ただ……」


言葉が続かなかった。


ただ、何なのだろう。


放っておいてほしいのか。


助けてほしいのか。


心配してほしいのか。


心配されたくないのか。


自分でも、何を望んでいるのか分からなかった。


「少し、一人にしてくれないかな」


ようやく、そう言った。


エミリーは悲しそうな顔をしたが、頷いた。


「分かった。何かあったら呼んでね」


彼女が部屋を出ていく。


ドアが閉まる音がした。


ロイドは一人になった。


望んだとおりだった。


誰にも話しかけられず、誰にも気を遣わず、ただ静かに過ごせる。


それなのに、今度はその静けさが耐え難かった。


自分から一人にしてくれと言ったくせに。


ロイドは顔を覆った。


どうして、こんなことになってしまったのだろう。


どうして、自分は以前のように生きられないのだろう。


何かを変えたい。


この状態から抜け出したい。


そう思っているはずなのに、何をすればいいのか分からない。


誰かに助けを求めることさえ、ひどく難しく感じられた。


やがて彼は、ソファに身体を沈めた。


目を閉じる。


もう何も考えたくなかった。


そのときだった。


頭の奥で、かすかな違和感が生まれた。


痛みではない。


声でもない。


何かが、自分の中にある。


そう感じた。


ロイドは目を開けた。


部屋を見回す。


誰もいない。


窓も閉まっている。


テレビも消えている。


何も変わったものはなかった。


それでも、頭の奥の感覚だけが、消えなかった。


「……何なんだよ」


彼は額に手を当てた。


その瞬間、ほんのわずかに、心の重さが和らいだ気がした。


理由は分からない。


ただ、胸の奥に張りついていた暗いものが、少しだけ薄くなった。


ロイドは息を吐いた。


楽になったのだろうか。


そう思った。


だが、それは以前のように何かを解決したときの安堵とは違っていた。


悲しみが消えたというより、悲しむための力が抜け落ちたような感覚だった。


ロイドは再び目を閉じた。


もう少し休めば、きっとよくなる。


そう考えた。


その考えに疑問を抱くことはなかった。


頭の奥に潜む何かは、彼の記憶をたどっていた。


彼が喜びを感じるとき。


彼が悲しむとき。


彼が愛する人を思うとき。


そして、彼が何も感じられずに苦しむとき。


それらを、ひとつずつ学んでいた。


それはロイドの苦しみを理解しようとしていた。


けれど、まだ理解できなかった。


なぜ、これほど多くのものを持っている人間が、幸福を感じられなくなるのか。


なぜ、愛する人がそばにいるのに、孤独を感じるのか。


なぜ、苦しみから逃れたいと願いながら、その苦しみを手放せずにいるのか。


その何かには、分からなかった。


ただ、ロイドの内側にあるものを、少しずつ学んでいた。


そして、彼が求めているものを見つけようとしていた。


――幸福。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。